中国武術雑記帳 by zigzagmax

当世中国武術事情、中国武術史、体育史やその周辺に関する極私的備忘録・妄想と頭の体操 ※2015年2月、はてなダイアリーより移行

葉雲表、梁漱溟、杜心五など 郷村建設と武術

詳細はまだ確認できていないものの、以前にメモしたように中華武士会の初代会長・葉雲表は、1930年代には山東で梁漱溟の郷村建設理論に基づいて鄒平県に作られた実験区の活動にかかわっていたらしい。

 

〇関連のメモ

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この点について、なにか情報がないかと思って梁漱溟について調べてみたら、梁漱溟も1911年に北京で同盟会の京津支部に加入していることがわかった。1930年代の山東の郷村建設の現場において、あるいはそこに到る過程において、両者の間に連絡があったのかどうかはわからないけれど、葉雲表が山東の郷村建設に加わったことには、もしかしたらいろいろな背景があるのかもしれない。

 

たとえば、天津中華武士会が1911年に設立準備大会を開いたのは三条石の直隷自治研究所であったし、葉雲表と同じく同盟会員として天津中華武士会の設立にかかわった馬鳳図も辛亥革命後に東北で中学・小学校の教師に任じた際、現状に不満をいだく知識分子を集めて「新村運動」を発起したと書いている資料もある(注)。

 

(注)

『中央国術館史』の馬鳳図の紹介には「辛亥革命后,因参与反袁世凯恢复帝制活动而遭迫害,远走关东。在东北任中小学教师,曾联合不满现实的知识分子发起“新村运动”。」とある。ただし、馬鳳図の東北行きに関して、このような説明をしている資料はほかにあまり見かけず、このとおり信頼してよいかは疑問も。

 

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梁漱溟は、孫禄堂の『拳意述真』の再版に序文を寄せていることもわかった。「毎日頭條」の記事から、その内容(このメモの最後に引用)を見てみると、その序文の中で彼は、西洋の体育は「技」の次元にとどまっているのに対して、中国固有の身体技法、とくに道家の技法(内家拳もこれに含まれる)は「道」のレベルに至っていると高く評価しているのだけれど、すなおに読むと、孫禄堂よりも、旧知の杜心五(この序文の数年前になくなっている)を「内家拳」の大家として称賛する、奇妙な文章になっているのがおかしい。

 

杜心五と梁漱溟の交流は、この序文によると1919年、お互いに北京に住んでいたころからのことらしいけれど、ともに古参の同盟会員であるだけでなく、帝国大学の農学科で学び、帰国後は河南彰徳府農商直属第二農事試験場会弁(副場長に相当)、北京の農事伝習所(のちの農業大学)気象学教授、民国政府農林部僉事等をつとめた杜心五は、梁漱溟にとって農村からの社会改革を目指した偉大な先達でもあったのかもしれない。(ただし、梁漱溟が農村改革を構想した時期については未確認。)

そういえば杜心五の弟子のなかでは萬籟聲は北平の農業大学の学生だ。彼もまた農村からの社会変革を目指し、そのなかに武術も位置付けようとしていたのかもしれない。

 

そう考えてくると、植芝盛平の「武農一如」 の実践との関係も気になる。(出口王仁三郎にとっての植芝盛平を、梁漱溟にとっての杜心五といったら言い過ぎか。)大本教の中国進出と関係があるのかないのかも含めて、この辺も頭の片隅においておきたい。

 

〇関連のニュース

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杜心五については清末に日本に留学した武術関係者の中でもビッグネームにはいるものの、洪幇や青幇の頭目という背景もあるせいか、虚実入り混じった情報が多く、土肥原賢二華北自治政府の主任にしようと接近していたなどというややきな臭い話も含めて、これまで敬して遠ざけていたところもあるけれど、彼について調べることでいろんなことが見えてきそうな気がしてきた。

とりあえず信頼できそうな情報を選び出すところからスタートしてみようかな。

 

