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中国武術雑記帳 by zigzagmax

当世中国武術事情、中国武術史、体育史やその周辺に関する極私的備忘録・妄想と頭の体操 ※2015年2月、はてなダイアリーより移行

緊那羅王はどこにいった

八極拳 少林寺 太極拳 戳脚翻子

何度かメモしているけれど、少林武術が信仰の対象にしている「緊那羅」王、もともとは音楽神であり、本来、武神であるべきは似た名前の「那羅延」であるという説がある。(那羅延は那羅延執剛神ともいわれ、阿形、つまりは仁王様の一方。)

 

zigzagmax.hatenablog.com

 

明代に少林寺で学んだ程冲斗の「少林棍法闡宗」に「緊那羅王之聖傳」という語が見えるので、その頃には武神として信仰されていたことが窺えるとして(注1)、少林寺の外では、「緊那羅王」という神格はどれだけ浸透していたのだろうか。

 

たとえば、調べものをしていてたまたま見つけた羅疃・李大忠の「行者棍」の伝書では、「緊那羅王」にかわる語として、「急拿羅網」の語が見える。

 

f:id:zigzagmax:20120116220601j:plain

◎出典:http://photo.blog.sina.com.cn/list/blogpic.php?pid=851631d8hbdf555ac7b34&bid=851631d801012f98&uid=2232824280

 

また、百度百科の胡氏戳脚の紹介によると
胡奉三に由来する胡氏戳脚の器械歌訣の中に、「緊拿羅纲」という語がある(注2)。

この歌訣の実物の写真はサイトには載っていないけれど、ここで「纲」とあるのも、「綱」ではなくて「網」のような気がする。

 

だとすれば、それぞれ
「急拿羅纲」
羅網を急ぎ握って・・・

「緊拿羅纲」
羅網をきつく握って・・・

 

という意味に読めそうで、この訣語を暗記したり、書き写した人が、どこまで「緊拿羅王」を意識していたのか、にわかに判別できない。

 

ちなみに、「羅網」というのは

1 鳥を捕らえるあみ。
2 浄土や天界にあるとされる、宝珠を連ねた網。また、仏殿や仏像を飾る荘厳具。

とのこと。

後悔は先にたたないことの喩えで、「羅網の鳥は高く飛ばざるを恨み呑鉤の魚は飢えを忍ばざるを嘆く」という言葉もあるらしい。

dictionary.goo.ne.jp

 

棍棒の歌訣の中にいきなり網の話がでてくるのは不自然かもしれないけれど、
「一網打尽」という語もあるから(出典は『宋史』「范純仁伝」 らしい)、仏敵を一気に蹴散らすことの比喩と理解されたとしても不思議ではない。少なくとも、本来あるべき「緊那羅王」が消えてしまっているのは確か。

 

まあ、そもそも「少林」が「邵陵」と表記されたりするくらいなので、そのような変化が生じたとしてもおかしくはない。もしかすると意図的に隠しているのかもれない。

 

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「少林」が「邵陵」に・・・ということで思い出して、唐豪の『中国武芸図籍考』を見てみたら、そのあたりのことはちゃんと考察されていて、陳家溝の「盤羅棒訣語」に

「古刹登出少林寺、堂上又有五百僧

 百萬紅軍滅佛教、悖羅在地顕神通

 要知此棒出何、盤羅留傅在邵陵」 

とあるのを引いて、「登出」は「登封」、「邵陵」は「少林」「盤羅」は「那羅」、「悖羅」は「盤羅」、の訛化であろうと述べつつ、陳溝もまた少林棍を学んだのだろうと記している。(ただし、盤羅棍の勢法で少林棍と共通しているのは、朝天、担山、地蛇、跨剣の四勢だけらしい。山西科学技術出版社版PP.146-147)

 

ちなみに、これに該当するもので徐震の『太極拳考信録』に採録しているものに「盤羅棒訣語」があり、

棒遮雲頭世間稀、勢勢安排要怜悧

古刹登出少林寺、堂上又有五百僧

百萬紅軍滅佛教、悖羅在地顕神通  

後辺撒手丟神棒、夜叉探海取人心

偸脚進歩誰不怕、棒起空霊多変化

九宮八卦破天門、老祖留下六六勢

三十六勢在中間、前有嵩山後有御塞

佛手賽過紅光玉、敢杜紅軍百萬兵

要知此棒出何處、盤羅留傅在邵陵

 

