中国武術雑記帳 by zigzagmax

当世中国武術事情、中国武術史、体育史やその周辺に関する極私的備忘録・妄想と頭の体操 ※2015年2月、はてなダイアリーより移行

中華民国第六届全国運動大会(1935年) 女子単人比賽入賞者

かつて中国駐在中に、地元の図書館で見つけた『東方雑誌号外 第六届全運会画刊』の、女子国術入賞者の記事と写真に出ている名前を判読しようとして調べていたら休日が半日つぶれてしまった。それでも、なんとか全員判読できたような気がする。

f:id:zigzagmax:20170923091158j:plain

 

f:id:zigzagmax:20170923092121p:plain

判読した結果は以下のとおり。

第1位 山東 楊素清
第2位 青島 姜愛蘭
第3位 河南 劉玉華
第4位 上海 呉俊華
第5位 南京 范之正
第6位 南京 傳淑雲

 

一位の山東の楊素清は、6人のなかで、体格のよさが群を抜いていて、一般女性の中に混じっているダイナマイト関西といった風情。というのは冗談としても、劉玉華や傳淑雲を抑えて第1位だったにしては、その後の活躍についてほとんど情報がないのが不思議。

 

*********

 

第2位の姜愛蘭は『中国武術人名辞典』にでている。最近の経験から、『人名辞典』に書かれていることをそのまま鵜呑みにはできないけれど、査拳八極拳、埋伏拳を得意とし、青島の国術界では、鐘愛蘭、欒秀雲と並んで三女傑と評されていた模様。

青岛不仅浪漫也霸气 王子平击败过美日高手_青岛新闻网站-台东镇网-青岛本土生活服务门户

 

〇『中国武術人名事典』の姜愛蘭の項

f:id:zigzagmax:20170917201409j:plain

 

〇三女傑の一人、欒秀雲とその師・楊明斎についての『中国武術人名辞典』の項目。

欒秀雲と、山東省国術館の田鎮峰の武術の発展・実用性に関する論争についても気になるところ。

f:id:zigzagmax:20170917201727j:plain

 

f:id:zigzagmax:20170917201745j:plain

 

f:id:zigzagmax:20170923140324p:plain

 出典:【图】1936年【汗血周刊】第五卷第九期_孔夫子拍卖网

 

〇劉波『台湾武術四百年発展史』より欒秀雲の剣術と弓術

f:id:zigzagmax:20170918131231p:plain

f:id:zigzagmax:20170924084422p:plain

出典:片桐陽先生からのご提供

 

〇王開文『斉魯武術』から、同じく楊明斎門下の石秀蘭。姜愛蘭、鐘愛蘭とあわせて三蘭という呼び方もあった模様。

f:id:zigzagmax:20170917203639j:plain

 

*********

第三位の劉玉華と第6位の傳淑雲は言わずと知れた、ベルリンオリンピックの参加メンバー。実は女性三人のうち、選抜をトップ通過したのは前回メモした翟漣源で、次が傳淑雲、劉玉華は補欠(備取)。

 

画像に含まれている可能性があるもの:テキスト

f:id:zigzagmax:20170923084246p:plain

出典:武術文史研究 のFBページより

武術文史研究 - 1936 年柏林奧運... | Facebook

 

www.youtube.com

www.youtube.com

〇王広西『中国功夫』より、「参加第11届奥运会国术表演的女选手傅淑云(右),刘玉华演练三合剑,1936年」

f:id:zigzagmax:20170917203725j:plain

*********

第四位は字がつぶれていて判読に一番時間がかかったけれど、呉俊華と読める。最初は真ん中の字が読めなくて、呉〇華、もしかすると(呉鑑泉の長女の)呉英華?と思ったのだけれど、真ん中の字はどうしても「英」には見えなかった。それでも、なんとなく目鼻立ちや立ち姿が面影があるなあと思って調べ続けていたら、呉鑑泉の次女で、門人の李立蓀と結婚したのが呉俊華という名前だとわかった。どうやらこの呉俊華ではないかという気がするのだけれど、呉俊華については全く情報がなく、ましてや第六届全運会に出場したという記録を見たわけではないので、検証は今後の課題。

 

〇呉俊華の姉の呉英華 

「凛とした」という形容がふさわしいような風情

関連画像

出典:哪些长寿太极大师们的秘密。-兴趣部落

f:id:zigzagmax:20170917121047p:plain

出典:传统吴氏太极拳-吴英华演练_鲁缘太极|太极拳|吴式太极拳|山东太极|威海太极|东岳太极

 

〇呉俊華 については、以下のような文章でほんの少し出てくるのみ。

m.xzbu.com

 

 *********

第五位の范之正は河北塩山出身(南京の人とも)で中央国術館の第一期生。雲南省武術協会のサイトの「雲南近代武術名家一覧表」のページに名前が見え、中華人民共和国では建国初期に雲南省武術隊のコーチになったようだけれど、『中央国術館史』の名簿では、「昆明电机修配公司 职工」(P.338)とされている。同じく中央国術館教授班第三期の張雲雷「昆明市业余武术队 指导」(同上)と結婚している。雲南や広西には、この人の伝えた三合剣が今でもあるんだろうか。

 

云南近代武术名家一览表(一) - 云南武术

何寧市武術館総教練・曽耀光のプロフィールに張雲雷の教えを受けたことが書かれている。

www.nnswsxh.com

f:id:zigzagmax:20170917201500j:plain

 

*********

タイトルから外れてしまうけれど、以下は、女子摔角で優勝した上海チームの「美牛健麗」孟健麗についての情報。

孟健麗はベルリンオリンピックの国術代表団の選抜にも参加していたことがわかった。この点についてはまたの機会に。

 

f:id:zigzagmax:20170924085444p:plain

f:id:zigzagmax:20170924085255p:plain

 

 

f:id:zigzagmax:20170917205417p:plain

出典:

http://m.xrs.7788.com/s/detail_auction.php?d=2&id=14863617&az=z

「民国24年10月17日《号外画报》女射箭赛湖南王家桢、女摔跤赛胜者上海孟健麗、铁饼冠亚军上海的陈荣棠陈淑芳、…」

〇聶宜新編著『話説摔跤与上海』から孟健麗の紹介

f:id:zigzagmax:20170917214051p:plain

 上の記事にもあるように、孟健麗はスポーツ万能だったようで、以下のサイトには、1933年の雑誌『玲瓏』に掲載された、砲丸投げの入賞者4人の写真(競技会の名称は未確認)。左から2人目が孟健麗。同データベースにはほかにも複数の孟健麗の写真がある。

http://kjc-sv013.kjc.uni-heidelberg.de/frauenzeitschriften/public/magazine/page_content.php?magazin_id=3&year=1933&issue_id=178&issue_number=118&img_issue_page=36

 

 

ベルリンオリンピックの国術代表団

ベルリンオリンピックの国術代表団については、いちど寇運興についてメモしたけれど、少しずつ情報が集まってきたので、ここらで一度メモしておきたい。

 

まずはこの動画。3年ほど前に、FB上で発見して、こんな動画が残っていたのかと度肝を抜かれた。長らく、演武者の顔と名前が一致しなかったのだけれど、張文広の自伝『我的武術生涯』に主要メンバーの演目が載っていた。

