中国武術雑記帳 by zigzagmax

当世中国武術事情、中国武術史、体育史やその周辺に関する極私的備忘録・妄想と頭の体操 ※2015年2月、はてなダイアリーより移行

ベルリンオリンピックの国術代表団4 幻の山東代表? など

山東国術館について紹介した記事を見ていて、以下のような記述があるのに眼がとまった。

 

…据张香圃(济南太乙门传承人)回忆:(1985年《少林武术》第三期记载)1936年林秉礼、佟顺禄、张香圃、马洪智、赵玉庭五名山东选手被选拔为参加第十一届奥运会的“世运选手”,前往德国柏林进行武术表演,服装做好以后,因为经费得不到解决未能成行,抱憾终生。

旧山东省国术馆风云逸事_中国传统文化社区_才府

 

1936年のベルリンオリンピックの代表選抜については、以前に予選参加者までメモしたけれど、そのときに見たウェブ上の文章(原典不明)には、駐日留学生監督处を含む7機関と、25人の予選参加者の名前があったものの、山東から予選参加者がいたとは書かれていなかった。

代表選抜の経緯から、最終的には実現に到らなかったということなどわからないけれど、とりあえずメモしておく。

名前のあがっている5名のうち、林秉礼(字は経三)は第2回国術国考の拳術甲等で第一位、佟順禄は1935年の中華民国第六届全国運動大会の摔跤中量級で、卜恩富、宝善林に継いで第三位に入賞者している。張香圃というのは太乙門という流派の人らしい。のこる馬洪智、趙玉庭についてはいまのところ手がかりなし。

 

〇 林秉礼

wudangtaiyimen.com

 

〇佟順禄

baike.baidu.com

 

〇張香圃 

blog.sina.com.cnh

 

***********

 

冒頭の「旧山东省国术馆风云逸事」の記事で改めて気づかされたのは、山東省国術館と馬良の軍士武術伝習所(技術隊 1914設立)、山東武術伝習所(1917年設立)の関係。武術伝習所の活動は1925年まで続いているようだけれど(注1)、山東省国術館の設立は1929年4月だから、山東省国術館が武術伝習所の活動を直接に引き継いでいるわけではないけれど、山東省国術館で副館長の竇来庚は高鳳嶺が武術伝習所で教えていたときの弟子であるなど、一定の関係があることが改めてわかった。

 

なお、山東武術伝習所の教官の中に王子平の名前が見えるけれど、王子平は『中国武術百科全書』の昌滄による人物紹介に

光绪二十六年(1900)义和团失败,他亦因避嫌出走济南。初以行商为业,往来各地,每到一地,多着意寻访武术名家,求学各门技艺;后弃商从戎,投济南镇守使马良兴办的军事武术传习所学习,从执教该所的查拳大师杨鸿修精习査、滑、炮、洪等拳及弹腿诸艺技。

とあり、軍武(事)武術伝習所を経て山東武術伝習所の教習になったことがわかる。このことについて書いてある資料が少ないように思うけれど、それは最終的には漢奸として捕らえられ獄死した馬良と王子平の関係を敢えてわからないようしているのかもしれない。

 

なお、ここでは詳しく書かないけれど、李景林が設立間もない中央国術館を離れて山東省国術館館長に任じた経緯についても諸説あるようで、李景林の青幇大字輩としての身分や「武當剣」めぐる思惑との関係で論じたものなどがあり(注2)、とても興味深いと思う。なにが正しいのかまだよくわからないけれど、そのあたりも含めてちょっと注意しておきたい。

 

(注1)

以下の記事では、1922年12月に「解散」し、総教習の韓愧生をはじめ、教習の王子平、楊明斎、恒秉毅などは青島に定住し、韓愧生は国技学舎、王子平は中華武術社を設立したと記しているけれど、張健『斉魯講武史話』では武術伝習所の活動は1925年までとしており、1922年以降も上海の全国武術運動会(1923)、第十一届華北運動会(1924年4月)、第十二届華北運動会への参加の事例が紹介されている。このあたりは要確認。

 

arc.dailyqd.com

 〇張健『斉魯講武史話』

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(注2)

李景林的青帮身份与国术界地位と同ブログ内のほかの関連した文章を参照。

 李景林が青幇の一員であることは、渡辺惇「都市下層民と幇会・黒社会」(天津地域史研究会『天津史』所収)でも言及されていた。

  

 

 

 

 

中華武士会とその周辺の日本関係者

掲題のテーマに関連して直接的、間接的に関係のある人々の情報が少しずつたまってきたような気がする。まだ頭が整理できていないので、注釈を連発してしまっているけれど、とりあえずのメモとして。

 

1.呉汝綸、杜之堂

 呉汝綸は1889年、李鴻章の推薦により当時の河北省の最高学府、保定の蓮池書院の長となる。

 蓮池書院には、宮島大八、中島裁之らが訪れ、それぞれ張廉卿、呉汝綸に師事している。後述の鄧毓怡は蓮池書院で英語と日本語を学んでいるけれど、宮島や中島に教えてもらったのだろうか。

 呉汝綸は1902年、4カ月の日本視察を行っているけれど、このときに門人の杜之堂も来日し、杜之堂は1905年まで早稲田大学で学んでいる。

 杜之堂はのちに中華武士会の張恩綬(後述)に招かれ、李存義口述『五行拳譜』をはじめ中華武士会の教材を編集・記録している。

 

