緊那羅王はヘラクレスの末裔である?
宮崎市定「毘沙門天信仰の東漸について」(『中国文明論集』所収)は、毘沙門天の起源を、祆教(ゾロアスター教)のミトラ神ではないかという仮説を示していて、いろいろな意味で興味深かった。
インドの仏教が中央アジアに入り、祆教と接触する過程で、仏教の四天王(四門神)と祆教由来の神様の混交がなされ、もともとインドの土俗神Kuveraがになっていた、北方を守護する役割が、ミトラ神の役割に置き換えられた。ところが、そのミトラ(Mithra)神の「威力が余りに強大なので」、在来の四門神も、すべてミトラによって代表されるようになった。
すなわち、もともとすべてMithraの性格であった、多聞、広目、持国、増長が四天王それぞれに当てはめられ、中国に伝わったと考えるとすっきりするらしい(注)。
これが面白かったので、いろいろ関連する情報を調べていたら、
「ユーラシア大陸にみるブッダの守護神の源流は、アフガニスタンのハッダから出土したギリシャ神像ヘラクレスであった。ヘラクレスはやがて執金剛神へと変身する。」
という、一島正真・大正大学名誉教授の説とぶつかった(大正大学の講義シラバス)。
詳細はよくわからないけれど、「ヘラクレスの持つ、こん棒と執金剛神の持つ金剛杵はともに悪を懲らしめる棒の役目をする」ところあたりがポイントになっているようだ。
もしかしたら単純に美術史的なお話なのかもしれないけれど、仮に、ここでいう執金剛神を、「那羅延執金剛」神と理解してよいのだとすると、つまりこれは少林寺の護法神である「緊那羅」であるということになるから(那羅延執金剛と緊那羅の関係についてはここ)、ギリシャのヘラクレスが中国に至って、少林寺を守る「緊那羅」になったということになる。これは面白い。たぶん、こんな珍説を主張した人はまだ誰もいないのでは?
冒頭の文章に戻ると、中央アジアでも具体的に、于闐国は毘沙門天を守護神としていて、毘沙部とも呼ばれていた。于闐の王伏闍耶(Vijiaya)は漢字では尉遅とも訳され、唐の国初の功臣・尉遅敬徳も「于闐人でありしこと疑いない」という。安録山の乱のとき于闐王尉遅勝が国人五千人を率いて入援し、そのまま唐に留まったことが、毘沙門天の功徳を中国に広める機縁となったという。尉遅敬徳は、中国武術史の教科書の中にも名前が出てくるけれど、民族的な出自を知ることで、武術史の理解がより立体的になる気がする。
このようにして毘沙門天信仰が唐代から盛んになり、宋代になると各地で毘沙門天を祭る天王堂が建てられ、軍営でも天王が祭られたが、元代以降は廃れていった。天王堂は関帝廟に置き換えられ、両者の橋渡しをするような形で道教の玄武神(真武神)が祭られ、玄帝廟が作られることもあったが、関帝廟の関羽にしても、玄武神にしても、相貌的にはいずれも毘沙門天を継承しているところがあるという。
各地で関羽が守護神としてまつられるようになったときに、少林寺では守護神として緊那羅が登場してくることになる。
断片的な資料を無責任につないでいるだけだけれど、こうやって考えるのも面白い。
(注)
未見だけれど、田辺勝美「毘沙門天像の誕生」の紹介によると、同氏は毘沙門天の源流を古代ギリシアのヘルメース神・ローマのメルクリウス神像に遡れると考えているようで、宮崎説とは少し違うようにも思われる。武術史的な関心からはかなり外れるけれど、この本も読んでみると面白いかもしれない。
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毘沙門天像の誕生―シルクロードの東西文化交流 (歴史文化ライブラリー)
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