中国武術雑記帳 by zigzagmax

当世中国武術事情、中国武術史、体育史やその周辺に関する極私的備忘録・妄想と頭の体操 ※2015年2月、はてなダイアリーより移行

沛声『武林名門尚芝蓉』

掲題の「小説」をネットでたまたま見つけて、読んでみたら面白かったのでメモ。

 

〇全文のリンクはここ。冒頭に、かつて日本で発表されたかのような記載があるけれど未確認。雑誌『武術』で李文彬が尚氏形意拳を紹介していた頃(VHSテープを買った気がする)の話だろうか。

武林名门尚芝蓉

 

話は尚雲祥が夫人を連れて北京に居を構えたあたり(尚芝蓉はその翌年に生まれる)からはじまる。(居を構えるといっても、なんどか転居を繰り返している。)

内容は、筆者が尚芝蓉本人を含む関係者から聞き取ったもののよう。どうやら正式な門人の方ではなく、尚芝蓉と知り合ったのも時期としてはかなり最近のようだけれど、これだけの詳しい情報をどうやって入手されたのか、そのあたりはよくわからない。

 

〇尚雲祥と幼い頃の尚芝蓉(向かって左の少女)

出典:形意拳尚云祥先生之女尚芝蓉拳照_中国传统文化社区_才府

 

幼かったころ、母は、家族の反対にもかかわらず、断固として、尚芝蓉に纏足をさせることを主張。しかし、老齢のため視力がすでに落ちていた母は、足の成長を拘束するはずの手製の靴の制作がうまくゆかず、あやうく纏足にならずに済んだ話(23歳年上の姉は纏足をしている)や、

晩年の尚雲祥が(良性の)腫瘍を患い、皆が手術を勧めたものの西洋医学を信じずに手術をしなかったという話、

尚雲祥の一番弟子で継者と期待されながら早くに亡くなった満洲族の李闊如とその家族の話、

尚雲祥の葬儀で誰が幟と位牌を持つかでもめた話(夫人の判断により、最年長の陳子江が幟をもち、劉華甫が位牌をもつことに。陳子江は年長ながらもともとは郭雲立という別の師について学んでおり古参の弟子ではないことから、この決定に不服の許笑羽は葬列に加わらず)、

尚雲祥の死後、夫人と幼い娘(尚芝蓉)の世話をした李克友(その後、お金を使い込んだと嫌疑をかけられ、一門を去る。尚芝蓉は濡れ衣であったと回想)の話、

尚雲祥の遺骨を故郷に運ぶ途中の善化橋というところで門人の張玉栄に声をかけられ、どうして今日ここにいるのがわかったのかと聞いたら「師匠が夢枕に現れた」と答えたといい、さらにその後ろには後を追うようになくなった李闊如が付き従っていたと聞いて皆不思議がったという話、

一番世代的に近い李文彬との修行時の話、

李文彬の父から学んだ中医の知識が、文化大革命時に「はだしの医者」として役に立ったという話、

文革後期に地元で武術隊が組織され、尚芝蓉にも声がかかるが、それは、「名家」の出身だったからではなく、身分的に問題のない「貧農」の代表だったからという話、

文化大革命後に各地の弟子たちが連絡を再開してゆく経緯、

尚雲祥の碑文をめぐる韓伯言と李文彬のちょっとしたトラブルの話

などなど、面白い話が満載だった。

 

尚雲祥の死後、生計を支えるために尚芝蓉が勤め始めた警察の女子部隊(ただし、上司からのすすめもあり家伝の形意拳は教えず、李文彬にならった梅花拳を教えていた由)には、尚芝蓉とともにもうひとり通臂拳の「王霞林」という女性教官が招かれていたようだけれど、これは「王侠林」のことだろう。北京の警察で教官をしていたという話は『中国武術人名辞典』や『北京武術軼事』にも載っていない話だったので興味深かった。

 

〇向かって一番左が李文彬、右から二番目が呂克友という

出典:一代宗师尚云祥及门生陈子江之轶事,第三方资料提供-文化频道-手机搜狐

f:id:zigzagmax:20171210103624p:plain

 

 

 

〇韓伯言

出典:http://shangpaixingyiquan.cn/Item/158.aspx

 

〇尚雲祥夫人を囲んで、左から李文彬、韓伯言、伯言夫人、尚芝蓉、劉華甫、王鳳章

出典:尚派形意拳

 

〇文中にでてくる王霞林(王侠林)

出典:http://www.emwsw.com/index.php?m=content&c=index&a=show&catid=21&id=3166

f:id:zigzagmax:20171210104045p:plain

 

 〇尚芝蓉の動画

www.youtube.com

 

https://read01.com/kk6AyP.html#.Wi0XYVVl-Ul

『Retuen of Bruce』、『Legend of the Condor Heroes』など

ブルース・リーが生きていれば77歳の誕生日を迎える11月27日前後に、「そっくりさん」主演の映画を含めて、いろんな情報が流れてきた。

なかでも印象に残ったのは、ブルース・リ(呂小龍)のRetuen of Bruce (『忠烈精武門』)

f:id:zigzagmax:20171203205936p:plain

出典:Rare Kung Fu Movie Website 2017年11月28日の記事

www.youtube.com

テーマ曲まで利用している念の入れようだけれど、お願いだから帰って来ないでいいです。

 

