ベルリンオリンピックの国術代表団については、いちど寇運興についてメモしたけれど、少しずつ情報が集まってきたので、ここらで一度メモしておきたい。
まずはこの動画。3年ほど前に、FB上で発見して、こんな動画が残っていたのかと度肝を抜かれた。長らく、演武者の顔と名前が一致しなかったのだけれど、張文広の自伝『我的武術生涯』に主要メンバーの演目(メンバー選考後に決められた演目)が載っていた。
映像にでてくる順番から、
対擒拿 温敬銘と張文広
単刀槍 鄭懐賢と寇運興
双刀槍 鄭懐賢と張文広
空手進槍 温敬銘と張文広
で間違いないと思う(注)。
張文広『我的武術生涯』は、メンバー選抜の経緯なども詳しく語られていて興味深かった。中央国術館から参加したメンバー以外の演目を詳しく記している一方でそれ以外のメンバーの演目については、以下省略、とされていて、扱いがちょっと低いようにも感じられた。このあたり、自分たちは中央国術館から選抜されたエリートなんだというプライドが垣間見える気もする。
(注)その後、「武術文史」のFBページに掲載された、7月25日の万国拳術表演台における表演内容をみると、単刀槍は寇運興と劉玉華のペアというのが正しいように思えてきた。
ただし、冒頭の二人の拳術については、記事にあるように傅淑雲と劉玉華の「対拳」なのか、自伝にあるように温敬銘と張文広の「対擒拿 」なのか、やや判然としない。
なお、張文広『我的武術生涯』は7月25日の演武についての詳しい記述はなく、その2日後の7月27日の華僑学生による歓迎会の演武について思い出が記されている。
(この部分、2017年9月25日追記)
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この写真も、中央の女性3人は右から傅淑雲、劉玉華、翟漣源でよいとして、男性は右から温敬銘、鄭懐賢、一人おいて張文広、一人おいて寇運興、そのとなりが(ここだけやや自信ありませんが)張爾鼎、金石生(金麗貴)だと思われる。
出典:民國往事第一上電視的奧運會,1936年第十一屆柏林奧運會中國代表團The first on televis_台灣精武體育會_新浪博客
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女性三人の中で、傅淑雲、劉玉華ほどには取り上げられることのない翟漣源(上の写真では一番左)は河南大学で武術を教えていたらしい。
出典:王広西『中国功夫』
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金石生(上の写真では、劉玉華と翟漣源の間の人物)は、以下の記事の内容が正しければ、ベルリンオリンピックに参加した頃は本名の金麗貴を名乗っていたのかな。帰国後は西安で黄埔軍校西安分校、警察学校などで武術を教えていたらしい。新中国建国後は1979年の観摩交流大会で一等賞を得るまで、ごく普通の労働者として過ごしていた模様。
出典:金丽贵【武术技击家】
出典:http://www.shaomoquan.com/ArticleShow.asp?ArticleID=92
金石生がごく普通の労働者として帰国後の長い時間をすごしたように、メンバーの帰国後の人生は順調であったとは決して言えなさそう。
国民党時代のエリートであること、旧文化の代表である武術(国術)界のエリートであること、女性三人のうち少なくとも大陸に残った二人については、女性であることなど、さまざまな理由が折り重なってそれぞれに大変な苦労を重ねている。劉玉華などは、もう二度と武術はやらない、と何度も決意しては、武術の世界に舞い戻るということを繰り返していることが、寇運興の項でメモした動画や、雑誌『中華武術』1999年第9期のピンナップ記事から伺える。張文広の自伝にも、文革時代の苦労が一人称で綴られていた。この本は、イスラム寺院で武術を習い始めた幼少期から中央国術館、ベルリンオリンピック、中華人民協和国建国初期の武術政策の模索、文化大革命、改革開放後を経た武術の歩みが一人称で語られつつ、さらに二哥と慕う温敬銘や家族への親愛の情なども綴られたとても貴重な本だと思う。(ちなみに、温敬銘を二哥と言うとき、大哥は鄭懐賢、三番目が張文広で四番目は李錫恩。それぞれ四川(成都体育学院)、湖北(武漢体育学院)、北京(北京体育学院)、上海(復旦大学)に分かれて中華人民共和国の武術運動を支えている。)
劉玉華の半生を紹介した雑誌『中華武術』1999年第9期のピンナップ記事。雑誌本体は捨ててしまったけれど、これは永久保存もの。
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ほとんど情報が得られていない張爾鼎については、引き続き頭の片隅に置いておこう。
〇関連メモ