 呉汝綸は日本視察からの帰国後、北京大学の前身・京師大学堂の学長(総教習)になるとともに、北京で再会した中島裁之の北京東文堂設立を支援。

 若干横道にそれるけれど、北京東文学堂で教鞭をとった日本人(日本教習)の表が劉建雲「清末の北京東文学社 ---教育機関としての再検討---」に載っている。

  このなかで、在籍期間はそれぞれ開設当初の三カ月程度ながら、当時陸軍予備役曹長だった武歳熊次郎が体操、慶應義塾出身の倉田敬三が課外活動で柔道を教えたらしい(汪 向栄 著、竹内実監訳『清国お雇い日本人』P.273)。その他、体操教師としては、1906年に着任した斎藤伝寿という人物は、東文堂の経営が行き詰まって中国側に譲渡されてからも留任したようだけれど、『清国お雇い日本人』の1909年時点の日本教習の表では、天津の音楽体操伝習所にやはり体操教師として名前が見える。清国駐屯軍司令部編『北京誌』(1908)の北京東文学社の紹介にも鈴木直人とならんで教員として名前がでている。『北京誌』の紹介によると、同社は専門科(二年)、普通科(三年)のほか、附属として体育会を設けており、「二ヶ月の速成教育を以て体育音楽を教授」していたらしい(同P.264)。

この人物について、いまのところそれ以上の詳しい情報はないけれど、やや気になるところ。

 

〇呉汝綸

 呉汝綸 - Wikipedia

 

〇杜之堂 

 http://wgwushu.com/thread-1564-1-1.html

 天津武林史话(29)文韬武略的杜之堂_搜狐旅游_搜狐网

 

〇蓮池書院を訪れ張廉卿に書を学んだ宮島大八とその家族 

宮島家 - 善隣書院

http://tohhigashi.fc2web.com/miyajima.html

 

〇 呉汝綸と中島裁之、北京東文堂については、汪 向栄 著、竹内実監訳『清国お雇い日本人』が参考になった。

  日本教習の数は多かったが、玉龍混雑、玉石混交であった。人格高尚で人に尊敬されるものもあれば、品行下劣で聞くに耐えず、中国の人士に大きな反感を抱かせるものもいた。東文学社を創設した中島裁之はその著『東文学社紀要』でかなりの紙幅を割いて、こうした醜聞や不良行為を記述している。中島は、日本教習の間で一連の喧嘩や暴力沙汰、甚だしきは日本刀を持ち出しての騒ぎという事実を述べたあと、こういう感慨を漏らしている。「この騒動の始終は、寄宿学生の看観する所にして、甚だ不体裁を極めたり」

 中島はおよそ想像もつかないようなことも記している。たとえば、一部の日本教習に授業ボイコットを扇動し、学校の備品を密売して私服を肥やそうとした者がいたこと、刀剣を振り回して他人を脅迫するものなどである。そして学生たちに「日語は誓って学ばざる可し。かくの如く乱暴なるものの下に学ばば国民は滅びん」とまで言わしめた。この激昂した言葉からも日本教習が劣悪な印象を与えたことが想像される。

 こうした状況に対して、中国人ばかりでなく、日本人、そして日本教習自身もこれに対して強烈な不満を表明している。・・・ P.149 

清国お雇い日本人

清国お雇い日本人

 

 

2.葉雲表

叶云表

出典:http://his.tsingming.com/yeyunbiao/

 同盟会員で中華武士会の初代会長。

 山口高等商業学校に学んでおり、同校に明治42(1909)年から43(1910)年在籍の清国留学生部予科37人の中に名前が見える(注1)。

 

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 留学先が山口というのがやや意外な気がしたけれど、「说说中华武士会会长叶云表_朗照八极_新浪博客」によると、葉雲表が山口に留学したのは、葉と同じく白洋橋村の鄧家学館で学んだあと蓮池書院に進み、初代の公費留学生として法政大学に留学した梁建章のつてをたどってのことであるという。上述の北京東文堂にはごく短期間ながら、のち山口高等商業学校の教授になる西山栄久が含まれているのもなにか縁があるのかもしれない(注2)。

 明治末期に東京につづき神戸(1902)、山口(1905)、長崎(1905)などに設立される高等商業学校のなかでも留学生の数は山口が飛びぬけて多かったようで、1907年から1911年までに東京、神戸、山口、長崎の高等商業学校が受け入れた留学生の数は、それぞれ41、7、114、31となっている(注3)。

 鄧家学館出身の日本関係者は、ほかにも天津武備学堂から陸軍士官学校に留学した張紹増(張紹曽)、梁建章の紹介で蓮池書院で学び、のち早稲田大学に留学した鄧毓怡(後述)がいるらしい。 

 中華武士会の設立にかかわり、初代会長に任じたあとの葉雲表の足取りについて詳しいことはわからないけれど(注4)、1914年には郝恩光を伴って再び来日し、中華武士会の東京分会を設立したことになっている。さらに中央工商会議代表、1918年8月には国会衆議院議員に選出されたという。

 1930年代には梁漱溟の郷村建設運動にかかわったり、山東省国術館の設立準備にも携わったと書いているものもあるけれど、山東省国術館との関わりの詳細は未確認(注5)。

 

(注1) 

国会図書館の『山口高等商業学校一覧. 明治42,43年』より。この資料については、

片桐陽先生の示唆による。

国立国会図書館デジタルコレクション - 山口高等商業学校一覧. 明治42,43年

(注2)

『清国お雇い日本人』の1909年時点の「日本教習分布表」では、西山栄久の名前は安徽省安慶の安徽師範学堂に見える。

(注3)

ただし、どの学校においても、卒業まで至った学生は少数であったらしい。

この部分は、王嵐、船寄俊雄「清末における商業系留学生の派遣政策と派遣実態に関する研究」を参照した。

(注4)

 中華人民共和国政治協商会議天津市委員会文史資料委員会編『近代天津武術家』所収の張振発「李式太極拳創始人李瑞東」によると、葉雲表が中華武士会の会長に任じていたのは1912年9月8日からわずか数日。その後、「時局の突然の変化などの理由(原文は「時局突変等原因)」により天津を去ることを余儀なくされ、幹事の身分は残しながら会長を李瑞東に譲ったという(P.72)。時局の突然の変化とは、革命の成果が袁世凱によってかすめとられ、革命勢力の切り崩しが図られたことと関係があるのだろうか。葉雲表や、同じく同盟会員の馬鳳図も、は1912年10月15日華新印刷局が刊行した『国民党燕支部党員録』に名前があるようなので、天津を離れざるをえなくなったというのは、理解できなくもない。