欧米では、ブルース・リーそっくりさん主演の映画を示す用語として、
Bruceploitation なる言葉があることも知った。

Bruceploitationっていうのは、ブラックスプロイテーションをもじってるんだと思うけれど、以下のページに載っているだけでも33作品あり、立派に一つの映画ジャンルのようになっている。

Category:Bruceploitation films - Wikipedia

 

アマゾンプライムには、ブルース・リ(呂小龍)以外にも、ブルース・リィ(黎小龍)や、ブルース・リャン(梁小龍)の映画もあるみたいなので、とりあえずメモしておこう。英語版で日本語字幕のないものがほとんどだけれど、中には日本語字幕のものもある模様。


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英語版、ということに関連して、金庸の『射鵰三部作』の英訳がはじめて出版されることになり、翻訳者に取材した記事が「中国新聞網」に掲載された。まず『射鵰英雄伝』の第一巻が2018年の2月に刊行されるらしい。

《射鵰英雄傳》終於有英譯版了!最難譯的不是「九陰白骨爪」

 

A Hero Born: the bestselling Chinese fantasy phenomenon (Legends of the Condor Heroes 1) (English Edition)
 

 

日本語版では「江南七怪」とか「九陰真経」とか、経典の名前や登場人物のあだ名、グループや必殺技や流派の名前まで、漢字のまま、特に翻訳する必要はないと思うけれど、英語にするときは、こういうものを一つ一つ翻訳、原文の印象を損なわないように翻訳しなければならないのは、確かに大変な作業だろう。

「九陰白骨爪」の訳 Nine Yin Skeleton Claw は、陰陽の「陰」だけが中国語の音のまま残っているけれど、この辺にも翻訳の苦労が偲ばれる。

ちなみに、徳間書店から出ている『射鵰三部作』の『倚天屠龍記』では、この「陰」と「陽」に関連して決定的な誤訳があるらしい。

倚天屠龍記 - Wikipedia

 

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考えてみると、こういう翻訳上の問題は、映画や文学だけでなく、武術書を翻訳する場合にも避けてとおれない問題だろう。そう考えたときに、歴史的・地理的な関係は置いても、漢字を(ある程度まで)理解ができる日本のほうが、圧倒的に有利であり、中国武術の理解が進んでいるに違いないと思ってしまうけれど、以前にメモした『単刀法選』の現代語訳をはじめ、アマゾンのページには孫禄堂の『太極拳学』『八卦拳学』『形意拳学』の英訳も並んでいる。さらに、以下のような原典を翻訳して公開しているようなサイトもあり、中国武術の基礎研究は、実は日本より英語圏のほうが「はるかに」(←ここ重要)進んでいて、成果が蓄積されているような気もする。

 

brennantranslation.wordpress.com

 

 
別に張り合う必要はなくて、必要に応じてリソースとしてどちらも活用すればいいだけの話ではあるけれど、日本でもこういった基礎研究を積み重ねていったほうがよいと思うし、歴史的な経緯から見ても、日本にしかできないユニークな成果が生みだせるにちがいないと思う。

 

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なお、エラそうにメモしたけれど、金庸の小説は『書剣恩仇録』『鹿鼎記』以外は未読。
『射鵰三部作』に関しては『射鵰英雄伝』をリー・ヤ-ポン版、『神鵰侠侶』をホアン・シャオミンとリウ・イーフェイ版のドラマ、『倚天屠龍記』は、たぶんそのストーリーのごく一部でしかないジェット・リーの映画『カンフー・カルト・マスター 魔教教主』で見ただけなので、実はあまりよく知らない。
ただ、『射鵰英雄伝』では売国奴で敵役の楊康の息子・楊過が第2作の『神鵰侠侶』では主人公を演じるなど、主人公レベルで正義と悪が入れ替わり、民族の対立を乗り越えようとしているところがとても面白いと思っていた。

これも原作を読んでいないのでエラそうなことはいえないけれどフー・ジュン版で見た『天龍八部』のなかで一番印象に残っているのも、

主人公で契丹人の喬峰(蕭峯)が智光大師に、漢人契丹人も同じ人ではないか、と教えられる場面。原作で探すと、ここの場面か。

“万物一般,众生平等。圣贤畜生,一视同仁。汉人契丹,亦幻亦真。恩怨荣辱,俱在灰尘。”

天龙八部 第二十一回 千里茫茫若梦(5)_梦远书城

同じように、中国人も日本人もわかりあえる、というのは個人的な信念ではある。

 

 

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沙国政、顧麗生、貴州の太極拳など

少し前に修剣痴についてメモした際に、沙国政が長沙講武堂で修剣痴の指導を受けとされていることをメモしたけれどその前後、雲南省で武術を教えるまでの沙国政の足取りをざっと調べてみた。 

 

1927年ごろに山東から天津に出て、王之和、馬興義らと交流を深め、翟樹珍、姜容樵に学んでいた沙国政は、天津を離れて朝鮮半島の仁川にいるかつての師・王者政に再び師事する。この経緯について『中国武術百科全書』の人物紹介(執筆者は後述の張修林)は、