映像にでてくる順番から、

対擒拿 温敬銘と張文広

単刀槍 鄭懐賢と寇運興

双刀槍 鄭懐賢と張文広

空手進槍 温敬銘と張文広 

で間違いないと思う。

 

www.youtube.com

張文広『我的武術生涯』は、メンバー選抜の経緯なども詳しく語られていて興味深かった。中央国術館から参加したメンバー以外の演目を詳しく記している一方でそれ以外のメンバーの演目については、以下省略、とされていて、扱いがちょっと低いようにも感じられた。このあたり、自分たちは中央国術館から選抜されたエリートなんだというプライドが垣間見える気もする。

 

**************

この写真も、中央の女性3人は右から傅淑雲、劉玉華、翟漣源でよいとして、男性は右から温敬銘、鄭懐賢、一人おいて張文広、一人おいて寇運興、そのとなりが(ここだけやや自信ありませんが)張爾鼎、金石生(金麗貴)だと思われる。

f:id:zigzagmax:20170918074212p:plain

 

 出典:民國往事第一上電視的奧運會,1936年第十一屆柏林奧運會中國代表團The first on televis_台灣精武體育會_新浪博客

*************

女性三人の中で、傅淑雲、劉玉華ほどには取り上げられることのない翟漣源(上の写真では一番左)は河南大学で武術を教えていたらしい。

 

f:id:zigzagmax:20170922222230j:plain

出典:民国时期《号外画报》上的“奥运国术三女杰”

 

f:id:zigzagmax:20170923151531p:plain

出典:王広西『中国功夫

 

f:id:zigzagmax:20170918072047p:plain

出典:河南大学校友总会-河大学人

**************

金石生(上の写真では、劉玉華と翟漣源の間の人物)は、以下の記事の内容が正しければ、ベルリンオリンピックに参加した頃は本名の金麗貴を名乗っていたのかな。帰国後は西安で黄埔軍校西安分校、警察学校などで武術を教えていたらしい。新中国建国後は1979年の観摩交流大会で一等賞を得るまで、ごく普通の労働者として過ごしていた模様。

f:id:zigzagmax:20170918073935p:plain

出典:金丽贵【武术技击家】

画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、屋外

出典:http://www.shaomoquan.com/ArticleShow.asp?ArticleID=92

 

sports.sina.com.cn

 

金石生がごく普通の労働者として帰国後の長い時間をすごしたように、メンバーの帰国後の人生は順調であったとは決して言えなさそう。

国民党時代のエリートであること、旧文化の代表である武術(国術)界のエリートであること、女性三人のうち少なくとも大陸に残った二人については、女性であることなど、さまざまな理由が折り重なってそれぞれに大変な苦労を重ねている。劉玉華などは、もう二度と武術はやらない、と何度も決意しては、武術の世界に舞い戻るということを繰り返していることが、寇運興の項でメモした動画や、雑誌『中華武術』1999年第9期のピンナップ記事から伺える。張文広の自伝にも、文革時代の苦労が一人称で綴られていた。この本は、イスラム寺院で武術を習い始めた幼少期から中央国術館、ベルリンオリンピック、中華人民協和国建国初期の武術政策の模索、文化大革命、改革開放後を経た武術の歩みが一人称で語られつつ、さらに二哥と慕う温敬銘や家族への親愛の情なども綴られたとても貴重な本だと思う。(ちなみに、温敬銘を二哥と言うとき、大哥は鄭懐賢、三番目が張文広で四番目は李錫恩。それぞれ四川(成都体育学院)、湖北(武漢体育学院)、北京(北京体育学院)、上海(復旦大学)に分かれて中華人民共和国の武術運動を支えている。)

f:id:zigzagmax:20170918075539p:plain

劉玉華の半生を紹介した雑誌『中華武術』1999年第9期のピンナップ記事。雑誌本体は捨ててしまったけれど、これは永久保存もの。

f:id:zigzagmax:20170918091924j:plain

 

***********

ほとんど情報が得られていない張爾鼎については、引き続き頭の片隅に置いておこう。

 

〇関連メモ

zigzagmax.hatenablog.com

『西遊記2』など

人に誘われてツイ・ハークの『西遊記2』を観てきた。

www.youtube.com

 

ツイ・ハークの映画は2008年から2010年の中国駐在中に『女人不壊』を観て以来。『女人不壊』は武術とは全く関係ない3人の女性が主人公の映画だったけど、当時観ていた金庸原作のドラマ『雪山飛狐』(2007年版)で苗人鳳(苗大侠)を演じていた方中信が、うだつの上がらない感じの普通のサラリーマン役で登場して、あまりのギャップに驚いたことだけ覚えている。

西遊記2』は、往年の『蜀山奇傅 天空の剣』のワイヤーアクションやVFXをすべてCGに置き換えたような感じで、ツイ・ハークらしいといえばツイ・ハークらしい奇抜なビジュアルのなかに、チャウ・シンチ―の笑いとほろりとする要素の溶け込んだ不思議な映画だった。ネタバレになるので詳細は控えるけれど、互いに魅かれているのになかなか結ばれない男女という設定も、『チャイニーズ・ゴーストストーリー』や『黄飛鴻』に共通する、ツイ・ハークの得意な世界な気がする。

 

ここ数年、いろんな西遊記映画が作られているけれど、観ていないので比較はできない。

 

ツイ・ハークとチャウ・シンチ―のコラボレーションということでは、ツイ・ハークが監督したジェット・リー主演の現代ものの映画に、チャウ・シンチ―がジェットの弟子役で出演していたような気がしていたのだけれど、家に帰って確認したら、それは記憶違いで、ツイ・ハークが監督したジェット・リーの『龍行天下(邦題はハード・ブラッド)』にはチャウ・シンチ―は出ていなかった。チャウ・シンチ―が出ているのは似たようなタイトルの『龍在天涯(邦題はドラゴンファイト)』。この映画ではジェット・リーティ・ロン中国武術代表団としてアメリカに表演に来ていたのが、帰国前に兄弟子のティ・ロンが帰国を拒否して失踪し、ジェット・リーもそれに巻き込まれるというストーリー。公演のためにアメリカを訪れた少林武僧が失踪するという事件は実際に起きていて、この映画のストーリーはその辺からヒントを得ているのかもしれない。そういう意味ではなんともあの時代らしい生々しいお話ではある。

ツイ・ハークの作品では、ジェット・リーの『黄飛鴻』は文句なしの傑作ぞろいだけど、『ブレード 刀』のごつごつした感じも好き。

 

〇『女人不壊』予告編

www.youtube.com

 

〇ドラマ『雪山飛狐』より、方信中(アレックス・フォン)VSアンソニー・ウォン

www.youtube.com

 

〇『蜀山奇傅 天空の剣』

www.youtube.com

 

ツイ・ハークジェット・リーの『龍行天下』

www.youtube.com

『龍在天涯』よりジェット・リーティ・ロンの対練

www.youtube.com

『龍在天涯』よりジェット・リーの刀術

www.youtube.com

〇『刀/ブレード』

www.youtube.com

第13届運動会、健身気功、競技規則など

天津で開催された中華人民共和国第13届運動会は、8月30日に套路競技、9月4日に散打競技が終了した。

公式サイトに出ている套路競技、散打競技の成績はそれぞれ以下のとおり。

套路競技

第十三届

男子长拳、刀术、棍术全能
1 山东 孙培原 29.130
2 江苏 吴照华 29.092
3 甘肃 常志昭 29.059
4 河北 栗志峰 29.032
5 山西 高晓彬 28.979
6 浙江 马家军 28.869
7 辽宁 甄海涛 28.852
8 甘肃 于雷 28.806

中华人民共和国第十三届运动会

 

