中国武術雑記帳 by zigzagmax

当世中国武術事情、中国武術史、体育史やその周辺に関する極私的備忘録・妄想と頭の体操 。頭の体操なので、たまたま立ち寄られた方は決して鵜呑みにしないこと(これ、肝要)※2015年2月、はてなダイアリーより移行

1923年の中西対抗ボクシング競技、朱家四虎など

1.1923年の中西対抗ボクシング競技

先日、1943年の国術とボクシングの対抗戦についてメモしたけれど、中西対抗ボクシングの競技で一番はじめに勝ったのは朱国福だといわれている(注1)。

時期は1923年8月11日。翌12日の「申報」の記事に、「中華体育会会員」で33歳の朱国福が4ラウンド終了後判定でロシア人ボクサーに勝利したことが記されているようで、記事の現物は確認できていないものの、朱梅玲(朱国福の弟・朱国禎の三女)が、後年(1990年)台湾の周剣南に送った手紙のなかで、「申報」1923年8月12日の記事を以下引用のように抄録している。

引用の最後に「此则为竞武场创办以来,华人打败外人之第一次也」とあり、この試合は中国人がはじめて外国人に勝った試合であることが窺える。

 

〇朱梅玲 「台北之行---記武術史学家周剣南」より

中华体育会会员朱国福战败俄人

前晚,本埠狂风如吼,飞沙走石,竺以电线失事,致公共租界及法租界,黯然无光者,压两时许,电灯复亮。坐客华人居十之八,是可见国人关心体育之好现象。其又一原因,或由首次角斗,华人均为失败,国人心觉不平,心欲目视当场华人能战胜外人以为快。是晚角斗共计七次,第一次,为俄人与俄人比赛,至第三回合,始分胜负。……第四次,为华人与俄人比赛,此场实为前晚台上最有精彩之一幕。华人名朱国福,直隶人,年三十三岁,系中华体育会会员。记者方见其向该场经理报名时,貌极温雅,面色清瘦,衣着纱衫,长几及地。记者询经理曰,斯人亦欲上台比赛乎?渠应曰然。朱君身体重量,仅一百二十八磅,然自愿同一身重一百六十磅之俄人角斗。继见俄人登场,躯格魁梧,较朱君约高五六寸。座客均为朱君担心,恐非俄人敌手也。……朱君于中国参术,本有艮底,似于此种拳术,亦稍加研究,其举拳及身体姿势,亦颇合法,两人相角。第一回告終时, 不分上下;迨第二回合开始,朱攻势灵猛,然终以敌手身高臂长,不易着其面部;至第三四回合,双方角斗愈增。俄人已渐渐不支,只有招架之力,朱君则精神抖擞,拳势更急,俄人面部胸部,着拳继续不止,步骤已乱,显然欲倒。而钟声锵然,赛时告终。公证人以朱君身量较轻,拳打中敌手次数甚多,故宣告朱君胜利,此则为竞武场创办以来,华人打败外人之第一次也……

申报(上海)1923年8月12日 【中华民国12年】

台北之行——记武术史学家周剑南 ——中国武术在线 人物访谈

 

この試合について、ロシア人はダウンして立ちあがることができなかったと書いている記事がある。たとえば、鄭光路の「北方武术精英入川传艺 」成都晩報2013年10月28日)には、「在第四回合,把比他重20余公斤的裴益哈伯尔打倒不起,观众欢声雷动」とでている。また「形意魂」の作者不詳の記事「形意宗師朱国福」でも「在几个回合内一举击倒裴依哈伯尔」とあり、試合も4ラウンドではなく6ラウンドだったと読めるけれど、朱梅玲が書き写した「申報」の記事が正確だとすれば、相手は倒れる前にゴングに救われていて、ダウンはしておらず、体重差と手数を考慮しての判定勝ちであったとしか読めない。

