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中国武術雑記帳 by zigzagmax

当世中国武術事情、中国武術史、体育史やその周辺に関する極私的備忘録・妄想と頭の体操 ※2015年2月、はてなダイアリーより移行

馬剣編著『燕趙武術』

八極拳 太極拳 人物

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先日『燕京武術』を読んだ勢いで、同じシリーズの『燕趙武術』を読んでみた。
こちらは、河北省を中心に流行している武術についての紹介で、DVDの収録内容としてクローズアップされているのは楊式太極拳八極拳翻子拳
DVDの演武者は、いずれも編著者の馬剣。同氏は、河北師範大学体育学院教師で、博士らしく、いくつか著書も紹介されているけれど、著書を読むのはこれがはじめて。

地理的には含めてもよさそうで、且つ武術史的には重要な天津の武術については含まれていない。(その結果、このシリーズそのものから天津の武術が抜けてしまい、なんとも残念な感あり。)

 

楊式太極拳についての説明のところでは、楊露禅は練拳のために前後3回にわたり陳家溝を訪れた、と紹介されていた。
この本の説明にしたがって要点だけメモしておくと、最初の1回目の訪問は二十歳すぎのころ。楊露禅は、地元の太和堂薬局の人々が武術を練習していると聞き、観察していると、ある日、太和堂の人々が争いにまきこまれ、戦う場面に出くわす。その戦い方に興味をもち、主人である陳徳瑚に、これはいったいどんな拳法なのかと尋ねると、陳は「これは太極拳、またの名を「沾綿拳」といい、温県で広く流行している拳種である」と答える。陳徳瑚はさらに、自分の腕前はたいしたことはないが、温県では陳長興の名前が知られている。陳家では太極拳術はよそ者に教えない決まりだが、陳家で働いていれば、習えるチャンスもあるかもしれない、と告げる。こうして楊は陳長興の家で住み込みで働きはじめ、ある日、陳家の人たちが拳法を練習している場面にでくわし、見よう見まねで真似ていたのが、次第に認められる。6年後に一度故郷に戻るが、地元の腕自慢との勝負に勝てず、修行の不足を痛感、二回目の訪問となり、さらに6年の修行を積む。この本によると、その後いったん帰郷してさらに6年するということなので、6年×3回、都合18年ぐらいの間、陳家溝で修行したことになる。最初の訪問は二十歳過ぎと書かれているので、修行が終わったのは40歳くらいの頃ということになるのだろうか。


このあたり、陳徳瑚が陳家の武術を、はじめから「太極拳」と説明している点は一般的な理解とはかなり異なる気がするし、一方でこの拳法は温県で「広く」流行しているといいながら、他方ではよそ者には伝えないと答えているところあたりも、なんだか説明が矛盾している気がした。そもそも、楊露禅の陳家溝訪問って、そういう経緯なんだっけ?と思い、人民体育出版社の『中国太極拳辞典』を見ると、比較的簡単ながら、「据伝、楊露禅先後三進陳家溝、共学拳18年・・・」と書いてあり、三回にわたり、都合18年陳家溝で修行したという理解は共通していることがわかった。

 

 これが意外だったので、ほかの本を見ると、たとえば

于志鈞『太極拳史』には

「楊露禅(1799-1872)、河北永年広府鎮人、出身寒微、酷喜拳技、赴河南温県鎮家溝陳長興処習拳十余載、藝成返里・・・」(P.144)

 

とあり、修行したのは十余年、となっている。出典は書いてないけれど、李亦畲の「太極拳小序」に「我郡南関楊某、愛而行学焉、専心致志、十有余年、備極精巧・・・」とあるのと一致しているので、これに基づいているのだろう(テキストは、人民体育出版社『太極拳辞典』による。維基文庫のテキストとは個別の語句に若干違いがある)。

 

笠尾恭二『中国武術史大観』は以下の通りだった。

1930年、中央国術館の書面による問い合わせに対して、当時浙江国術館教務長であった楊澄甫は「祖父は十才のころ陳家溝にゆき、陳長興に師事しることおよそ三十年」と答えている(注:唐豪・顧留馨『太極拳研究』)。P.413

楊露禅が十才で陳家溝に行き、三十年修行したという楊澄甫の言を単純計算すると、露禅は四十歳のときに帰郷したことになる。

 

人民体育出版社『中国武術人名事典』楊福魁(1799~1872)の項(P.352)は「約10歳至河南温県陳家溝陳徳瑚家為僮。約清道光三十年(1850年)、返永年、以授拳為生。・・・」となっている。10歳前後で陳家溝にゆき、道光三十年までいたとすると、大体30年になるので、この記述は中国武術史大観』と同じく楊澄甫の証言に従っていると思われる。

 

・・・と、修行年数については、十余年から三十年、陳家溝に行ったときの年齢についても、十歳から「二十多歳」までのズレがあることがわかった。

 

楊露禅の陳家溝における修行年数に関しては、大きく分けて以上のように、十余年、三十年、18年の3つの説あるとして、十余年説は李亦畲の「太極拳小序」、三十年説は楊澄甫の証言に基づいていることがわかるけれど、18年説の根拠はなんだろう。この本にも『中国太極拳辞典』にもその根拠が示されていなかったので、現段階としては18年説が自分の中ではいちばん説得力に欠けるのだけれど、この本も『中国太極拳辞典』も、比較的最近の本に属するし、細部はだいぶ異なるけれど、以下の動画も「前後三回、計18年」説になっている。最近はこの説が支持されているということなのだろうか。ちょっと留意しておこう。

