中国武術雑記帳 by zigzagmax

当世中国武術事情、中国武術史、体育史やその周辺に関する極私的備忘録・妄想と頭の体操 。頭の体操なので、たまたま立ち寄られた方は決して鵜呑みにしないこと(これ、肝要)※2015年2月、はてなダイアリーより移行

中華武士会とその周辺の日本関係者

掲題のテーマに関連して直接的、間接的に関係のある人々の情報が少しずつたまってきたような気がする。まだ頭が整理できていないので、注釈を連発してしまっているけれど、とりあえずのメモとして。

 

1.呉汝綸、杜之堂

 呉汝綸は1889年、李鴻章の推薦により当時の河北省の最高学府、保定の蓮池書院の長となる。

 蓮池書院には、宮島大八、中島裁之らが訪れ、それぞれ張廉卿、呉汝綸に師事している。後述の鄧毓怡は蓮池書院で英語と日本語を学んでいるけれど、宮島や中島に教えてもらったのだろうか。

 呉汝綸は1902年、4カ月の日本視察を行っているけれど、このときに門人の杜之堂も来日し、杜之堂は1905年まで早稲田大学で学んでいる。

 杜之堂はのちに中華武士会の張恩綬(後述)に招かれ、李存義口述『五行拳譜』をはじめ中華武士会の教材を編集・記録している。

 

 呉汝綸は日本視察からの帰国後、北京大学の前身・京師大学堂の学長(総教習)になるとともに、北京で再会した中島裁之の北京東文堂設立を支援。

 若干横道にそれるけれど、北京東文学堂で教鞭をとった日本人(日本教習)の表が劉建雲「清末の北京東文学社 ---教育機関としての再検討---」に載っている。

  このなかで、在籍期間はそれぞれ開設当初の三カ月程度ながら、当時陸軍予備役曹長だった武歳熊次郎が体操、慶應義塾出身の倉田敬三が課外活動で柔道を教えたらしい(汪 向栄 著、竹内実監訳『清国お雇い日本人』P.273)。その他、体操教師としては、1906年に着任した斎藤伝寿という人物は、東文堂の経営が行き詰まって中国側に譲渡されてからも留任したようだけれど、『清国お雇い日本人』の1909年時点の日本教習の表では、天津の音楽体操伝習所にやはり体操教師として名前が見える。清国駐屯軍司令部編『北京誌』(1908)の北京東文学社の紹介にも鈴木直人とならんで教員として名前がでている。『北京誌』の紹介によると、同社は専門科(二年)、普通科(三年)のほか、附属として体育会を設けており、「二ヶ月の速成教育を以て体育音楽を教授」していたらしい(同P.264)。

この人物について、いまのところそれ以上の詳しい情報はないけれど、やや気になるところ。

 

〇呉汝綸

 呉汝綸 - Wikipedia

 

〇杜之堂 

 http://wgwushu.com/thread-1564-1-1.html

 天津武林史话(29)文韬武略的杜之堂_搜狐旅游_搜狐网

 

〇蓮池書院を訪れ張廉卿に書を学んだ宮島大八とその家族 

宮島家 - 善隣書院

http://tohhigashi.fc2web.com/miyajima.html

 

〇 呉汝綸と中島裁之、北京東文堂については、汪 向栄 著、竹内実監訳『清国お雇い日本人』が参考になった。

  日本教習の数は多かったが、玉龍混雑、玉石混交であった。人格高尚で人に尊敬されるものもあれば、品行下劣で聞くに耐えず、中国の人士に大きな反感を抱かせるものもいた。東文学社を創設した中島裁之はその著『東文学社紀要』でかなりの紙幅を割いて、こうした醜聞や不良行為を記述している。中島は、日本教習の間で一連の喧嘩や暴力沙汰、甚だしきは日本刀を持ち出しての騒ぎという事実を述べたあと、こういう感慨を漏らしている。「この騒動の始終は、寄宿学生の看観する所にして、甚だ不体裁を極めたり」

 中島はおよそ想像もつかないようなことも記している。たとえば、一部の日本教習に授業ボイコットを扇動し、学校の備品を密売して私服を肥やそうとした者がいたこと、刀剣を振り回して他人を脅迫するものなどである。そして学生たちに「日語は誓って学ばざる可し。かくの如く乱暴なるものの下に学ばば国民は滅びん」とまで言わしめた。この激昂した言葉からも日本教習が劣悪な印象を与えたことが想像される。

