中国武術雑記帳 by zigzagmax

当世中国武術事情、中国武術史、体育史やその周辺に関する極私的備忘録・妄想と頭の体操 。頭の体操なので、たまたま立ち寄られた方は決して鵜呑みにしないこと(これ、肝要)※2015年2月、はてなダイアリーより移行

少林功夫と神力信仰

 雑誌『秘伝』の2016年6月号で、嵩山少林寺の釈永信方丈が少林功夫について語るという予告があったので、読んでみた(「少林功夫と「武術禅」」)。

一読して、少林功夫の信仰対象とされる緊那羅についての言及がなかったことが意外で、やや物足りない気がした。

 以前にもメモしたことがあるけれど、釈永信方丈は、崇山少林寺の公式ウェブサイトにある「少林功夫源于佛教信仰」という文章のなかで、少林功夫の明確な信仰対象として、緊那羅について述べている。

 

少林功夫信仰有主神,叫紧那罗王;少林寺有紧那罗王殿。练少林功夫的人都应该知道这一点,并且都信仰、供奉紧那罗王。不练少林功夫的人,一般不知道紧那罗王在练少林功夫者心目中的神圣地位;即使知道紧那罗王,也只是把他当作神奇故事而已。而练其他武术的人,由于不了解少林功夫的信仰内情,所以,他们与少林功夫做比较时,只看到少林功夫技术层面的特点,而完全忽略了少林功夫的信仰内容。这是人们误解少林功夫最主要的原因所在。

http://www.shaolin.org.cn/templates/T_newS_list/index.aspx?nodeid=26&page=ContentPage&contentid=2699

 

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また、釈永信『少林功夫』(2007年)では、第一章「少林功夫概述」で、少林寺には智慧についての信仰と力についての信仰があり、前者の信仰対象(主神)は菩提達磨、後者の主神は緊那羅王であると記されている(P.5)。そして、この力の信仰(力量信仰、神力信仰)は、観世音菩薩願力信仰、那羅延執金剛神神力信仰、緊那羅王力量信仰の三つの段階を経て形成されてきたという(P.6)。

  

今回の 雑誌記事は、後者に関して、観世音菩薩願力信仰と那羅延執金剛神神力信仰については触れているのに、肝心の緊那羅信仰については触れられていないのはどうしてなんだろう。かつ、紙幅の制限はあるのかもしれないけれど、少林寺の武術修行を、すべて前者(智慧についての信仰)の枠組みの中で説明しようとしてしまっているように見えるのは、少林功夫についての根本的な誤解を生じることにならないだろうか。

 

ちなみに、最近、CCTVで放送された全5話(集)からなるドキュメンタリー『功夫少林』の第2集で、師父との間で、「寧可失伝、絶不外伝(失伝するとしても決して外部に伝えてはならない)」と約束をした史文傑老師が、悩みに悩んだ末、かつて師に技を学んだ村の古い拳堂を訪れて、師父との誓いを破って、技を伝えることを決意をするという重要な場面で、緊那羅像が映し出される。そのあと、師父の墓前で号泣する場面とあわせて、深く心に刻まれる。

 

功夫少林 第2集  件の場面は39分過ぎ。何度見ても熱いものがこみ上げてくる。

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そのほかには、『功夫少林』のなかで緊那羅が重要な役割を果たすところはなかったけれど(見落としているかもしれない)、同番組の第1集で、釈延武が、「金剛不壊之身」をめざして、喉を徹底的に鍛えたり、股間を鍛えたりしているところは、やはり禅との関係ではなく神力信仰の文脈で理解するほうがわかりやすい気がする。

 

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功夫少林 第1集

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その他、倭寇と戦った少林僧兵が緊那羅の神力を得るために顔を緑色に塗っていたこと(上記の文章の中で、釈永信方丈自身が言及している)や、「易筋経」でも、陰部の鍛錬が重視されているといったような、われわれの通常の理解を超えた、(かつ、禅の思想とは相容れないと思われる)呪術めいた側面も視野に入れないと、少林功夫というものはわからない気がする。

しかし…こんなドキュメンタリーを見てしまうと、禅だとか神力信仰だとか、そんなものはすべて後付けの理論であって、実はどうでもよいのだ、という気持ちもしてくる。肝心なのは自分の努力。そういうことを教えられた気もする。

 

ちなみに、雑誌の文章によると、釈永信方丈が「禅武合一」を提唱したのは1995年のことだという。
時代は少しくだるけれど、ジェット・リーも「太極禅」というものを提唱していたり、慧光居士( 丁江南 )なる人の「禅太極」というのもあって、なんだか言った者勝ち的な、混沌とした感じがしないでもない。

 

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なお、メモの内容と直接関係はないけれど、『功夫少林』は全部で5話(集)。個人的に一番胸が熱くなったのは、第三集で、少林十三槍の陳五経老師が、病床で8年ぶりに自分が昔使った槍を目の前にして、その埃を払いながら、槍に対して語りかけ、涙を流す場面。

この番組、全体的に少し作り込みすぎている気もするけれど、それを割り引いても、とても心に響く内容が多い。全体的にどことなく悲しいトーンだけれど、そのことも、却って修行の道の厳しさを表しているように感じられた。

 

功夫少林 第三集

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