〇 「毎日頭條」より、梁漱溟が孫禄堂『拳意述真』の再版によせた序文

重印孙著《拳意述真》序言

中国固有之体育莫善于所谓内家拳者。内家拳概括形意拳八卦拳、太极拳而言,其源本道家而来,一若吾国之传统医药学术,而迥异乎西洋体育运动之所为,亦犹乎中医之迥异于西医。质言之:拳家医家一皆向内体认生命,以道家之学为本;所不同者医家以针灸药饵为病患者驱邪扶正;拳家直从养生修命为自身作功夫。孙著《拳意述真》之可贵,即在其透彻地揭出内家拳实为道家学,有非一般练习拳脚者之所知。惜其书出版早在五六十年前,少见流传,而在古学晦塞之今日,吾尤惧其湮没失传,由是有志为之重印出版。

孙氏此书自有不少缺点。著作体例不佳,且有自乱其体例之处(如在述形意拳中忽杂以八卦拳家之言), 又如刊本错字落字种种错误极多,虽附有刊误表而表出者仅其十之一二,此其缺点之小者。言其大者,凡所征引,偏详于北方之学者,而不及其它。然以中国之大,精于此道者岂止于此?此固由孙氏为北方人,囿于其所见而然,似应在其书中自白所见之未广。

今为此叙言,将述说我所知杜心武先生实与孙氏同为此道中同等高明人物,而杜先生湘西慈利县人,早年阅历多在川黔滇一带,据其所语我者适足以补孙氏见闻所未及。尤其重要的,乃在杜先生所言与孙氏书中之所言,有若符节,互资印证者——请看下文。

兹先述杜先生其人。据我所知,先生名慎槐,字心五,一字心武,世居慈利县某乡,大约生于公元1870 年,卒于1953 年。自幼(八岁)好习武艺,结交名手,竟以此荡其家产。十四岁即在川黔滇一带山区为商旅保镖。以加入哥老帮会颇早,年辈居上海黄金荣、杜月笙之前;暨其老,遂为会中最高领袖。顾不问事,萧然自隐,不为人所瞩目。约当二十岁时走镖遇敌受伤。退休养伤中,颇悔其不自爱惜,习染烟赌嗜好,立志戒断鸦片,弃武习文,曾考中秀才。值科举制度罢,风尚游学外洋,先生亦东渡日本,得毕业于西京帝国大学农科。其时桃源宋教仁方留学在东,彼此有湘西同乡之谊,因而相熟。辛亥革命后组织北京第一届政府,宋出任农林总长,引先生人农林部任职,兼任西郊农事试验场(今之北京动物园即其改建者)农业讲习所事。住家在西直门内酱房大院,如是者多年。迄于1928 年乃随政府迁南京,旅游京沪间。我如何得奉教结交于先生,今不复记忆,约计当是1919 年前后彼此皆住家北京之时。其后我或居粤,或居鲁,每游沪入京辄相会晤谈。上文所谓一次重要谈话,其言与孙著有互资印证者,即在我1928 年秋自粤游沪之时也。

1928 年10 月间,我同友人陈证如(铭枢)自粤旅游京沪间;一日值中央国术馆(所谓国术即拳术武艺,馆长为张之江)举行全国性考试比赛,即偕往一观,且被邀登上主席台。台上孙禄堂氏为裁判长,位居中,其它裁判员数人列坐左右。孙氏身躯似不高,而长髯垂胸,气象甚好。适杜先生及其友文素松(原国民毛命军总部军械处长,曾在广州相识)同在台上,因得把晤。杜先生借寓文家,相约再聚。文家住慕尔鸣路一百八十号,次日我即往访。

先时既知杜先生早已不谈拳术武艺而专志道家功夫,文则又从杜以学道者。我早晨往访,午饭后乃别去,谈话甚多,且颇有见闻,兹分条记之于下:

甲、杜先生谈,他学道功为医治一身宿疾内伤,皆种因于少壮时者。然其所抱人生观既走上好道学仙之路积有数十年矣。

乙、同时暂住文家者尚有一刘老师,则杜先生所从以学道者,据闻是二百岁人,人称刘神仙,时来时去,行踪飘忽无定。我到文家移时乃见其从外来,略不与人搭言,径自就一帆布行军床闭目睡卧。头颅大,身量不高,着一夏布长衫。比其睡熟,文君引我趋视之,揭其长衫,露见肚皮白润柔嫩。文谓其肌肉仿佛乳婴,试用手抚摸果然。午饭之时,同席而坐,彼仍嘿嘿无语,我亦不便向其请教。此殆所谓莫测高深乎?