ただし、朱梅玲の引用の正確さには疑問もある。たとえば、「中華体育会」という語が出てくるけれど、中華体育会の設立は1935年ではないかと思われ、本来の記事には朱自身が1915年に設立した上海武学会と書いてあったのではないかという気もする。(1935年の中華体育会設立時の写真はここ。)

引用が正確かどうかは、関西大学の申報データベースなどで現物を見ることができれば、確認できるだろう。いずれにしても、朱国福が試合に勝利したことには違いない。

 

(注1)

もとの記事が何なのかわからないけれど、百度をはじめ多くのネット記事で、「朱国福は正規の新聞において、公開の場で外国の武人を打ち破ったことを報じられた最初の中国武術家」(「 朱国福先生是第一个有正规报纸报道,打败公开设坛的外国武人的中国武术家」)であると紹介されていることによる。

 

2.朱国福

それで朱国福について調べてみると、形意拳家の馬玉堂に師事した人で、1928年の第一届国術国考では15人の「最優等」の中でもトップに挙げられ(注2)、翌29年には中央国術館教務主任に任じ、形意拳とともにボクシング(拳撃)を教えたらしい。1932年には、ここのところ注目している湖南省に招かれ鳳凰34師軍訓所少将副所長、1935年には湖南省国術館教務長兼総教官に任じている(上掲鄭光路の記事)。1936年には四川省主席の劉湘に招かれて重慶国術館(首都が重慶に移転すると陪都国術館と改称)を組織して副館長に任じ、1947年から重慶大学でも武術を教えはじめ、中華人民共和国成立後も引き続き重慶大学で武術を教えるとともに、中国武術協会委員、重慶市武術協会主席に任じている。最晩年は、文化大革命の中で勤務先の重慶大学の入り口に「打倒国民党少将朱国福」という標語を掲げられるなど、政治迫害を受けるなかで、中風が原因で亡くなっている。

ロシア人ボクサーとの試合に勝ったことや中央国術館でボクシングを教えたこと、さらに世界ではじめて(未確認)ボクシングの女子チームを組織したことなどから、中国のボクシングの父(中国拳撃之父)と呼ばれているけれど、誰から、どういう経緯でボクシングを修得したのかはいまひとつよくわからない。

上掲『形意魂』サイトの「形意宗師朱国福」の記述は、彼が1915年に上海に来たあと、はじめは中国語を解するが性格にやや問題のあるフランス人教師、ついでイギリス人教師に学び、上記のとおり自ら設立した上海武学会の会員とともに稽古をしたこと、1923年に弟の国禄を呼び寄せてからはスパーリングのパートナーをさせたこと、男女のチームを作って、休日には競技とパフォーマンスを行っていたことなどが伺える。

那时的上海,随着大批法国人的进入,拳击运动也被带入中国,在上海滩经常有拳击表演。朱国福常去观看,由此被吸引而喜欢上了拳击。朱国福认为拳击无花架子,动作简单,技术简捷,易于传授和学习,更适合大众推广。就托人找到上海一位有名的法国拳击教师,其人懂点中国话。朱跟其学习拳击,那位法国人很高傲,非常自负,教授拳击时经常取笑中国武术是花架子,实战没用。朱国福有次实在听不下去,要求不戴套与法国人随便试一下,自已也不用腿击。法人身材高大,觉得朱的要求好笑,两人一动手,朱的手就插到法人喉咙,法人不服,第二次试,也是如此。法人大骇,觉得无脸再教授朱拳击,便辞去不来。朱国福后来只好又托人找了位英国拳击手才系统的学习了拳击
朱国福掌握拳击后,结合形意和八卦的技击特点,教授上海武学会的学员们练习拳击。当时拳击手套国内还不能生产,全靠进口,价格十分昂贵,那个时候,几乎一个星期就要打烂一副拳套。朱国福功力惊人,和学生们练习时,只好朱国福先生戴上拳套,别的学生都是徒手,学生们有时一闻到拳套的味道就两腿发抖。除了拳击外,朱国福还在武学会教习形意、摔跤,枪术等多种技艺,朱国福先生在教授弟子时,总是身体力行,据当年弟子回忆,当时打拳斗,每天几个小时;用数丈长的毛竹装上铁砂练习劲力和形意枪术,一直要练到精疲力尽才歇手。练习摔跤的跤衣也是差不多两个星期就要抓烂一套。