なお、葉雲表の後を継いだ李瑞東は1915年の年初まで会長に任じている。その次の会長は後述の張恩綬。張恩綬の次の卞月庭は当時の天津商会会長で、会長在職はわずか1カ月だけれど、霍元甲の霍家とも繋がりがあり、秘踪拳をやる人とも。

 

〇張振発「李式太極拳創始人李瑞東」より

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〇『国民党燕支部党員録』(1912年10月15日刊行)の表紙と、葉雲表の掲載ページ。

出典:说说中华武士会会长叶云表_朗照八极_新浪博客

 楊祥全『津門武術』は、『天津河北文史』第28輯所収の張俊英「辛亥革命与天津中山路」によりつつ、この名簿に馬鳳図(紹介者は李啓祥と牛楷、職業は「高等商業」 年齢は数え年で25)の記載があることを記している(P.45の注②)。ぜひ実物を確認できたらと思う。

 

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(注5)

葉雲表の経歴については以下のブログ記事に詳しい。

说说中华武士会会长叶云表_朗照八极_新浪博客

中华武士会首任会长——大城人叶云表_朗照八极_新浪博客

 

〇山口高等商業学校についての参考情報 

山口高等商業学校成立

 

3.鄧毓怡

 上記のとおり、法政大学で学んだ梁建章の紹介で呉汝綸の蓮池書院に進むが、義和団事件が起こり、「洋人」に英語や日本語を学んでいた彼は退学を余儀なくされる。

 1901年、呉汝綸が北京で報社(のち華北譯書局と改名)を設立すると、編集を補佐するが、1903年早稲田大学に留学し、1904年帰国。帰国後は啓智学堂、自強女子学堂などを創設。科挙が廃止され、北洋政府が天津に北洋法政専門学堂、北洋女子師範学堂を設立すると、鄧毓怡は啓智学堂などの運営の経験が買われて教員に招かれるとともに、北洋法政専門学堂では「斎務長」(学長)に任じる。 

 その後任が同じ早稲田留学組の張恩綬ということになるのか?

 

〇 鄧毓怡

 

4.張恩綬

 河北省深県出身。保定大学堂から選抜されて1904年に日本留学、経緯学堂普通科を経て早稲田大学政治経済科に進学。深州市人民政府の記事によると、1910年7月に卒業して帰国とあるけれど、楊祥全『津門武術』では1909年には形意拳家の李存義、劉殿琛(文華)の推進のもと、張恩綬と実業家でもと武進士の杜暁峰が深県の同郷籍の退役軍人の同郷組織「軍人会」(同じく李存義が張占魁、李瑞東らと1911年に設立した「中華武術会」とともに、中華武士会の前身とされる)を作ったとしており(P.26)、このへんは情報が少し錯綜している。

 それはともかく、帰国後に任じた北洋法政専門学校では教員、教務主任を経て校長を務め、形意拳家の劉殿琛を招く。劉文華は中華武士会の北京の支部にあたる尚武学社、清華大学でも指導している。

 

 张恩绶-深州市人民政府网站

  

出典:张恩绶生平简介_杜香五_新浪博客

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5. 劉殿琛『形意拳術抉微』の序文

 劉殿琛の著書『形意拳術抉微』には斉樹楷、高步瀛、王道元、江壽祺、張恩綬の5人の序文が寄せられている。プロフィールがよくわからない王道元を除くと、それぞれ以下のとおり日本との接点がある。それぞれの序文のなかにも日本の武士道を意識した語が並んでいることに改めて気づかされる。

brennantranslation.wordpress.com

・斉樹楷

早稲田大学留学経験者で、意拳の故・佐藤聖二先生がブログで書かれていた顔李学派の思想を学ぶ四存学会の設立者の一人。

 齐树楷 - 维基百科,自由的百科全书
・高步瀛

 弘文学院に留学。呉汝綸の門人。

 高步瀛_百度百科

・江壽祺

1906年設立の陸軍大学の卒業生で、日本人を教官とする「兵学研究会」を作って陸軍大学の教官を育成。

 江是安徽潜山人,也是黎元洪的老下属,旧学颇有根基,但对陆大的教育并无多大贡献,仅仅创设了一个兵学研究会。该会为培养中国籍教官而设,挑选本校前三期优秀毕业生入会学习,由日籍教官指导。学员在该会学习半年之后,即在本校充任兵学助教,试任半年合格后,充任兵学教官。该合的创设,开创了陆大教育史上中国教官和外国教官并用的新时期。

陆军大学_互动百科

・張恩綬

 上述のとおり。

 

2017年「全国先進武術之里」「全国群衆体育(武術)先進単位」表彰大会など

最近のニュースから、地方武術協会・武術運動管理中心関係で気になったものを順不同でメモ。

 

1. 「全国先進武術の里」「全国群衆体育(武術)先進単位」表彰大会

12月24日、江蘇省太倉2017年「全国先進武術の里」「全国群衆体育(武術)先進単位」表彰大会が行われた。

この表彰活動がいつから行われていたのか未確認だけれど、

2017年の「全国群衆体育(武術)先進単位」には滄州市武術協会、徐州市武術協会、河南省武術協会、湖南省武術協会、河南塔溝武術学校が選ばれている。

承楚汉雄风 铸武林辉煌 徐州武协获先进武术之乡双喜临门 ——中国武术在线 武林动态

「全国先進武術の里」の方は、リストを公表した記事がまだ見当たらないけれど、

滄州(河北)、温県、登封、義馬(以上3つは河南)を含む10か所の「武術の里」が選出されている模様。

 