丙、午饭时,主人为我备有素菜,以我习惯不肉食故。因而引起杜先生谈其不同意见。大意谓佛家之茹素及其静坐法皆于人生非宜。道以自然为宗,凡不自然者皆非也。身命在人如房屋,房屋修不好,将坍塌伤人。道家是“性”、“命”双修的,先修命以为基础;佛家乃遗命而修性者。自古道家以养生为主,杜先生之言固是其代表。

丁、杜先生云:生而为人,自宜善自保养。身体活动莫善于太极拳。孩童少年是好动的,宜诱之学拳,活动贵有其道也。太极拳实是一种养生养气且以养心之术。西洋人所谓体育者卤莽灭裂,每转致伤身。其飞机制造信为卓越,顾于使用飞机之人则遗忘之矣。西洋人未知注意生命之理,将来必败。

戊、杜先生言,拳术之至者通于道。道非它,性命自然之理耳。通于道,可得“神全”。因述其少年时所遇矮师之事。

据云:往昔走镖于滇黔山区间,寄宿旅店,于旅客中遇一老人奇矮。自己方年少,好弄,辄戏耍狎侮之。老人戒曰勿逞能,以若所能者不堪一较量。试相较量,自己每被击中而不得一击老人。于是叩头拜认师尊,请问姓字。老人曰但以矮师称呼我可也。自己内心总不甘服,其后曾伺隙进击者两次,亦均失败。一次值老人俯首就地洗面,从其身后猛然一棒。棒下,面盆碎于地,乃见老人迎面而立,指笑我淘气。一次值老人双手端持一锅炖肉胁持碗筷而行,又从其后猛然一棒,则见老人稳立对面,所奉食具竟无一失。不禁讶问:“难道你老背上还有眼睛么?”老人答云:“何必眼睛才是眼睛。”― 意谓通身全有眼睛之用。行文至此,便可取孙著有互资印证处摘录如次:

(上略)至于忽然有不测之事,虽不见不闻亦能觉而避之。(中略)三派拳术中余知有四人而已。形意拳李洛能先生,八卦举董海川先生,太极拳杨露禅先生、武禹让先生。四位先生皆有不见不闻之知觉,其余诸先生皆是见闻之知觉,如不测之事外来,只要眼见耳闻,无论来者如何疾快,俱能躲闪。(下略)

此所云“虽不见不闻亦能觉而避之”者,非即矮师“何必眼睛才是眼睛”之况乎?

若问无待目睹耳闻何以便得其觉察者,孙著固自有说,读者当就其上下文求之,这里从省不录。

这里接续谈杜先生事,末后提出我的理解。

1929 年初,我离粤北游之时,又得与杜先生相见于南京。其时谈话内容今不记忆。但尔时曾介绍随行之云生颂天向先生求医其脑痛之宿疾。承先生允许,云即留于南京,从学约近一年。先生的修养和言教从颂天近所叙述者约略可见。兹附之于后,备参考。

传说中有关征见先生道功造诣高深之事迹颇多,今述一事

1929 年(或1928 年,待查)在杭州曾举行一次国术比赛表演大会,先生被聘为裁判员。会期一个月,临闭幕时,.群众坚请先生表演,情不可却。先生乃于台上表演步法;起步行走如常人,徐徐为周圈绕行而已。台下众人方哗笑不满意之间,台上忽尔步法展开如飞,迅疾如闪电,不见其身,但见一黑影团团而转。正在台下骇异轰动时,先生在台上则悠然而止,稳立台心,向群众微笑点首,面不改色,气息宛如平常焉。