男子南拳、南刀、南棍全能

1 浙江 王地 29.130
2 广东 李剑鸣 29.055
3 四川 李付魁 29.000
4 福建 李敬德 28.992
5 江西 刘忠鑫 28.959
6 解放军 杨富华 28.910
7 上海 梁飞 28.846
8 福建 梁永达 28.749

中华人民共和国第十三届运动会

 

男子太极拳、太极剑全能

1 福建 陈洲理 19.420
2 河南 马建超 19.400
3 北京 吕泰东 19.380
4 陕西 杨顺洪 19.369
5 广东 卢向成 19.292
6 陕西 钱康 19.176
7 山东 刘德文 19.150
8 广东 陈伟杰 19.142

中华人民共和国第十三届运动会

 

女子长拳、剑术、枪术全能

1 河北 阚文聪 29.130
2 安徽 赖晓晓 29.086
3 河北 郭梦娇 29.043
4 浙江 戚昕舣 28.979
5 安徽 王雪 28.975
6 山西 姚洋 28.929
7 江苏 王雅雯 28.909
8 上海 潘谢 28.800

中华人民共和国第十三届运动会

 

女子南拳、南刀、南棍全能

1 福建 陈惠颖 29.100
2 江苏 魏海玲 29.030
3 四川 刘津霞 28.956
4 浙江 赵文文 28.952
5 天津 李奕萱 28.946
6 上海 汤露 28.940
7 广东 魏红 28.910
8 解放军 吴倩彬 28.899

中华人民共和国第十三届运动会

 

女子太极拳、太极剑全能

1 天津 于萌萌 19.420
2 云南 李建芳 19.389
3 浙江 戴丹丹 19.323
4 河北 巨文馨 19.260
5 北京 朱淼 19.253
6 福建 刘芳芳 19.222
7 广东 梁壁荧 19.196
8 江苏 邢玉婷 19.186

中华人民共和国第十三届运动会

 

団体  

1 天津 58.125
2 浙江  58.041
3 江苏  57.915
4 山东  57.877
5 安徽  57.847
6 辽宁 57.821
7 河北  57.798
8 四川  57.722

中华人民共和国第十三届运动会

 

〇散打競技

男子90キロ級

1 陕西 许家恒
2 四川 尤雄
3 前卫体协 满建刚
3 山东 杨元飞
5 福建 王文忠
5 天津 韩祥达
5 广东 刘明志
5 江苏  蒋全

中华人民共和国第十三届运动会

 

男子75キロ級

1 四川 柳文龙
2 陕西 张坤
3 黑龙江 苗陈雷
3 河南 高上海
5 湖北 许永
5 安徽 沈李
5 山东 王玉虎
5 浙江 邹佳贝

中华人民共和国第十三届运动会

 

男子60キロ級
1 河南 孔洪星
2 河北 王雪涛
3 浙江 陈鸿儒
3 上海 江海东
5 安徽 王啸东
5 江西 万仁贵
5 山西 陈红兴
5 新疆 李勐凡

中华人民共和国第十三届运动会

 

女子散打は団体競技のみ

1 河南 李玥瑶 范千慧 贺晓朵
2 安徽 左佩佩 李志勤 李园
3 上海 章乱 蔡颖颖 苗玉杰
3 吉林 刘玲玲 王聪 孙倩玟
5 湖北 邱晓丽 王焰斐 王赢
5 河北 刘园园 戚玉梅
5 云南 代诗梦 王孟静 朱海兰
5 江苏 邱挑 孙雨荟 钟妍

*****************

今回から、「健身気功」の「群衆比賽」の「団体項目」(プロではないアマチュアによる団体競技というようなこと?)が競技種目に加わったらしい。

競技は「健身気功·易筋経、五禽戯、六字訣、八段錦、気舞」に分けて行なわれたようで、優勝した天津チーム6名の一人に霍元甲の「玄孫女」、具体的には、霍元甲の二男三女のうち次男の霍東閣の長子・霍亜廷の孫にあたる霍静虹が含まれていたらしい。

 

sports.sohu.com

 

〇健身気功の競技の動画

video.zhibo.tv

 

〇霍静虹

www.youtube.com

 

霍元甲次男の霍東閣と系譜

 出典:百度百科

f:id:zigzagmax:20170902080458p:plain

baike.baidu.com

 

************

今回で13回目を数える全国運動会

武術は、回によって競技として行なわれたり、表演という位置づけであったり、散打が加わったりしているけれど、第一届運動会から行なわれていて、最初の競技規則はこの全国運動会における競技を念頭に整備されたらしい。

戴国斌『新中国武術発展的集体記憶 一項口述史研究』には、蔡龍雲への3回に及ぶインタビューが25ページにわたって収録されているけれど、この最初の競技規則制定の様子が語られていてとても興味深かった。

それによると、(1)動作の数、(2)演武の時間、(3)動作の構成・規格 をどう揃えるか、というところが大きなポイントであったらしい。

動作の数については、当時普及していた「四路査拳」の動作がおおよそ51、2の動作から構成されているので、それより少し増やして55動作で固定、演武時間は、蔡龍雲と常振芳が(体調や気分によって演武時間が長くなるときもあれば短くなるときもあることを考慮して)何度もこの四路査拳を繰り返し演じて検証した結果「2分を越えてはならない」と定め、構成については、跳躍動作は5組以上、腿法は5組以上、3つの手型と5つの歩型、3種類以上の平衡動作を含む、というラインで定められていったらしい。

 動作の「規格」については、競技規則とは別に詳細な基準が作られ「武术基本动作应用术语」(未見)としてまとめられている。

 

跳躍技が主流になってくると、「助走」の歩数を制限する必要がでてきて、三歩と定められることなるけれど、これについて蔡龍雲が「華拳から持ってきたんじゃないよ」と断りつつバスケットボールのルールにある「三歩上篮」(日本語ではトラベリング?)を応用したものだと語っているところなど、特に面白かった。

 

その他、1953年の民族形式体育表演及競賽大会を経て編成された「国家隊」の顛末や、套路の本質をめぐる議論など、とても興味深かったけれど、別の機会にメモしたい。

総じて、このインタビューを読んで、蔡龍雲という人が中華人民共和国の武術競技の体系化に果した役割の大きさが改めて理解できた気がする。

 

f:id:zigzagmax:20170815000932j:plain

 

zigzagmax.hatenablog.com

 

***********

以下は、楊祥全、楊向東『中華人民共和国武術史』附録年表の全国運動会の部分。(赤字はウィキで補った情報)

 

1959年 9月13日至10月3日,第一届全国云动会在北京举行,设有武术比赛项目和表演项目。

1965年   9月11日至28日,第二届全国运动会在北京举行,武术为表演项目。

1976年   9月13日至25日, 第三届全国运动会在北京举行,武术被列为竞赛项目。

1979年   9月17日至28日, 第四届全国运动会在河北省石家庄市举行,武术为竞赛项目。

1983年   9月19日至27日, 第五届全国运动会在上海举行,武术为表演项目。

1987年   11月,在广东举行的第六届全国运动会上,武术正式列为比赛项目,设16块金牌。

1993年   第七届全国运动会武术项目有套路和散手,共设7枚金牌。

1997年   第八届全国运动会在上海举行。武术是唯一非奥运竞赛项目。(武術競技は四川で開催)

2001年11月 中華人民共和国第十届運動会 (於 広州)

2005年   10月13至15日,中华人民共和国第十届运动会武术比赛分别在江苏省南京市(套路比赛)和连云港市(散手比赛)举行。在本次全运会中武术项目的金牌数量添加到21块,其中套路12块,散打9块。

 

2009年 十月 中華人民共和国第十一届運動会(於 山東) 套路(濱州)、散打(菏澤)