2.雲南
雲南武術精鋭百強譜』なる本が近く出版されるらしい。具体的な人物に関する情報が沢山載っていそうなので、出版されたらぜひとも入手しておきたい。

yn.yunnan.cn

 

3.河北
河北省でも『河北省志・武術志』が来年完成の予定らしい。これもお手頃な値段であれば、ぜひとも資料として入手したい。

《河北省志•武术志》即将编纂完成_河北新闻网

 

4.河南

4-1 開封
河南省独自の動きというわけではないけれど、武術運動管理中心の重点研究項目の一つに民間流派の師範の呼称の規範化と管理の問題があるようで、中心人物である河南大学武術文化研究所所長の栗勝夫による報告会が開封で行われたらしい。記事によると、栗勝夫は民間の武師を、育成した学生の数、各種の競技の受賞状況、著述の発表数、その他の内容をもとに「拳師」、「二級拳師」、「三級拳師」の三段階にわけて表彰することが提案されたらしい。この評価基準だと、家伝の武術を「一子相伝」で伝えてきた師匠などは低く評価されることになってしまいそうだけれど、それでよいのかなあ。報告書が公開されるならこれも読んでみたい。

开封市武术协会官方网站

なお、栗勝夫所長の経歴は、河南大学の紹介よりも、百度百科のほうが詳しいけれど、武漢体育学院で学んだあと、上海体育学院修士課程に進んでいることは確認できるものの、博士学位を取得しているのかどうかは不明。博士課程の指導教授(博士生導師)のようなので、どこかで博士学位をとられているのだろう。

 

4-2 焦作

同じく河南省の焦作では、焦作市武術協会、市太極拳協会が41名の市の武術名師を発表した。

具体的には以下の各位。土地柄からいって、陳家溝や趙堡鎮の太極拳の旬な人たちだと思われるので、時間があれば一人ずつ調べてみたい。なお、この選考は2年おきに行われる構想らしい。

王庆丰 张富香 王艳琴 张东武 党国俊

王来卿 冯灵芝 谷慧玲 刘连生 李德兴

陈 明 杨建平 职武营 崔黎明 王 叶

张文忠 段春富 唐有福 张喜欢 张令忠

乞 霖 申建军 张绍均 张 瑞 秦旭普

许秋香 祁俊平 朱吾勇 祁俊东 陈自强

朱天诗 祁俊祥 刘见全 张 军 陈有刚

张海利 马德行

sports.eastday.com

 

5.江蘇

中華民国時代に作られた南京の「中央体育場」の一部を構成する「国術場」の修復プロジェクトというのがあるらしい。

 

www.taiji168.com

 

 

「国術場」は、中華民国第五届全国運動会の国術競技や、第二届国術国考の会場になっている。

八卦をイメージした会場をデザインしたのは清華大学卒業の楊廷宝で、清華大学在学中は「技撃部」の部長を務め、学内の武術大会の剣術の第一位になっているらしい。清華大学の武術教師としては形意拳家の李剣秋が知られている。李剣秋は前後30年にわたり清華大学で指導したらしい。

 

李剣秋が学んだ叔祖(父の叔父)の李文豹、父の李雲山(西票号の鏢師であったとも)は劉奇蘭の弟子の李存義、周明泰に学んだ人のようで、李剣秋は8歳の頃からこれらの「家伝」の武術を学んだという。1912年に23歳で天津の中華武士会に学ぶ頃には相当な腕前だったのだろうか、同年、中華武士会が北京分会ともいえる尚武学社を作ると、劉文華、尚雲祥らとともに指導を行い、1913年からは清華大学で武術教師を務めるようになる。以後、30年にわたり清華大学で武術を教えたようだけれど、途中、南京の中央軍校の教官をつとめたりもしており、この間は父親が代行を務めた模様。(以上の情報は『形意拳術』(1920)の自序や、こちらのサイトを参照した。)

 

なお、「国術場」の復元に携わっている冷天氏は武術とは縁のない人らしく、上の記事で「国術場が50年代に荒廃した具体的な理由はわからない」と語っているのがなんだかおかしい。そんなの、国民党と係わりの深い「国術」自体が否定されていたからに決まってるのに。

"国术场"是上世纪50年代开始荒废的,但具体是哪一年、什么原因荒废的,目前还没有查到精确的史料。” 

 

ちなみに、日本との戦争が終わると1945年のうちに国立体育専科学校が天津に移ったようだけれど、1948年に総務主任の龐玉森らは中央国術館再建のための献金を企画、再建に十分な十二万元を集められるめどがたっていたらしい。しかし、これらの献金を得るまえに天津が「解放」され、再建は実現されなかったということが『武術在線』の「天津武术组织」という記事に書かれているのが興味深い。もし国術館がこの時点で復活していたら、その後の中国武術史はいまとは全く違ったものになっていたかもしれない。2018年は、もっとそのあたりを調べていけたらと思う。まだまだ妄想はつづく。

需要注意的是,1948年,庞玉森等为了恢复中央国术馆,在天津还发动了一次建馆基金募捐委员会,托由华生贸易公司总经理毕鸣岐、中西制药厂总经理刘霁岚宴请仁立毛纺厂总经理宋裴卿、大丰面粉厂总经理孙冰如、东亚毛纺厂总经理陈锡三等人,当场认捐十二万元,足够重建中央国术馆。但捐款未到手,天津就解放了。

http://www.chinesekungfu.com.cn/html/1209/38f39fe6-9949-4fd4-bc88-66feae23cdc5.htm

 

〇「国術場」の図面

出典:85岁“国术场”有望首次修缮_中国太极拳精英网

 

清華大学1920年代の体育部教師 前列一番右が李剣秋

出典:1911-1928师资概况—清华大学—百年体育

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〇楊廷宝 代表作は人民大会堂、中国革命歴史博物館、毛沢東紀念堂など

