中国武術雑記帳 by zigzagmax

当世中国武術事情、中国武術史、体育史やその周辺に関する極私的備忘録・妄想と頭の体操 ※2015年2月、はてなダイアリーより移行

寇運興2 曹振譜、許昌国術館など

インターネットで調べものをしていて、許昌国術館の徽章の画像がヒットしたので、画像の掲載されているページを見て見たら、ベルリンオリンピックにも参加した寇運興が館長を務めたと書いてあった。

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以前に興運興についてメモしたときに見た記事では、彼は第一届国術国考で優等三十一名に入賞して、河南に戻ったあとは河南省国術館の教官になったと書いてあったけれど、許昌国術館のことには触れられていなかった。そこで、改めて中国武術人名辞典の興運興の項を確認してみたけれど、許昌国術館の事にはやはり触れられておらず、興運興が実際に館長を務めた時期があるのかどうか、いまひとつよくわからなかった。(許昌は彼の出身地なので、名誉職としても有り得ない話ではないと思う。)

 

以下の全球功夫網の記事などによると、1929年に設立された許昌国術館の最初の教務主任は興運興の師の曹連生(字は振譜)であったことがわかる。曹振譜は1924年開封から許昌に来ており、許昌の武術家で査拳を得意とした虎軍山、河北は滄州出身で紅拳を得意とした張茂林と意気投合して、すでに武術の基礎のあった興運興や郭紹芳、楊萬青、葛心如らが曹に師事したのだという。

第1届国術国考が開催される前年の1928年には河南省の競技会があり、寇運興は「対刺」の第一位、郭紹芳は徒手の第二位、葛心如は第三、李合坤は第四、張武徳は第六、楊万清は第16位になっている。選考の意味を兼ねていたのかどうかよくわからないけれど、第1届国術国考には同競技会の優秀者がこぞって参加し、曹振譜も引率者として南京に赴いたようで、興運興のほかに郭紹芳が優等、楊万清が中等に入賞したのだという。

《万順鏢局》与许昌东亍街武术 - 全球功夫网

  

そういう目で第1届国術国考の入賞者の名簿をみると、許昌からは、興運興のほかに郭運昌が優等、楊萬清が中等に入賞していること、預試に「葛性如」の名前があることが確認できる。郭運昌が「郭紹芳」と同一人物だとすれば、すべて辻褄が合う。

(「預試」の中に、「郭昌運」という名前があり、やや紛らわしい。)

 

なお、未確認だけれど、『河南文史資料23期』(2003)には当時92歳の郭力(郭増蓮)が武術生涯を振り返った「我和我的武術活動」という文章が載っているらしい。未確認だけれど、郭力(郭増蓮)は、郭紹芳の娘で、寇運興の教え子でもあり、1933年の第2回国術国考で優秀な成績を残している。なんとかして入手できないかなあ。

 

その他、曹振譜に師事した李合坤と張武徳は、以下の記事によると、もともと張茂林の教え子だったようで、のちに馮玉祥の部隊に参加している。

1929年冯玉祥将军在许招贤纳士,张茂林、徒弟李合坤、张武德任命为抗日大刀队的武术教官。

传承红拳文化 推动武术发展—建安区举办红拳推广普及班 - 太极网

 

冒頭の許昌国術館についてはよくわからなかったものの、寇運興の開封時代の教え子の一人・曹徳坤(蟷螂拳家の曹徳坤とは別人)の話を、曹路という人が聞き取ってまとめたと思われる文章があった。それによると、曹徳坤は日中戦争時代に西安に避難して、西安では武術を教えていたものの、戦後に故郷に戻ったあとは、もう武術が必要な時代でもないだろうということで、開封では自分の子供にもいっさい武術を教えなかったらしい。「豫劇大師」常香玉も寇運興の「入室弟子」であるとのこと。この人は、相当人気があったようで、逆に文化大革命では苦労もされたらしい。

 

以前に、山西省の省考と国考の関係についてメモしたけれど、今回は河南の省考と国考の関係がわかった。ほかの地域についてもこんな感じで、いろいろと背景がわかってくるといいなあ。

 

曹振譜に関していえば、開封に来るまえに北京で鏢師をしていた時代のエピソードなども知りたいところ。

 

〇寇運興の娘の寇鳳仙(左)

出典:农家女拜师苦练二十余载 终成“武子梅花拳”传人-手机大河网