 こうした状況に対して、中国人ばかりでなく、日本人、そして日本教習自身もこれに対して強烈な不満を表明している。・・・ P.149 

清国お雇い日本人

清国お雇い日本人

 

 

2.葉雲表

叶云表

出典:http://his.tsingming.com/yeyunbiao/

 同盟会員で中華武士会の初代会長。

 山口高等商業学校に学んでおり、同校に明治42(1909)年から43(1910)年在籍の清国留学生部予科37人の中に名前が見える(注1)。

 

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 留学先が山口というのがやや意外な気がしたけれど、「说说中华武士会会长叶云表_朗照八极_新浪博客」によると、葉雲表が山口に留学したのは、葉と同じく白洋橋村の鄧家学館で学んだあと蓮池書院に進み、初代の公費留学生として法政大学に留学した梁建章のつてをたどってのことであるという。上述の北京東文堂にはごく短期間ながら、のち山口高等商業学校の教授になる西山栄久が含まれているのもなにか縁があるのかもしれない(注2)。

 明治末期に東京につづき神戸(1902)、山口(1905)、長崎(1905)などに設立される高等商業学校のなかでも留学生の数は山口が飛びぬけて多かったようで、1907年から1911年までに東京、神戸、山口、長崎の高等商業学校が受け入れた留学生の数は、それぞれ41、7、114、31となっている(注3)。

 鄧家学館出身の日本関係者は、ほかにも天津武備学堂から陸軍士官学校に留学した張紹増(張紹曽)、梁建章の紹介で蓮池書院で学び、のち早稲田大学に留学した鄧毓怡(後述)がいるらしい。 

 中華武士会の設立にかかわり、初代会長に任じたあとの葉雲表の足取りについて詳しいことはわからないけれど(注4)、1914年には郝恩光を伴って再び来日し(注5)、中華武士会の東京分会を設立したことになっている。さらに中央工商会議代表、1918年8月には国会衆議院議員に選出されたという。

 1930年代には梁漱溟の郷村建設運動にかかわったり、山東省国術館の設立準備にも携わったと書いているものもあるけれど、山東省国術館との関わりの詳細は未確認(注6)。

 

(注1) 

国会図書館の『山口高等商業学校一覧. 明治42,43年』より。この資料については、

片桐陽先生の示唆による。

国立国会図書館デジタルコレクション - 山口高等商業学校一覧. 明治42,43年

(注2)

『清国お雇い日本人』の1909年時点の「日本教習分布表」では、西山栄久の名前は安徽省安慶の安徽師範学堂に見える。

(注3)

ただし、どの学校においても、卒業まで至った学生は少数であったらしい。

この部分は、王嵐、船寄俊雄「清末における商業系留学生の派遣政策と派遣実態に関する研究」を参照した。

(注4)

 中華人民共和国政治協商会議天津市委員会文史資料委員会編『近代天津武術家』所収の張振発「李式太極拳創始人李瑞東」によると、葉雲表が中華武士会の会長に任じていたのは1912年9月8日からわずか数日。その後、「時局の突然の変化などの理由(原文は「時局突変等原因)」により天津を去ることを余儀なくされ、幹事の身分は残しながら会長を李瑞東に譲ったという(P.72)。時局の突然の変化とは、革命の成果が袁世凱によってかすめとられ、革命勢力の切り崩しが図られたことと関係があるのだろうか。葉雲表や、同じく同盟会員の馬鳳図も、は1912年10月15日華新印刷局が刊行した『国民党燕支部党員録』に名前があるようなので、天津を離れざるをえなくなったというのは、理解できなくもない。

なお、葉雲表の後を継いだ李瑞東は1915年の年初まで会長に任じている。その次の会長は後述の張恩綬。張恩綬の次の卞月庭は当時の天津商会会長で、会長在職はわずか1カ月だけれど、霍元甲の霍家とも繋がりがあり、秘踪拳をやる人とも。

 

〇張振発「李式太極拳創始人李瑞東」より

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〇『国民党燕支部党員録』(1912年10月15日刊行)の表紙と、葉雲表の掲載ページ。

出典:说说中华武士会会长叶云表_朗照八极_新浪博客

 楊祥全『津門武術』は、『天津河北文史』第28輯所収の張俊英「辛亥革命与天津中山路」によりつつ、この名簿に馬鳳図(紹介者は李啓祥と牛楷、職業は「高等商業」 年齢は数え年で25)の記載があることを記している(P.45の注②)。ぜひ実物を確認できたらと思う。