1930年随师王者政到朝鲜仁川传播中国武术。

と書いているだけだけれど、博武国際武術網の記事(署名無しながら、なかなか興味深い記事だと思う)は、英兵とトラブルを起こしたため天津を離れざるをえなくなり、朝鮮半島の仁川にいたかつての師・王者政のところに身を寄せたと書いている。同記事によると、当時の仁川は「万宝山事件」の影響で華僑に対する反感が高まっていたようで、王者政と沙国政は華僑の安全確保のため20数名からなる自警団を形成していた模様。そんな中で王者政が亡くなると(例によって、日本人による毒殺という説も)、秘密裡に故郷に戻り、本籍地の石島に戻り石島塩警長の王興仁び部隊で中隊長に任じたる。

そこから長沙に行ったのは、天津時代に交流を深めた王之和が呼んだのか、王之和を頼ったのか、あるいは全然違う理由・人脈によるものなのかはわからない。

 

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長沙を離れた沙国政が1946年に蕪湖の国術館(注)、1948年には「貴陽青年会」で指導したことは、墓碑銘をはじめ多くの記事に記されている。

蕪湖の国術館については中央国術館蕪湖分館と書いているサイトもある。この書き方だと、なんだか直接の上下関係、命令系統があるような描き方だけれど、果たしてそのような関係であったのか、詳細は未確認。

なお、『中国武術百科全書』の沙国政の人物紹介の執筆者として名前の見える張修林は1946年、この蕪湖で沙国政に拝師した人らしい。

www.shaguozheng.com

貴陽の太極拳は、安徽省の人・顧麗生が南京で楊少侯に学んだものを、貴陽に伝えたのがはじめとされる。以下の「貴陽的楊式太極拳」によると、顧麗生が貴陽に移ったのは民国26年(1937年)で、1944年に義援金集めの場で太極剣を表演、1947年の擂台賽(王之和も審判として参加した8月の擂台賽。顧麗生自身は審判長を務めている)でも汪石海(汪四海)と太極推手を表演するなどして太極拳が注目され、基督教青年会の体育培訓班で太極拳を指導するようになったという。沙国政が1948年に教えたという「貴陽青年会」もこの基督教青年会のことかと思われる。

なお、「太極拳在貴陽的伝承脈絡」によると、顧麗生が太極拳を教えたのは基督教青年会ではなく、広東省開平出身の関文偉(呉鑑泉の弟子の趙寿邨、鄧賛群、楊澄甫の弟子の盧子苓に師事)が基督教青年会の場所を借りて1938年にはじめた「文偉太極拳社」だといい、詳細はなお検証が必要かもしれない。

〇「貴陽的楊式太極拳

www.360doc.com

〇「太極拳在貴陽的伝承脈絡」

www.360doc.com

〇貴陽に楊式太極拳を伝えた顧麗生

baike.baidu.com

〇顧麗生の関門弟子・池慶生の太極拳の動画

v.youku.com

〇顧麗生と池慶生

出典:杨氏太极拳贵州省支系概述_常慚愧居士--妙鹏_新浪博客

f:id:zigzagmax:20171126221513p:plain

 

〇1947年8月の貴陽の擂台賽 (陳硯田口述 葛国文整理)

 国術館副館長の顧汝章が総責任者(総擂主)、顧麗生は総審判(総裁判)を務めている。

www.chinataijiquan.org

 

沙国政が貴陽を再び訪れて、同じ太極拳でも「敬祝毛主席万寿無疆太極拳」や、「大航海靠舵手八卦掌」を教えるのは文化大革命の頃の話。

 

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沙国政武術館の紹介では1949年から、昆明の大板橋で武術を教えた(「1949年后在昆明大板桥教授武术」)と書いているけれど、墓誌銘では雲南に流れてきたあと、昆明の大板橋で農業に従事(「流离辗转来滇,居昆明大板桥务农」)とだけ書かれており、武術のことは触れられていない。1958年に雲南省武術隊で指導しはじめるまでは厳しい生活が続いたのかもしれない。

 

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今回、天津から昆明に到るまでの沙国政の動きを調べてみて、以前に王之和について調べたときにはわからなかった貴陽の擂台賽についての詳しい情報や、仁川における沙国政の活動などがわかったのは収穫だった。貴陽の擂台賽は1947年でほぼ間違いないだろう。まだまだ断片的ながら、探せばいろいろ面白い情報が見つかるものだと再び実感した。

 

 

www.youtube.com

 

 

 

www.youtube.com

 

 

 

 

 

ベルリンオリンピックの国術代表団3(領隊、監督員、選考委員)

調べものをしていて、以下の記事に、「鼻子李」こと李瑞東の弟子の李子廉の弟子に郝明という人がいて、ベルリンオリンピックの国術代表団の引率(領隊)を務めたと書いてあった。おそらくは、張文広『我的武術生涯』等では郝銘と書かれている人物のことだと思われる。当時は南開大学の国術教官を務めており、ベルリンの代表選考時には、褚民誼、張之江、徐致一、葉良、何忠義とともに、代表選考の審査委員も務めている。

国内外300位武术友人齐聚廊坊研讨李派太极_河北新闻网

 

審査委員のうち、褚民誼、張之江、徐致一はいいとして、葉良というのは、上海市国術館の常務董事や教務科主任をつとめた人らしい。何忠義についてはいまのところ未確認。

なお、張文広『我的武術生涯』は、代表選考は上記のとおり褚民誼、張之江、徐致一、葉良、何忠義の6人が選考委員になり、南京国術館の競賽場で選考(初選)が行われたとしているけれど、武術研究院の『中国武術史』(1996)は、褚民誼が招集して褚民誼、張之江、沈嗣良、葉良の四人が選考委員になり、上海申園健身房で選抜の表演が行われたと記している。以下の記事には両方からの引用がある。この間の事情は未確認。

