中国武術雑記帳 by zigzagmax

当世中国武術事情、中国武術史、体育史やその周辺に関する極私的備忘録・妄想と頭の体操 ※2015年2月、はてなダイアリーより移行

「鉄羅漢」張長発

前回、朱国福について調べていて、『中国武術人名辞典』の朱国福の項に、12歳から馬玉堂について形意拳を学ぶ前に張長発に少林羅漢門拳術を学んだ、と出ていたので、その張長発について調べてみた。

張長発は「鉄羅漢」の異名をもち、程廷華に八卦掌を学び、その後、楊家禎、劉殿琛に形意拳を学んだ人だということはわかったけれど、あまり少林羅漢門とは関係がなさそうだった。もしかすると、「鉄羅漢」という異名から、少林羅漢門の人ということになってしまったのだろうか。ちょっと見ただけでも不確実な情報が詰まっていることがわかる『中国武術人名事典』なら、そのぐらいの間違いがあってもおかしくないと思えてしまう(注)。

 

張長発と朱国福の関係については、前回もメモした「形意魂」の記事に、「因马玉堂与铁罗汉张占魁情谊深厚,朱也拜张占魁为师学习八卦掌等拳术。」とある「鉄羅漢張占魁」が「張長発」の誤りだと考えれば腑に落ちる。

 

(注)

ただし、朱国福の娘の朱慶霞も、2012年の峨眉武術シンポジウムで、(ただ単に世間の評判をそのまま受け入れて述べただけかもしれないけれど)朱国福は1902年に張長発に羅漢拳を学んだと述べている模様。(【纪念会专文】朱庆霞:我的家人

 

 〇左から王継武、馬玉堂、張長発

  出典:捜狗の張長発のページ 

  http://baike.sogou.com/v235574.htm

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張長発の経歴の細部については、まだよくわからない点も多いけれど、とても興味深いものがあると思ったので、いくつかの記事の中から主な経歴をメモしておくと以下のとおり。

 

 ・もとの姓は「田」で生まれは定興県界河鋪村。家が貧しかったために、三才の頃、新城県巨水営村の張家に引き取られて張長発と名乗ることに。(朱氏兄弟の本籍も河北省新城県なので、ここにも両者の接点がある。)

 ・道端で泣いていたところを(一説では、張家では虐待され、河に身を投げて死のうと思っていたところを)、北京から商売に来ていた印刻の楊宝斎に助けられ、北京にゆき、篆刻を学ぶ。

 ・楊宝斎の刻字鋪の近くに国術館があり、訓練をのぞき見しているところを見とがめられ、とっさの言い訳で弟子になりたかったのだといい、これが幸いして入門が認められる。入門が認められたのは八卦掌の程廷華で、三年にわたり学ぶ。

 ・三年後、程廷華の口利きで某王府の用心棒になる。

 ・義和団事件程廷華は落命)後、河北の実家に戻り、農業に従事しつつ、新城県の形意拳家の楊家禎に学ぶ。

  (この間、神弾子李五の弟子の魏占奎から弾弓、黄三太の後継者から軽功を学んだとされる。武侠小説『三侠剣』の登場人物に黄三泰(太)というのがいるようだけど、それとは別なのかな?)

 ・1920年(1910年とも) 保定師範大学の国術教師に招かれる。深県に形意拳家の劉奇蘭がいることを知って訪れ、認められるが高齢のため三子の劉殿琛(文華)から教えを受ける。

 ※このあと、具体的な時期は未確認ながら、劉文華の紹介で山西の閻錫山軍営の国術団営長に任じ、短期間で離任したあと清華大学国術老師に任じた模様

 ・1929年 河北省省長から史家陳区長を委任される。

 ・1930年 北京師範大学国術老師、清華大学国術老師等に任じる。

 ・(9.18後ということなので1931年以後)張作霖府の武術教師となり、張学良、張学思、張学明らに武術を教える。張作霖の死後は再び実家に戻る。

 この後の動きはあまりよくわからないけれど、日本占領地域で不本意に協力させられながら、地下活動者を助けていたというような記述も。

 

 ・中華人民共和国成立後は、80歳近い高齢ながら、県の政治協商会議委員に選出されるが、のち文化大革命に到り「富農」のレッテルを貼られて批判され、1965年に絶食して死に至る。享年91歳。

 

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幼い頃の出来事から、晩年まで、なんとも波乱に満ちた人生であることに驚かされる。

晩年が文化大革命の時期にあたったせいか、家族のもとには張長発の遺品はほとんど残っていないらしい。ご先祖様についての記録を纏めたいと、すでに高齢の娘をはじめ親族一同がスポンサー集めのために出演した地元テレビ番組の動画がある。

張長発の娘で出演当時88歳の張玉梅が、手をかそうとする家族の手を振り切って立ちあがり演じる形意拳は見事。

  

 〇張長発の娘・張玉梅をはじめ子孫たちが出演したテレビ番組(動画あり)
www.baguaxing.com

 

以下は比較的まとまった情報が得られるページのリンク。互いに矛盾するような内容も一部あり、読み取りには注意が必要。

人物について調べていて不満に思うのは、ある武術家が何かの役職についたとして、離任時期について書いてあるものがほとんどないこと。今回の例でも、1920年に保定師範の国術教師に任じたとして、いつ離任したのか、清華大学でも教えたとして、いつからいつまでなのか、などよくわからない。戦争や内乱の時代でもあるし、気に入らなくなったら辞めちゃうとか、田舎に帰っちゃうという世界なのかもしれない。

 

 〇搜狗百科の張長発のページ 

baike.sogou.com

〇程廷華に師事したとき、程は70歳ちかかったとか、脚色が多い(1848年生まれ、義和団事件のとき1900年になくなったとして、せいぜい52歳。3年にわたって学んだのだとしたら、出会ったときはまだ40代のはず)けれど、読み物としては面白い

jiyi.chnart.com

 

www.ok-v.com

 

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ちなみに、張長発のもとの生まれである定興県は中華武士会の「定興三李」が出たことでも有名。

 最近、SNSデューク大学にあるSidney D. Gamble という人の写真コレクションについての情報が流れてきたので、調べてみたら、ほんの一部ながら、武術の写真も含まれていた。撮影場所は河北省定県(いまの定州市)と書かれていて、一瞬、張長発の出身地(定興県)と勘違いしたけれど、定県と定興県は別なのでぬか喜びだった。 ただ、このコレクションには、武術以外にも人物とか神像とか、興味深い写真がいっぱい。

王樹田の祖籍も定興県で、彼が師事した朱国福は「表兄」にあたる。 

 

デューク大学のSidney D. Gambleコレクションから

撮影場所は定県とされる武術の写真

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Martial Arts — 武术 (630-3682) - Sidney D. Gamble Photographs - Duke Libraries

 

〇一番上の写真の馬玉堂の子・馬元基の動画

v.qq.com

v.qq.com

〇同じく一番上の写真の王継武の「大弟子」張宝

www.youtube.com

 

1923年の中西対抗ボクシング競技、朱家四虎など

1.1923年の中西対抗ボクシング競技

先日、1943年の国術とボクシングの対抗戦についてメモしたけれど、中西対抗ボクシングの競技で一番はじめに勝ったのは朱国福だといわれている(注1)。

時期は1923年8月22日。翌23日の「申報」の記事に、「中華体育会会員」で33歳の朱国福が4ラウンド終了後判定でロシア人ボクサーに勝利したことが記されているようで、記事の現物は確認できていないものの、朱梅玲(朱国福の弟・朱国禎の三女)が、後年(1990年)台湾の周剣南に送った手紙のなかで、「申報」1923年8月12日の記事を以下引用のように抄録している。

引用の最後に「此则为竞武场创办以来,华人打败外人之第一次也」とあり、この試合は中国人がはじめて外国人に勝った試合であることが窺える。

 

〇朱梅玲 「台北之行---記武術史学家周剣南」より

中华体育会会员朱国福战败俄人

前晚,本埠狂风如吼,飞沙走石,竺以电线失事,致公共租界及法租界,黯然无光者,压两时许,电灯复亮。坐客华人居十之八,是可见国人关心体育之好现象。其又一原因,或由首次角斗,华人均为失败,国人心觉不平,心欲目视当场华人能战胜外人以为快。是晚角斗共计七次,第一次,为俄人与俄人比赛,至第三回合,始分胜负。……第四次,为华人与俄人比赛,此场实为前晚台上最有精彩之一幕。华人名朱国福,直隶人,年三十三岁,系中华体育会会员。记者方见其向该场经理报名时,貌极温雅,面色清瘦,衣着纱衫,长几及地。记者询经理曰,斯人亦欲上台比赛乎?渠应曰然。朱君身体重量,仅一百二十八磅,然自愿同一身重一百六十磅之俄人角斗。继见俄人登场,躯格魁梧,较朱君约高五六寸。座客均为朱君担心,恐非俄人敌手也。……朱君于中国参术,本有艮底,似于此种拳术,亦稍加研究,其举拳及身体姿势,亦颇合法,两人相角。第一回告終时, 不分上下;迨第二回合开始,朱攻势灵猛,然终以敌手身高臂长,不易着其面部;至第三四回合,双方角斗愈增。俄人已渐渐不支,只有招架之力,朱君则精神抖擞,拳势更急,俄人面部胸部,着拳继续不止,步骤已乱,显然欲倒。而钟声锵然,赛时告终。公证人以朱君身量较轻,拳打中敌手次数甚多,故宣告朱君胜利,此则为竞武场创办以来,华人打败外人之第一次也……

申报(上海)1923年8月12日 【中华民国12年】

台北之行——记武术史学家周剑南 ——中国武术在线 人物访谈

 