 天安門広場の中央の重要な建築物ばかり

出典:1911-1928培养人才杨廷宝—清华大学—百年体育

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以下は国術場(牌楼含む)の写真が充実したサイトのリンク

 

https://read01.com/zh-my/j5n8j0.html#.WkcDyVVl-Ul

南京这所民国范的大学,藏在紫金山里,却是世界冠军的摇篮!-微众圈

 

 

大陸浪人、日本人馬賊、革命派、精武会とボクシング・柔道など 

同じ時代のことだから当たり前といえば当たり前だけれど、いろいろ関心をもっていることがなんとなく繋がってきた。それぞれ掘り下げてゆければ大きなテーマに発展する可能性があるものの、とりあえずのところ連想ゲーム的にメモ。

 

1. 日本人馬賊-小日向白朗
日本人の馬賊といえば小日向白朗がいる。

合気道小林道場のブログによると、生前の小日向氏を訪れた関係者は、本人から、

馬賊時代の活躍の話、合気道創始者植芝盛平翁先生が大本教出口王仁三郎教祖と満蒙に新国家建設で行かれた時、張作霖に捕まり処刑寸前の時、解放に奔走した話又昭和30年時代の右翼の親玉として政界の裏話な(ママ)で聞けた

という。上のようなテーマについて彼が語った内容は、どこかにまとめて出版されていたりしないんだろうか。

shihan.exblog.jp

 

2. 工藤忠-陳其美 

 小日向白朗のことは渡辺龍策馬賊』をはじめ、いろいろな本に紹介されているので以前から知っていたけれど、最近になって、溥儀の侍衛長を務めた工藤忠(鉄三郎)も、「白狼」の軍に参加していたことを知った。

工藤忠資料から見た民国初年の白狼軍(白朗軍)

 

そこで、工藤忠の伝記『溥儀の忠臣・工藤忠 忘れられた日本人の満洲国』を読んでみた。

溥儀の忠臣・工藤忠 忘れられた日本人の満洲国(朝日選書)

溥儀の忠臣・工藤忠 忘れられた日本人の満洲国(朝日選書)

 

 
 とても情報量の多いこの本の中で、精武体育会の設立者の一人で「孫文の懐刀の一人」(注)で青幇の棟梁でもある陳其美について、上海の山田純三郎の家で暗殺された、と書いてあるのに目がとまり、改めて革命家陳其美と精武体育会の関係について調べていたら、以下の記事にたどり着いた。

wemedia.ifeng.com

 

霞山会の公式ウェブサイトの「山田 純三郎 「死せる良政、いける純三郎を奔らす」」(栗田 尚弥)より 一般財団法人霞山会

なお、山田純三郎は山田良政の弟。

 

3.体操会から体育会へ 精武会の「転型」

 上の記事によると、精武会は、陳其美の主導のもと、設立当初はたしかに清朝転覆を目指す同盟会の准軍事団体として機能することが構想された面があったが、その後、清朝転覆は実現するものの、袁世凱による革命派の切り崩しがなされるなかで、陳其美自身が暗殺されると、かわって運営を担うことになった陳公哲らによって、「体育」的側面をより前面に押し出す形で会の「転型」、立て直しが図られたらしい。記事では、会の名前が、(「兵式体操」の語(日本由来だろう)のように軍事との関連を想起させる)精武「体操」会から「体育」会に変更されたこともその点と関係があると説明されている。

 実際のところ、その後の精武体育会の活動は、音楽や書道から、写真撮影、弁論術まで、「体育」に納まらない幅広い人材育成・社会教育に及んでいる。中央国術館の成立後の1929年2月、上海市教育局が国術館との合併を提案すると、自分たちは社会教育団体であり国術団体ではないので、国術館と合併する理由はない、と反論し、これを逃れているのもうなずける(注)。

 

注 以下の記事より。

 1929年2 月又出风波,上海市教育局以训令,转令上海特别市政府3702号训令,要精武体育会与中央国术馆合并。行文下达后上海精武体育会据理力争,至函上海市教育局申述理由,指出:“敝会纯为社会教育团体,与中央国术馆所指为国术团体截然不同,实无并入之必要。”由于精武体育会是有广泛影响的社会团体,经多方周旋,当局同意,免予合并。

出典:

https://bbs.sjtu.edu.cn/bbsanc,path,%2Fgroups%2FGROUP_2%2FShanghai%2FDC1DF0CAF%2FD5310EDC3%2FM.1165032315.A.html

  

4. 精武体育会とボクシング

 精武体育会の知られざる歴史を紹介する上の記事では、そうした話のほかに、30年代の精武体育会とボクシングの話題も取り上げられていて興味深かった。

 具体的には、広東生まれでオーストラリアにわたり、現地でボクシングのタイトルをとったあと1928年に帰国して精武体育会でボクシングのコーチを務めた陳漢強と、彼がそだてた鄭吉常、周士彬の二人が紹介されている。

 このうち鄭吉常は、もともと精武体育会のバスケットボール、バレーボール競技に欠くべからざる人材で、さらにボート競技にも出ていたということなので身体能力の高い人だったのだろう。とくに武術のことにはふれられていないので、中国武術はやっていなかった人なのかもしれない。(詳細は不明ながら、仮に陳漢強がそういう武術と関係のない人を敢えて育成対象として選んだのだとすると、それはそれで興味深い。)

 

〇陳漢強(後列中央)、鄭吉常(前列左から2番目)ほか

 出典:热血“精武门”的真实历史: 霍元甲与陈真只是故事的开头


 もう一人の周士は、やはり武術との関係はわからないものの、ボクシング以外に摔跤や柔道などの格闘技を学んでいた人らしい。

 特に柔道に関しては、『話説摔跤与上海』によって改めて確認してみると、大日本武徳会の上海分会で学んだ、と出ていた。

 

 〇周士彬

 出典:热血“精武门”的真实历史: 霍元甲与陈真只是故事的开头

 