2013年 8月-9月 中華人民共和国第十二届運動会(於 遼寧) 套路瀋陽)、散打(遼陽) 12小項

 

**************

ついでに、第1届~第12届までの成績

(第1届、第7届部分は『中国武術百科全書』。第3届~第6届部分は『中国武術大辞典』より。第10届以降はインターネットより。第2届、第8届、第9届の情報は暫時欠落。)

 

第1届

f:id:zigzagmax:20170903212057p:plain  

  f:id:zigzagmax:20170903212230p:plain

 

第2届 暫時欠落・要確認

 

第3届

f:id:zigzagmax:20170903214415p:plain

 

f:id:zigzagmax:20170903214244p:plain

 

第4届

f:id:zigzagmax:20170903214709p:plain

f:id:zigzagmax:20170903214841p:plain

 第5届

f:id:zigzagmax:20170903215234p:plain

 

f:id:zigzagmax:20170903220529p:plain

 第6届

f:id:zigzagmax:20170903215826p:plain

 

f:id:zigzagmax:20170903220126p:plain

 

第七届

f:id:zigzagmax:20170903222259p:plain

 

第8届 暫時欠落・要確認

 

第9届 暫時欠落・要確認

 

第10届 

男子

项目 金牌 银牌 铜牌
男子自选长拳 赵庆建北京 杨屿泓上海 刘智勇山西
男子自选太极拳、太极剑全能 周斌福建 黄颖祺福建 宁彪内蒙古
男子自选南拳、南棍全能 郑磊石解放军[1] 吴财宝广东 谢孚琰云南
男子自选剑术、枪术全能 韦剑上海 马国亮浙江 赵焜河南
男子自选刀术、棍术全能 袁晓超山西 赵庆建北京 赵杰河北
男子对练 王延松
程润坤
朱海楠天津
左长辉
马进文宁夏[2]
唐林灿
陆国军
谢远航广西

女子

项目 金牌 银牌 铜牌
女子自选长拳 梅寒辽宁 赵诗山西 马岚河南
女子自选太极拳、太极剑全能 崔文娟解放军[3] 张芳广东 李瑾陕西[4]
女子自选南拳、南刀全能 毛亚琪浙江 张春艳浙江 王林广东
女子自选剑术、枪术全能 张春艳浙江 赵阳阳河南 马灵娟安徽
女子自选刀术、棍术全能 曹静山东 王晓娜北京 刘晓蕾北京
女子对练 张丽
曹丽
樊静江苏
方秀娟
王菊
李雪天津
付丽娜
董鹏河北

中华人民共和国第十届全运会武术套路比赛 - 维基百科,自由的百科全书

散打

奖牌分布情况

项目 金牌 银牌 铜牌
男子50公斤级

石旭飞(浙江

陈龙(陕西 何光荣(四川[1]
男子58公斤级 于飞彪(四川[2] 张亭宾(江苏 李海明(广东
男子67.5公斤级 邰普庆(江苏 韩玉柱(北京 赵光勇(上海
男子77.5公斤级 郑裕蒿(浙江 郑伦(江苏 边茂富(广东
男子87.5公斤级 青格勒(前卫) 薛凤强(北京 于锦(新疆
男子+87.5公斤级 吴松录(安徽 杨明明(浙江 王强(宁夏[3]
女子小团体 张宇洁
李俊丽
夏瑞新(河南
秦力子
吴钞来
孙会(上海
刘娜
胡艳杰
宋玲(安徽

中华人民共和国第十届全运会武术散打比赛 - 维基百科,自由的百科全书

 

第11届

奖牌分布

男子[编辑]

项目 金牌 银牌 铜牌
长拳 赵庆建 (北京) 袁晓超 (山西) 孙培原 (山东)
太极拳、太极剑全能 周斌 (福建) 吴雅楠 (陕西) 黄颖祺 (福建)
南拳、南棍全能 黄光源 (广东) 欧夏生 (广西) 李付魁 (四川)
剑术、枪术全能 韦剑 (上海) 赵焜 (河南) 苏保成 (天津)
刀术、棍术全能 吕勇绪 (山东) 袁晓超 (山西) 孙培原 (山东)
对练 史龙龙
吴晓龙 (江西)
黄宝光
马进文
左长辉 (宁夏)
韩晋
王超
王明强 (重庆)

女子

项目 金牌 银牌 铜牌
长拳 曹静 (山东) 刘晓蕾 (北京) 马岚 (河南)
太极拳、太极剑全能 崔文娟解放军[4] 于萌萌 (天津) 吴雪琴 (湖北)
南拳、南刀全能 毛亚琪 (浙江) 魏红 (甘肃[4] 林霞 (福建)
剑术、枪术全能 马灵娟 (安徽) 阚文聪 (河北) 赵诗 (山西)
刀术、棍术全能 曹静 (山东) 刘晓蕾 (北京) 马岚 (河南)
对练 冯凯杰
张欣怡
刘晓慧 (天津)
张丽
纪泰菁
沈光美 (江苏)
阎小乐
李林
许其格 (辽宁)

中華人民共和國第十一屆全運會武術套路比賽 - 维基百科,自由的百科全书

 

第十二届

团体冠军 浙江队

男子长拳、刀术、棍术全能冠军 北京队 王曦

女子长拳、剑术、枪术全能冠军 河北队 阚文聪

男子南拳、南刀、南棍全能冠军 广东队 黄光源
女子南拳、南刀、南棍全能冠军 福建队 林凡
男子太极拳、太极剑全能冠军 陕西队 吴雅楠
女子太极拳、太极剑全能冠军 天津队 于萌萌

http://www.hrbtjq.com.cn/show.aspx?id=2478&cid=18

 

 

四川省武術協会編著『峨眉武術史略』

気になっていた掲題の本が出版されていたことを知り、ネットで取り寄せて読んでみた。

 

f:id:zigzagmax:20170827113932j:plain

 

内容は、以下のとおり(日本語に仮訳)

 第一章 峨眉武術の起源と萌芽

 第二章 峨眉武術の形成と成熟

 第三章 峨眉武術の発展と繁栄

 第四章 峨眉武術の全面発展と高度昌盛

 第五章 峨眉武術の技法の特徴と文化的要素

 第六章 峨眉武術故事

 第七章 近代以降の代表的人物

  附録1 練功器材紹介

  附録2 峨眉武術発展大事記

各章ともコンパクトにバランスよくまとめられていた。

特に、第七章で紹介されている90人あまりの近現代の人物は、ネット上にあまり情報のでていない人たちも含まれていて、とても参考になった。たとえば、中華人民共和国の建国当初、バレエの要素を競技武術に取り入れて、温敬銘と論争した綿拳の蘭素貞は、あまり情報がなかったけれど、成都体育学院にいたことがわかった。

 

その他、この本を読んで感じたことを備忘録として。

 

1.少林、武當と並ぶブランドづくり

  全編を通じて、四川省武術協会が四川省の武術を「峨眉武術」として、「少林」、「武當」と並ぶ三大ブランドの一つとして宣伝してゆこうと強く意気込んでいることが伺えた。それは単に、武術としてのブランドの確立ということだけでなく、武術を通じた観光誘致などの経済効果まで意図したもので、特に第三章ではそうした観点が明確に述べられていた。これって、もしかすると武術の書籍としては珍しいのかもしれないという気もした。

 