この試合について、ロシア人はダウンして立ちあがることができなかったと書いている記事がある。たとえば、鄭光路の「北方武术精英入川传艺 」成都晩報2013年10月28日)には、「在第四回合,把比他重20余公斤的裴益哈伯尔打倒不起,观众欢声雷动」とでている。また「形意魂」の作者不詳の記事「形意宗師朱国福」でも「在几个回合内一举击倒裴依哈伯尔」とあり、試合も4ラウンドではなく6ラウンドだったと読めるけれど、朱梅玲が書き写した「申報」の記事が正確だとすれば、相手は倒れる前にゴングに救われていて、ダウンはしておらず、体重差と手数を考慮しての判定勝ちであったとしか読めない。

ただし、朱梅玲の引用の正確さには疑問もある。たとえば、「中華体育会」という語が出てくるけれど、中華体育会の設立は1935年ではないかと思われ、本来の記事には朱自身が1915年に設立した上海武学会と書いてあったのではないかという気もする。(1935年の中華体育会設立時の写真はここ。)

引用が正確かどうかは、関西大学の申報データベースなどで現物を見ることができれば、確認できるだろう。いずれにしても、朱国福が試合に勝利したことには違いない。

 

(注1)

もとの記事が何なのかわからないけれど、百度をはじめ多くのネット記事で、「朱国福は正規の新聞において、公開の場で外国の武人を打ち破ったことを報じられた最初の中国武術家」(「 朱国福先生是第一个有正规报纸报道,打败公开设坛的外国武人的中国武术家」)であると紹介されていることによる。

 

2.朱国福

それで朱国福について調べてみると、形意拳家の馬玉堂に師事した人で、1928年の第一届国術国考では15人の「再優等」の中でもトップに挙げられ(注2)、翌29年には中央国術館教務主任に任じ、形意拳とともにボクシング(拳撃)を教えたらしい。1932年には、ここのところ注目している湖南省に招かれ鳳凰34師軍訓所少将副所長、1935年には湖南省国術館教務長兼総教官に任じている(上掲鄭光路の記事)。1936年には四川省主席の劉湘に招かれて重慶国術館(首都が重慶に移転すると陪都国術館と改称)を組織して副館長に任じ、1947年から重慶大学でも武術を教えはじめ、中華人民共和国成立後も引き続き重慶大学で武術を教えるとともに、中国武術協会委員、重慶市武術協会主席に任じている。最晩年は、文化大革命の中で勤務先の重慶大学の入り口に「打倒国民党少将朱国福」という標語を掲げられるなど、政治迫害を受けるなかで、中風が原因で亡くなっている。

ロシア人ボクサーとの試合に勝ったことや中央国術館でボクシングを教えたこと、さらに世界ではじめて(未確認)ボクシングの女子チームを組織したことなどから、中国のボクシングの父(中国拳撃之父)と呼ばれているけれど、誰から、どういう経緯でボクシングを修得したのかはいまひとつよくわからない。

上掲『形意魂』サイトの「形意宗師朱国福」の記述は、彼が1915年に上海に来たあと、はじめは中国語を解するが性格にやや問題のあるフランス人教師、ついでイギリス人教師に学び、上記のとおり自ら設立した上海武学会の会員とともに稽古をしたこと、1923年に弟の国禄を呼び寄せてからはスパーリングのパートナーをさせたこと、男女のチームを作って、休日には競技とパフォーマンスを行っていたことなどが伺える。

那时的上海,随着大批法国人的进入,拳击运动也被带入中国,在上海滩经常有拳击表演。朱国福常去观看,由此被吸引而喜欢上了拳击。朱国福认为拳击无花架子,动作简单,技术简捷,易于传授和学习,更适合大众推广。就托人找到上海一位有名的法国拳击教师,其人懂点中国话。朱跟其学习拳击,那位法国人很高傲,非常自负,教授拳击时经常取笑中国武术是花架子,实战没用。朱国福有次实在听不下去,要求不戴套与法国人随便试一下,自已也不用腿击。法人身材高大,觉得朱的要求好笑,两人一动手,朱的手就插到法人喉咙,法人不服,第二次试,也是如此。法人大骇,觉得无脸再教授朱拳击,便辞去不来。朱国福后来只好又托人找了位英国拳击手才系统的学习了拳击
朱国福掌握拳击后,结合形意和八卦的技击特点,教授上海武学会的学员们练习拳击。当时拳击手套国内还不能生产,全靠进口,价格十分昂贵,那个时候,几乎一个星期就要打烂一副拳套。朱国福功力惊人,和学生们练习时,只好朱国福先生戴上拳套,别的学生都是徒手,学生们有时一闻到拳套的味道就两腿发抖。除了拳击外,朱国福还在武学会教习形意、摔跤,枪术等多种技艺,朱国福先生在教授弟子时,总是身体力行,据当年弟子回忆,当时打拳斗,每天几个小时;用数丈长的毛竹装上铁砂练习劲力和形意枪术,一直要练到精疲力尽才歇手。练习摔跤的跤衣也是差不多两个星期就要抓烂一套。

【中略】
1923年,朱国福把二弟朱国禄叫到上海,传授形意拳和拳击,并让朱国禄做拳击陪练。同年,在黄焕南的大力支持下,朱国福在基督教青年会的楼顶成立了中国第一支拳击队,分成男女两队,平时训练,节假日在上海大世界举行商业拳击比赛和表演。

http://www.xingyihun.com/a/pics/2010/0904/159_4.html

 

さらに探すと、百度百科の朱国祥(一番下の弟)の紹介では、1923年のボクシングの試合のあと、フィリピンからボクサーを招いて兄弟四人ではじめて系統的にボクシングを学んだと記されている。この部分は、上記の「形意宗師朱国福」の情報とも符合して、結構重要だと思うけれど、どのような人物に、どのような訓練を、どのくらいの期間にわたって学んだのかなど、詳細は不明(注3)。

 

1923年8月,长兄国福先生在上海经签定生死协议,并由名律师史良等公证后,按拳击规则以形意拳击败俄国拳击家Beby Hubuer(见1923年8月13日上海《申报》、《新晚报》等)。经此次生死激斗,国福先生了解到西洋拳击之实际战斗力,不久即专聘一名菲律宾职业拳击家教授兄弟四人练习拳击,先生遂接受正规之拳击训练。

https://baike.baidu.com/item/%E6%9C%B1%E5%9B%BD%E7%A5%A5/91046

 

ちなみに、朱国福が重慶に伝えた河北派の形意拳は李毅立、呉成忠、朱澤富らによって伝えられ、いまに至っているらしい。重慶形意拳は、朱国福の系統のもののほかに、張応人の流れ、馬振牮の流れのものがある模様(張又均「重慶形意拳伝承与発展思考)。いずれも中央国術館の関係者が伝えたものであり、臨時首都であった歴史が窺える。

〇朱国福 網絡孔子学院のサイトより

出典:http://kungfu.chinesecio.com/article/2009-08/22/content_8511.htm

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なお、晩年は不遇だった朱国福だけれど、娘の朱慶霞が重慶大学を訪れていたり、四川省で朱氏兄弟を偲ぶシンポジウムが開催されているので、名誉は回復されているのだろう。研究活動が盛んになって、新しい事実などが発表されることを望む。

video.tudou.com

 

 〇重慶大学档案館の記事 

 我国形意拳武术大师朱国福之女朱庆霞一行来馆座谈-重庆大学档案馆 

 〇 2012年5月、峨眉山大佛禅院で開催された、朱国福、朱国禄、朱国禎、朱国祥ならびに峨眉武術シンポジウムに関する記事

  ここで朱慶霞は「満江紅拳」を演じている。それで確認してみたら、以前にメモした女性が演じている満江紅の演者・解説者はいとこで朱国禎の娘の朱梅霞だった。

 朱梅玲の演じた剣術套路「夜深沈」というのは何だろう。近年、上海の朱俊昌が同名の套路を創編したようだけれど、それとの関係は不明。

www.emwsw.com

 

 

(注2)

最優等15名の中には弟の国禄、国禎がおり、「朱氏三傑」と称される。のちに一番下の弟の国祥が力をつけると、「朱家四虎」と呼ばれるように(『中央国術館史』の朱国福紹介ページ)。

  

(注3)

 全然関係ないけれど、朱国福とボクシングの出会いに関して、大山倍達こと崔永宜が子供の頃、父が経営していた農場に現れた季節労働者から、「ある格闘技」を習うけれど、小島一志はそれはボクシングであったと推測していることを思い出した(『大山倍達正伝』。)

 

3.国禄、国禎、国祥

朱国福の兄弟の中で、すぐ下の弟の国禄は1928年の第一届国術国考で兄の国福、弟の国禎とともに「最優等」15人に入賞したあと、翌29年に杭州で開催された国術游芸大会でには江蘇警察学校から参加して第二位を獲得、その後中央国術館に招聘され技撃隊副隊長に任じている。中華人民共和国前後に黒龍江省チチハル市昂昂溪区にゆき1972年、チチハル市で亡くなっている。チチハルにも彼の形意拳が今も伝えられている模様。

 

杭州国術游芸大会 左から第一位の王子慶、第二位の朱国禄、第三位の章殿卿

出典:http://lsw1230795.mysinablog.com/index.php?op=ViewArticle&articleId=4361338

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baike.baidu.com

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3番目の弟の国禎の、第一届国術国考のあとの足取りはおおむね以下のとおり

1929年1月 南京中央国術館教授班(百度の記事は第一期としているけれど、首期教授班は1928年のはずで、これは第2期?)