 

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(注5)

 郝恩光は日本で中華武士会の日本支部を作ったことになっているけれど、その説の根拠になる史料は見たことがないので、いまのところ、せいぜい日本留学生のあいだで多少の影響力があった程度のものと考えざるをえない。徐皓峰 徐駿峰著 韓瑜口述『武人琴音』によると、郝恩光は日本で何度か腕比べをしたり、日本武道家の入門希望に応じず、逆に恨みを買ったかのような記述があり、「他在日本是名人」とあるけれど、これについてもその根拠は不明。この本は、李書文の晩年を「下落不明」(P.50 )などとしており、適当としか思えないところもあるので注意が必要。

(注6)

葉雲表の経歴については以下のブログ記事に詳しい。

说说中华武士会会长叶云表_朗照八极_新浪博客

中华武士会首任会长——大城人叶云表_朗照八极_新浪博客

 

〇山口高等商業学校についての参考情報 

山口高等商業学校成立

 

3.鄧毓怡

 上記のとおり、法政大学で学んだ梁建章の紹介で呉汝綸の蓮池書院に進むが、義和団事件が起こり、「洋人」に英語や日本語を学んでいた彼は退学を余儀なくされる。

 1901年、呉汝綸が北京で報社(のち華北譯書局と改名)を設立すると、編集を補佐するが、1903年早稲田大学に留学し、1904年帰国。帰国後は啓智学堂、自強女子学堂などを創設。科挙が廃止され、北洋政府が天津に北洋法政専門学堂、北洋女子師範学堂を設立すると、鄧毓怡は啓智学堂などの運営の経験が買われて教員に招かれるとともに、北洋法政専門学堂では「斎務長」(学長)に任じる。 

 その後任が同じ早稲田留学組の張恩綬ということになるのか?

 

〇 鄧毓怡

 

4.張恩綬

 河北省深県出身。保定大学堂から選抜されて1904年に日本留学、経緯学堂普通科を経て早稲田大学政治経済科に進学。深州市人民政府の記事によると、1910年7月に卒業して帰国とあるけれど、楊祥全『津門武術』では1909年には形意拳家の李存義、劉殿琛(文華)の推進のもと、張恩綬と実業家でもと武進士の杜暁峰が深県の同郷籍の退役軍人の同郷組織「軍人会」(同じく李存義が張占魁、李瑞東らと1911年に設立した「中華武術会」とともに、中華武士会の前身とされる)を作ったとしており(P.26)、このへんは情報が少し錯綜している。

 それはともかく、帰国後に任じた北洋法政専門学校では教員、教務主任を経て校長を務め、形意拳家の劉殿琛を招く。劉文華は中華武士会の北京の支部にあたる尚武学社、清華大学でも指導している。

 

 张恩绶-深州市人民政府网站

  

出典:张恩绶生平简介_杜香五_新浪博客

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5. 劉殿琛『形意拳術抉微』の序文

 劉殿琛の著書『形意拳術抉微』には斉樹楷、高步瀛、王道元、江壽祺、張恩綬の5人の序文が寄せられている。プロフィールがよくわからない王道元を除くと、それぞれ以下のとおり日本との接点がある。それぞれの序文のなかにも日本の武士道を意識した語が並んでいることに改めて気づかされる。

brennantranslation.wordpress.com

・斉樹楷

早稲田大学留学経験者で、意拳の故・佐藤聖二先生がブログで書かれていた顔李学派の思想を学ぶ四存学会の設立者の一人。

 齐树楷 - 维基百科,自由的百科全书
・高步瀛

 弘文学院に留学。呉汝綸の門人。

 高步瀛_百度百科

・江壽祺

1906年設立の陸軍大学の卒業生で、日本人を教官とする「兵学研究会」を作って陸軍大学の教官を育成。

 江是安徽潜山人,也是黎元洪的老下属,旧学颇有根基,但对陆大的教育并无多大贡献,仅仅创设了一个兵学研究会。该会为培养中国籍教官而设,挑选本校前三期优秀毕业生入会学习,由日籍教官指导。学员在该会学习半年之后,即在本校充任兵学助教,试任半年合格后,充任兵学教官。该合的创设,开创了陆大教育史上中国教官和外国教官并用的新时期。

陆军大学_互动百科

・張恩綬

 上述のとおり。

 

2021年8月21日

注(5)を追加。

もとの注(5)を注(6)に修正。