4.日中戦争期の上海の柔道

 第日本武徳会の上海分会における柔道については、上海市地方志弁公室のサイトに短い記事がある。どうやら日本が上海を占領したあと、精武体育会の本部が大日本武徳会の上海分会となり、精武会堂が柔道場として使われたらしい。

:::: 上海市地方志办公室 上海通网站 上海市地情资料库 上海市的百科全书::::

 指導者の具体的な名前は記されていないものの(注1)、有段者数名が主として在留邦人の指導にあたっており、一部中国の学生も学んでいたとのことで、中国人学生のなかに上記の周士彬の名前も挙げられている(注2)。

 また、同記事によると、武徳会は中西女中(市三女中)に分会を設けていたようで、そこの責任者(主持)は道上柏であったとかかれている。

 道上柏については、『ヘーシンクを育てた男』という伝記が地元の図書館にあるのを読んだことがあり、上海の東亜同文書院で柔道を教えていたことをこのブログでもメモしていたけれど、上海に大日本武徳会支部があり、そこでも指導していたとは書いてなかった気がする。このあたり、日本側と中国側の資料をつきあわせることで、まだまだいろいろな発見ができるかもしれない。

zigzagmax.hatenablog.com

 

(注1)

設立関係者らしき人物として「納嘉魯」という名前が見える。

(注2)

名前がでているのは蒋恵濂、楊傑民、林永傑、周士彬。

蒋恵濂は30年代の上海のプロボクサーとして知られている一人で、晩年指導しているときの動画がある。

www.youtube.com

 
5.日中戦争期の日中武道交流
 少し視野を広げ、戦前の柔道関係者の日中交流ということでは、最近気がついた名前として中国回教総聯合会の初代首席顧問を務めた講道館の高垣信造がいる。

安藤潤一郎「日本占領下の華北における中国回教総聯合会の設立と回民社会」


 高垣氏は頭山満の紹介により、直前までインド、アフガニスタンで柔道を教えていたらしいけれど、それまでの中国との関係についてはよくわからない。回教工作ということで、イスラム圏に理解のある高垣氏が担ぎ出されたような印象も受けるけれど、顧問に就任して北京滞在中に中国武術家を含む中国人との間で、なにか面白いエピソードはなかったのかなあ、と妄想が膨らむ。

 

 柔道家中国武術家の交流ということでは、牛島辰熊が北京で摔跤の人たちと交流していることが、松田隆智の本にも載っているらしい。

 松田氏の本については未確認だけれど、そのことは手元にある本の中では『京跤史話』でも紹介されていた。1941年に北京で宝三(宝善林)、孫栄らと交流しているようで、牛島の天橋訪問からはじまった交流は、「新民会」での柔道、摔跤交流に繋がったらしい。牛島が実際に誰と戦ったのか、とか、どっちが勝った負けたという点については諸説あるようだけれど、武道家同士の気持ちのよい交流であったことが伺える。「さまざまな原因により、数年来このことにふれる人は少なくなってしまった 由于种种原因,多年来很少有人提起」(P.69)なのはとても残念なことだと思う。なお、同文章では、当時の北京にいた柔道の「高手」として、八田一郎、安平光兆大佐、沢井健一、小林、佐藤等の名家」が挙げられている。

 

bbs.tianya.cn

 

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中華民国第六届全国運動大会(1935年)の摔跤中量級の入賞者の写真

 左から「卜恩富、宝善林、佟顺禄、孙荣、许麟左锡五」(もとのキャプション)「许麟左锡五」は「许麟」と「左锡五」のことか?

 出典:https://baike.baidu.com/item/%E4%BD%9F%E9%A1%BA%E7%A6%84

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中国国術と西洋拳撃の対抗戦(1943)2 (何金章)

以前のメモで、1943年に蔡龍雲も出場したボクシングと中国武術の対抗戦の際、一部の記事では当時の蔡龍雲の年齢を14歳と書いているけれど、15歳が正しいのではないかという疑問を書き留めておいた。

zigzagmax.hatenablog.com

この点に関して、蔡龍雲自身が生前、「当時、わたしは満十五歳で、中学生だった。一部のメディアは14歳と報じているが、正しくない」と語っている記事を見つけた。

 

…当时我刚年满十五周岁(1928年11月生),在初中读书。他说,有些媒体说是“刚十四岁”,这是不准确的。

出典:镇江第一综合性门户网|中国镇江金山网 国家一类新闻网站 - 诚博娱乐_诚博娱乐直营官网_诚博娱乐pt下载

 

同じ記事のなかで、蔡龍雲は、「第一ラウンド開始の笛が鳴る前に頭部にフック(貫耳拳)を仕掛けてしまって、レフェリーと会場中の観客から笑われてしまったんだよ」(かなり意訳)、という秘話(笑)を語っている。 

第一回合,“还闹了一个笑话”,蔡龙云笑着说,“哨子还没有吹响,我就上去就是一个‘贯耳拳’!”裁判笑了,满场观众也笑了。

また、蔡龍雲は、「私が華拳の打法を用いたという人もいるが、実際のところ、すべては臨機応変に対応しただけで、何々拳の技というものではない。套路の練習と散打は別ものだからね」(これも意訳)と語っていて、なかなか興味深い記事だと思う。

有人说我用的是华拳打法,其实,一切都是随机应变,无所谓什么拳法。练套路与散打不是一回事。

 

蔡龍雲を含む対抗戦の八人の名前も語られている。そのメンバーは

白玉山,孙宝瑞、何金章、潘梓明、张玉峰、丁虎生、黄纪昌、蔡龙云 

 で、最年少の蔡龍雲の活躍はよく知られているとおり。

この対抗戦は、中国側の八勝零敗だったのが、外国人のレフェリーは中国側の五勝二敗一分と宣告したとのこと。

 

