中国武術雑記帳 by zigzagmax

当世中国武術事情、中国武術史、体育史やその周辺に関する極私的備忘録・妄想と頭の体操 。頭の体操なので、たまたま立ち寄られた方は決して鵜呑みにしないこと(これ、肝要)※2015年2月、はてなダイアリーより移行

tiger soldier など

先日、kung-fu tea というサイトで、tiger soldierについての記事を読んだ(といっても、ポップアップの翻訳機能を使いながら斜め読みしただけ)。
アヘン戦争の頃、外交団に随行して中国各地を旅行したイギリス人画家のイラストや、写真のなかにでてくる、虎の着ぐるみのような衣装をした兵士に注目したもので、それをきっかけに異文化接触、文化外交まで含んだ幅広い問題を提起したものだったけれど、この虎の着ぐるみの連中がいったい何者で、どんな役割をにない、どんな訓練を施されていたのか、などはよくわからなかった。

 

chinesemartialstudies.com


後日、たまたま「Great River Taoist Center」というFBのページをみていたら、「兵技指掌図」という清代の兵書の写真があり、藤牌刀についての説明の中で、虎のユニフォームを着た兵士がでてきた。

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出典:Great River Taoist CenterのFBページ (2015年)7月13日のエントリーから

Great River Taoist Center

 

調べてみると、「兵技指掌图」は清の道光二十三年(1843年)の成立。
そこにかかれている解説などを参考にすると、伏兵として茂みから飛び出し、相手の馬を虎が出てきたと勘違いさせるための兵種らしい(本当のところはよくわからない)。

なるほど、戦争において勝敗を決めるのは人間同士の戦いだけではないし、いくら訓練しているとはいえ屈強な馬が制御を失ったら大混乱に陥るのかもしれない。改めて陰門陣とか陽門陣などの極端な例をひきあいに出すまでもなく、そういった呪術的な要素も含めた戦いというものは、現代の日本人の想像の及ぶ世界ではないのかもしれない。少なくとも、自分にとってはあまりにも異様に映る。

「虎賁(奔)」などという言葉もあるし、古くから勇士が虎に譬えられてきたことがわかるけれど、ウルトラマンなどのパジャマや、『パーフェクト・ワールド』でケビン・コスナーに誘拐される子供がきていたキャスパーの服みたいだ。

虎賁 - Wikipedia

虎賁 - 维基百科,自由的百科全书

 

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「マーニー」「パーフェクト・ワールド」 : 芝山幹郎 テレビもあるよ - 映画.com

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虎に絡んだ流派や技法は数限りなくあるけれど、歴史的により古いものとしては戚継光の三十二勢のなかにも何度も虎がでてくる。たとえば伏虎勢(第16勢)、跨虎勢(第28勢)は勢名に虎の字が含まれているほか、當頭勢(第30勢)の説明の中で「進歩虎直攛両拳」、旗鼓勢(第32勢)のなかに、「虎抱頭要躱無門」と出てくる。


最近読んだ『太極拳沿革考』の清玄散人の説によると、このなかで「虎抱頭」は両腕を掲げて側頭部をまもる防御の勢法で(注1)、たとえば太極拳の「双峰貫耳」の攻撃から身を守るような場合に用いられるらしい。そして、ここから攻撃に転じる技として、そのまま前方に踏み込みつつ、がら空きになっている相手の胸を両手で押す「推山塞海」があるという。この二つの技は親和性が高く、連続技として訓練されているうちに、次第に一つの技と認識されるようになり、それが「虎抱頭推山塞海」になり、さらに前後がつづめられて「抱頭推山」と呼ばれるようになるとともに、二つの技が合わさって一つになった経緯などが忘れられていった。ただ、「抱頭推山=頭を抱えて山を推す」ではもはや技の名称としてはおかしいので、後世さらに「文化人」である武禹襄による整理・加工を経て、虎を抱いて山に帰る=「抱虎帰山」になり、この名称が楊式でも取り入れられたのだという(注2)。
清玄散人の説のポイントは、ことほどさように、武式、楊式においては、陳式や洪洞通背拳に残存している戚継光の32勢以来の技法の名称・意味からかなり異なった解釈がなされており、両者の間には武術としての価値の差があるのは明々白々、と述べるところにある。

彼は戚継光の武術とその他の武術を整理統合した陳王廷のはたらきを絶対視しており、太極拳が現在見られる形になるうえでの、ほかの影響(たとえば、于志鈞が『太極拳史』で示唆しているような、形意拳の九要論が太極拳に与えた影響)については考慮されていない(少なくとも、一言も言及はない)。まして、たった1ヶ月あまりしか陳清萍に師事していない武禹襄(注3)に至っては、先にあげた「抱虎帰山」の例ように、自分の知識と教養に頼って「誤った」解釈をほどこしたとして、相当強い批判の対象でしかない。その結果、後世の技法・解釈の変化はすべて本来の意味からの逸脱、劣化コピーであるかのような主張になっている点は、やや一面的ではないかと思う。

とはいえ、複数の拳譜を横にならべてすすめられる考証はとても具体的でわかりやすい(注4)。
陳家溝の武術が戚継光の武術のエッセンスを残しているのだとすると、本来的には、拳法だけではなく武器術の訓練に重点が置かれていたはずなので、拳譜の比較だけではなく、武器術の目録まで含めておなじような考証を公開してもらえれば、さらに興味深い研究成果になるのではないかと思われる。今後、そのような成果が出てくることを期待したい。

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(注1)

虎抱頭の名称は拗鸞肘などとともに「水滸伝」にも登場する、一般的技法名(笠尾恭二『中国武術史大観』P.326)とのこと。

(注2)太極拳沿革考』pp.106-110、pp.300-304 

(注3)李亦畲「太極拳小序」に 「・・・研究月馀,而精妙始得,神乎技矣。」 とあるのによる。

(注4)ただし、太極拳沿革考』に掲載されたいくつかの表については、編集の過程で表中の字体をうっかり統一してしまった結果、本来字体の違いによって示されていた情報の大部分が消えてしまったと思われる箇所がある。(同じ著者が陳国鎖名義で出している『陳王廷纏拳与戚継光拳法』では、同一表中で複数のフォント・フォントサイズを意図的に使い分けている。)そのため、表につづけてわざわざ「黒字体で示した部分は・・・」などと書いている説明が意味不明になってしまっている。あまりにも残念な編集上のミスといわざるをえない。