と記している。(山西科学技術出版社版 PP.76-77)

  

これを見ると、羅疃の行者棒で「紅君」、胡氏戳脚の譜で「千軍」とあるのは、もともとは「紅軍」だったのだろうと推測される。

緊那羅」とその訛化をキーワードにして、少林武術と陳家溝の武術、さらには八極拳から戳脚まで共通点する内容が見えてきた気がする。

 

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いちおう、こういった観点から『中国武術拳械録』の棍術をざっと確認してみた。概要は以下のとおり。「金剛」、「行者」といった語はいくつか見られれたものの、もともと歌訣の類はあまり載っておらず、あまり有益な示唆は得られず、「緊那羅」らしきものの姿は確認できなかった。この作業はやや徒労に終わってしまった気がするけれど、神様はそう簡単には顕現しないのかな(苦笑)

 

八極拳の項には、行者棒の動作名称はあるものの、歌訣の記載は無し

・三皇炮捶の項には、行者棍の歌訣が載っているものの、それらしき語句は見当たらず(P.92)

・太祖拳の項には、太祖棍の棍譜があり、「行者南海拝観音」の語があるものの、それらしき語はみられず

少林拳の項には、梢子棍、風火棍、小梅花棍、小夜叉棍、大夜叉棍、兪家少林棍、陰手棍、少林短棍、六合風里夜叉棍、焼火棍、六合陰手棍、猴棍、猿猴棒の動作名称が紹介されているが、歌訣の記載は無し

 陰手棍(13)羅王観陣(76)羅王踏山

 少林短棍(1)金剛護門

 六合風里夜叉棍(32)が打風撹王

・功力拳の項には行者棒の動作名称が載っているものの、それらしき語句は見当たらず

・四季拳の項には、四季棍の動作名称があり、そのなかに

  一路(7)刀(力?)劈金剛 (P.257) がある。

・白眉拳の項には、大陣棍(双夹単棍)の動作名称が載っており、そのなかに

  (27)(47)金剛掃地 (P.265)

・紅拳の項には火火条子の動作名称が載っておりそのなかに(17)夜叉棍がある(P.316)

形意拳の項 五郎棍の棍譜に「行者棒打遍天下」の語がある (P.345)

泉州少林花拳の項 金剛棒(第一套)の動作名称が紹介されているが(P.499)、それらしき語句は見当たらず

・梅山拳の斉眉棍の歌訣に「大聖劈棍除妖王」の語がある(P.546)

猴拳の項には行者棒の歌譜があるものの、それらしき語は見当たらず

・福建羅漢拳の項の子母棍の動作名称中(39)行者授棍がある(P.573)

 

注1
緊那羅王之聖傳」の語は「総論」に見える。その他、「緊那羅王」の語は複数の箇所に見られる。

注2

全文は以下のとおり。冒頭の句が行者棒と同じであるほか、ほかにも共通点が多く、それはそれで興味深い。

器械歌决
开山神棒最为强,武祖造法人难防。
猿猴献果灵芝草,降魔宝杵压疆场。
童子献棒神鬼怕,击刺善用膝登枪。
堰月大刀擎当面,劈山钢斧露锋芒。
猪龙拱地甚骁勇,哪吒神棒落难当。
急转身来金刚樽,飞前式样自争长。
沧海计逢山开路,黄宝盖转打六阳。
陡回身迎风立式,退千军紧拿罗纲。
孙行者指空望月,逼水珠少林名扬。
老僧铲仗人不识,打绝世间众豺狼。
伸手举棍漫头过,赫得乌鸦就地翔。
能者识透此中艺,枪法神妙世无双。

baike.baidu.com

 

◎李大忠系八極拳の関連動画

 

八极拳七世传人李世铭(李大忠玄孙)与弟子李金恒八极拳对接_土豆_高清视频在线观看

传统八极拳-李金恒_土豆_高清视频在线观看

 