【中略】
1923年,朱国福把二弟朱国禄叫到上海,传授形意拳和拳击,并让朱国禄做拳击陪练。同年,在黄焕南的大力支持下,朱国福在基督教青年会的楼顶成立了中国第一支拳击队,分成男女两队,平时训练,节假日在上海大世界举行商业拳击比赛和表演。

http://www.xingyihun.com/a/pics/2010/0904/159_4.html

 

さらに探すと、百度百科の朱国祥(一番下の弟)の紹介では、1923年のボクシングの試合のあと、フィリピンからボクサーを招いて兄弟四人ではじめて系統的にボクシングを学んだと記されている。この部分は、上記の「形意宗師朱国福」の情報とも符合して、結構重要だと思うけれど、どのような人物に、どのような訓練を、どのくらいの期間にわたって学んだのかなど、詳細は不明(注3)。

 

1923年8月,长兄国福先生在上海经签定生死协议,并由名律师史良等公证后,按拳击规则以形意拳击败俄国拳击家Beby Hubuer(见1923年8月13日上海《申报》、《新晚报》等)。经此次生死激斗,国福先生了解到西洋拳击之实际战斗力,不久即专聘一名菲律宾职业拳击家教授兄弟四人练习拳击,先生遂接受正规之拳击训练。

https://baike.baidu.com/item/%E6%9C%B1%E5%9B%BD%E7%A5%A5/91046

 

ちなみに、朱国福が重慶に伝えた河北派の形意拳は李毅立、呉成忠、朱澤富らによって伝えられ、いまに至っているらしい。重慶形意拳は、朱国福の系統のもののほかに、張応人の流れ、馬振牮の流れのものがある模様(張又均「重慶形意拳伝承与発展思考)。いずれも中央国術館の関係者が伝えたものであり、臨時首都であった歴史が窺える。

〇朱国福 網絡孔子学院のサイトより

出典:http://kungfu.chinesecio.com/article/2009-08/22/content_8511.htm

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なお、晩年は不遇だった朱国福だけれど、娘の朱慶霞が重慶大学を訪れていたり、四川省で朱氏兄弟を偲ぶシンポジウムが開催されているので、名誉は回復されているのだろう。研究活動が盛んになって、新しい事実などが発表されることを望む。

video.tudou.com

 

 〇重慶大学档案館の記事 

 我国形意拳武术大师朱国福之女朱庆霞一行来馆座谈-重庆大学档案馆 

 〇 2012年5月、峨眉山大佛禅院で開催された、朱国福、朱国禄、朱国禎、朱国祥ならびに峨眉武術シンポジウムに関する記事

  ここで朱慶霞は「満江紅拳」を演じている。それで確認してみたら、以前にメモした女性が演じている満江紅の演者・解説者はいとこで朱国禎の娘の朱梅霞だった。

 朱梅玲の演じた剣術套路「夜深沈」というのは何だろう。近年、上海の朱俊昌が同名の套路を創編したようだけれど、それとの関係は不明。

www.emwsw.com

 

 

(注2)

最優等15名の中には弟の国禄、国禎がおり、「朱氏三傑」と称される。のちに一番下の弟の国祥が力をつけると、「朱家四虎」と呼ばれるように(『中央国術館史』の朱国福紹介ページ)。

  

(注3)