1932年 長沙第四陸軍軍事訓練組技術研究室高級班副主任兼国術教官に任じるとともに湖南省国術館でも指導 

1937年12月から四川省に定住、成都軍校や南洪藝術専科学校、成都警察局などで武術を教え、1944年には成都体育専科学校(1942年設立、成都体育学院の前身)に招かれる。

 

1949年末に、一番若くしてなくなっているけれど、娘の朱梅玲の回想によると、1948年に飛びこみのパフォーマンスをしたときに、文章よるとウォーミングアップ不足で冷水の刺激を受けたために(そんなことがあるのかな?)半身不随(原文は「瘫痪」)になってしまったのだといい、そのことと関係があると思われる。

 

 

ちなみに、上記の朱梅玲の夫は、ベルリンオリンピックにも参加した鄭懐賢の息子で鄭桂麟といい四川大学の教授であった人。学問の道に進んだのでお家芸の飛叉は受け継いでいない模様。

ただし、鄭家の飛叉は、故郷の河北省白洋淀で孫にあたる鄭樹広という人が演じている模様。でもこれって、動画を見ると、かなり見世物化している気がするなあ・・・。

baike.baidu.com

 

www.youtube.com

 〇鄭懐賢の孫の鄭樹広のパフォーマンス

www.sohu.com

 

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一番下の弟・国祥の、1929年以降の略歴は百度百科によると以下のとおり。

 

1929年,考入中央国术馆教授班。
1933年22岁时,任驻衡阳的国民革命军第15师骑兵国术教官,专授战场格斗技术。
1935年至1937年,任教于湖南国术训练所,训练战场格斗技术。
1940年以后转入教育界,先后任中央大学体育系、金陵女子大学体育系讲师。
建国后先后执教于上海东亚体育专科学校、华东师范大学、华东体育学院(现上海体育学院)、交通部武汉河运学校,任东亚体专教务主任、华东体育学院武术教研室首任主任。
1983年2月23日,病逝于徐州。

baike.baidu.com

 

ボクシングを学んだ兄弟4人のうち、3人がその後、湖南に招かれていることがわかる。

1930年代の湖南の国術訓練の貴重な動画の中に出てくるボクシングのような訓練も、彼ら兄弟がもたらしたものと考えてよいのかもしれない。上海時代に彼らが行っていたというボクシングの試合とパフォーマンスの、パフォーマンス部分もこういう光景だったのかなあ、などと妄想が膨らむ。

Rare Chinese Martial Arts Footage from 1930's - YouTube

youtubeの動画から

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いろいろ詰め込みすぎたので、収まりが悪い気がする。

今後、いろいろ修正が必要と思われるけれど、とりあえずのまとめとして。

長沙の修剣痴とその門人(韓鵬堯、王之和)

二つ前のメモの冒頭に貼り付けた写真で、王潤生の隣に修剣痴が写っていたので、

修剣痴と長沙の関係について調べてみると、1920年前後から大連で通背拳の指導を行なっていた修剣痴は、早期の弟子の韓鵬(後述)の推挙で湖南省第2回国術考試(1932年10月)の審判(裁判)として長沙にゆき、そのまま長沙に留まって何鍵の部隊の63師で武術教官に任じたとされる。
 
〇前々回のメモと同じ写真 向かって一番右が修剣痴

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1940年には大連に戻っているけれど、この間、韓鵬と同じく大連で教えを受けて、長沙県国術館館長に任じていた門人の王之和が左右につき従い、王之和の盟友といえる沙国政も長沙講武堂で教えを受けたとされる(後述の武林網の記事)。
沙国政武術館の記事では、沙国政が修剣痴に拝師したのは1940年。場所は書かれていないけれど、おそらくこれも長沙でのことで、ただし正式な門人になってまもなく修剣痴は大連に戻ってしまったということになるんだろうか。
修剣痴が大連に戻った経緯はよくわからないけれど、武術の指導以外に任されていた軍馬の買い付けに失敗し、買い付け先から大連に戻ってしまったと説明しているサイト(注)があって、なかなか面白い。
 
(注)
ただし、このエピソードには複数のバージョンがあること、『大連武術簡史』の記事がこのエピソードに言及していないことなどから、噂話のレベルにすぎないのかもしれない。
たとえば、『武術万維網』の李国澄「通背拳一代宗師-燕北大侠修剣痴」と題する記事では、1回目の買い付けは無事にこなしたものの、2回目の買い付けで4匹を手に入れた帰路、疫病で2匹が死んでしまったことに加えてあちこちで戦闘がはじまったので、湖南に戻らず大連に帰ったとしているのに対して、『武林網』の「修剑痴——五行通背拳创始人」と題する文章では、1回目の買い付けに成功して2回目の買い付けに出かけたところまでは同じだけれど、2回目の買い付けの際に悪天候と戦況の変化によって張家口で足止めをされているうちに当地の武林の仲間との付き合いでお金を使い込んでしまい、残りのお金を旅費にして大連に帰ることにした、としている。
 
『武術万維網』の記事
〇武林網の記事
 
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彼を長沙に招いた韓鵬堯は、修剣痴の大連における最初期の弟子らしい。
『大連武術簡史』では1904年大連西崗市場街の武術世家に生まれた、としているのに対して、趙宝安の文章「一代通背拳宗師-----韓鵬」 では1900年生まれで幼い頃に父に従い大連に来たと読めるなど、資料によって細部に違いがあるけれど、大連で呉振東(修剣痴と同じ河北固安の人、修より先に大連に来ている)に学んだあと、修剣痴に学んでいる。
 
芸が成ったあとは大連を出て(日本の浪人を殺めてしまったため、大連にいられなくなったという説も)、山東を経て、1929年(資料によっては1925年)ごろから長沙の何鍵の部隊で武術を教えている。
湖南で武術を教えたあとは、祖籍のある山東にもどっているけれど、大連の姉の家はたびたび訪れており、大連の通背拳の発展の状況を疑問視する態度をとったため(注)、次第に異端視されるようになってしまったようだ。
それでも1960年からは大連で自ら弟子をとりはじめ、69年までの10年間、毎年大連に来る度に3,4ヶ月の間指導を行ない、20名ほどのものが彼に学んでいるらしい。
 
このあたり、技術的なことは門外漢にはわからないのでなんともいえないけれど、『大連武術簡史』の紹介によると、修剣痴が審判を務めた湖南の国術考試には全国から400名ほどの武術家が参加し、そのなかには10年、20年にわたる修行を重ねたものが少なくなかったものの、「優勝」30名のうち29名は国術訓練所と技術大隊でわずか1年足らずの訓練をした選手が占め、なかでも上位3名は国術訓練所の学生であったという事実(注2)が、修剣痴が通背拳の体系を見直すに至る直接にして最大のきっかけであったとしていることを考えると、1940年以降に修剣痴が大連に伝えたものと、1920年前後に韓鵬堯が学んだものが違ったとしても驚くにはあたらないかもしれない。
その意味では、韓鵬堯だけが古い教えをかたくなに守っていたのかもしれないけれど、文化大革命のさなかに、国民党時代の武術教官というネガティブなレッテルを貼られて不遇のうちに亡くなったようだ。
 

 

(注1)趙宝安の文章によると、大連の通背拳をみた彼は、非常に驚くともに不満を感じ、「大連の通背は自由化して、下り坂に向かっている(このままではダメになる)。あと数年したらもう自分には見分けがつかなくなるだろう」というようなコメントを公然と行い、弟子を取り始めてからも、弟子たちには基礎から学び直すことを求めたという。原文は以下のとおり。
 
新中国成立后,韩鹏尧多次回大连住在其姐家,主要是治病(哮喘)。期间看到大连通背发展状况后,非常吃惊和不满,并在武林界公开讲:大连通背自由化,走下坡路了,再过几年我都不认识了。这在当时对大连通背界震动极大,同时更遭到了通背界传统保守派老人的非议,甚至排挤,这些人表面奈何不了韩,都知道韩鹏尧的厉害,便多次采取变相的方法赶韩出大连,韩鹏尧始终顶着压力,尽全力传播着新的通背风格。1960年,韩鹏尧正式收徒

 

教拳,但学员必须做到换汤换药,从头学习。
 
(注2)この結果は、1929年の杭州国術遊芸大会で中央国術館の若手選手がベテラン武術家を打ち負かしてしまったのと似ている。

 

 

tieba.baidu.com

 
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長沙県国術館長に任じ、長沙における修剣痴に付き従ったという王之和については、雲南の『玉渓武術網』に詳しい紹介がある。それによると、彼も韓鵬堯と同じく山東の人で、幼い頃から弾腿、査拳や少林諸技を学び、1914年(12歳前後)天津に出て伝統刺繍の技術を学ぶ傍ら形意拳を学び、その後1920年ごろに大連を訪れ修剣痴に師事。さらに河北を訪れて修剣痴の兄弟子の劉智に学び、再び戻った天津で(この頃、沙国政とであう)張策にも学んでいるらしい。
 
李麗久の招きに応じて長沙国術館館長に任じたのは1930年、その後、杭州警察局の武術教官にも任じているようだけれど(1934)、これは短期間だったのだろうか。貴陽で開催された擂台賽には審判として招かれ、そのまま晩年を貴陽ですごしている。中華人民共和国成立後は貴州省武術協会の初代主席に任じている。
 
大連で修剣痴に学んだあと、とある博覧会に伝統刺繍の職人として参加するために来日し、1年ほど日本に滞在しているようで、玉渓武術網の記事には時期について書かれていないものの、王が二十歳の頃(ということは1922前後?)、と書いている記事もある(武林網「修剑痴——五行通背拳创始人」。記事の来源はネット(互聨網)としており、内容の信憑性については疑問も)。このブログとしては、そのあたりの日本との関係も気になるところなので、備忘として残しておいて、いつか機会があれば調べてみたい。
 
