中国武術雑記帳 by zigzagmax

当世中国武術事情、中国武術史、体育史やその周辺に関する極私的備忘録・妄想と頭の体操 。頭の体操なので、たまたま立ち寄られた方は決して鵜呑みにしないこと(これ、肝要)※2015年2月、はてなダイアリーより移行

于志鈞『中国伝統武術史』、『太極拳史』

昨年、于志鈞の『太極拳史』を読み終えたあとに、勢いにまかせて同氏の『中国伝統武術史』もあわせて読んだ(注1)。要点だけでもすぐメモしておきたかったのだけれど、なかなかまとめらなくて放置してあったメモを改めて読み直して少し整理してみた。

于志鈞について最初に知ったのは、数年前にネット上でたまたま「五十年来中国武術発展之反思(50年来の中国武術の発展を考える)」(注2)という文章を目にしたのがきっかけ。北京オリンピックの関連事業として武術競技が行われて1年ほどたった頃で、ちょうど自分は中国駐在中だったのだけれど、ネット上だけでなく書籍の形でも競技武術や、武術運動管理中心の方向性に疑問を呈するような意見が少しずつ出始めていた頃と感じていたのだけれど、さすがにこの文章まで率直な批判は珍しく、「これは伝統武術派による魂の叫びなのか?」と思ったことをよく覚えている。

当時ネット上でみた文章には署名はなかったものの、後になってそれが于氏の文章であるということを知った。その経緯は忘れてしまった。

掲題の本の話に戻ると、出版時期からいうと、『中国伝統武術史(以下、武術史)』が先、『太極拳史』のほうが後。太極拳内家拳全般に関する考え方は、(同じ著者だから当然だけれど)両書で共通しているところが多い。

もっと正確にいうと、『武術史』は網羅的なタイトルではあるけれど、あらゆる流派について述べたというものではなく、総論的なことを述べた第一部をのぞいて、内家拳、とくに太極拳に関する部分がかなりの部分を占めていて、これをさらに掘り下げたものが『太極拳史』になっている。『中国伝統武術史』では、その他、いくつかの流派と槍、刀、剣といった主要な武器について解説されているけれど、たとえば劈掛拳などはほんの5行の分量しかなく、記述にはかなり濃淡がある。

ただし、この点、必ずしも欠点ばかりとはいいきれず、武術研究院などが編纂出版している武術史の本は、マクロな視点に終始していて、個別流派のなりたちについて深く掘り下げた記述が見られない場合も多いので、そういう意味では新鮮なところもある。

それぞれ400ページを越えるボリュームの大著なので、簡単にはまとめられないのだけれど、ある程度単純化してしまうことは承知で、自分のことばに置き換えつつ大胆にメモをすると、両著を通じた筆者の論点のポイントは以下のとおり。(分類の仕方も含めて、自分にとって強く印象に残った点をもとに整理しているので、実際に必ずしもこのような順番で述べられているわけではない。間違った捉え方をしているところも、たぶんある。あくまでも自分にとっての備忘録として。)

1.わりと武術史全般に関すること
(1)「内家拳」の理論は、「外家拳」の存在を前提とし、その考え方を反転させる(攻撃中心から防御中心へ、剛から柔へ、など)ところからきている。
(2)外家拳を代表する少林武術の発展は、明代にみられる棍法の発展が先で、拳法の発展はそのあとだと考えられている。よって、内家拳の形成はさらにそのあとの時代と考えるのが自然。  
(3)唐豪は否定したが、インドで伝承されている武術と少林武術には共通点が見られ、やはりなんらかの関係があるものと思われる。
(4)また、思想的にも少林武術は、インド伝来の仏教に基づいており、真の意味で中華民族の武術であるとはいいきれない。
(5)純粋な中華民族の武術としては、中国固有の宗教である道教に裏付けられた内家拳の成立をまつ必要がある。
(6)中華民族の武術である内家拳を象徴する人物としては、上記の流れからも、道教の代表的人物がふさわしく、張三豊が選ばれたことにはそれなりの論理的必然性がある。これまでの張三豊をめぐる議論では、その実在性だけが問題にされてきたが、こうした象徴的意味についても考慮すべき。
(7)「内家拳」とは、特定の拳架をさすのではなく、考え方をとりいれた拳法をさしている。よって、内家拳的な考え方を取り入れることにより、特定の拳架が「内家拳化」することがある。
(8)内家拳的な考え方の基礎のうえに「太極拳論」があらわれる。

