中国武術雑記帳 by zigzagmax

当世中国武術事情、中国武術史、体育史やその周辺に関する極私的備忘録・妄想と頭の体操 ※2015年2月、はてなダイアリーより移行

『武術の孤児』

10月28日、第31回東京国際映画祭で鑑賞。

上映はこの日を含む2回で、申し込みをした時点で、上映1回目(平日の夜)は満席、2回目(日曜日の午前)も残すところあとわずかというところだった。じっさい、日曜の早朝にもかかわらずほとんど満席の状態だった。

 

一言でいうと、武術学校という特殊な社会に赴任してきた主人公が奮闘する、現代中国版「坊ちゃん」みたいな映画だった。

 

撮影には、塔溝武術学校が協力していたようで、訓練シーンで、一部少林拳っぽい動作がでてきた。映画祭の公式ページにでている、初日のアフタートークによると、同校の移転前の古いキャンパスが使われている模様。

 

2018.tiff-jp.net

 

公式サイトの作品解説に「四季のパートに分割された本作は、それぞれの冒頭にカンフーの達人が旅を続ける幻想的なシーンを挿入し、またブルース・リージャッキー・チェンジェット・リーへの言及があるなど、中国武術への愛が感じられる作りとなっている。」とあるけれど、作品を見たあと、まったく逆の印象をもった。

 

作品の舞台となる武術学校では、校長が生徒たちに毎日校内放送で、「お前らみんなブルース・リージャッキー・チェンジェット・リーみたいになりたいだろう?」と焚き付けるのだけれど、文化系の人物で、学科を軽んじる校長の方針に納得のできない主人公が「お前たち、本当に彼らのようになれると思ってるのか?笑わせるな。だいいち、科学の発達した時代に知識を軽んじて武術なんか学んで、何の役にたつと思ってるんだ?バカじゃないのか?」(意訳)と本音をぶちまけてしまうシーンがある。この言葉に、一人だけ目を輝かせる、いじめられっこの生徒をよそに、主人公は校長の息子に殴り倒され、生徒たちは快哉を叫ぶ。


予想していなかった主要キャスト登壇のアフタートークで、監督(自ら脚本も自ら手掛ける。この映画が初監督作品)が、自分のお父さんが体育教師だった経験が映画のベースになっていて、スパルタ式価値観の押し付けから、「映画の世界に逃げた」と語っていたけれど、そういうところから察するに、上記の主人公の言葉は、監督自身の言葉と思ってよいように思う。なので、この作品に「武術への愛を感じる」という見方には、かなり違和感がある。

 

ちなみに、映画の舞台は90年代後半。逆にいうと、もはや現在は武術を学べばスターになれるなんていう考えが出鱈目でしかないことを誰もがわかっている時代で、90年代後半というのは、そんな夢を見ることがかろうじて許されていた時代ということなのだと思う。(とはいえ、武術学校が、出稼ぎの家庭が子弟を預ける受け皿になりつつある現状も描かれている。)

 

アフタートークには、監督のほかに、主人公や、校長の息子、紅一点の女医を演じた役者三人が登場したのだけれど、男優2人の素顔はとてもイケメンだった。女医を演じた劉芷含は、作品中のようにあんまり化粧をしないほうが若々しく見える気がした。

これらの登場人物のほか、猛禽類を愛する校長や、ふとっちょで腕のいい学校のコック、主人公の叔父で学校の教務主任など、みな魅力的に描かれていたように思う。なんとなく場違いな彼女がこの学校にいる理由も、「あるある」感が漂っていてよかった。

 

 

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以下の内容は若干ネタバレあり。

 

 

映画の最後で主人公は、深圳に向う汽車の車中で、小説を書きはじめる。

その小説は、事件を起こし服役した経験もある武術家が主人公で、ようやく出所してからも武術の追及を諦められず、各地を放浪して有力者と腕比べをしている。(公式サイトで、「カンフーの達人が旅を続ける幻想的なシーン」と紹介されているのは、この小説の場面と解するべきだろう。)

 

この武術家、この映画の舞台となる学校にも現れて、生徒たちの見ている前で校長に戦いを挑む。その結果の言及は避けるけれど、戦いの結果、学校関係者たちはそれぞれに「現実」に目をむけなければならなくなり、全員が大慌てになる。

この結末は、学校を去らなければならなくなった主人公による、ささやかな意趣返し、イタズラ、中国風にいえば「精神勝利法」なのだろう。

恐らく、主人公の中で、この小説の構想は、学校を去るときには既に出来上がっている。だから、自転車で学校を去る主人公は、なぜかニヤニヤしていて、汽車にのると早速執筆をはじめる。

決して前向きな問題解決法ではないけれど、監督自身、主人公が汽車に乗る場面を、敢えて「後ろ向き」に撮ったと言っているので(10月26日の上映会後のアフタートーク)、すべて計算づくでそのように描いているのだろう。
ただ、この辺は、自分の解釈なので、見る人によって解釈が分かれるところかもしれないし、機会があればもう一度頭から見て、細部を確認してみたいと思わせる、そんな映画だった。