上記のとおり、修剣痴や劉智、張策の各師に学んだ彼が晩年集大成したものが「縦横通背」と呼ばれている。
 
〇王之和の伝承者、周錦龍の動画 

 
なお、『玉渓武術網』の記事では、この擂台賽が開催されたのは1939年で、その後日本との戦況の悪化に伴って貴州に留まったと説明しているけれど、林伯原先生の『近代中国における武術の発展』貴州省文史研究館編『黔故談薈』所収の鄭秩威「貴州の第一回比武擂台賽」をもとに、王之和も審判として参加した貴州の最初の比武擂台賽は1947年8月と出ていて、大きな違いがある。
 

〇玉渓武術網から艾山「纵横通臂拳创始人 王之和」。息子の王亜夫の写真も見える。細かく確認していないけれど、同じと思われる文章が「沙国政武術館」のサイトにも「重要先輩」の項に転載されている。

玉溪武术网 王之和

 

〇その他参考情報

www.xzbu.com

〇 王之和   出典:『雲南武術』の「著名武术家王之和」

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  王之和の書“練拳之九歌”  出典:『雲南武術』の「著名武术家王之和」

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王之和の書“练練芸之八法歌訣” 出典:雲南武術』の「著名武术家王之和」

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今回、修剣痴とその門人について、湖南で活動した韓鵬堯と王之和を中心に調べてみてたけれど、これら早期の弟子については、『中国武術人名事典』や『中国武術百科全書』ではきちんと言及されていない。

武術界でよく指摘される、いわゆる「人云亦云」(人の話の受け売り)の典型なのか、両書とも、「王之和」と書くべきところを「王子和」と書いているし(太極拳家の王子和と混同したのか?)、韓鵬堯については名前もでてこない。

その理由は、韓鵬堯が国民党時代の武術教官として不遇のまま亡くなったことに象徴さされるように、彼らが活躍したのが軍閥混戦から国民党の統治、中華人民共和国の建国にまたがる時期にあたり、よくもわるくも国民党や当時の国術館系統と関係を持たざるを得なかったためかもしれない。王之和も、文化大革命の頃は下放され、毛沢東語録にならって武術を再構成することで文革派の批判を躱すといった策略を講じている。

インターネットでさまざまな情報が得られるようになって、こうした人びとの足取りも比較的簡単に情報が得られるようになった。個人の発信する情報は、事実関係の誤認や思い込み、場合によっては意図的な事実変更も含まれているかもしれず、扱いには注意が必要だけれど、そういう資料を通して見えてくる世界もあるのだなあということを、今回の作業を通じて強く感じた。

 

〇『中国武術人名辞典』の修剣痴の項 

 『中国武術百科全書』の説明も大同小異

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また、何鍵時代の湖南省には、修剣痴一門のほかにも、各地から武術家が招かれているので、このあたりも改めて確認してみたら面白そうだけれど、そこは今後の課題に。

 

中国国術と西洋拳撃の対抗戦(1943)

ネットで見つけた高嶋航『「東亜病夫」と近代中国(1896–1949)』京都大学人文科学研究所編『近現代中国における社会経済制度の再編』所収)は、西洋の比喩表現としての「病夫」が、中国では違った意味で受け止められ、尚武や軍国民思想、身体鍛錬による「再男性化」に繋がってゆく過程が述べられていて面白かった(注)。

 

(注)前にもメモしたけれど、中国国内でもそういった議論がある

东亚病夫:国人自己想象出来的民族耻辱_历史频道_腾讯网

 

この論文の中に、『申報』1943年12月24日の、翌25日に行われる中国国術と西洋拳撃の対抗戦についての広告記事が載っていた。

 

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おおっ、これはあの蔡龍雲が出場した伝説の中国武術とボクシングの対抗戦の広告じゃないか?と思ったのだけれど、蔡龍雲が出場したのは、同じ1943年(もう1回は1946年)でも、12月13日のはず(10月13日とか、11月13日と書いている記事もある)なので、日付が違う。

広告記事は、上のほうに「上海第二次公開」と書かれているところも注目される。このことは、蔡龍雲少年の活躍もあり反響を呼んだ12月13日の対抗戦に続けて、すぐさま第2弾「興行」が行われたのではないか、あるいは、もともと第2弾興行が予定されていたのではないか、というようにも考えられる。(12月25日の対抗戦の結果については不詳。高嶋氏が参照したという関西大学アジア文化研究センターの『申報』データベースを見ることができたら、調べられるのだろう。)

 

ちなみに、蔡龍雲が出場した対抗戦について記した笠尾恭二『少林拳血闘録』には

「そのころ上海では中西対抗ボクシング競技会がよく開かれていたが、中国側が負ける方が多かった」(P.42)

 

と出ている。これはあくまでボクシングの対抗戦について言ったもので、国術とボクシングの対抗戦の話ではないかもしれないけれど、上海では、1930年代からプロレスの興行が行われていて写真も残っているので、格闘技の興行自体はそれほど特別のことではなかったのだろう。このあたりも、『申報』データベースなどを利用して当時の資料を丹念にみることができれば、もう少し実態がわかるのかもしれない。

 

なお、いちいち具体例を記さないけれど蔡龍雲が出た1943年の対抗戦を12月13日ではなく、10月13日、11月13日と記している記事が散見される点について、うがった見方をすると、蔡龍雲は1928年11月生まれ(日付は確認できない)なので、対抗戦の時期によっては年齢がかわってくること、つまり「14歳」の蔡龍雲が勝ったことと整合性をもたせるために試合は10月だったことにしているのではないか、という気もしてくる。あるいは、対抗戦が発表された段階では14歳、試合当日には15歳になっていたのに、14歳という認識だけが独り歩きしてしまっているということなのかもしれない。

いずれにしても、上掲の笠尾恭二『少林拳血闘録』は、試合の日時を1943年12月13日としながら、通説に従って当時の年齢を14歳と書いてしまっているのは惜しい。

おそらくは、比較的新しい以下の記事のように1943年12月、当時15歳の蔡龍雲が勝利したというのが正しいように思われる。

qd.sohu.com

 

念のため付け加えておくと、この対抗戦が仮に連続興行で あり、そこに多少なりともショー的な要素があったとしても、自分としては別に蔡龍雲や中国武術の価値が貶められるとは考えていない。(同様に、この対抗戦によってボクシングの価値が貶められたとも考えていない。)

 

**********

その他、この論文の中では精武体育会の設立を、

 

「(筋肉的キリスト教の影響を受けた)「筋肉的ゲール人」、「男性的ヒンドゥー教」の中国版ともいえるといえた。精武体育会の英語名称「Chinese Athletic Association」はゲール人体育協会「Gaelic Athletic Association」を思い起こさせよう。」(P.389)

 

と書いているところや、 褚民誼について、

 

「国術館が武術を自衛や軍事訓練と結びつけたのに対して、それを体育と結びつけようとする人たちもいた。その代表人物がフランスで博士号を取得した公衆衛生の専門家で、国民党監察委員の褚民誼であった。」(P.402)、「褚は武術と体操を組み合わせた「太極操」という独自の体操を編み出し、中国国内だけでなく、海外への紹介につとめていた」(P.403)などと紹介されているところも興味深かった。

 

出典:褚民誼與太極拳-武术万维网-传统武术社区 - Powered by Discuz!

 

 

筋肉的キリスト教については、このブログでも

19世紀イギリスの筋肉的キリスト教やアスレティシズム、スポーツマンシップから、日本の武士道論を経由して国術魂という流れ」(笑)を無想(妄想)したことがあるけれど、当たらず̪しも遠からずといったところか。

 

zigzagmax.hatenablog.com

 

〇笠尾恭二『少林拳血闘録』

 ちょっと前にブックオフで見つけて入手した。 

少林拳血闘録―歴史に隠された謎に迫る

少林拳血闘録―歴史に隠された謎に迫る

 

 

四川省伝統弓連合会成立

2017年7月15日、四川省武術協会が伝統弓連合会を成立した開催されたというニュースが流れてきた。

sports.sohu.com

 

伝統弓術といえば、2016年12月出版の、馬廉禎主編『武学』の第2集は伝統弓術の特集だった(未入手)。

逸文武學書館>武學—中國傳統射箭專輯

 

同じく馬廉禎の主催する「建公書院」では、家伝の通備武術だけでなく、伝統弓術の練習も行われているらしい。いま、伝統弓術が注目を集めているのかな?