2.「峨眉武術」の内実

 では、その「峨眉武術」の内実とはどのようなものか、といったときに、実は四川省の固有の武術は意外に少ないということも、この本を読んで改めて気づかされた。

 1980年代に行なわれた発掘整理では四川省(現在は中央直轄市になっている重慶を含む)の流派は67種類が確認されたものの、これらの流派の大半は四川省以外から伝わってきたもので、明確に四川省で生まれたといえるものは10%にも満たないらしい(P.62の表2-9)。

 このこと自体は、孫徳朝、趙明、康意「 峨眉武术研究三十年」で紹介されていた、古代の峨眉武術は明代に成立したが清初には失伝し、いまに伝わる峨眉武術は各種の武術が混じりあって形成されたとする説とも一致するので特に驚くわけではないけれど、だとしたら、四川省における道教仏教の伝統と現在の峨眉武術は、実はそれほど深い関係はないのではないか、関係があるとしても後からのこじつけではないのか、という気もしてくる。

  また、(複数の著者がかかわっているようなので仕方がないのかもしれないけれど)文章によって、四川省固有の武術のことを峨眉(派)武術と言っているのか、外来拳種や、四川省武術隊の選手がやっていた競技武術まで含めて「峨眉武術」と呼んでいるような箇所もあり、「峨眉武術」の定義はいまひとつ曖昧である気がした。

 

 〇『四川武術大全』記載の67拳種についてまとめた図(P.62)

 この本では、80年代の調査では発祥地が「不詳」とされた16拳種も検討の結果、外来拳種と断定している。

f:id:zigzagmax:20170827115532p:plain

〇【参考】 『巴蜀武術』(後述)から、『四川武術大全』記載の拳種を成立時期よって分類した表 (合計すると60にしかならず、『峨眉武術史略』で67としているの数があわない理由は不明)

f:id:zigzagmax:20170827115826p:plain

 

 

3.「外来拳種」

 上に書いたように、四川省の武術を本土拳種、四川省以外から来た武術を「外来拳種」と呼ぶ観点は、最近いろいろな本で見かけるようになった気がする。たとえば、申国卿『河北武術文化』にもそのような観点があり、河北派形意拳は河北省の武術だが、形意拳そのものについて言えば、河北省にとっては外来拳種にあたるということが、河北派形意拳の立場に配慮しながら慎重に(怒らせないように?)書かれていたことを思い出す。

 

 外来拳種の中でも面白いと思ったのは趙門。

 この本の紹介によると、峨眉派の趙門は直隷派と三原派に分かれるのだけれど、三原派というのは、その派の代表人物である高氏が陝西省の三原の出身であることによるものだという。 

 三原の高氏といえは、以前にメモした「鷂子高三」こと高占魁のことで、なんのことはない、陝西省で紅拳と呼ばれているものが趙門と名を変えているようだ。趙門と言う名前は、創始者として宋の太祖・趙匡胤を掲げていることによるもの。

 趙門と三原高氏と趙匡胤の関係は、楊式太極拳における陳家溝と張三豊の関係にも似ているように思える点も興味深い。

 

www.xiaobaiban.net

 

www.youtube.com

 

zigzagmax.hatenablog.com

 

  外来拳種の流入は、人の動きと関係があるけれど、明清以降ということでは、

大きく(1)「湖広填四川」といわれた、戦乱による四川省の人口激減と、湖南・湖北・広東からの移民、(2)義和団事件の弾圧後、北方拳士の多くが各地に逃れたこと

が挙げられるらしい。

(2)に関しては、軍閥時代の農村自衛運動である紅槍会・硬肚会運動の中で、山東や河北を負われた武術家が多く雇われているけれど、さらに四川省まで足を伸ばした人たちがいるようで、代表的な人物には海灯法師の師匠である朱智涵がいる。この辺は面白そうなので、改めて自分でも調べてみたい。

 

〇海灯法師と朱智涵真人

画像に含まれている可能性があるもの:2人、帽子、サングラス

出典:巴蜀真人:朱智涵_福济天下_新浪博客

 

baike.baidu.com

 

なお、この本では敢えてそういう形では取り上げられていないけれど、首都移転にともなって中央国術館やその関係者が重慶に来たことは、外来拳種の四川到来の第三の波と捉えてよいのかもしれない。

このとき、土着拳種の人たちと少なからず軋轢があったことも伺える。

たとえば、藍伯熙などは、(中央国術館の時代よりは少し前だけれど)杜心五や朱国福らの活動に異議を唱えたらしい。

杜心五との対立については雑誌記事が、朱国福との対立については、朱国福が、文句があるのなら受けて立つので、公証人を立てて条件を話し合おう、と新聞紙上に出した公開書簡があるらしい。現物は未確認だけれど、その内容は以下のとおり。

 外部から著名な武術家を大勢呼びよせた湖南省でも地元武術家との間で軋轢があったようで、そのあたりは別の機会に調べてみたい。

 

〇杜心五と藍伯熙が互いに功法を披露したエピソードを記した《峨眉真功夫》17页(我国第一本峨眉武术丛书)1985年出版 を転載した峨眉武術在線の記事

www.emwsw.com

 

〇朱国福の公開書簡

 朱国福紧要启事

 

经启者国福:自侧身国术界,即抱定破除门户、打消派别之宗旨,无分南北,无分东西。任何省、市,凡属国术界同道之人,无不视为同道兄弟,观若手足。更本中央提倡国术救国宏旨与儒素日所抱之志愿,竭尽棉力以求国术之发皇,是以足迹所历,无论当地高手宿师及远方作客之硕彦,均肯错爱与国福为友。今就渝市之诸先进言之,如李老师国超、余老师鼎山、张老师腾蛟、田老师得胜等数十位(名难枚举),成系当地国术泰斗,德隆望重,艺术高绝亦均不以国福愚鲁见弃,并能以国家民族为前提,以提倡国术阁志,推心置腹,开诚布公,肝胆相照,真不失为老前辈之称也。

岂意蓝伯熙同志独不我所容,听信小人挑泼,逞凶于大会,难在李司令命令压迫之下,观众批评之余,乃不顾一切尚敢咄咄逼人。国福当谦让之意,一是遵从李司令官命,二是接受群众批评,三是怀遵委座精诚团结之训示,四是本人所抱之志愿,不得不一让再让,以其觉悟,仍言归好,免受有识之士抨击。当兹国术提倡之际,又身为国术提倡之人,如持匹夫之勇而逞一朝之忿,不仅于国术前途有关,并且于国家不利,我等即同为中国人,自应互相亲爱,愎为同道之友,自当精诚团结。况外辱频来,救国尚恐不及,岂能同室操戈,自相水火。即非凉血动物,岂能出此下策。此属个人谦让之意。想当时之经过,凡明眼有识之人均能洞见,岂料昨日一幕方毕,今日空气正浓,有请蓝伯熙仍寻国福比武者,有谓蓝伯熙但言,限北方国术界人在一月内出境者,似以变本加厉,得寸思尺,实属令人难堪。

国福实不知蓝伯熙有多大本领,竟敢大言放肆。国福虽技薄能鲜,在此忍无可忍之际,决定牺牲一切,极端赞成与之一较。窍国福数十年未逢对手,今承蓝某不弃亦幸事也。但双方须到委座行营、市政府警察局、各军政机关备案后,由律师证明,签字画押,打死打伤无怨言。请蓝伯熙同志见报后或驾临敝舍当面等复,愈速愈妙。特登报代邮,静候玉音。  

       

                              此  启

 ※上記は、陳正徳、張林の二人が1992年に重慶図書館で抄録したものという。

出典は以下

www.emws.com.cn

 