少林寺公式ウェブサイトにある阿徳「緊那羅考」

 紧那罗王考(阿德)
◎少林书局 阿 德
少林寺伽蓝殿奉祀紧那罗王,有别于全国其他寺院。此乃与少林寺尚武传统有关。紧那罗王在少林寺僧人心目中,具有特殊地位,被尊为“武圣”,为少林寺护法神。紧那罗王信仰是少林寺信仰体系中的特殊组成部分,也是少林功夫作为少林寺宗教文化的核心所在。
据我考证,少林寺紧那罗王信仰实源于观音菩萨信仰的表现形态之一——那罗延执金刚神信仰。观音菩萨信仰始于姚秦时代鸠摩罗什所译《妙法莲华经》,①盛于隋唐,浸淫民俗至今。观音菩萨信仰主要内容,见《妙法莲华经·观世音菩萨普门品》:
佛告无尽意菩萨:善男子,若有无量百千亿众生,受诸苦恼,闻是观世音菩萨,一心称名,观世音菩萨即时观其声音,皆得解脱。佛告无尽意菩萨:善男子,若有国土众生,应以佛身得度者,观世音菩萨即现佛身而为说法;应以辟支佛身得度者,即现辟支佛身而为说法;应以声闻身得度者,即现声闻身而为说法;应以梵王身得度者,即现梵王身而为说法;应以帝释身得度者,即现帝释身而为说法;应以自在天身得度者,即现自在天身而为说法;应以大自在天身得度者,即现大自在天身而为说法;应以天大将军身得度者,即现天大将军身而为说法;应以毗沙门身得度者,即现毗沙门身而为说法;应以小王身得度者,即现小王身而为说法;应以长者身得度者,即现长者身而为说法;应以居士身得度者,即现居士身而为说法;应以宰官身得度者,即现宰官身而为说法;应以婆罗门身得度者,即现婆罗门身而为说法;应以比丘、比丘尼、优婆塞、优婆夷身得度者,即现比丘、比丘尼、优婆塞、优婆夷身而为说法;应以长者居士宰官婆罗门妇女身得度者,即现妇女身而为说法;应以童男童女身得度者,即现童男童女身而为说法;应以天龙、夜叉、乾闼婆、阿修罗、迦楼罗、紧那罗、摩罗伽、人非人等身得度者,却皆现之而为说法;应以执金刚神得度者,即现执金刚神而为说法。无尽意,是观世音菩萨成就如是功德,以种种形,游诸国土,度脱众生。
经中关于观音菩萨“以种种形”示现的表述,使得观音菩萨信仰以多种的形态出现,并随着时代和流行区域的不同,发生着变化。在少林寺流传的那罗延执金刚神信仰,后来省简误转为紧那罗王信仰,正是观音菩萨信仰多种表现形态之一。据佛典,紧那罗王为“非人”,“似人而有角”,是音乐神,是与那罗延执金刚神的特征和职责都完全不同的天神,实与“护法护人”的武力无涉。
那罗延执金刚神信仰,早在唐代即已流行。唐张《朝野佥载》“稠禅师”条载:
北齐稠禅师,邺人也,幼落发为沙弥。时辈甚众,每休假,常角力腾踔为戏。而禅师以劣弱见凌,绐侮殴击者相继,禅师羞之。乃入殿中,闭户抱金刚而誓曰:“我以羸弱为等类轻侮,为辱已甚,不如死也。汝以力闻,当佑我。我捧汝足七日,不与我力,必死于此,无还志。”约既毕,因至心祈之。
撰者张卒于唐玄宗开元间,故此书当成于公元740年前。文中所记前代逸闻,自不足信,但文中表达出来的执金刚神信仰,当是真实的。我们可以进一步推想,北齐稠禅师为少林寺创始人印度高僧跋陀的大弟子,继跋陀任少林寺住持,②以禅法神异闻名于世。既然稠禅师向金刚乞力神迹被《朝野佥载》采录,也应该在少林寺内流传,并成为少林寺信仰体系的组成部分。
那罗延执金刚神信仰流传至金初,可能已经衰落。今少林寺碑廊东壁尚存金初祖端禅师住持少林期间所立《那罗延执金刚神像》碑(如图一)。③图中那罗延执金刚神手执金刚杵,裸胸跣足,威风凛凛,为后世少林寺“紧那罗王”像所本。图上部有文,录文如下:
妙色那罗延执金刚神天身吉祥无边力印:
先须安净身心坐定,以两手四指向掌内交叉,仰掌向上,指亦向上,直树二大拇指,各附二食指侧,大拇指来去,咒曰:(咒略)。
经云此神即观音示现。若人尽心供养,持此印咒,则增长身力,无愿不获,灵验颇多。□能具说以灵验,故学其印、求其咒、模其像者多。故立石,以广其传。
住少林祖端重上石。
此段文字表明了当时那罗延执金刚神信仰的基本情况,也让我们感受到那罗延执金刚神信仰的气氛已不浓厚,以至于“重上石”,“以广其传”。文中所称“经云”,即指《妙法莲华经·观世音菩萨普门品》中观音菩萨示现执金刚神一项,故说“此神即观音示现”。