 

火炉山下搭弓射箭,广州有间国术书院

 

話を四川に戻すと、四川では1920年代に伝統弓術の団体である「射徳会」というのが成立している。この「射徳会」や「四川武士会」を支援した四川省唯一の「状元」、駱成驤は清末に日本に留学していることは以前にメモしたけれど、同会は1937年には30か所以上の分会があったようで、今回、成都で伝統弓術の連合会が成立というのは、そうした歴史的経緯とも関係があるように思われる。

 

成都晩報 2008年5月6日「“射德会”和弓箭业的衰亡

      同5月5日「“射德会”雕弓较射的雅趣

 

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中国伝統射弓術については、林伯原先生の『中国武術史』に時代ごとの詳しい説明があるほか、濱口富士夫『射経』の、李呈芬『射経』の訳文と解説も参考になる。

 

『射経』を読むと、弓の持ち方に「鷹爪」とか「虎爪」といった言い方があること、弓の構え方に「大架」、「小架」、李呈芬『射経』には出てこないけれど、両者の中間にあたる「中平架」(後述)といった姿勢があることがわかって興味深い。こういった弓術の用語と、徒手の武術の似た用語の関連性を調べてみても面白いかもしれない。

 

濱口富士夫 『射経』

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 〇弓の小架、大架、中平架

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また、李呈芬の『射経』には「中平架」はでてこないものの、訳者は、李呈芬がいう「最善の謝勢」を、『武経要略』などに見られる「中平架(子)である」と考察している。

「この中平架は、『射史』では、「中平射勢」と、『武家彀』では、優れて実戦向きであるところから、「武射」とも称されている。いわば大架と小架との中間に位置する射勢で、それぞれの長所を採っており、近くで見物する者からは優雅に見える一方、極めて態勢が安定し力強く雄渾で守備にも攻勢にも適していて、武射とされる道理がある。『武備要略』にはこの中平架を、「文にして且つ雄なり。戦陣に利あり」と評している。」(P.116)

 

なお、最善の射勢の文は以下のとおり

 

身法の善は、腰を蹲(す)え坐胯することの、最も便宜となすにしくは莫(な)し。腰蹲(す)えれば、則ち身動かず、坐胯せば、而(すなわ)ち臀(しり)顕(あらわ)れず。肩、肘、腰、腿、力は一処に萃(あつ)まりて、起ち易く伏せ易し。敵に遇うの際、前手弓を挽き、一身を衛るべく、控拽し撒放するに、身倶に動かず。射に在る者には法あり、旁に視る者は美観なりとす。PP.114-115

 

 

〇曽鵬程 南京図書館のコレクションより

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「射艺研究:拉硬弓。普通用的步弓,没有腕力的人很不容易拉开,所以在练习射箭的时候,要同时拉硬弓以增加腕力。表演者为曾鹏程。」

http://www2.jslib.org.cn/was5/web/detail?record=348&channelid=6851&back=-1

 

〇第七届全国運動会 上海図書館のコレクションより

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「第七届全国运动会,女子射箭比远第一名吴宝琴(左)第二名王锦霞(右)。」

第七届全运会女子射箭比赛冠亚军 | 上海图书馆历史图片搜集与整理系统

 

馬明達「応該重新審視「国術」」(『説剣叢稿』所収)によると、射箭を含む国術の内容が全国運動会の正式競技種目になったのは1935年(民国二十四年)、上海で開催された第六届からで、行われた競技は拳術、器械、摔跤、射箭、弾丸、踢毽。

ベルリンオリンピックの国術表演のメンバーの一人・寇運興は清末の武挙の武探花・馬仁甫を家庭教師に招いて娘と息子に弓術を練習指導させて、1935年の第六届全国運動会の射箭競技の準備をしたことは以前にメモした。

 

〇『東方雑誌号外第6届全国運動会画刊』(1935)より 国術三冠軍

左から、

 男子弾丸射撃第一名 河南魏文卿

 男子測力第一名 南京馬文奎

 女子弾丸射撃第一名 河南劉玉華    

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〇以下は、以前にもメモした1933年の第五届大会の射箭表演の写真。(全国運動会1933年専刊』より。)

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zigzagmax.hatenablog.com

 

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山東国術考試(1934)における96歳の道士・寧教寛の射箭表演。

(王広西『中国功夫』より)

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〇一九三五年十月十日上海江灣體育場的國術射箭表演。

出典:鴻勝蔡李佛香港冠雄國術會 Lee Koon Hung Choy Lay Fut Kung Fu Association (Hong Kong)

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中華人民共和国射箭競技 佟忠義の娘の佟佩雲

出典:Interview with the last Manchu archer | Fe Doro - Manchu archery

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zigzagmax.hatenablog.com

中国武術史 ― 先史時代から十九世紀中期まで ―

中国武術史 ― 先史時代から十九世紀中期まで ―

 

 

弘文書院、大森体育会、中国体操学校とその関係者たち

1. 王潤生、不肖生、楊昌済、柳午亭、毛沢東など

清末の日本留学生の中に、湖南の「拳王」八拳の王潤生がいる。平江不肖生こと向愷然の「拳術見聞録」や「拳術伝薪録」では王志群と記されている人物で、帰国後は太極拳にも興味をもち、年下の呉鑑泉にも学んでいる。

 

〇1932年、湖南国術考試の頃と思われる写真 左から鄭佐平、劉百川、王潤生、修剣痴

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西长街的长沙拳王,一拳击倒俄国大力士多维诺夫斯基

 

彼ら2人が学んだのは弘(宏)文学院。その代表は、当時、東京高等師範学校校長だった嘉納治五郎

清朝留学生の受け皿(の一つ)だった弘文学院にはほかも孫文の片腕で、映画『1911』ではジャッキー・チェンが演じた黄興も学んでいる。黄興も、王潤生、向愷然と同じ湖南出身で、孫の黄偉民によると、来日前に地元の拳法・巫家拳を学んでいる。

その他、同じく日本で学んだ湖南関係者の中に、杜心五(注)や、若き日の毛沢東が教えを受けた楊昌済がいる。楊昌済は弘文書院、継いで東京高等師範学校で学んでおり、嘉納治五郎の思想の影響を受けている可能性がある。

そう考えると、毛沢東(二十八画生)「体育の研究」に知育・徳育・体育の三育併重、儒教の中で体育を重視した顔李学派と並んで、嘉納治五郎や、嘉納も評価していたというユージン・サンドゥ(近代ボディビルの父・・・らしい)の名前がでてくることも納得できる。

なお、以下の記事(黄柏强 文熱心「怪人柳午亭」)によると、毛沢東は「体育の研究」の発表前に、楊昌済の日本留学仲間でもあり、留学中に王潤生に八拳を学んだ柳午亭という人物を訪ね、武術と体育について教えを受けている。そのことと、彼の「体育の研究」の内容に直接の関係があるのかわからないけれど、調べてみると柳午亭の自伝というのがあり、はじめは警察、次いで弘文書院中学部、早稲田大学、大学院でまなび、日本人女性(小野芳子 中国名 柳芳兹)と結婚していたり、なかなか興味深い経歴の持ち主であることがわかった。

 

やや話はそれるけれど、中国体育への加納治五郎の影響に関し、高嶋航『「東亜病夫」と近代中国(1896–1949)』では

…1906年5月に上海道台の瑞澂は、上海の紳商が設立した華商体操会の開会式典に参加し、嘉納治五郎の「中国の教育は必ず体育を重視すべきである」「文を重んじ武を軽んじる風習に反対し、全国皆兵の制度を実施する……」という言葉を引用したうえで、中国は文弱の積弊により、「老大」「病夫」との譏りを受けるようになったと述べ、軍隊や警察の不足を補うものとして体操会を高く評価した。

と紹介されている。

 

(注)

林輝編著『自然随心録 万籟声自然門武学、史料匯編』所収の「歴史上真実的杜心五」 は、「杜が日本に赴いた時間は1904年の夏季、最初に学んだのは日本東京百科学校、のちに宏文学院普通科で学んだ。おそらくこの二校はともに短期の語学学校であり、1904年9月に東京帝国大学に進み、農科を専攻した。」(仮訳)と記しているけれど、そのあとに引く瀋雲龍主編『清末各省自、官費留日学生姓名表』に「杜慎愧、湖南省官費生、入讀東京帝国大学農科、以及之前在宏文普通科末畢業」とあるように、普通科に入学してすぐ中退したのだろう。いずれにしても、かれも宏文書院と関係がある。

その他、管見の限りでは江蘇国術館事務長の陽鉄生は湖南禮凌の人で明治大学法科を卒業ということになっている。(童旭東編著『孫氏武学研究』所収「江蘇国術館十八年年刊」より(P.199))

 

〇 弘文学院

弘文学院 - Wikipedia

 

拳術見聞録」所収の拳術

 『中国古典武学秘籍録』下巻収録の「拳術伝薪録」にも「拳術見聞録」が附されている

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〇忘れられた拳王---王潤生 

kungfu.chinesecio.com

 

〇八拳の紹介動画

www.iqiyi.com

 

〇黄偉民の語る黄興

 巫家拳、弘文学院、神楽坂武術会、大森体育会などに言及

 黄伟民介绍,黄兴不仅是革命领袖和军事家,同时也是体育活动的爱好者和提倡者。黄兴小时候经常与村童一起爬山、游泳、钓鱼、打拳和下棋,14岁时还拜师学习巫家拳,在武昌两湖书院求学时十分重视兵法和体操,留学日本东京弘文学院时,黄兴每日清晨必去神乐坂武术会参加射击比赛,还获得了不少奖牌。

  “祖父将体育作为培养和造就革命力量的重要手段之一。”黄伟民说,黄兴当过体育教师。1903年,29岁的黄兴从日本回国后,在长沙主持明德学堂速成师范班,并在附设的高等小学担任体育教员,1904年又兼任新湖南民立第一女学体育教员,教学生翻杠、做柔软体操、玩哑铃。1908年,黄兴再度去日本,在东京发起成立了大森体育会,并亲自任教员。

访黄兴长孙黄伟民:黄兴曾想葬身长江_后裔寻踪_纪念辛亥革命武昌首义100周年

 

〇巫家拳 (麒麟六肘)

www.youtube.com

 

 

〇柳午亭と柳芳兹(黄柏强 文熱心「怪人柳午亭」 湖南省人民政府のサイトより)

 

怪人柳午亭 - 三湘人物

 

〇柳午亭自伝

柳午亭自传 - 三湘人物

 

〇この部分の原稿の執筆時期は不明ながら、唐豪の『行健斎随筆』にも、「記日本柔道家嘉納廣瀬湯浅本田」と題する一文がある。 

当時の状況に鑑みて、武術を提唱するにあたっては、体育の目的だけでなく、軍事の補助手段とするべきだが、それには武術家の「妖妄怪誕の観念」を糺し、反帝国主義や民族の自由、平等などの観念を理解させる必要がると述べている。さらに近代戦争の時代に、その価値を誇張しないことが大切と述べているのが興味深い。

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2.第5回極東選手権競技大会、呉志青「中国新体操」、上海中華武術会

嘉納治五郎といえば、1921年、上海で第5回極東選手権競技大会を視察しているけれど、同大会では中華武術会による武術と呉志青発案の「中国新体操(のち科学化的国術と改称)」が披露されている。 

演武された内容の中には、

単演:洪拳、六合拳、六合棍、単刀、査槍、雙掌入門(?)

