東亜武道大会参加の摔跤選手など
1940年の東亜武道大会の代表団の名前を改めて確認して、呉斌楼や通背拳、形意拳の関係者以外に、摔跤のメンバーも含まれていることに改めて気がついた。
具体的には、宝三こと宝善林と、陳徳禄。
蘇学良・李宝如『京跤史話』に「日伪时期,宝三会同孙荣(孙傻子),张宝忠等随北平国术馆去东京参加东亚运动会,参加了打弹弓和摔跤表演赛,将中国跤术介绍给日本人民」(P.89) とあるけれど、東亜運動会(東亜競技大会)の団員リストの中に宝善林の名前はなく、これは東亜武道大会の誤り。
それはよいとして、来日したとされる武術家として、東亜競技大会のメンバーにも、東亜武道大会のメンバーにも名前の見えない孫栄(「孫傻子」。宝三と同じく、第六回全国運動会の入賞者)、張宝忠が出てくるのが若干気になるところ。
これらの摔跤関係者は、牛島辰熊の天橋来訪をきっかけとして、牛島のほか、八田一郎、澤井らと南池子の新民会(別の場所で日本人クラブと書かれているのはここのことだろう)で交流したメンバーだったと思われる。
なお、宝善林、陳徳禄と後述の李永福、熊松山はともに、1933年の第17回華北運動会の北平市代表(注1)
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いままでメンバーにしか注意を払っていなかったけれど、副団長の宮元利直については、長谷川怜「水野勝邦の中国研究関係資料」の以下の記述が参考になる。未見だけれど、以下のような本も出版されている。
宮元は第一次大戦後に日本の軍政下にあった青島で大興公司が経営する塩田の取締役として中国での活動を開始した。妻のこゆきは清浦奎吾の縁戚にあたる。青島還付の際、居留民代表の一人として中華民国側と交渉を行い、そこで知り合った膠奥商埠督弁公署政務署長の王梵生の依頼により政務顧問となった。以後、広範な人脈を築き日本の特務工作員として活動、満洲国軍の顧問や冀東地区での非戦区十九県調査委員会最高顧問などを歴任し、日中戦争中には募兵工作に携わった。
長谷川怜「水野勝邦の中国研究関係資料」
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001214863-00
アジア歴史資料センターのデータベースの中に、昭和九年・軍政部嘱託の宮元利直による「青幇に就て(道義真経訳文)」がある。
また、同代表団の庶務・治部貞雄は旧制津山中から同志社高商、岡山県警本部柔道部技官になった人らしい。この人の名前は『京跤史話』には出てこないけれど、やはり牛島辰熊らとともに日本クラブで摔跤関係者と交流していたのだろうか。
あらためて『京跤史話』を見ると、双二爺、馮徳禄に師事し、沈三や宝三とも関係のある李永福は、日本クラブで職を得ていたよう(P.163)。
その他、何貴生は40年代に、労働者として日本に連れてゆかれ、「光復」ののち、帰国して熊松山と「売芸」したとのこと(P.162)。熊松山も日本クラブで柔道関係者と交流しているのは、最近メモした。
ちなみに、第二回国術国考の成績表に、沈三(沈友三)と、この熊松山の名前がある。
沈友三は摔角甲等第三位、熊松山は同丙等第六位。ともに、「国術源流」、「党義」、「国文」の三つはゼロ点になっている。
代表団総務の米倉俊太郎は、同じくアジア歴史資料センターのデータベースの中に、昭和16年3月に、東亜同文書院大学の学生主事に採用されたときの資料が残っている。この人は戦後、愛知大学でも学生監補(生徒監補も?)を務めている(注2)。「龍江省安広県事情」なる報告書を著しているようで(『満洲帝国地方事情大系』叢書の一部)、この人自身も東亜同文書院の卒業生なのかもしれない(未確認)。
新民会はスポーツに力を入れていたようだけれど、その中で柔道がどのような位置づけになっていたのか、いまひとつよくわからない。
さしあたり、参考になりそうな論文を手がかりとしてメモしておく。
高嶋航 戦時下の平和の祭典 - 幻の東京オリンピックと極東スポーツ界 -
柔道についての言及は無い
新民会の青年向け活動全般。ただし、柔道についての言及は無い
新民会と労働者確保の関係について触れられている
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最後は若干話題がずれるけれど、宝三の流れをくむ傅文剛とその一門の中幟の技について紹介した動画。中幟と摔跤の関係などもわかり、とても興味深かった。
傅文剛のお父さんで宝三の弟子の傅順禄は超マッチョ。前掲『京跤史話』では「富」順禄になっていた。
注1
Hua bei ri bao (華北日報) 1933.07.07 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers
この項、2020年5月27日加筆。もとの注1を注2に。
注2
加島 大輔 「東亜同文書院大学教員と愛知大学教員の人事的側面における接合性
-両者の学部開設時と開学時における教員層の検討を通して-」