http://www.shaolin.org.cn/templates/T_newS_list/index.aspx?nodeid=202&page=ContentPage&contentid=1704

蒙元至治年间(公元1321年-1323年),凤林禅师住持少林,④“开创伽蓝堂”,⑤《凤林禅师行状》中未及伽蓝殿供奉神像。但据日本鹫尾顺敬《菩提达磨嵩山史迹大观》一书所收一幅“紧那罗殿内紧那罗王像”(摄于大正十一年,公元1920年)显示(如图二),⑥伽蓝殿在1928年被火烧毁前所供奉的神像,手执金刚杵,其形象正与金代那罗延执金刚神形象相同,而与明代中期开始出现的手执烧火棍的“紧那罗王”形象有异。根据本人所及少林寺文献资料显示,少林寺伽蓝殿自开创以后至1928年烧毁以前,其间没有被毁记载。我初步推断,1928年伽蓝殿烧毁以前所供奉神像,即是凤林禅师开创伽蓝殿时所供奉原神像,即那罗延执金刚神像。
少林寺那罗延执金刚神信仰内容的变化,当发生在明代正德年间。正德十二年(公元1517年)少林住持文载禅师撰并立《那罗延神护法示迹碑》:

原夫释迦文佛,示现周昭王甲寅岁。至后汉明帝永平中,教法始传中国,至洛阳首建伽蓝,肇自白马寺焉。凡天下寺院,皆有护法神而守护之,乃曰护伽蓝神。按传灯录:隋开皇中,天台禅师居荆州玉泉山,有神通谒称蜀前将军关羽,以战功庙食此山,闻师欲营精蓝,愿庀役事。七日而成,捷出神巧,事闻文帝,敕封玉泉山护伽蓝神。且如少林寺者,乃后魏所创,历隋至唐宋间,未闻何神为伽蓝守护之神也,无典可考矣。今其伽蓝神,据景躅集所载,乃大元至正十一年辛卯三月二十六日巳时,颍州红巾初起大乱,来至少林寺。有一圣贤,先在厨中作务,数年殷勤,负薪执爨,篷头跣足,单
形赤,朝暮寡言,不动众念,无姓贯名,常修万行。至日红巾临寺,菩萨持一火棍,独镇高峰,红巾畏之而退,则时即没,后觅不见。乃知菩萨示迹,永为少林寺护法,坐伽蓝之地。僧人子用记。予既睹景躅集,常欲述文,以彰神功。乃谋于众,今本寺僧周载、洪然,慨然命工,勤诸于石,始将来有所考焉。命记之述之如左乃为铭曰:
维兹梵刹 少室之阳 般若悬识 鼻祖道场 守护伽蓝 那罗延王 神威烈烈 难尽赞扬 凡有祈祷 必赐祯祥 善恶报应 影响难藏 护法护人 乃隆乃昌 惟神鉴格 电瞩雷 皇国亿兆 法社增光 灵山付嘱 永作金汤 住山稽首 灵咒昭彰
从碑文看,那罗延执金刚神信仰在文载禅师住持少林时期,已经“未闻何神为伽蓝守护之神也,无典可考矣”,几等于名存实亡了。此碑阴上部刻有那罗延神像(如图三),比较金代那罗延执金刚神像,发现有所变化:那罗延神的面部特征和姿势仍然相同,但原来手中所执的金刚杵,已被烧火棍所取代。这个变化在少林寺武术史上,意义重大,因为这根烧火棍,成了后来少林寺棍法的最神圣象征。那罗延执金刚神信仰也因此由大力神信仰,变成了传授少林寺棍法的“武圣”信仰。