雙演(対練のこと?):三把腰、雙頭槍、査拳、月牙鏟、雙劈単刀等の内容が見える。

雙演のうち三把腰は「八十老翁何玉山與于振声」、査拳は「柳奉真呉志青之対打四路査拳」、月牙鏟は「羅叔青(と)韓凌青」によるものだったらしい。(「再版科学化的国術弁言」)。

呉志青は安徽宵歙県の人。今に続く上海中華武術会(設立当初は中華武侠会)の設立発起人として知られ、中央国術館では董事、教務処副処長などに任じている。杭州巡警学堂から中国体操学校に転入して学んだという。

 

〇第五回極東選手権大会 入場式

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第五届远东运动会入场式 | 上海图书馆历史图片搜集与整理系统

 

〇「科学化的国術」

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www.100yearlegacy.org

 

〇上海中華武術会の公式ウェブサイト

上海中华武术会 皇冠网 www.08un.com

 

3.中国体操学校

呉志青が学んだ中国体操学校は徐傅霖、徐一冰、王季魯らが上海で設立した学校。設立時期は林伯原『近代中国における武術の発展』では、「1906年11月16日(一説には1908年2月28日)」と紹介されているけれど、光緒三十三年(1907年)と紹介している記事や、

「1904年,毕业于日本体操学校的徐敷霖在上海创办中国体操学校,1908年由毕业于日本大森体育学校的徐一冰接办」

などと記してあるサイトもあり(南京図書館の画像データベース)、詳細は確認が必要。

 

〇「上海年華」より、「中国体操学校創始人合影」

 この記事では、中国体操学校は「中国体操学校创办于光绪三十三年(1907年)」と記す。別のサイトの説明によると、写っているのは徐一冰(左座一),袁公诚(左座二),瞿正戍(右座一),王石士(左站一),王季鲁(左站二),徐筑岩(右站一)。

 

 

〇中国体操協会の公式ウェブサイトから「中国体操学校」の紹介

 徐一冰が「大森体育学校」で学んだ、とみえる

  天下兴亡,匹夫有责。一批爱国的热血男儿和革命志士,目睹祖国体操事业的颓败,国民体质的衰弱,莫不痛心疾首。于是他们怀着兴办体育、培养人才、强宗强种、卫国御侮的宏伟志向,纷纷赴日留学,专攻体育。这时期留学的仅四川一省就有十余人。近代著名体操教育家徐一冰,著名革命党人王金龙就是在这时东渡日本,进大森体操学校学习的。1906年前后留日学生相继学成回国。他们在各地创办了体操学校、体育专修科。中国体操学校就是他们所创办学校中最大最有影响的一个。

中国体操学校 - 中国体操队协会官方网站

 

 〇湖州体育局の公式ウェブサイトから、徐一冰の紹介

 「三十一年(1905)因不忍“东亚病夫“之耻辱,遂东渡日本,进大森品川体操学校,专攻体育」などとみえる。

www.husports.com

 

4.大森体育会など

中国体操学校以上によくわからないのは、徐一冰が来日中に学んだとされる「大森体操学校」。

サイトによって大森体育学校、大森体育会、大森体育講習会などと書かれている。

革命家の黄興に引き寄せて、彼が8度目の来日にあたる1908年に、革命のための軍事人材を育成するために設立した、と紹介しているサイトが多いけれど、設立が1908年では、徐一冰の来日していた時期と合わない。革命の準備をするための地下的な組織であるとして、その設立はもう少し遡る必要があるのだろう。

たぶん、「大森体育会」の名前は、 「清国留学生取締規則」に抗議して大森海岸で投身自殺した陳天華の意思を継ぐ暗号のようなものなのだろう。(そのようなことを指摘した研究を見たことがないけれど。)

いずれにしても、この時期、「体育」というものがもっていた重み、体育と軍事、体育と革命の関係などが垣間見えて興味深い。この流れのなかに、「光復会」の徐錫麟が設立した大通体育学堂の校長となり軍事蜂起を計画した秋瑾も入ってくる。(前掲ジャッキー・チェンの『1911』は秋瑾の処刑の場面から物語が始まる。)

近年指摘されるようになった、精武体育会が「体育」を隠れ蓑に若者に軍事訓練を施したというような説も、こうした流れの中で考えると納得がゆく。

 

いろいろなことが繋がって見えてきたので、うまく纏めきれていないけれど、とりあえずのメモとして。

 

〇陳天華 

彼も、湖南省の出身だ

陳天華 - Wikipedia

 

〇『中華武術文選』

 二十八画生(毛沢東)「体育之研究」秋瑾「宝刀歌」などを収録

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〇东莞中学のサイトから「清朝末年学校体育师资的培养」

 中国体操学校、民主革命人士と体育について、秋瑾も例にあげてコンパクトに紹介されている

::东莞中学::体育科组网页中心::

 

 

〇「科教近代体育学科留学研究生教育的发展与史学贡献」

早期留日体育教育家徐一冰所著《二十年来体操谈》中所述:“丙午丁未间(1906年至1907年间),留学日本大森体操专校毕业者,每归国任学校教科”。大森体操专校(又称大森体育会)是同盟会在日本兴办的一所速成体育师资学校。设立体育学、教育学、生理学、解剖学、音乐、徒手体操、器械体操、兵式体操等专业课程。1901年至1906年间,中国留日的1.3万名学生中,有相当一部分曾到这里学习体育专业。“时徐君筑夫人汤剑娥女士,亦归自日本,因即创办女子部(即中国女子体操学校)”。另据《上海东亚体专简介》所记:“创建人博朗斋(留美学生)、庞醒耀(留日学生)二人都是专攻体育的”。可见当时留学生出国学习体育,已非偶然现象。 

http://www.xzbu.com/4/view-5590175.htm

 

〇こちらのサイトでは、1908年に再来日した黄興はかつて設立していた大森体育会を新たに革命のための軍事幹部を訓練する場所として再組織したとされていて、わりと実体に会っているのではないかと思われる

1908年7月河口起义失败回到日本后,黄兴“注重训练党员之军事常识” , 决定先从培养军事干部入手,逐步建立一支由革命党领导的军队。于是,黄兴重新组织了先前在日本设立的大森体育会,作为训练革命军事干部的场所,并聘请日本军官多名为教练,从河内、香港、日本召集林时爽、刘揆一、焦达峰、孙武、夏之时等一百七十人为学员,参加训练。经此训练,参学人员的军事知识和技能大有提高,许多人后来在辛亥革命中发挥了重要作用。

www.sohu.com

 

〇「大森体育会」と同盟会の関係、学校の性格について記述したサイト 

到日本后,王金发进入大森体育学校,据说以第一名毕业,只是大森体育学校并非正规院校,其原名“大森体育会”, 以体育、军事学为特色,实际上是同盟会参与创办的的“野鸡学校”,只需一年或一年半即可速成毕业。话虽如此,当年入读该校的中国人也不在少数,金发哥以第一名毕业,当然也不能说是侥幸。

history.sina.com.cn

 

  但懋辛(1884—1965),字怒刚,清光绪十年(1884),生于复兴场方家冲。光绪二十九年,去日本东京入东斌学校求学,亲聆孙中山教诲。光绪三十一年8月,由孙中山、黄兴介绍,加入同盟会,为评议部评议员。次年,回上海参加同盟会东部支部工作,约集同学集资创办中国公学。6月,在上海迎接章太炎出狱,派专人同章去日本与孙中山晤见。光绪三十四年,又去日本入大森体育会。次年回国,先后在南京、汉口谋炸清总督端方未成,后又赴北京谋炸摄政王失败。宣统三年4月27日参加广州起义,同熊克武、喻培伦等16人,组成小分队,攻打两广总督府受伤被捕,经营救出狱,于7月回川参加重庆起义,先后任蜀军政府参谋总长、中路总指挥、川南总司令等职。

www.sc-rx.net

 

〇大森体育会の「教員」の名前が窺えるサイト

暑假期间外祖父还与李根源、李书城担任留日学生创办的“大森体育会”的教员,教授军事知识。

baike.baidu.com

 

〇「大森軍事講習所」と記すものも

孙武(1880—1939),湖北夏口人,同盟会会员,中国近代民主革命家。1896年考入武昌武备学堂。1900年参加唐才常汉口自立军,被推为岳州司令。1904年9 月赴日本,入成城学校习陆军。1905年11月归国,加入武昌日知会,并帮助刘静庵办江汉公学。1908年夏再往日本,入大森军事讲习所,研究野外战术及新式炸弹;8月与焦达峰等在东京组织共进会,任军务部主任。不久被推为湖北主盟;旋回鄂策划革命。1909年编会党为五镇,旋赴梧州参加起义;事败退居香港,加入中国同盟会。1911年被武汉共进会、文学社等团体推为主席。辛亥革命武昌首义的组织者之一。武昌起义后,任湖北军政府军务部部长,1912年3月自行引退。1915年12月任参政院参政。1922年,鄂督萧耀南委其为汉口地区清查督办。1926年夏,任湖北地区清查督办。北伐军抵武汉后退居北平。1939年11月10日,病逝于北京史家胡同。

www.360doc.com

 