王正廷(1882~1961年)奥运先驱 ——中国武术在线 名人名家

 

〇上海国術館の紹介 葉良の名前がでている

www.wuyitang.com

代表団(男子)左から、張文広、金石生、寇運興、郝銘、顧順華、温敬銘、鄭懐賢、張爾鼎

出典:台湾精武体育会のブログ

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代表団の監督員をつとめた顧舜華は上海交通大学の体育館の副館長で、入場パレードでも旗手を務めている人らしい。(旗手をつとめている写真は見た気がするのだけれど、見つけられない。)「国民簡易体操」のレコード『太極操教本』(三通書局 1941年)、『国民体操』(中央青年幹部学校, 1943)などに名前が見える。

上海交通大学といえば、その前身の南洋公学以来、いちはやく武術を取り入れた学校として知られることは以前にメモした。

 

zigzagmax.hatenablog.com

 

余談ながら李瑞東の弟子のうち、高瑞周は、京劇の梅蘭芳太極拳の師としても知られ、梅蘭芳との推手の写真が残っている。李派太極拳の代表的な套路・太極八卦奇門拳の動画とあわせてメモ。

 

高瑞周_百度百科

梅兰芳先生练习太极剑片段_腾讯视频

www.youtube.com

 梅蘭芳(右)と高瑞周(左)

出典:https://kknews.cc/history/q24y49o.html

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 〇梅蘭芳

出典:https://kknews.cc/history/q24y49o.html

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 一番上の記事に戻り、廊坊武術協会の主席で李派太極拳の張紹堂の李派太極拳

www.youtube.com

武術賽事の管理強化、ジャック・マーの『功守道』、「峨眉武術発祥の地」など

11月4日に開かれた雲南省武術協会の全体委員拡大会で、胡宝林が全会一致で主席に選ばれたらしい。

胡宝林といえば、自分が武術を始めた頃の現役選手で、四川の任剛とならぶ通背拳の名手だった。ライバル任剛は四川省武術協会の主任としてさまざまなアイデアを打ち出しているけれど、胡宝林主席(トップ役職名は省によって違うのかな)の手腕やいかに。

雲南省將重拳出擊遏制武術界亂象-新華網雲南頻道

 

〇胡宝林

出典:沙国政武術館の公式ウェブサイトより 

 

会議では、8月に発表された国家体育総局の武術の賽事活動の監督管理強化に関する通知が周知された模様。雲南以外の各省でも同じような会議が開かれて、総局の通知を皆で「学習」しているんだろうか。

 

〇国家体育総局の通知

出典:體育總局下發文件 加強對武術賽事活動監督管理-體育新聞-新浪新聞中心

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おりしも、同じ11月4日に昆明で行なわれていた『武林風』の試合では、今年の3月以来、 武僧一龍の対戦相手を決めるために参加した8名の選手の中から勝ち上がったムエタイシティチャイ・シッソンピーノン(西提猜)と一龍の試合がついに実現するも、一龍は2ラウンドでKO負けしたことが話題になっている。そもそも『武林風』という河南衛視の番組のために作られた英雄の一龍とシティチャイ・シッソンピーノンではレベルが違いすぎるという声も聞こえてくる。(チェックしていなかったけれど、2015年6月に行われ、一龍が判定勝ちした、プアカーオ(播求)との一戦も大いに物議をかもしたらしい。詳細は以下の鳳凰週刊のオフィシャルブログに詳しい。)

 

blog.sina.com.cn

 

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 8月に発表された国家体育総局の通知は、上記のような賽事活動の監督管理強化という題目だけれど、民間において勝手に新しい流派を作ったり、「宗師」、「正宗」を名乗って大衆を欺いては行けない、といった内容も含まれている。この点について、以下の記事などを見ると、80年代の調査に基づいて、現在武術運動管理中心が認定している流派を129種類と紹介している。90年代にはいって木蘭拳に対して130番目の流派認定が行われているはずなのに、そのことに触れられていないのは、取材を受けた武術運動管理中心の「工作人員」も、裏をとらない記者も、プロとしていかがなものかと思う。(まさか、130番目の流派認定自体が、木蘭拳による宣伝だった、ということはないと思うけど・・・。)

 

www.sohu.com

 

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 ふと目を転じると、ちょうど昨日(11月11日)、アリババのジャック・マー主演のショートムービー「功守道」がネットで公開された。

v.youku.com

ジェット・リーは「功守道」はたんなる映画ではなくて、太極拳の発展形(対極推手が太極拳のバージョン2.0だとして、功守道はバージョン3.0だという言い方をしている)であり、大衆向きの種目として普及させ、最終的にはオリンピックの種目にしたいというようなことを述べている。

この作品を見ただけでは、いったい「功守道」がどんな競技なのかよくわからないけれど、こういう新しい競技として普及させようという動きというのは、管理強化を打ち出したばかりの武術運動管理中心の目にはどう映っているのだろう。「雷公太極」という流派を作るのはダメで、「功守道」を作るのはいいのだとしたら、両者の違いは何なのか。そのあたりは気になるところ。