四十多年后,一代名将俞大猷“予昔闻河南少林寺,有神传长剑技”,并特地“取道至寺”观技。⑦此处“长剑技”即指棍法。文载禅师将业已淡薄的那罗延执金刚神信仰,赋予“菩萨示迹退红巾”这一全新内容,应该与正德七年(公元1512年)朝廷首次调用少林寺武僧征讨霸州刘氏起义事件以后,少林寺棍法开始闻名于世,有内在联系。文载禅师的用心,显然在于激励寺僧勇于直下担当护法神的职责。这既是修禅者应有的人生态度,同时也是佛教徒特有的应化转世思维方式的表现。少林寺武僧受朝廷调用,并不是以世俗眼中的僧兵形象,而是以佛教护法神的身份出现。郑若曾《僧兵首捷记》:
天员引骑兵左右闪开,诱贼前进。贼先发矢,僧兵亦发矢。天员传令停射交锋。无极摧阵,呼伽蓝三声,大喊:杀!杀!
僧兵临战暗约以靛青涂面。贼见青脸,红巾蒙头,疑为神兵,胆已褫落。⑧
文中“伽蓝”,即指伽蓝殿供奉之那罗延执金刚神。“那罗延执金刚神”省简误转为“紧那罗王”,当发生在正德十二年(公元1517年)文载禅师立《那罗延神护法示迹碑》以后、嘉靖四十四年(公元1565年)匾和尚圆寂以前。清康熙三十一年(公元1692年)《云南鸡足山志》“匾和尚”条:
匾囷和尚,不知何许人,居百接桥东土龛。日惟种圃,夜则跏趺,常以草席为,趺坐其中,形稍匾,故人呼为匾和尚,人传师持紧那罗王神咒。
“匾囷”即“匾囤”。⑨匾囤和尚为少林寺明代高僧,塔在少林寺塔林。其事迹在明万历傅梅《嵩书》、清乾隆焦茹衡《少林寺志》等书中皆载,恐赘不引。匾囤和尚寂于嘉靖四十四年(公元1565年)。在嘉靖四十四年(公元1565年)以前,匾囤和尚即已将“紧那罗王”误传至云南鸡足山区,可见当时少林寺僧人确已将“那罗延执金刚神”误称为“紧那罗王”,此后代代相传,沿误至今。

【注 释】
①楼宇烈:《法华经与观世音信仰》,文载《世界宗教研究》1998年,第2期。
②见唐·裴《少林寺碑》:“稠禅师探求正法,住持塔庙。”碑在少林寺钟楼前,唐开元十六年(公元728年)立。
③祖端禅师事迹见《前住持嵩山少林寺端禅师塔铭并序》,塔在少林寺塔林,金大定八年(公元1168年)立。
④见《嵩岩俊公塔》,塔在少林寺塔林。
⑤凤林禅师事迹见《凤林禅师行状》碑,碑在少林寺碑廊,元至正九年(公元1349年)立。
⑥日本鹫尾顺敬《菩提达磨嵩山史迹大观》,株式会社三宝书院,昭和五十六年。
⑦见俞大猷《新建十方禅院碑》,转引自无谷等编《少林寺资料集》,书目文献出版社,1982年版,第105页。
⑧郑若曾《江南经略》第八卷,四库全书本。
⑨明·程宗猷《少林棍法阐宗》序记:“匾囤尝救人苗夷中,苗夷从,尊而神之。”可互证。
(原文刊于释永信主编《少林功夫文集》第一辑,少林书局,2003年第一版)

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