「昆侖大師杯」全国潭腿伝統武術精英賽など
7月14日と15日、河北省邢台市の臨西県で潭腿と伝統武術の競技会が開かれたというニュースが流れてきた。正式な名称は「「昆侖大師杯」全国潭腿伝統武術精英賽」というらしく(注1)、開催は去年に引き続き今年で2回目になるらしい。
ここでいう「潭腿伝統武術」とは、「潭腿という伝統武術」ではなく、「潭腿と伝統武術」のよう。日本の「武術太極拳」という言い方のようで面白い。
昆侖大師というのは、潭腿の祖とされる五代・後周の武将の出家後の名前。
彼が臨清の龍潭寺で教えた武術が、龍潭寺にちなんで「潭」腿であるという。
開催地の河北省邢台市の臨西県は、山東省臨清市に属していたのが、1965年に河北省邢台市臨西県の管轄になっているらしい。それで、2013年8月に発表された、河北省の省級非物質文化遺産の第三次リストのなかに滄県の弾(譚、潭)腿と並んで臨西県の弾(譚、潭)腿が見える。
他方、山東省でも臨清潭腿として、省レベルの非物質文化遺産(2009年9月発表の第2次リスト)に登録されている。こちらは第何代という言い方はしていないようだけれど、主な伝承者として、張慶海などがいる。
以前にCCTV『走遍中国』の「武林伝奇」シリーズで特集されたことがあったけれど、そこでは主として山東省臨清市武術協会の魏慶新を中心に取材がされていた。今回の臨西県の賽事は北京の隋世国(臨清潭腿第97代)らと関係があるよう。
ちなみに、今回の賽事とは関係ないけれど、臨清ゆかりの武術家としては、映画でもよく取り上げられる馬永貞がいる(注2)。
「昆侖大師」は有名な武将であったはずなのに、出家する前の俗名が特定できないというところなど、この「昆侖大師」起源説には個人的にやや疑問があるし、臨清の潭腿がすべての潭腿、弾腿の源であるのかどうか、よくわからないけれど、それは置いておくとして、改めて臨清という都市に注目してみると、北魏の頃に、漢以来存在していた清淵県の一部を割いて臨清県が設けられたというけれど、都市としての本格的な発展は、北方に都が置かれた元、明、清の時代に漕運が整備されたこと、特に明代に臨清倉が置かれたことで大きく発展したことがわかる。
そのためか、清代には王倫の清水教の反乱や、太平天国の乱でも、臨清城の攻防が一つのポイントになっているけれど、臨清で潭腿が失伝してしまったのは、清朝の禁武政策(注3)というよりは、このような戦乱において臨清城が荒廃してしまったことや、臨清という都市の発展のきっかけとなった漕運制度自体が、鉄道網の整備や、欧米列強も参加した海運の普及などで、清末には時代遅れになってしまったことのほうが大きい気がする。
その他、酒井忠夫『中国幇会史の研究 青幇篇』は、明代に、臨清倉から中央(北京)や北辺の前線に税糧への輸送をになった山東の運軍の間には、羅清の無為教がひろまっており(羅清自身も山東軍戸の出身とされる)、その無為教の広がりから、漕運業務を監督する宦官と運軍軍戸、運軍軍戸の指揮のもとで実際の輸送を担う水夫や遊民、無業層との結びを詳しく紹介している。
〇明末~清末期の漕運関係地図 酒井忠夫『中国幇会史の研究 青幇篇』より
なお、近年、これらの、漕運を担った水夫たちが身につけていた武術が浙江や上海あたりでは船拳という形でとりあげたりしているけれど、その歴史的な成り立ちを考えるうえで、上記の本はとても参考になる。
〇隋世国(臨清潭腿第97代)による解説VCD
〇山東省の「臨清潭腿」の張慶海氏のインタビュー記事と映像。
张庆海:希望社会重视临清潭腿的保护传承_聊城民生_聊城_齐鲁网
(注1)
全球功夫網の記事では「潭/弹腿传统武术精英賽」としているけれど、写真の横断幕を見る限り、「/弾」の語は使われていない。
(注2)
馬永貞のうまれた邱県陳村は、現在は河北省邱県に属するけれど、当時は臨清直隷州に属していた。陳村の査拳は現在、河北省の非物質文化遺産に登録されている。
(注3)
全球功夫網の記事などでは、雍正四年の禁武令によって龍潭寺が焼かれ、臨清潭腿もほとんど失伝に近い状態になったとしている。
据传,清雍正四年发布禁武令,龙潭寺毁于兵焚,临清潭腿在这场浩劫中几近失传。
その他、潭腿の失伝を清朝の禁武政策によって説明しようとすると、北京で潭腿を伝えていたのが愛新覚羅啓亮(金啓亮)だったという点ともうまく結び付けられない気がする。