  李连杰介绍,功守道是以中国传统武术太极为基础发展出来的一项全新的运动项目,“如果把推手看作太极的2.0版本,那么功守道就是在推手上再升级的3.0版本。”

   据悉,《功守道》电影推出之后,功守道赛事也将在11月亮相。

   李连杰说,他希望把功守道发展成一项体育产业,不仅有专业联赛,更成为一项全球普及的大众体育运动,最终成为奥运会的正式比赛项目。“

李连杰:终极梦想是中国太极进入奥运会——新华网——湖南

 

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ちょうど、このメモを描き終えようとしていたら、峨眉山の中峰寺で、「峨眉武術発祥の地」の石碑の除幕式が行われたという記事が流れてきた。

news.sina.com.tw

峨眉派武術の起源については、記事の中でも「峨眉武术究竟起源于哪里,多年以来在武术和文化领域说法不一。」と書かれているとおり、諸説がある状況だと思うけれど、この時期この碑が作られた背景についてはよくわからない。

こうした石碑やプレートに関しては、2007年、河南省温県陳家溝で『中国武術太極拳発源地』のプレートのお披露目が物議を醸したことと、嵩山少林寺に建てられた「世界詠春拳帰山記念碑」をめぐる騒動が記憶に新しい。これも、広い意味で、「正統派」をめぐる混乱が原因であると考えると、きちんと整理整頓してほしい気もする。

baike.baidu.com

 

以上、やや雑多にここ数日気になったニュースをメモ。 

峨眉派趙門と太祖拳、営口の起順鏢局、綏遠の得勝鏢局など

1.紅拳、「峨眉派趙門」、太祖拳

少し前に『全球成功夫網』に載っていた安徽省蚌埠の太祖拳についての記事が面白かった。

 

www.qqgfw.com

 

说起太祖拳,其实是精湛的拳种,属“红拳”,拳术套路和器械套较多,由于传承甚少,为知不多,究其原因还是宣传交流不够,蚌埠的太祖拳系峨嵋派“赵门”拳法,是由上世纪初期由关外营口起顺镖局镖师时忠常40年代初期传入蚌埠的

 

 さらっと書かれているけれど、ここでは蚌埠の太祖拳というのは紅拳の一派で四川につたわった「峨眉派趙門」で、営口の起順鏢局の鏢師・時忠常(山東・歴城の人)によって1940年代に蚌埠に伝わったものだと紹介されている。

 前にメモしたとおり、四川に紅拳をもたらしたのは、『少林拳秘訣』にもでてくる三原の高氏で、「鷂子高三」こと高占魁のことだと思われる。その「峨眉派趙門」が遼寧は営口の元鏢師を通じて蚌埠に紹介されるというのが面白い。このあたり、どういう繋がりになっているのか、もう少し詳しく知りたいところ。

 

2.営口の起順鏢局

 「每日头条」に転載された営口歴史弁公室史の王琬「高手云集的清代营口镖局」によると、営口の起順鏢局は1884年、直隷静海の人・張起順によって設立されたらしい。

 記事では、『実業之満州』(後述)によりつつ、光緒三十一年(1905年)時点で、営口には23家の鏢局、鏢員367人がおり、一流の鏢局には日昇、福順、全也、二流の鏢局には興順、万成、義州、魁成、永発、永元、順成、順声、興隆、金源、三流の鏢局には福成、魁元合、復興東、匯聚、金城があるとしている。起順はこの分類の中にでてこないけれど、かつてはもっぱら(営口と)北京との間を行き来する、最も有名な鏢局であったらしい。鉄道輸送の興隆と鏢師の高齢化によって、1906年には張静海の長子の張永発が「永発茶館」に改業したということなので、1905年の時点ではすでに経営は左前になっていたのかもしれない。鏢局が店をたたんで茶館になるというのは、会友鏢局の李堯臣が鏢師を引退して「武術茶社」を営んだことと似ているけれど、業界の一つのスタンダードな転職のパターンだったのだろうか。

 時忠常は起順鏢局の閉鎖後、張宗昌の済南の講武堂、馮玉祥の部隊で教官を務めたり、北京、丹泰(江蘇)、上海、雲南、四川などを経て安徽に到り、武術の指導と骨董品の販売を営んでいたという。

 ちなみに、営口と北京を結ぶ起順鏢局に対して、営口から奉天の方にゆくのが日昇、錦州の方にゆくのが福順だという。

 

《实业的满洲》记载,清光绪三十一年(1905年),营口共有镖局23家,局员367人。一流的镖局有日升、福顺、全成;二流的镖局有兴顺、万成、义州、魁成、永发、永元、顺成、顺声、兴隆、金源;三流的镖局有福成、魁元合、复兴东、汇聚、金城等。走奉天的日升、走锦州的福顺,专走北京的起顺是营口最有名的镖局。

https://kknews.cc/zh-cn/history/b9gkq9.html

 

 そういえば、『逝去的武林』で傅昌栄が薛顛と腕試しをしたのも、「関東営口的一家糧店」(P.41)。このことも、営口という土地が、この時期、武術家が集まるところであったことを窺わせる。

 

3.営口のその他の鏢局

 王琬「高手云集的清代营口镖局」には、個人名として、起順鏢局の創始者「神腿」張起順のほかに、徳勝鏢局の鏢師で営口練軍営の武術教官も務めたという栄振武、日昇鏢局で鏢師を務めた李茂春の名前がでてくる。