4.その他

手元にある四川省の武術の関連書籍としては温佐恵・陳振勇『巴蜀武術』、重慶の武術についてまとめた趙幼生主編『巴渝武術』など。

 

f:id:zigzagmax:20170827114009j:plain

 『巴渝武術』では、「三原門」は趙門とは別の流派として、高占魁に由来する武術の紹介がされている(P.69-70)。

f:id:zigzagmax:20170827113951j:plain

 

 四川武術大全は、ネットで拾った、あまり質のよくないスキャンデータだけ部分的にもっているけれど、あまりにもページ数もありすぎて目を通していない

f:id:zigzagmax:20170827213707p:plain

「鉄羅漢」張長発

前回、朱国福について調べていて、『中国武術人名辞典』の朱国福の項に、12歳から馬玉堂について形意拳を学ぶ前に張長発に少林羅漢門拳術を学んだ、と出ていたので、その張長発について調べてみた。

張長発は「鉄羅漢」の異名をもち、程廷華に八卦掌を学び、その後、楊家禎、劉殿琛に形意拳を学んだ人だということはわかったけれど、あまり少林羅漢門とは関係がなさそうだった。もしかすると、「鉄羅漢」という異名から、少林羅漢門の人ということになってしまったのだろうか。ちょっと見ただけでも不確実な情報が詰まっていることがわかる『中国武術人名事典』なら、そのぐらいの間違いがあってもおかしくないと思えてしまう(注)。

 

張長発と朱国福の関係については、前回もメモした「形意魂」の記事に、「因马玉堂与铁罗汉张占魁情谊深厚,朱也拜张占魁为师学习八卦掌等拳术。」とある「鉄羅漢張占魁」が「張長発」の誤りだと考えれば腑に落ちる。

 

(注)

ただし、朱国福の娘の朱慶霞も、2012年の峨眉武術シンポジウムで、(ただ単に世間の評判をそのまま受け入れて述べただけかもしれないけれど)朱国福は1902年に張長発に羅漢拳を学んだと述べている模様。(【纪念会专文】朱庆霞:我的家人

 

 〇左から王継武、馬玉堂、張長発

  出典:捜狗の張長発のページ 

  http://baike.sogou.com/v235574.htm

 f:id:zigzagmax:20170812133210p:plain

 

------------------

張長発の経歴の細部については、まだよくわからない点も多いけれど、とても興味深いものがあると思ったので、いくつかの記事の中から主な経歴をメモしておくと以下のとおり。

 

 ・もとの姓は「田」で生まれは定興県界河鋪村。家が貧しかったために、三才の頃、新城県巨水営村の張家に引き取られて張長発と名乗ることに。(朱氏兄弟の本籍も河北省新城県なので、ここにも両者の接点がある。)

 ・道端で泣いていたところを(一説では、張家では虐待され、河に身を投げて死のうと思っていたところを)、北京から商売に来ていた印刻の楊宝斎に助けられ、北京にゆき、篆刻を学ぶ。

 ・楊宝斎の刻字鋪の近くに国術館があり、訓練をのぞき見しているところを見とがめられ、とっさの言い訳で弟子になりたかったのだといい、これが幸いして入門が認められる。入門が認められたのは八卦掌の程廷華で、三年にわたり学ぶ。

 ・三年後、程廷華の口利きで某王府の用心棒になる。

 ・義和団事件程廷華は落命)後、河北の実家に戻り、農業に従事しつつ、新城県の形意拳家の楊家禎に学ぶ。

  (この間、神弾子李五の弟子の魏占奎から弾弓、黄三太の後継者から軽功を学んだとされる。武侠小説『三侠剣』の登場人物に黄三泰(太)というのがいるようだけど、それとは別なのかな?)

 ・1920年(1910年とも) 保定師範大学の国術教師に招かれる。深県に形意拳家の劉奇蘭がいることを知って訪れ、認められるが高齢のため三子の劉殿琛(文華)から教えを受ける。

 ※このあと、具体的な時期は未確認ながら、劉文華の紹介で山西の閻錫山軍営の国術団営長に任じ、短期間で離任したあと清華大学国術老師に任じた模様

 ・1929年 河北省省長から史家陳区長を委任される。

 ・1930年 北京師範大学国術老師、清華大学国術老師等に任じる。

 ・(9.18後ということなので1931年以後)張作霖府の武術教師となり、張学良、張学思、張学明らに武術を教える。張作霖の死後は再び実家に戻る。

 この後の動きはあまりよくわからないけれど、日本占領地域で不本意に協力させられながら、地下活動者を助けていたというような記述も。

 

 ・中華人民共和国成立後は、80歳近い高齢ながら、県の政治協商会議委員に選出されるが、のち文化大革命に到り「富農」のレッテルを貼られて批判され、1965年に絶食して死に至る。享年91歳。

 

-----------

幼い頃の出来事から、晩年まで、なんとも波乱に満ちた人生であることに驚かされる。

晩年が文化大革命の時期にあたったせいか、家族のもとには張長発の遺品はほとんど残っていないらしい。ご先祖様についての記録を纏めたいと、すでに高齢の娘をはじめ親族一同がスポンサー集めのために出演した地元テレビ番組の動画がある。

張長発の娘で出演当時88歳の張玉梅が、手をかそうとする家族の手を振り切って立ちあがり演じる形意拳は見事。

  

 〇張長発の娘・張玉梅をはじめ子孫たちが出演したテレビ番組(動画あり)
www.baguaxing.com

 

以下は比較的まとまった情報が得られるページのリンク。互いに矛盾するような内容も一部あり、読み取りには注意が必要。

人物について調べていて不満に思うのは、ある武術家が何かの役職についたとして、離任時期について書いてあるものがほとんどないこと。今回の例でも、1920年に保定師範の国術教師に任じたとして、いつ離任したのか、清華大学でも教えたとして、いつからいつまでなのか、などよくわからない。戦争や内乱の時代でもあるし、気に入らなくなったら辞めちゃうとか、田舎に帰っちゃうという世界なのかもしれない。

 

 〇搜狗百科の張長発のページ 

baike.sogou.com

〇程廷華に師事したとき、程は70歳ちかかったとか、脚色が多い(1848年生まれ、義和団事件のとき1900年になくなったとして、せいぜい52歳。3年にわたって学んだのだとしたら、出会ったときはまだ40代のはず)けれど、読み物としては面白い

jiyi.chnart.com

 

www.ok-v.com

 

**********

ちなみに、張長発のもとの生まれである定興県は中華武士会の「定興三李」が出たことでも有名。

 最近、SNSデューク大学にあるSidney D. Gamble という人の写真コレクションについての情報が流れてきたので、調べてみたら、ほんの一部ながら、武術の写真も含まれていた。撮影場所は河北省定県(いまの定州市)と書かれていて、一瞬、張長発の出身地(定興県)と勘違いしたけれど、定県と定興県は別なのでぬか喜びだった。 ただ、このコレクションには、武術以外にも人物とか神像とか、興味深い写真がいっぱい。

王樹田の祖籍も定興県で、彼が師事した朱国福は「表兄」にあたる。 

 

デューク大学のSidney D. Gambleコレクションから

撮影場所は定県とされる武術の写真

f:id:zigzagmax:20170820011641p:plain

Martial Arts — 武术 (630-3682) - Sidney D. Gamble Photographs - Duke Libraries

 

〇一番上の写真の馬玉堂の子・馬元基の動画

v.qq.com

v.qq.com

〇同じく一番上の写真の王継武の「大弟子」張宝

www.youtube.com

 