2.太極拳の成立に絞った内容
(1)太極拳の歴史を考えるにあたって、まず第一に、太極拳とは何かを定義する必要がある。
(2)その意味において、特定の攻防技法が「太極拳」と見なされるためには、王宗岳「太極拳論」との結合が判断基準となる。
(3)歴史上、「太極拳論」が現れるのは、武禹譲がこれを「見つけた」ことによる。「太極拳論」については、武禹譲を遡るものは現れていない。
(4)陳氏家譜に見られる「拳師」などの語が示す「拳」が具体的にどのようなものであったのかは、再検討を要する。唐豪は、楊露禅が陳長興に師事していることと、陳長興の先祖をたどってゆくと陳王廷が出てくることを結びつけ、両者の間に存在する300年の時間差を無視して、同じ拳法が継承されてきた結論付けた。現実には、300年もの間、同じ武術が何も変化せず継承されるとは考えにくい。にもかかわらず、唐豪はこの問題を「陳家溝のひとびとは保守的で、外来の武術を学ぼうとしなかった」という一言で強引に片付けてしまった。
(5)陳家溝に伝わっていた武術の目録は、唐豪は公表していないが、徐震は陳子明から得た目録を『太極拳考信録』で公開している。そこには、大小紅拳、通臂拳、紹陵(少林)棍、戚継光の三十二勢、楊家槍、恒公八槍などの名目が見られ、実態としては、外来のさまざまな武術の集まりであり、「陳家溝の人々は外来の武術を学ぼうとしなかった」という唐豪の説と明らかに矛盾している。また、目録に記載されたこれらの武術を、陳王廷が「創始した」ということにも無理がある。
(6)陳家溝の武術の理論としては、「拳経総歌」があげられているが、これも、その名のとおり戚継光「拳経」に基づくものである。この点から、陳王廷の武術と後世の「太極拳」と同列に論じることはできない。
(7)陳王廷の伝記、陳王廷の作とされる「長短詩」については、その内容から当時作られたものとは考えにくい。唐豪は残された詩の前半は陳王廷の作、後半は後世の偽作の可能性があると示唆したが、前半部分についても偽作であると考えられる。(筆者は偽作者を陳鑫と推定している。)
(8)陳家溝の武術は実際のところ、300年の間一定不変だったのではなく、大きな変化が生じている。キーパーソンは二人いる。一人は陳長興。彼は形意拳の「九要論」をとりいれて「十大要論」とし、旧来の武術を改変したと考えられる。この改変が加えられた武術は、陳氏一族の中では受け入れられず、陳家溝には広く伝わらなかったが、楊露禅がこれを習った。
(9)もう一人は陳青萍。彼のもとに武禹譲が王宗岳「太極拳論」を携えてやってきて、1ヶ月にわたって二人でともに研究をした。
(10)この二人の関与した武術は陳家溝のほかの武術とは明らかに性質が異なり、柔の要素が強調されている。一方は「九要論」、他方は「太極拳論」によるところが大きいと考えられる。武禹譲と楊露禅は同郷であり、互いに研究を重ね、これが武式太極拳、楊式太極拳に結実した。
(11)他方、従来の陳家溝の武術は、近代に至るまで、少林武術的な特徴を色濃く残していた。北京で太極拳という名前が広がりはじめてのちに、はじめて太極拳と名乗るようになった。

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これらの主張については、なるほどと思う部分と同時に疑問に思う部分もある。『武術史』と『太極拳史』では、若干ニュアンスが異ってきていると感じたところもあった。

たとえば、以下のような点。
・『太極拳史』では、王宗岳=武禹譲である可能性が高いとの考えを支持するような記述がされているのだけれど、前著『武術史』では、陳青萍のもとを訪れる前の武禹譲のレベルでは、「太極拳論」ほど高度な内容が書けるはずがない、とこの考え方は否定されている。
・また、『太極拳史』では、『武術史』ではそれほど露骨でなかった唐豪、顧留馨、陳鑫への批判が、かなり激しい言葉で出ていた。唐豪の陳王廷創始説を金科玉条のように奉じるのではなく、まちがいを指摘してより真実に近づいてゆこうという姿勢には好感がもてる一方で、自説を補強する材料、たとえば黄宗義や呉図南の説の引用についてはやや無批判であるようにも感じられた。

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正直にいって、作者の主張がどこまで正しいのかは、いまの自分には判断できない。
しばらくブログにアップするのをためらっていたのは、自分の考えを明確にできないまま、論争の一部だけを切り取って示してみせるのは無責任な気がしたせいでもある。
ただ、唐豪や顧留馨が陳家溝の陳王廷創始説にもちいた史料には公開されていないものもあり、その史料の解釈や信憑性については、いささか問題があるということは事実なのかもしれない。ただ、それによって、唐豪や顧留馨の説が全て否定されるべきかといえば、それもどうかな、と思う。
太極拳の歴史については、あくまで個別流派の成立に関する話であり、これまであまり深入りすることなく、敢えて遠ざけていたようなところもあったのだけど、この本を読んで、太極拳の成立というのは中国武術のなりたちと深い関係があるということを改めて痛感した。

上のメモではうまく反映できなかったけれど、「内家拳法」の記述、陳家溝の目録と通臂拳の動作名称を比較して具体的に論じているところは説得力があった。

もっといろいろ勉強しないと。



(注1)『中国伝統武術史』は以前に序文と第1章だけ読んでいた。そのときのメモはここ

(注2)
当時のメモによると、2009年の6月ごろ、立ちあがったばかりの「全球功夫網」でこの記事を見つけたのだけれど、同サイトからは削除されている様子。もともとは、雑誌『武當』に、2008年に掲載された記事らしい。ネット上では、個人ブログや有料サイトではいくつか掲載されているものがある。