 このうち、栄振武の伝えた武術は、弟子の趙如川に伝わり、趙の武術は「元功拳」として今に伝わるらしい。

 三代人百年传承“元功拳”- -辽宁新闻,第一时间播报辽沈地区新闻,北国网新闻频道

 

 李茂春については、中国人民政治協商会議天津市委員会文史資料委員会編『近代天津武術家』に、やや物語調の詳しい伝記があるけれど、大連の南山武術研究会で指導していた頃に、日昇鏢局に請われて一度だけ荷物警護の任務を引き受けたことがあったらしい。

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 李茂春の娘の李文貞は中華人民共和国建国初期の剣術の名手。その教え子に遼寧省武術隊の教練を務めた劉幼貞がいて、劉幼貞が育てた選手に張少芸、劉清華がいる。劉清華はのち呉斌に見いだされて北京チームに移籍。劉清華の北京移籍のことは、現代武術競技のエピソードとして、楊祥全『中華人民共和国武術』にも載っていた。二人とも、現代中国の競技武術界を代表する名選手で剣の名手。こういうところで伝統は受け継がれているようにも見える。

 李茂春を招いた日昇鏢局については今のところ詳しい情報がない。

〇李文貞の「太極十三剣」

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 出典:虎父龙女,武林佳话——李茂春、李文贞父女生平大事记(三)_星武太极_新浪博客

 〇劉幼貞の太極十三剣

v.youku.com

 

  徳勝鏢局という名前の鏢局は一つではなさそう。ネットでざっと調べただけでも、(1)営口の徳勝鏢局のほかに、以下のような情報がヒットした。

(2)八卦掌の梁振蒲が義和団事件後に郷里にもどって開設した徳勝鏢局。北京、保定、徳州あたりで活動。1928年活動停止。

 梁振蒲 - 维基百科,自由的百科全书

(3)上海市地方志弁公室の紹介によると、河南の回民で、上海で「得勝鏢局」を開いた王俊亭が、上海に来る前に北京で総鏢頭を務めていたのが「徳勝鏢局」であるという。上海で王俊亭のあとを引き継いだ甥の王效栄は徳勝鏢局を畳んで徳勝武術社に鞍替え。

 :::: 上海市地方志办公室 上海通网站 上海市地情资料库 上海市的百科全书::::

 ここでいう、北京の「徳勝鏢局」と、八閃翻の李徳川の経歴の中に出てくる「徳勝鏢局」とは同じなのかな?

 八闪翻简介

(4)清の同治年間(1862—1874)に吉林市の郊外・船厰にあったもの。河北省豊南県董各荘の肖家の人が設立したと伝えられる。肖家の三男の肖振傑と、「天罡隊」の宋景堂は義兄弟の契りをかわしており、その宋景堂は以前にメモした山東の農民反乱「黒旗軍」の宋景詩と付き合いがあったので、一時は朝廷による関係者処罰の累は肖家にまで及んだらしい。

清同治年间(1862—1874),吉林船厂有个著名的镖局,即德胜镖局,由河北省丰南县董各庄肖家创办。肖家子弟曾拜少林派十三世和尚玄修为师,学得最精熟的是“地蹚刀”。 

镖局传美名_溪汪_新浪博客

(5)(4)と同じ吉林市で「太極元功」を伝えた常晋卿(1979年没)の祖父は天津の徳勝镖局の名镖局であったという。天津にも徳勝镖局と名乗る镖局があったのか?

 第四代传人

 

www.cstjyg.com

 

(2)と(3)、(4)と(5)あたりは、もしかしたら同じなのかもしれない。

海灯法師の師・朱智涵も師事した呉春の紹介によると、呉春が鏢師を務めていた頃の北京の徳勝鏢局には、(3)の王俊亭がいて、さらに「肖么師」こと肖栄松という「肖」姓の鏢師がいたらしい。四川の中江広福あたりに住んでいたというので、四川方面から北京に貨物を運ぶのを請け負っていたのだろうか。この「肖」氏と、船厰で徳勝鏢局を開いた河北出身の「肖」氏の関係はどうなんだろう。

 巴蜀真人朱智涵道长_近古代时期_玄门之音_道长,朱智涵,真人,巴蜀,

「元功拳」とか「太極元功」とか、似たネーミングが出てくることもなんだか気になる。

 

 後述の綏遠の「得勝鏢局」は、湖北の「得勝鏢局」分局ということなので、上記(3)の上海の「得勝鏢局」とは違う模様で、「徳勝」とか「得勝」というのは、とくに珍しくないだけでなく、好んでつけられる名前だったのかもしれない。

 

 営口の荷物輸送業でも、海路をゆくものは、「船会」といわれ、数家があったらしい。

营口市武术协会副主席杨林的论坛发言:向梅花桩拳前辈学武二、三事(1)_昆仑功夫俱乐部_新浪博客

 

 このあたりも、それぞれもっと丁寧に掘り起こしてゆけば面白い気づきがありそうな気がするけれど、とりあえずは今後のために大枠のところをメモ。

 