 〇「大森体育講習会」と記すサイト

趙伸:(1876——1930)字直斋,号雄飞,嵩明人,增生。原欲学矿学。选送日本成城学校留学,参加同盟会,与李根源等创办《云南》杂志,任总经理。1908年,倡设“云南独立会”,与黄兴创设“大森体育讲习会”,培训革命军事人才,并担任党内暗杀部副部长。日本警方侦捕急,潜走广西,充任江右镇管带。辛亥回滇,筹设云南同盟会支部,任副支部长,创办《天南日报》。民国元年(1912),任省参议会会长。曾筹办修治嘉丽泽水利工程,任水利局局长。护国军兴,任云南兵工厂会办。赴日本购办枪械。民国十二年(1923)国会重开,当选参议院议员。曹锟贿选事起,偕诸议员南下护法,旋回滇任省府军事参议。著有《立体战术》一书。

作者:赵以炯状元文化研究
链接:http://www.jianshu.com/p/adbb6aae4cc6

  

〇朗凈『近代体育在上海 (1840-1937)』から関連個所をメモ

  从初级、优级师范学堂毕业的学生,成为教师队伍的主要力量。
如前所述,他们去各个学校任教师,并非专教ー门,而是兼任的性
质,所以,从这些学校毕业的教师,日后许多兼任体操课程。
  除了一般的师范学堂之外,政府开始号召在师范学堂之中设置
专门的体操专修科,这也得到了地方的认同和响应。
  “体育宜振兴,晋俗俭而弊在惰,宜培养其活泼进取之志气,故
体操甚紧要。但讲求体育,先宜养成教员,以前多用武备出身人员
充当,甚不合宜小学体操,意在令国民体力发达,非所以养成技勇。
凡为教员者,必须略道教育卫生之理及讲求教授之法与夫一切游戏
运动,此非武备卒业生所能胜也。宜遵照部电,迅于师范学堂附设
体操专修科,聘学力相当之教员教学生数班为校外生,不给餐不住
宿,讲筵即借师范讲堂充之,岁增经费有限而功效实巨。至一切学
堂亦必以体育为最要之学科,又省内隙地甚多,宜辟公共运动场以
导晋民,养成好勤动之习惯,此当注意者ニ。”①
  除了在师范学堂中设置体操专修科,各地也开始发起建设专门
的体操学校。培养专门的体操人才。
  师范类学堂的大致情況如上,除了上述学堂,新政期间的还有
关于女子学堂、实业学堂等等新式学堂的规划,其中都有対“体操”
课程的设置。
  清末新政,废科举、派游学、兴学堂,是共同推进,互为因果的。
所以除了对于学校的立法与规划之外,派遣大批的留学生出国学
习,也是教育改革的重要内容。进入20世紀,掀起了留学日本的热
潮,直至1907年这股热潮才有所減退。这些留学人员可分为两个

①《山西师范学堂调查意见》,《东方杂志》第5年第3期,教育第62页。

 

层次,“一个层次是由清政府或各部院、督抚派出的游历职官,即所
谓考察学务官员,许多自费出国考察的各级办学人员亦可纳入此
类;另ー个层次是广大官费、自费留日学生。”①
  我们在当时的文献中可以发现,这些出外游学的人员,为我们
带来了国外最新的教育状况,其中也包括体育教育的状況,例如日
本早稻田大学,为清留学生开设的课程表中,就有兵式体操和体操
课;另一方面,留日学生中读师范、学教育者占多数,他们归国之后
形成国内新型的教师力量,为体育的建设也作出了很大的贡献。
  以上我们大致梳理了猜末“新政”时期教育改革对于体育的影响。
下面我们逬入上海,具体宥看一下这段时期上海的体育教育状况。
  新政期间,由于受到官方的支持,加之原本就有的办学传统,上
海兴起了办学热②,到1911年为止,上海公、私立各级各类学校大
多采用了新学制,上海教育基本形成了从幼稚园、小学、中学到大
学,包括エ商、体育、师范等专业的近代教育体制框架。 
      第一,普通学堂方面,上海县在这一时期创办了约131所初等
小学堂、34所高等小学堂、6所中学堂、3所国人自办的高等学堂,
均为私立学堂。这些学校大部分设有体操课程,例如1901年创办|
的澄衷学堂,课程有国文、英文、算学、物理、化学、博物、图画、体操
等,澄衷后来形成了以体操技巧见长的特色;1905年创办的龙门师
范附属小学堂初等小学科目有修身、讲经读经、国文、算木、体操、图
画、唱歌、手工。而1907年创办的浦东中学堂,不仅科目中有体操。
教学及管理上也注重德育及体育,力图养成学生朴实、整洁、勤奋的
品格和活泼、健康的身体。该校在组织学生远足、挙行体育大会等
活动中,工作颇为得法。
① 陈学恂主编:《中国教育史硏究》近代分卷,华东师范大学出版社2001年版,第154 页。
② 参照《上海近代教育史》。

 

  第二,上海开办了初等、中、高等各类实业学堂。
  第三,专门学堂方面,上海设立了医学、体操、师范学堂等。
  最值得关注的是体操类专门学堂的设立,1908年,浙人徐ー冰
在上海黄家阙车站路创设中国体操学堂,该学校得到清政府资助并
准予立案。中国体操学校,是我国近代第一所独立设置、专门培养
体育师资的学校。它的办学宗旨是提倡正当体育,发挥全国尚武
精神,养成完全体育教师,以备教育界专门人才。”学生的报考条件
是品性纯良,身体健全,国文精通,年在十六岁以上,二十四岁以
下。”学校制订了我国第一个近代体育专门学校章程,从宗旨、学制、
课程设置、招生、升留级、奖惩、考试,以及交学费等方面都作了规
定。学习的科目有兵式体操、器械、游戏、柔术、击剑、生理、医学、音
乐等。课本多由日本翻译而来,毕业生也多从事体育工作,早期许
多重要的体育学校的创始人均出自其间。后来,由于上海场地有
限,对体育教育带来许多困难,故1920年徐ー冰将学校迁至家乡南
浔。中国体操学校自创办到結束,办学共16年,计36届,毕业学生
达1531人,为我国体育界造就了一批优秀人才。 
  值得我们关注的还有徐ー冰本人,他正是东渡日本,学成归来
的留学生。徐ー冰1905年留学日本大森学校,专门研究西方体育,
主张体育救国和“正当体育”,力主改革只重兵操的学校体育。1907
年回国后曾任爱国女学、中国公学等校的体操教练,曾在上海华商
体操会传授所学柔软操、器械操等。1908年中国体操学校创立后
主持校务15年,同时从事教学和体育技术与理论研究。1909年徐
一冰和高仲南主编的《体育界》杂志创刊,这是国内迄今为止发现的
最早的体育刊物,内容分论文专著、体育史、体操游技资料、教授法、
体育新闻、小说、译文、杂谈,等等。1914年进ー步向全国创编发行
《体育杂志》,他还编写了我国最早的体育史讲义,著有《徐氏体育
学》、《体育原理》等。
  另外值得关注的是,中国体操学校的学生在辛亥革命上海光复时,参与革命,攻打上海制造局。 PP.107-110

 

〇林伯原『近代中国における武術の発展』から関連個所をメモ 

 上海の中国体操学校以外にもさまざまな体育専門学校について紹介

 清朝は新しく施行した学校制度の中で武術の内容を規定しなかったが、新学校が発展して行く過程において武術は中国伝統の体育として一部の学校で注目され、課程の中に取り込まれていった。

 初めて武術を体育の授業に取り入れたのは、一部の体育専門学校であった。例えば、清の光緒31年(1905年)、婁県の人、何東(字は亜雄、ブルジョア民主主義革命の同盟会の会員で日本の早稲田大学を卒業した)が設立した体操伝習所は松江城西祭江亭勧学所内に立てられ、五人の教師を招き、経費は婁県政府が半額を負担し,残りの半分は自ら募集を行った。学校教育年限は、半年を一期とし、科目には武備(武術等の内容を含む)体操、運動、課間操(授業と授業の合間に行う体操)等があり、第一期として、華亭、婁県、金山、青浦、南江、奉賢、上海等から43人を集めた。大
半は在職中の教師であり、合わせて四期にわたって運営された。1908年、何東が病死したことにより、その活動を停止した。1906年11月16日(一説には1908年2月28日)、徐傅霖、徐一冰、王季魯は上海で中国体操学校を設立した。場所は上海北浙江路北興坊で、学校の宗旨は“正当な体育の提唱、全国の尚武精神の発揚、教育界の専門的人材となる完全な体育の教師の養成”であった。学校教育年限は本科(一年半)と専科(卒業の年限は特に定めず、学校を出る際に選択した科目の履修証明書を発行した)の二種類があった。実科の中には、普通体操、軍隊体操、遊戯、射撃術、教学法の他に、拳術科が設けられていた。