 蔡龍雲以外の七名についてはあまり情報がないけれど、何金章は広東の武術世家の出身で、蔡龍雲の父の蔡桂勤が1920年代、広東の国民政府大元帥府で教官をしていた頃に弟子になり、襄樊の国民革命軍の武術教官、襄陽国術館の教官を経て30年代に上海に来た人らしい。蔡桂勤自身も広州を出たあと襄樊、南昌、長沙、開封などを経て1932年に上海に居を定めており、̪この間師徒2人がどういう動きをしたのかは不明だけれど、上海のムーア堂(プロテスタントの教会。慕尔堂とも。現在は「沐恩堂」と記すらしい)国術部では蔡桂勤の助手をしたほか、広東省人の同郷団体と思われる広東同楽会で武術を教えている。1946年の対抗戦ではセコンド兼コーチとして、16歳年下の弟弟子(注)の蔡龍雲を支えている。

 1954年の上海武術界聨誼会の表演会で、洞賓剣、擒拿法(蔡鴻祥と)、華拳対打(おなじく蔡鴻祥と)に名前が見える。

 

何金章の息子・何君崗による

家父自幼跟随蔡桂勤老先生习武,家父比蔡老年长十六岁。

武界精英 一代宗师 —— 纪念我国当代武术泰斗蔡龙云先生逝世一周年_武林资讯-中国武术文化网 邵长华武学院 加华国术馆 龙身蛇形太极拳

 

〇何金章と蔡鴻祥の擒拿

出典:武林先贤一代宗师何金章——写在武术大师何金章先生诞辰105周年之际_武学大师_人物_武博网

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 1945年頃から蔡桂勤を助けて精武体育会でも華拳などを指導していたようで、彼が育てた蘇錦標も精武体育会の教練になっているが、彼自身は文化大革命の際、国民党の軍で武術教官をしていた経歴が仇となり迫害され死に至っている(享年62歳)。息子の何君崗は父の死後、安徽省の淮北での農業に従事しており、のちに淮北市武術隊教練、安徽省武術隊教練を勤めている。兄弟子の息子の動向を蔡龍雲はずっときにかけていたらしい。

 何君崗が、蔡龍雲の死後1年後につづった文章があり、胸にひびくものがある。 こういうものを読むと、技芸の伝承というのは何よりも信頼関係であり絆なんだということがひしひしと伝わる気がする。

 

〇何君崗

出典:何君岗(淮北杨式) - 安徽太极拳

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my.tv.sohu.com

 

〇蘇錦標の追悼動画

v.qq.com

沛声『武林名門尚芝蓉』

掲題の「小説」をネットでたまたま見つけて、読んでみたら面白かったのでメモ。

 

〇全文のリンクはここ。冒頭に、かつて日本で発表されたかのような記載があるけれど未確認。雑誌『武術』で李文彬が尚氏形意拳を紹介していた頃(VHSテープを買った気がする)の話だろうか。

武林名门尚芝蓉

 

話は尚雲祥が夫人を連れて北京に居を構えたあたり(尚芝蓉はその翌年に生まれる)からはじまる。(居を構えるといっても、なんどか転居を繰り返している。)

内容は、筆者が尚芝蓉本人を含む関係者から聞き取ったもののよう。どうやら正式な門人の方ではなく、尚芝蓉と知り合ったのも時期としてはかなり最近のようだけれど、これだけの詳しい情報をどうやって入手されたのか、そのあたりはよくわからない。

 

〇尚雲祥と幼い頃の尚芝蓉(向かって左の少女)

出典:形意拳尚云祥先生之女尚芝蓉拳照_中国传统文化社区_才府

 

幼かったころ、母は、家族の反対にもかかわらず、断固として、尚芝蓉に纏足をさせることを主張。しかし、老齢のため視力がすでに落ちていた母は、足の成長を拘束するはずの手製の靴の制作がうまくゆかず、あやうく纏足にならずに済んだ話(23歳年上の姉は纏足をしている)や、

晩年の尚雲祥が(良性の)腫瘍を患い、皆が手術を勧めたものの西洋医学を信じずに手術をしなかったという話、

尚雲祥の一番弟子で継者と期待されながら早くに亡くなった満洲族の李闊如とその家族の話、

尚雲祥の葬儀で誰が幟と位牌を持つかでもめた話(夫人の判断により、最年長の陳子江が幟をもち、劉華甫が位牌をもつことに。陳子江は年長ながらもともとは郭雲立という別の師について学んでおり古参の弟子ではないことから、この決定に不服の許笑羽は葬列に加わらず)、

尚雲祥の死後、夫人と幼い娘(尚芝蓉)の世話をした李克友(その後、お金を使い込んだと嫌疑をかけられ、一門を去る。尚芝蓉は濡れ衣であったと回想)の話、

尚雲祥の遺骨を故郷に運ぶ途中の善化橋というところで門人の張玉栄に声をかけられ、どうして今日ここにいるのがわかったのかと聞いたら「師匠が夢枕に現れた」と答えたといい、さらにその後ろには後を追うようになくなった李闊如が付き従っていたと聞いて皆不思議がったという話、

一番世代的に近い李文彬との修行時の話、

李文彬の父から学んだ中医の知識が、文化大革命時に「はだしの医者」として役に立ったという話、

文革後期に地元で武術隊が組織され、尚芝蓉にも声がかかるが、それは、「名家」の出身だったからではなく、身分的に問題のない「貧農」の代表だったからという話、

文化大革命後に各地の弟子たちが連絡を再開してゆく経緯、

尚雲祥の碑文をめぐる韓伯言と李文彬のちょっとしたトラブルの話

などなど、面白い話が満載だった。

 

尚雲祥の死後、生計を支えるために尚芝蓉が勤め始めた警察の女子部隊(ただし、上司からのすすめもあり家伝の形意拳は教えず、李文彬にならった梅花拳を教えていた由)には、尚芝蓉とともにもうひとり通臂拳の「王霞林」という女性教官が招かれていたようだけれど、これは「王侠林」のことだろう。北京の警察で教官をしていたという話は『中国武術人名辞典』や『北京武術軼事』にも載っていない話だったので興味深かった。