4. 『実業の満州』、『中国封建社会の機構 : 帰綏(呼和浩特)における社会集団の実態調査』など

 上記の王琬「高手云集的清代营口镖局」で引用されている『実業之満州』とは、実は坂本箕山(辰之助)編集『実業の満州』(明治38年すなわち1905年刊)のことと思われる。『実業の満州』は国会図書館のデジタルコレクションでも公開されていて、239ページに「十一、営口の盗難保険事業」とあり、上記の引用の赤字にした部分に相当する「現今営口には此鏢局二十三戸其局員三百六十七人あり」の記述が確認できるけれど、その他の具体的な記述までは上記のページには記されていない。この本を隅から隅まで見ていけば、あるいは書いてあるのかもしれないけれど、その可能性は低い気もして確認していない。

国立国会図書館デジタルコレクション - 実業の満洲

 

 それにしても、戦前の日本は満州でこんなことまで調査して記録していたのだなあ。

もっと探したらいろんな記録が出てきそうだと思って、国会図書館のデータベースを改めて「鏢」をキーワードに調べてみたら、今堀誠二『中国封建社会の機構 : 帰綏(呼和浩特)における社会集団の実態調査』「第九章 サービス業ギルド」の第四節が「輸送保護の武術師と「鏢局」」と何とも興味深い見出しであることに気付いて、地元の図書館までデジタル版を見に行ってきた。

国立国会図書館デジタルコレクション - 中国封建社会の機構 : 帰綏(呼和浩特)における社会集団の実態調査

 書籍の出版は1955年だけれど、内田直作の書評によると、1944年5月から12月まで現地で行った社会実態調査の成果をまとめたものらしい。帰綏(フフホト)の得勝鏢局はその時点ではすでに活動を停止していたけれど、まだ看板は残っていて、興味をもった今堀誠二が同鏢局の元経理の陳栄祥を紹介され、取材した内容が記されていた。

 下の写真は、「私の希望にまかせて譲られた若ぶりの陳氏の写真」とのこと。馬はどことなくハリボテっぽい気も。こんな写真を名刺がわりに配っていたのだろうか。陳氏は山東出身の武術家の家系で、父親の代から得勝鏢局で鏢師をつとめてきた由。取材時点では、鏢局はすでに廃業して、馬車業を営みつつ、副業として接骨と膏薬を副業としていたという。

 

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出典:今堀誠二『中国封建社会の機構 : 帰綏(呼和浩特)における社会集団の実態調査』

 

最後に、営口を中心にした地図を貼り付け。営口を中心に、天津や天津、大連、瀋陽との位置関係が確認できて、なるほどと思う。 

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安徽の太祖拳をきっかけに調べはじめたら、思わぬところにたどり着いてしまったけれど、それがまた武術史の面白いところでもある。どんどん脱線して風呂敷を広げてゆこう。

 

 

 

「東北三省武術会」、「奉天武道振興会」など

1.海朝英

張作霖・張学良について調べていたら、海朝英という、孟村出身の武術家にたどりついた。

弾腿の名人で、なおかつ回教のアホンであったらしい。

弾腿のほかに鐵(黨)、鐵鞭、虎頭雙鉤が得意であったともいわれる。

百度百科の紹介では、1931年の「東北三省武術会」に参加し、その演武を見た張学良が彼に「名誉第一名」を授け、後に自ら清真寺まで銀盾を持っていったという。

 

宗教與武術的關系

baike.baidu.com

 

海朝英の技は、張貴森を経て、陳建任に伝えられている模様。同氏のプロフィールから。

1980 跟随著名武术击技大家海朝英传人张贵森老师练八极拳、查拳、弹腿、劈挂拳、散打。

 

baike.baidu.com

 

www.wenji8.com

 

張貴森の名前は、孟村で八極拳を学んだ張新倫のページにもでてくる。

www.zgwswhw.com

 

遼寧の海徳庫氏は、叔父の海朝英から、「十路回回弾腿」を学んだとある。

www.huaxiaxingyiquan.com

 

天津の海徳真は、海朝英の息子らしい。武術は伝えているのだろうか。

www.youtube.com

 

2.東北三省の省考

海朝英が「名誉第一名」を授けられたという1931年の「東北三省武術会」が気になって調べてみた。東北地方で最初の国考(省考)が1931年に瀋陽奉天)で満州事変の「前十多天」に行われているらしく、このことを指しているのではないかと思われる。

 

このときの優勝者は尚派形意拳の辛健侯で、長子の辛延海へのインタビュー記事がある。もともとは華北運動会の代表選抜を兼ねていたようだけれど、日本の占領により、その後は計画通り本戦参加とはゆかなかった模様。

 

〇辛延海へのインタビュー記事。辛延海自身も1947年の擂台賽に参加しており、その記述も興味深い。なお、この記事では、冒頭の海朝英についての言及はない。

尚派辛健侯系形意拳传承纪事

 

〇尚雲祥と辛健侯の写真

 1931年の擂台賽での優勝を報告に北京まで行ったときに撮影されたものという。

 出典:形意拳大师尚云祥与辛健侯先生的几张老照片

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そのほか、百度百科などで査拳の劉宝瑞をする紹介記事では、やはり張学良が、南京で行われる全国武術擂台賽の選手選抜のために1931年に打擂比賽を行い、劉宝瑞が他を圧倒して優勝した(占鰵頭)ものの、満州事変により南京の擂台は中止になった、と紹介されている。細部は別として話の構成が辛健侯の話とよく似ている。擂台賽が二度行われたとは考えにくいので、どこかで混じってしまっているように思われる。