 全然関係ないけれど、朱国福とボクシングの出会いに関して、大山倍達こと崔永宜が子供の頃、父が経営していた農場に現れた季節労働者から、「ある格闘技」を習うけれど、小島一志はそれはボクシングであったと推測していることを思い出した(『大山倍達正伝』。)

 

3.国禄、国禎、国祥

朱国福の兄弟の中で、すぐ下の弟の国禄は1928年の第一届国術国考で兄の国福、弟の国禎とともに「最優等」15人に入賞したあと、翌29年に杭州で開催された国術游芸大会には江蘇警察学校から参加して第二位を獲得、その後中央国術館に招聘され技撃隊副隊長に任じている。中華人民共和国成立前後に黒龍江省チチハル市昂昂溪区にゆき1972年、チチハル市で亡くなっている。チチハルにも彼の形意拳が今も伝えられている模様。

 

杭州国術游芸大会 左から第一位の王子慶、第二位の朱国禄、第三位の章殿卿

出典:http://lsw1230795.mysinablog.com/index.php?op=ViewArticle&articleId=4361338

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baike.baidu.com

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3番目の弟の国禎の、第一届国術国考のあとの足取りはおおむね以下のとおり

1929年1月 南京中央国術館教授班(百度の記事は第一期としているけれど、首期教授班は1928年のはずで、これは第2期?)

1932年 長沙第四陸軍軍事訓練組技術研究室高級班副主任兼国術教官に任じるとともに湖南省国術館でも指導 

1937年12月から四川省に定住、成都軍校や南洪藝術専科学校、成都警察局などで武術を教え、1944年には成都体育専科学校(1942年設立、成都体育学院の前身)に招かれる。

 

1949年末に、一番若くしてなくなっているけれど、娘の朱梅玲の回想によると、1948年に飛びこみのパフォーマンスをしたときに、ウォーミングアップ不足で冷水の刺激を受けたために(そんなことがあるのかな?)半身不随(原文は「瘫痪」)になってしまったのだといい、そのことと関係があると思われる。

 

 

ちなみに、上記の朱梅玲の夫は、ベルリンオリンピックにも参加した鄭懐賢の息子で鄭桂麟といい四川大学の教授であった人。学問の道に進んだのでお家芸の飛叉は受け継いでいない模様。

ただし、鄭家の飛叉は、故郷の河北省白洋淀で孫にあたる鄭樹広という人が演じている模様。でもこれって、動画を見ると、かなり見世物化している気がするなあ・・・。

baike.baidu.com

 

www.youtube.com

 〇鄭懐賢の孫の鄭樹広のパフォーマンス

www.sohu.com

 

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一番下の弟・国祥の、1929年以降の略歴は百度百科によると以下のとおり。

 

1929年,考入中央国术馆教授班。
1933年22岁时,任驻衡阳的国民革命军第15师骑兵国术教官,专授战场格斗技术。
1935年至1937年,任教于湖南国术训练所,训练战场格斗技术。
1940年以后转入教育界,先后任中央大学体育系、金陵女子大学体育系讲师。
建国后先后执教于上海东亚体育专科学校、华东师范大学、华东体育学院(现上海体育学院)、交通部武汉河运学校,任东亚体专教务主任、华东体育学院武术教研室首任主任。
1983年2月23日,病逝于徐州。

baike.baidu.com

 

ボクシングを学んだ兄弟4人のうち、3人がその後、湖南に招かれていることがわかる。

1930年代の湖南の国術訓練の貴重な動画の中に出てくるボクシングのような訓練も、彼ら兄弟がもたらしたものと考えてよいのかもしれない。上海時代に彼らが行っていたというボクシングの試合とパフォーマンスの、パフォーマンス部分もこういう光景だったのかなあ、などと妄想が膨らむ。

Rare Chinese Martial Arts Footage from 1930's - YouTube

youtubeの動画から

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いろいろ詰め込みすぎたので、収まりが悪い気がする。

今後、いろいろ修正が必要と思われるけれど、とりあえずのまとめとして。