此一表演,人或赞为绝技,而实非一种技巧。《 庄子》 不云乎“臣之所好者道也,而进乎技矣!" (见《养生主》篇)试问外国体育家赛跑,纵然最快者谁又能达此境地?而且所难者犹不在其快速,而难在气不喘嘘,面不改色。

如我所理解,此一表演盖发动了宇宙生命自然之力,与一般人鼓起劲来快跑者截然两事。人类生命特点在得解放于动物式的本能进人理智生活一路。通常在对外行动时,人以意识拣择和后天习惯来代替自发的本能,同时人身内部生理气血运行则付之植物性神经,不须经过意识。但道家于此,全然翻转来,既在内部生理运行上渗人自觉意识,而可能达于某种的自主自如,而当真形碗在在在夫命动,夭所容心。此时他的身体动作(例如步行)径可接通宇宙生命自然之力(此为动物式本能之所从出而远超过之),不用人为之力,是以他逸而不劳也。

即此一事,可见杜先生于道家之学造诣不浅。顾其深浅次第则非吾侪外行人所及知耳。流俗浅见不相信道家者,宜从此一事有所反省。

行文至此,略可结束。云生颂天所述杜先生的为人修养及其言教附录于后,供参考。

“颂天1929 年随师到南京,首次见杜先生,求为治病。先生当时任职南京,在鼓楼饭店包租一小房间,早出晚归,因而颂天趋侍教言亦多在晚间。小房间内置一靠椅,先生恒独自默坐椅上;有客来,亦坐椅上谈话。白天从不卧床午睡,偶尔于椅上假寐,且以昏睡为戒。先生不主张静坐,其自己如何用功不得而知。但知其不服用任何药物而完全依靠自力。刘神仙赠予一小葫芦内有许多小药丸,谓可有助于用功。先生不用,转而付一必. . . . .自与我服食。先生教我做治病功夫,总是做熟了一点,再往下说给一点。起初的指点,只是教我如何摩擦身上各部位皮肤及肢体如何活动,于其所以然之理不加说明,待习之自悟。据我后来体会,各种摩擦和动作无非为疏通各部位的脉络,松开周身的气路而已。但其中值得特别注意者,摩擦多是要逆生理气机之自然流向运转之。例如一种摩擦是首先用双手从头面而喉,而胸腹,而会阴,往下抹;接着双手从会阴转而向背后而上于腰,而脊背,而颈,而头部。这样往下往上,周而复始,每天可以做多次。经过一段时间之后,又逐渐用意引着气脉照前线路来运转,久之,就不再用意引导,其气亦自然地逆而轮转了。

“如此摩擦功夫只是一种准备工作,其根本着眼乃是男子精气的气化。譬如先疏通渠道以利灌水,水为根本。道家以男子精气为根本。‘顺则生人,逆则成仙,是其恒言。其功夫便是所谓‘炼精化气,炼气化神,者。人在少壮时精气壮盛,若循此作功夫,持之以恒,则元阳日长,阴翁日消,精神体质日进于健全,其却病延年可以无疑。反之,如一般地精满而泄,不免于精损形衰了。此理不难晓,惜乎实践大不易。而道家于其炼精之术亦备极慎重,保密不宣。

“一次先生曾以书面赐教,嘱我功夫务必点点做到家,但又不要着意。书中有? 明明白白往前去,糊糊涂涂度光阴,之语,则似为先生之自道者。按此曰‘明明白白往前去’,是指功夫中默默地清楚自觉而言,其曰‘糊糊涂涂度光阴’,则于身外事不暇多顾,有理乱不闻之概。”

( 1968 年)

https://kknews.cc/culture/4qq3xzg.html

 〇徐悲鴻による素描

 出典:杜心五(清末民初武术家)_百度百科

 〇杜心五の長孫とその一門の動画

 籠のふちを歩く軽功の練習、動画をはじめて見た

 

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