  

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その他、クローズアップされている八極拳翻子拳についての紹介も、いささかひっかかる点があった。詳しくは、ほかの資料の記述ぶりとする必要があるけれど、とりあえず今後のために、気になった点をメモ。

 

まず、八極拳についての記述。
 呉鐘は『孟村志』(1933年)に「孟村鎮天方教人」と紹介されているとおり、イスラム教徒なのだろうけれど、村を訪ねてきた「道士」の癩、癖に武術を学んだとされている。このうち、癩は丁発祥、癖は張四成ではないかと推測されているけれど、彼らが仮名を名乗っていた理由について、張四成は反清運動に加わっていたため、僧侶を名乗って本来の姿を隠していたのだと説明されている。僧侶を装いつつも、張四成はイスラム教徒なので、袈裟を身につけるのは嫌い、それで懶披裟和尚と呼ばれていたのだという。

この説明で不思議なのは、イスラム教徒の反政府運動の人間がイスラム教徒の村に身を潜めるのに、どうしてわざわざ道士だか僧侶を名乗ったのだろう。しかも、僧侶を名乗りながら僧侶の格好をしないというのはいかにも不自然で、自分は怪しい人間ですと自ら言っているようなものではないんだろうか。

このあたり、この本で紹介されている説を素直に受け止めることができない。もう少し仔細がありそうな気がする。

 

少しわき道にそれるけれど、この点が気になって呉連枝『呉氏開門八極拳』(ベースボールマガジン社 王建華訳 1991年)をみると、「ある研究家は、その二人(引用者注:癩、癖の二人)が道人あるいは僧だとかたくなに思っている。」と出ていたので、やはり僧侶なのか道士なのかを疑問に思った人がいたのだろう。続く文脈から、呉連枝は道人なのか僧侶なのかという字面にこだわっても意味がないといって考えているようだけれど、宗教的な背景には少し注意しておいたほうがよい気がする。 なお、同じ箇所で、呉連枝は、「「癩」と「癖」と自称した人はいったい誰なのか判らない」といっているけれど、このふたりはそれぞれ丁発祥、癖は張四成と推測されているのは上記のとおり。また、呉連枝は呉鐘を康熙51年2月初六辰時(1712年)孟村鎮に生まれたと書いているけれど(P.7)、『燕趙武術』は、直隷滄州塩山県后(後)庄(荘)科村(今の山東慶雲県)生まれで、幼くして父をなくしたために、母と二人で同族人のいる孟村に移った、としている。この点については、楊祥全『津門武術』(2013)には「山東慶雲人呉鐘」(P.176)、李樹棟『八極拳教程』(2009)にも「呉鐘(1712-1802)、字弘声、山東海豊県后(後)庄(荘)科村人」(P.2)と出ていて、最近の研究では後荘科村で生まれ、孟村に移ったという解釈が支持されているように思われる。

 

以下の動画は、後荘科村の観点がよくわかる。(やや孟村に対する非難めいているところわ割り引くとして、参考資料として保存。)

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翻子拳について紹介されていた部分で気になったところ。
 翻子拳の伝承上の重要人物である馮克善(趙燦章ほか、さまざまな仮名あり)は天理教の反政府運動のリーダーの一員で、一時政府に捉えられるが脱獄して饒陽県段君道村の段緒和のところに潜伏してから、饒陽、献県、深県、蠡県、固安一帯で武術を教え始めたのだという。蠡県における弟子のなかに王枝国がいて、王枝国の息子の王占鰲は、斉という太監の推薦によって宮廷で侍衛を務めたことがあると説明されているのだけれど、素直によめば、反政府運動のお尋ねもの・脱獄者に連なる人間が、宮廷で要人の護衛を担当したということになる。雇う側としては身元の確認がいい加減だと思うし、雇われる側も、身の危険を感じなかったのだろうか。

国史においては、官軍が山賊になったり山賊が官軍になったりすることは日常茶飯事なので、特段おかしくはないのかもしれないけれど、読み飛ばてしまうにはやや違和感が残った。

 

ちなみに、この本では『藍簃外史・靖逆記』の記述をもとに、馮克善(趙燦章)八卦掌の関係も示唆されているけれど(P.254)、馮克善(趙燦章)が1810年の時点で八卦掌を身につけていたとすると、八卦掌の創始者を董海川(約1813-1882とされる)とする説とは辻褄があわなくなる。このあたり、董海川を八卦掌の「創始者」と説明するのではなく、八卦掌の歴史における「承前啓後的人物」(周世勤・楊祥全『燕京武術』P.70)と説明しているのは妥当なのかもしれない。

 

戳脚との関係で馮克善についても紹介した動画

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書いていたらだんだん収集がつかなくなってきたけれど、太極拳八極拳のような代表的流派の概説書に書いてあるようなことも、けっこう不確かな面が多く、こつこつと研究も進んでいて、仔細に見比べてみるといろいろ違いがあるんだということが改めてわかった気がする。そういうなかで概説書を書かないといけない立場の人っていうのは、実は一番大変なのかもしれない。

 

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http://www.g111.cn/uchenli/8418-317450.aspx