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中国武術雑記帳 by zigzagmax

当世中国武術事情、中国武術史、体育史やその周辺に関する極私的備忘録・妄想と頭の体操 ※2015年2月、はてなダイアリーより移行

焦作猿仙通背拳

you tubeでたまたま見つけた動画。
6分15秒くらいのところから、はじまる型が、陳式太極拳にそっくりなのが面白いと思ったのでとりあえずメモ。動画の後半では動作の解説をしているけれど、「懶扎衣」、「金剛搗碓」などと言っているようにも聞こえる。

この拳法、動画で紹介されている由来によれば、もともとは焦作固有の拳法ではないらしく、洛陽の人・董成が明の萬暦年間に許氏(名前は不明)に伝え、この許氏一族の許秀文、許秀武が一族とともに清乾隆年間に河南省焦作市高窯河村へ移住し、以来ここが(白)猿仙通背拳の第二の故郷になったのだという。

もう少し詳しい説明は、百度などの猿仙通背拳の項目にも出ている。(この拳法、焦作市の非物質文化遺産に認定されているようだけれど、中国文化部の「非物質文化」のウェブサイトには記載がなく、民間(?)で運営している福客網というデータベースには記載があった。ただし、ここの記載は北京の牛街の白猿通背拳になってしまっていて、参考にならない。)それによると、猿仙通背拳(猿拳とも称される)は北宋時代に、浄影寺の僧侶が鍛練していたもので、少林寺との僧侶の往来によって南宋時期に少林寺にこの拳法が伝えられ、少林寺においては大悲拳とともに門外不出の秘密拳種にされたのだという。紹興四年(1134年)初版、咸豊六年重版の「少林寺拳棍刀槍譜」に記載があるというけれど、その書籍については未確認。ただし、第十代の李培均老師が所蔵する拳譜の出版にあたり、少林寺の釈永信方丈が「少林真伝」と題字した、という記述もある。(この書籍については未確認。)
この李培均老師がいつの時代の人なのか、いまも生きているのか、などは不明。冒頭のyou tubeの動画の許瑋戰老師は 第15代になっているけど、同時代の人なのかどうかも不詳。

話は少しそれるけれど、通背拳ということでいうと、于志鈞は『太極拳史』のなかで、陳家溝の長拳はずばり山西省洪洞通背拳と同じである、としている。于志鈞はまた、黄百家『学箕初稿』「王征南先生伝」の内家拳一路の歌訣にある「佑神通臂最為高」の「通臂」は「通臂拳」すなわち「通背拳」をさすといい、呉図南が『国術概論』で紹介した張策の通背拳の拳譜と陳家溝の長拳、王征南の内家拳の勢名を比較しつつ、やはり陳家溝の長拳とは通背拳通臂拳)である、としている。

一口に通背拳といってもいろいろな種類があるし、洪洞通背拳と猿仙通背拳の関係もよくわからないけれど、
猿仙通背拳が「少林真伝」であり、なおかつこの動画に見るように太極拳とよく似ているものだとしたら、いわゆる内家拳外家拳の間に、巷で言われているような本質的な違いがあるのかどうか、見直しが必要かもしれない。(この点に関して、于志鈞は、ある武術が太極拳であるか否かを判断するのは、内家拳の王宗岳の太極拳論に基づいているかどうかが判断基準であり、どのような「拳架」を採用しているかは関係ない、という趣旨のことを書いている。)
なお、焦作から見て、洛陽は南西、洪洞県(臨汾市)は北西方向に位置する。焦作から臨汾市の方向へは、太行山の南端が横たわっている。陳家溝のある温県も焦作に属するけれど、洪洞県の大槐樹を出た人々は、どういうルートを辿ったのだろう。

移民の話、冒頭の動画の最初に紹介されている、同じく焦作市の非物質文化遺産である「月山八極拳」、洪洞通背拳マントラを唱えながら拳を練る「大悲拳」についても掘り下げたいところだけれど、とりあえずここまで。
「大槐樹」からの移民を扱った連続ドラマがあるみたいなので、とりあえずメモとして第一話を貼り付けておこう。