 

〇向かって一番左が李文彬、右から二番目が呂克友という

出典:一代宗师尚云祥及门生陈子江之轶事,第三方资料提供-文化频道-手机搜狐

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〇韓伯言

出典:http://shangpaixingyiquan.cn/Item/158.aspx

 

〇尚雲祥夫人を囲んで、左から李文彬、韓伯言、伯言夫人、尚芝蓉、劉華甫、王鳳章

出典:尚派形意拳

 

〇文中にでてくる王霞林(王侠林)

出典:http://www.emwsw.com/index.php?m=content&c=index&a=show&catid=21&id=3166

f:id:zigzagmax:20171210104045p:plain

 

 〇尚芝蓉の動画

www.youtube.com

 

https://read01.com/kk6AyP.html#.Wi0XYVVl-Ul

『Retuen of Bruce』、『Legend of the Condor Heroes』など

ブルース・リーが生きていれば77歳の誕生日を迎える11月27日前後に、「そっくりさん」主演の映画を含めて、いろんな情報が流れてきた。

なかでも印象に残ったのは、ブルース・リ(呂小龍)のRetuen of Bruce (『忠烈精武門』)

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出典:Rare Kung Fu Movie Website 2017年11月28日の記事

www.youtube.com

テーマ曲まで利用している念の入れようだけれど、お願いだから帰って来ないでいいです。

 

欧米では、ブルース・リーそっくりさん主演の映画を示す用語として、
Bruceploitation なる言葉があることも知った。

Bruceploitationっていうのは、ブラックスプロイテーションをもじってるんだと思うけれど、以下のページに載っているだけでも33作品あり、立派に一つの映画ジャンルのようになっている。

Category:Bruceploitation films - Wikipedia

 

アマゾンプライムには、ブルース・リ(呂小龍)以外にも、ブルース・リィ(黎小龍)や、ブルース・リャン(梁小龍)の映画もあるみたいなので、とりあえずメモしておこう。英語版で日本語字幕のないものがほとんどだけれど、中には日本語字幕のものもある模様。


********

英語版、ということに関連して、金庸の『射鵰三部作』の英訳がはじめて出版されることになり、翻訳者に取材した記事が「中国新聞網」に掲載された。まず『射鵰英雄伝』の第一巻が2018年の2月に刊行されるらしい。

《射鵰英雄傳》終於有英譯版了!最難譯的不是「九陰白骨爪」

 

A Hero Born: the bestselling Chinese fantasy phenomenon (Legends of the Condor Heroes 1) (English Edition)
 

 

日本語版では「江南七怪」とか「九陰真経」とか、経典の名前や登場人物のあだ名、グループや必殺技や流派の名前まで、漢字のまま、特に翻訳する必要はないと思うけれど、英語にするときは、こういうものを一つ一つ翻訳、原文の印象を損なわないように翻訳しなければならないのは、確かに大変な作業だろう。

「九陰白骨爪」の訳 Nine Yin Skeleton Claw は、陰陽の「陰」だけが中国語の音のまま残っているけれど、この辺にも翻訳の苦労が偲ばれる。

ちなみに、徳間書店から出ている『射鵰三部作』の『倚天屠龍記』では、この「陰」と「陽」に関連して決定的な誤訳があるらしい。

倚天屠龍記 - Wikipedia

 

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考えてみると、こういう翻訳上の問題は、映画や文学だけでなく、武術書を翻訳する場合にも避けてとおれない問題だろう。そう考えたときに、歴史的・地理的な関係は置いても、漢字を(ある程度まで)理解ができる日本のほうが、圧倒的に有利であり、中国武術の理解が進んでいるに違いないと思ってしまうけれど、以前にメモした『単刀法選』の現代語訳をはじめ、アマゾンのページには孫禄堂の『太極拳学』『八卦拳学』『形意拳学』の英訳も並んでいる。さらに、以下のような原典を翻訳して公開しているようなサイトもあり、中国武術の基礎研究は、実は日本より英語圏のほうが「はるかに」(←ここ重要)進んでいて、成果が蓄積されているような気もする。

 

brennantranslation.wordpress.com

 

 
別に張り合う必要はなくて、必要に応じてリソースとしてどちらも活用すればいいだけの話ではあるけれど、日本でもこういった基礎研究を積み重ねていったほうがよいと思うし、歴史的な経緯から見ても、日本にしかできないユニークな成果が生みだせるにちがいないと思う。

 

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なお、エラそうにメモしたけれど、金庸の小説は『書剣恩仇録』『鹿鼎記』以外は未読。
『射鵰三部作』に関しては『射鵰英雄伝』をリー・ヤ-ポン版、『神鵰侠侶』をホアン・シャオミンとリウ・イーフェイ版のドラマ、『倚天屠龍記』は、たぶんそのストーリーのごく一部でしかないジェット・リーの映画『カンフー・カルト・マスター 魔教教主』で見ただけなので、実はあまりよく知らない。
ただ、『射鵰英雄伝』では売国奴で敵役の楊康の息子・楊過が第2作の『神鵰侠侶』では主人公を演じるなど、主人公レベルで正義と悪が入れ替わり、民族の対立を乗り越えようとしているところがとても面白いと思っていた。

これも原作を読んでいないのでエラそうなことはいえないけれどフー・ジュン版で見た『天龍八部』のなかで一番印象に残っているのも、

主人公で契丹人の喬峰(蕭峯)が智光大師に、漢人契丹人も同じ人ではないか、と教えられる場面。原作で探すと、ここの場面か。

“万物一般,众生平等。圣贤畜生,一视同仁。汉人契丹,亦幻亦真。恩怨荣辱,俱在灰尘。”

天龙八部 第二十一回 千里茫茫若梦(5)_梦远书城

同じように、中国人も日本人もわかりあえる、というのは個人的な信念ではある。

 

 

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