1923年の中西対抗ボクシング競技、朱家四虎など

1.1923年の中西対抗ボクシング競技

先日、1943年の国術とボクシングの対抗戦についてメモしたけれど、中西対抗ボクシングの競技で一番はじめに勝ったのは朱国福だといわれている(注1)。

時期は1923年8月12日。翌13日の「申報」の記事に、「中華体育会会員」で33歳の朱国福が4ラウンド終了後判定でロシア人ボクサーに勝利したことが記されているようで、記事の現物は確認できていないものの、朱梅玲(朱国福の弟・朱国禎の三女)が、後年(1990年)台湾の周剣南に送った手紙のなかで、「申報」1923年8月12日の記事を以下引用のように抄録している。

引用の最後に「此则为竞武场创办以来,华人打败外人之第一次也」とあり、この試合は中国人がはじめて外国人に勝った試合であることが窺える。

 

〇朱梅玲 「台北之行---記武術史学家周剣南」より

中华体育会会员朱国福战败俄人

前晚,本埠狂风如吼,飞沙走石,竺以电线失事,致公共租界及法租界,黯然无光者,压两时许,电灯复亮。坐客华人居十之八,是可见国人关心体育之好现象。其又一原因,或由首次角斗,华人均为失败,国人心觉不平,心欲目视当场华人能战胜外人以为快。是晚角斗共计七次,第一次,为俄人与俄人比赛,至第三回合,始分胜负。……第四次,为华人与俄人比赛,此场实为前晚台上最有精彩之一幕。华人名朱国福,直隶人,年三十三岁,系中华体育会会员。记者方见其向该场经理报名时,貌极温雅,面色清瘦,衣着纱衫,长几及地。记者询经理曰,斯人亦欲上台比赛乎?渠应曰然。朱君身体重量,仅一百二十八磅,然自愿同一身重一百六十磅之俄人角斗。继见俄人登场,躯格魁梧,较朱君约高五六寸。座客均为朱君担心,恐非俄人敌手也。……朱君于中国参术,本有艮底,似于此种拳术,亦稍加研究,其举拳及身体姿势,亦颇合法,两人相角。第一回告終时, 不分上下;迨第二回合开始,朱攻势灵猛,然终以敌手身高臂长,不易着其面部;至第三四回合,双方角斗愈增。俄人已渐渐不支,只有招架之力,朱君则精神抖擞,拳势更急,俄人面部胸部,着拳继续不止,步骤已乱,显然欲倒。而钟声锵然,赛时告终。公证人以朱君身量较轻,拳打中敌手次数甚多,故宣告朱君胜利,此则为竞武场创办以来,华人打败外人之第一次也……

申报(上海)1923年8月12日 【中华民国12年】

台北之行——记武术史学家周剑南 ——中国武术在线 人物访谈

 

この試合について、ロシア人はダウンして立ちあがることができなかったと書いている記事がある。たとえば、鄭光路の「北方武术精英入川传艺 」成都晩報2013年10月28日)には、「在第四回合,把比他重20余公斤的裴益哈伯尔打倒不起,观众欢声雷动」とでている。また「形意魂」の作者不詳の記事「形意宗師朱国福」でも「在几个回合内一举击倒裴依哈伯尔」とあり、試合も4ラウンドではなく6ラウンドだったと読めるけれど、朱梅玲が書き写した「申報」の記事が正確だとすれば、相手は倒れる前にゴングに救われていて、ダウンはしておらず、体重差と手数を考慮しての判定勝ちであったとしか読めない。

ただし、朱梅玲の引用の正確さには疑問もある。たとえば、「中華体育会」という語が出てくるけれど、中華体育会の設立は1935年ではないかと思われ、本来の記事には朱自身が1915年に設立した上海武学会と書いてあったのではないかという気もする。(1935年の中華体育会設立時の写真はここ。)

引用が正確かどうかは、関西大学の申報データベースなどで現物を見ることができれば、確認できるだろう。いずれにしても、朱国福が試合に勝利したことには違いない。

 

(注1)

もとの記事が何なのかわからないけれど、百度をはじめ多くのネット記事で、「朱国福は正規の新聞において、公開の場で外国の武人を打ち破ったことを報じられた最初の中国武術家」(「 朱国福先生是第一个有正规报纸报道,打败公开设坛的外国武人的中国武术家」)であると紹介されていることによる。

 

2.朱国福

それで朱国福について調べてみると、形意拳家の馬玉堂に師事した人で、1928年の第一届国術国考では15人の「最優等」の中でもトップに挙げられ(注2)、翌29年には中央国術館教務主任に任じ、形意拳とともにボクシング(拳撃)を教えたらしい。1932年には、ここのところ注目している湖南省に招かれ鳳凰34師軍訓所少将副所長、1935年には湖南省国術館教務長兼総教官に任じている(上掲鄭光路の記事)。1936年には四川省主席の劉湘に招かれて重慶国術館(首都が重慶に移転すると陪都国術館と改称)を組織して副館長に任じ、1947年から重慶大学でも武術を教えはじめ、中華人民共和国成立後も引き続き重慶大学で武術を教えるとともに、中国武術協会委員、重慶市武術協会主席に任じている。最晩年は、文化大革命の中で勤務先の重慶大学の入り口に「打倒国民党少将朱国福」という標語を掲げられるなど、政治迫害を受けるなかで、中風が原因で亡くなっている。

ロシア人ボクサーとの試合に勝ったことや中央国術館でボクシングを教えたこと、さらに世界ではじめて(未確認)ボクシングの女子チームを組織したことなどから、中国のボクシングの父(中国拳撃之父)と呼ばれているけれど、誰から、どういう経緯でボクシングを修得したのかはいまひとつよくわからない。

上掲『形意魂』サイトの「形意宗師朱国福」の記述は、彼が1915年に上海に来たあと、はじめは中国語を解するが性格にやや問題のあるフランス人教師、ついでイギリス人教師に学び、上記のとおり自ら設立した上海武学会の会員とともに稽古をしたこと、1923年に弟の国禄を呼び寄せてからはスパーリングのパートナーをさせたこと、男女のチームを作って、休日には競技とパフォーマンスを行っていたことなどが伺える。

那时的上海,随着大批法国人的进入,拳击运动也被带入中国,在上海滩经常有拳击表演。朱国福常去观看,由此被吸引而喜欢上了拳击。朱国福认为拳击无花架子,动作简单,技术简捷,易于传授和学习,更适合大众推广。就托人找到上海一位有名的法国拳击教师,其人懂点中国话。朱跟其学习拳击,那位法国人很高傲,非常自负,教授拳击时经常取笑中国武术是花架子,实战没用。朱国福有次实在听不下去,要求不戴套与法国人随便试一下,自已也不用腿击。法人身材高大,觉得朱的要求好笑,两人一动手,朱的手就插到法人喉咙,法人不服,第二次试,也是如此。法人大骇,觉得无脸再教授朱拳击,便辞去不来。朱国福后来只好又托人找了位英国拳击手才系统的学习了拳击
朱国福掌握拳击后,结合形意和八卦的技击特点,教授上海武学会的学员们练习拳击。当时拳击手套国内还不能生产,全靠进口,价格十分昂贵,那个时候,几乎一个星期就要打烂一副拳套。朱国福功力惊人,和学生们练习时,只好朱国福先生戴上拳套,别的学生都是徒手,学生们有时一闻到拳套的味道就两腿发抖。除了拳击外,朱国福还在武学会教习形意、摔跤,枪术等多种技艺,朱国福先生在教授弟子时,总是身体力行,据当年弟子回忆,当时打拳斗,每天几个小时;用数丈长的毛竹装上铁砂练习劲力和形意枪术,一直要练到精疲力尽才歇手。练习摔跤的跤衣也是差不多两个星期就要抓烂一套。