 1908年に設立された四川重慶体育学校もまた、武術を授業科目の中に取り入れていた。この学校は、中学校と高等小学校の体育の教師を養成することが目的であった。学校教育年限は一年半で、三つの学期に分かれていた。授業は学科と術科、随意科の三つに分けられており、随意科の中に拳勇(拳術)と刺刀術(刀術)の二種類があった。 1910年上海ではさらに中国体操学校女子部(王季魯が校長を兼任、1913年には女子部を中国女子体操学校と改名した)が設立された。この学校は日本舞踊と中国武術で有名であった。1911年、北洋法政学校では“体育を重視し、「技擊(即ち武術)」科目を増設し、精神を奮い立たせることを決定”し、張恩緩の推薦によって形意拳の劉殿琛を武術担当教師とすることが決められた。当時、“全校の学生のほとんどが彼について武術を学び、授業以外の練習も欠かすことがなかった”という。
—部の体育学校で武術科が設けられたほかに、普通学校の中にも武術科を設けるところがでてきた。例えば天津官立中学校は1901年に創立され、最初は学校の名前は「天津普通学堂」と呼ばれ、1903年に「天津官立中学校」と改名した。課程には武術科が設置され、週に2回、2時問が課されていた。また、課外活動にも学生の自由に組織した「武術会」があり、武術家である李星階の指導を受け、拳術、刀術、花槍、棒等を練習し、毎年の学校の建学記念日(学校祭)にあたっては演武が行なわれていたという。1907年、湖南の劉蜀生は奉天女子師範学校に招かれて武術(剣術、柔術)、体操の授業を設けた。1907年-1908年、湖南長沙中学校、湘潭県中学校で国技科(武術科)が設けられた。山西『河津県志』の記載によれば“清の宣統1年(1909年)、蒙養学校で「拳術科」が設けられ、本県の学校体育の始まりとなった”という。
 1905年には、四川省で省内の学校が参加して第一回の近代運動会が開催された。運動会の種目は多数に及び、普通体操、兵式体操、競走と擊剣等があった。撃剣は武術の項目であり、武備学校の三十名の生徒が代表隊を組織して演武を行うというものであった。1907年江蘇省南京で第一回学校連合会運動会が行われ、宏育書院、高等府中、浙江公学、両江師範、上江公学、湖南公学、湖北公学、府属公学、旌徳公学、法正公学、旅寧第一女学、寧属師範、陸軍小学、元寧小学、講武堂、憲公練習所、陸師、水師、達材、思益、崇文、商業、実業、高等、測絵、獣医、衛生、蚕桑等八十数校の学校が参加した。競技の行われた種目には競走、武装競走、体操、球技、球類運動、舞踏、武術、馬術等、69種目があった。その中で武術は撃剣競争、刺槍競争、柔術競争の三種目が含まれていた。ここで言う競争とは、試合の意味であり、現存の史料では限界がありどのように試合したのか判断できないが、30年代の資料によると、擊剣競争は樹脂でできた竹刀の様なものを用いて互いに打ちあう試合であり、刺槍競争は搶頭(槍先)を外して戦う試合であった。また、柔術競争とは実際には角力の試合で
あった。1910年湖南長沙で第二回公立、私立学校連合運動会が行なわれ、国技を競技種目の一つとしたのである。これらの運動会で設置された武術の項目の中からも、当時、一部の学校において体育課或いは体育活動等の形で武術がすでに取り入れられていたことがわかる。つまり、学校の体育課程の中へ武術の授業の設立を押し進める動きをはっきりと示していた。
 このように、当時武術は一部の学校の体育課の中に取り入れられつつあったが、武術そのものの発展から見ると、普通学校の中に取り入れられていくまでには相当の困難があったと言わざるを得ない。まず第一に、学校体育において武術の授業を行う上での研究がなされていなかったことがある。一般に学校体育における武術の授業は民間伝統技藝の延長線上にあり、後にある人が以下のように指摘している。“わが国では以前から文を重んじ武を軽んじてきたが、庚子之変(1900年の義和団運動を指す)等もあり、旧来の武術のことを敢えてロに出す人はいない。練習している人々もいるとはいえ、個人の身体のために行っているだけであり、教授方法の研究は欠如しており、団体を対象にしたり、学校に取り入れようとするならば困難は倍増するであろう。第二にその時代、武術に関する科学の研究もまた為されておらず、多くの場合は一般的に健康になる、といった程度の認識しかもたれていなかったため、武術に対する誤った認識も多かった。20年代までも体育界の人々の多くは“国術は陳旧な項目で、すでに時代の流れに合致しなくなっていると孝えており、これを提唱する人の数となると非常に少なかった。”このことは、学校体寿として取り入れられて行く上で障害となっていた。さらに、第三に、学校課裎としては教材が必要であったが、一部の明清時代の著作以外には武術教育に関する新しい著作がまた為されていなかったから、このことは武術の普及をますます困難なものにしていた。一方では、西洋体育に関する著作の翻訳や、これらを紹介する目的の著作が絶えず出版されておゆ、光緒26年(1900年)に湖北武備学校が出版した『湖北武学』ではドイツの軍隊休操と日本の中学校と師範学校で教えられている普通体操が系統的に紹介されており、それぞれの動作毎に説明と、要領、合図の拍子が示され、挿図が付されていた。光緒30年(1904年),上海広学会が出版した『体育図説』は上•下巻に分かれ、上巻では徒手体操、下巻では哑鈴練法を解説し、いずれも図が付けられていた。しかし、当時武術に関してはこうした類の本は未だに出版されてはいなかった。
 このような状況にもかかわらず、武術は中国の伝統体育項目として一部の学校において非常に重要視されていた。特に1909牛から(清朝の滅亡3年前)全国に広まったルジョア革命運動が発展していったことと、西洋体育が絶え間なく中国に入り込んでいったことに伴って武塾や武道場が中心となった武術教育形式は徐々に変化を生じでいった。1911年6月、北京で開催された近代中国における第一回の全国教育会議において,“高等小学以上では拳術を併せて学ばなtナればならない”という内容が『定軍国民教育主義案(国民に対する軍事教育を求める提案))』中に盛り込まれることになった。これは、各方面から練武(武術の練習)が提唱され、圧力が高まってきた結果決議案に入れらたものである。そして、この基礎の上に、民国初年、教育部は武術を学校課程の中に盛り込むことになった。

林伯原『近代中国における武術の発展』PP.181-183

 

関連する過去メモ

zigzagmax.hatenablog.com

 

ジャッキー・チェンが黄興を演じた映画「1911」

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〇 井波律子『中国侠客列伝』

「結びにかえて」で秋瑾について紹介 「宝刀歌」の一部の日本語訳もある

中国侠客列伝 (講談社学術文庫)

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 2017.7.29

1.の部分に、高嶋航『「東亜病夫」と近代中国(1896–1949)』からの引用を追加。

2017.8.20

1.の最後に、唐豪の『行健斎随筆』の「記日本柔道家嘉納廣瀬湯浅本田」についての情報を追加

国際武術文化伝承者

去る5月、香港に本部をおく国際武術文化研究院が、「国際武術文化伝承人」の認定を行なったというニュースが流れてきた。

 

2017年の認定は4回目の認定で、今回認定されたのは以下の15人 

名前と地域だけでも、邵智勇は紅拳の人だとか、程克锦は陳式太極拳の人らしいと調べられるけれど、もう少し各個人についての情報を公開してもらえるといろいろ理解が広がるのに、とやや残念に思う。

第四批国际武术文化传承人命名表彰大会在中山举行 - 武林快递 - 中国民间武术家联谊会

 

陕西 邵智勇

香港 程克锦

加拿大 孙满长

河北 王涛

安徽 李存明 徐亚国

陕西 肖春龙

新疆 王新建

广东 崔陆军、董绳周

山东 刘昌迎

贵州 刘安琪、冯娟

福建 黄岩

山东 尹正华

 

陕西 邵智勇の紅拳

www.youtube.com

 

ついでに過去の認定状況について確認しておくと以下のとおり。 

(すっかり忘れていたけれど、第2回目までは過去にもメモしていた。)

なお、国際武術文化研究院の中国国内における運営機構(中国以外にもあるのかどうか未確認)は華夏武術文化発展中心で、同中心の主任が馬俊祥。馬俊祥の名前は、2014年の武術文化伝承任人の第1回認定者の中にも見えるけれど・・・こういうのをお手盛りっていうんじゃないのか・・・という気もする。

 

第3回(2016年 15人)

第三批国际武术文化传承人命名表彰大会在北京举行_马俊祥武术_新浪博客

辽宁 李宗贵

江苏 彭碧波

河南 张勋华

广东 马全平

内蒙 古王换军

贵州 潘辅江

黑龙江 陈杏芳

新疆 童嘉昊

黑龙江 马俊恩

河南 陈长虹

广东 龙刚

福建 许玉丰

香港 龙乃菁

河南 魏瑞虎

河北 张岩军

 

第2回(2015 20人)

第二批国际武术文化传承人名录__武术世界网---华夏国际武术联盟官方网

新疆 赖宝珊

北京 白义海

吉林 沈延光

江苏 葛瑞麟

甘肃 雷多仓

云南 桂翠艳

内蒙 古苏和

新疆 张静

贵州 牟贵萍

广东 关亚丽

黑龙江 王洪武

湖北 蔡光际

浙江 李立奇

山东 刘新敬

河北 翟云岭

福建 曾建凯

江西 左敏

山东 靳宗福

广东 陈绍南

贵州 李沅彪 

 

第1回 (2014年 15人)

2014首批国际武术文化传承人命名表彰大会在广西举行__武术世界网---华夏国际武术联盟官方网

天津 霍文学(八极拳)

河北 丁新民(武式太极拳)

甘肃 李森林(西棍)

广州 李新华(龙形太极拳)

河北 郭铁良(通臂拳

湖南 马俊祥(苗刀)

广东 甘水全(洪拳)

山东 黄凌魁(文圣拳)

吉林 马秀芝(八卦掌

湖南 龙家雄(鬼谷神功)

湖南 陈土送(瑶王武术)

重庆 黄先友(混元太极拳)

山东 魏续福(佛汉拳)

贵州 赵祥麟(杨式太极拳)

广东 陈秋生(陈式太极拳)

 

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