【中略】
1923年,朱国福把二弟朱国禄叫到上海,传授形意拳和拳击,并让朱国禄做拳击陪练。同年,在黄焕南的大力支持下,朱国福在基督教青年会的楼顶成立了中国第一支拳击队,分成男女两队,平时训练,节假日在上海大世界举行商业拳击比赛和表演。

http://www.xingyihun.com/a/pics/2010/0904/159_4.html

 

さらに探すと、百度百科の朱国祥(一番下の弟)の紹介では、1923年のボクシングの試合のあと、フィリピンからボクサーを招いて兄弟四人ではじめて系統的にボクシングを学んだと記されている。この部分は、上記の「形意宗師朱国福」の情報とも符合して、結構重要だと思うけれど、どのような人物に、どのような訓練を、どのくらいの期間にわたって学んだのかなど、詳細は不明(注3)。

 

1923年8月,长兄国福先生在上海经签定生死协议,并由名律师史良等公证后,按拳击规则以形意拳击败俄国拳击家Beby Hubuer(见1923年8月13日上海《申报》、《新晚报》等)。经此次生死激斗,国福先生了解到西洋拳击之实际战斗力,不久即专聘一名菲律宾职业拳击家教授兄弟四人练习拳击,先生遂接受正规之拳击训练。

https://baike.baidu.com/item/%E6%9C%B1%E5%9B%BD%E7%A5%A5/91046

 

ちなみに、朱国福が重慶に伝えた河北派の形意拳は李毅立、呉成忠、朱澤富らによって伝えられ、いまに至っているらしい。重慶形意拳は、朱国福の系統のもののほかに、張応人の流れ、馬振牮の流れのものがある模様(張又均「重慶形意拳伝承与発展思考)。いずれも中央国術館の関係者が伝えたものであり、臨時首都であった歴史が窺える。

〇朱国福 網絡孔子学院のサイトより

出典:http://kungfu.chinesecio.com/article/2009-08/22/content_8511.htm

f:id:zigzagmax:20170813194901p:plain

 ----------

なお、晩年は不遇だった朱国福だけれど、娘の朱慶霞が重慶大学を訪れていたり、四川省で朱氏兄弟を偲ぶシンポジウムが開催されているので、名誉は回復されているのだろう。研究活動が盛んになって、新しい事実などが発表されることを望む。

video.tudou.com

 

 〇重慶大学档案館の記事 

 我国形意拳武术大师朱国福之女朱庆霞一行来馆座谈-重庆大学档案馆 

 〇 2012年5月、峨眉山大佛禅院で開催された、朱国福、朱国禄、朱国禎、朱国祥ならびに峨眉武術シンポジウムに関する記事

  ここで朱慶霞は「満江紅拳」を演じている。それで確認してみたら、以前にメモした女性が演じている満江紅の演者・解説者はいとこで朱国禎の娘の朱梅霞だった。

 朱梅玲の演じた剣術套路「夜深沈」というのは何だろう。近年、上海の朱俊昌が同名の套路を創編したようだけれど、それとの関係は不明。

www.emwsw.com

 

 

(注2)

最優等15名の中には弟の国禄、国禎がおり、「朱氏三傑」と称される。のちに一番下の弟の国祥が力をつけると、「朱家四虎」と呼ばれるように(『中央国術館史』の朱国福紹介ページ)。

  

(注3)

 全然関係ないけれど、朱国福とボクシングの出会いに関して、大山倍達こと崔永宜が子供の頃、父が経営していた農場に現れた季節労働者から、「ある格闘技」を習うけれど、小島一志はそれはボクシングであったと推測していることを思い出した(『大山倍達正伝』。)

 

3.国禄、国禎、国祥

朱国福の兄弟の中で、すぐ下の弟の国禄は1928年の第一届国術国考で兄の国福、弟の国禎とともに「最優等」15人に入賞したあと、翌29年に杭州で開催された国術游芸大会には江蘇警察学校から参加して第二位を獲得、その後中央国術館に招聘され技撃隊副隊長に任じている。中華人民共和国前後に黒龍江省チチハル市昂昂溪区にゆき1972年、チチハル市で亡くなっている。チチハルにも彼の形意拳が今も伝えられている模様。

 

杭州国術游芸大会 左から第一位の王子慶、第二位の朱国禄、第三位の章殿卿

出典:http://lsw1230795.mysinablog.com/index.php?op=ViewArticle&articleId=4361338

f:id:zigzagmax:20170813091846p:plain

baike.baidu.com

----------- 

3番目の弟の国禎の、第一届国術国考のあとの足取りはおおむね以下のとおり

1929年1月 南京中央国術館教授班(百度の記事は第一期としているけれど、首期教授班は1928年のはずで、これは第2期?)

1932年 長沙第四陸軍軍事訓練組技術研究室高級班副主任兼国術教官に任じるとともに湖南省国術館でも指導 

1937年12月から四川省に定住、成都軍校や南洪藝術専科学校、成都警察局などで武術を教え、1944年には成都体育専科学校(1942年設立、成都体育学院の前身)に招かれる。

 

1949年末に、一番若くしてなくなっているけれど、娘の朱梅玲の回想によると、1948年に飛びこみのパフォーマンスをしたときに、文章よるとウォーミングアップ不足で冷水の刺激を受けたために(そんなことがあるのかな?)半身不随(原文は「瘫痪」)になってしまったのだといい、そのことと関係があると思われる。

 

 

ちなみに、上記の朱梅玲の夫は、ベルリンオリンピックにも参加した鄭懐賢の息子で鄭桂麟といい四川大学の教授であった人。学問の道に進んだのでお家芸の飛叉は受け継いでいない模様。

ただし、鄭家の飛叉は、故郷の河北省白洋淀で孫にあたる鄭樹広という人が演じている模様。でもこれって、動画を見ると、かなり見世物化している気がするなあ・・・。

baike.baidu.com

 

www.youtube.com

 〇鄭懐賢の孫の鄭樹広のパフォーマンス

www.sohu.com

 

-------------- 

一番下の弟・国祥の、1929年以降の略歴は百度百科によると以下のとおり。

 

1929年,考入中央国术馆教授班。
1933年22岁时,任驻衡阳的国民革命军第15师骑兵国术教官,专授战场格斗技术。
1935年至1937年,任教于湖南国术训练所,训练战场格斗技术。
1940年以后转入教育界,先后任中央大学体育系、金陵女子大学体育系讲师。
建国后先后执教于上海东亚体育专科学校、华东师范大学、华东体育学院(现上海体育学院)、交通部武汉河运学校,任东亚体专教务主任、华东体育学院武术教研室首任主任。
1983年2月23日,病逝于徐州。

baike.baidu.com

 

ボクシングを学んだ兄弟4人のうち、3人がその後、湖南に招かれていることがわかる。

1930年代の湖南の国術訓練の貴重な動画の中に出てくるボクシングのような訓練も、彼ら兄弟がもたらしたものと考えてよいのかもしれない。上海時代に彼らが行っていたというボクシングの試合とパフォーマンスの、パフォーマンス部分もこういう光景だったのかなあ、などと妄想が膨らむ。

Rare Chinese Martial Arts Footage from 1930's - YouTube

youtubeの動画から

f:id:zigzagmax:20170813094027p:plain

  

いろいろ詰め込みすぎたので、収まりが悪い気がする。

今後、いろいろ修正が必要と思われるけれど、とりあえずのまとめとして。