 劉宝瑞は回族で、査拳のほか、双鈎が得意というのは、冒頭の海朝英と重なるところがある。

1931年,南京要举办全国武术擂台赛,为选拔武术高手,张学良在小河沿举办打擂比赛,刘宝瑞和徒弟张贵元也参加了打擂。这次打擂,刘宝瑞力压群雄,独占鳌头。不久“九·一八”事变发生,南京擂台取消。

刘宝瑞(中国当代武术家)_百度百科

  

3.「奉天武道振興会」

奉天を日本が占領すると、もともとあった遼寧国術館などは閉館になり(注1)、日本人を会長とする「奉天武道振興会」が成立、瀋陽では29の武術団体(武館、拳坊)が同会の認可を受けて活動していたらしい。

 

たとえば

・北市場「四海昇平」茶楼の隣の辛健侯の拳坊は第一分会

・北市場関帝廟の張鶴久の拳坊は第四分会

 ※以上は、上記の辛延海の取材記事から

・地功拳の周躍武の武館は「武道振興会十二支会」

 辽沈地功拳曁出征中國香港武术大赛 - 美篇

・大連出身の蟷螂拳家・王慶斎の皇姑区の拳房は「奉天武道振興会第26伝習所」

 【辽宁武术挖掘】王庆斋先生的螳螂拳视频

 武式太極拳の顧胤柯も1938年から奉天武道振興会の教師を務めたということなので、29の組織のうちの一つなのだろう。

 辽沈地区的武式太极拳_沈阳武派_新浪博客

・その他、顧胤柯を紹介する王善徳の文章の中に、「東北三老」の翻子門、回回営の白岐山(この人も三老の一人胡鳳山の弟子だが回族のためか別扱いに)、義兄弟の契りを結んだ10人の武師からなる「奉天十義」なるグループもこの時期活動してたことが記されている。

 沈阳武派太极拳史话_沈阳武派_新浪博客

・梅花蟷螂拳の郝恒禄の大弟子・賀先隆に学んだ桑永茂(注)は「奉天省武道振興会蓋平分会」の許可証(執照)を得ていたという。

 ただし、蓋平は瀋陽市ではなく営口市に属すると思われ、「奉天「省」武道振興会」という記述とあわせて、若干確認を要すると思われる。

 なお、桑永茂の弟子の中には、満映の「武打設計」兼俳優の李希義、李玉祥などがいるという。具体的な作品名は挙げられていないけれど、白馬剣客、黒臉賊、燕青などを演じていたといい、この辺りも興味深いところ。映像が残っていないのかなあ。

东北梅花螳螂拳名师 盖州武术志稿·人物篇-laiyangyiren

2016年11月には、蓋州市の武術研究会が桑師の生誕120周年を祝う活動を行っている。

市武术研究会举行纪念桑永茂拳师 诞辰120周年暨成立21周年活动-百姓关注-盖州市人民政府

 

29団体の許認可台帳のようなものがどこかに残っていたらとても貴重な資料だと思う。

 

なお、1.で記した劉宝瑞などは奉天武道振興会への入会を拒否したものの、「推薦」という形で北市中心区区長の官職が与えられたという。

結果的に官職を得たためなのか、文化大革命時代には「歴史問題」で数年間投獄されたというのはなんとも気の毒としかいいようがない。

日本人占领沈阳后,成立了所谓“武道振兴会“,刘宝瑞拒绝入会,日伪当局以“公选”手段给他封了个“北市中心区区长”的“官衔”。
新中国成立后,刘宝瑞因“历史问题”不清,度过了几年的狱中生涯。后来在天津和平区团结路卫生院当了一名骨科大夫,直到1969年病逝。

刘宝瑞(中国当代武术家)_百度百科

 劉宝瑞は満州国には反対ではなかったようで、満州皇帝溥儀のために通臂門の鄧立根、翻子門の楊福興、少林門の鄭天翔らとともに武術を披露したという記事がある。なお、ここに出てくる鄧立根以下の人物については確認できておらず、この記事自体も事実なのかいまのところ不明。

一九三三年(伪大同二年),爱新觉罗、溥仪,因他喜爱武术,把东北的武林高手召到新京(今长春),在宫中为他演武献艺,被召的除查拳门的刘宝瑞,还有通臂门的邓立根,翻子门的杨福兴,少林门的郑天翔等著名拳师,每位拳师在会上各献绝技,展示自己的武功。
刘宝瑞上场演练的是查拳中“埋伏拳”,只见他搂、打、腾、封、挑、踢、弹、扫、挂、撑、蹚、连、撩、跺、踩、腕、胯、肘、膝、肩,一招一式,快而不乱,慢而不散,真是拳似流星眼似电,身如蛇行脚似粘,手眼相随,神形合一,他练罢收式,掌声四起,这时,溥仪问:“听说你们教门除查拳外,尚有钩、镗、带、镢四绝功夫,能否给朕练趟双钩看看,”刘宝瑞不敢推辞,连声答应,他演练了一趟“殿章双钩”,此钩是明朝大将武殿章所创,赵熙川所传,只见他舞动双钩,前八趟看钺,后八趟看钩,摘钩入扣,推钩献钺,钩搂歪甩,搂钩锁带,眼见钩光闪闪,耳听虎虎生风,大家连连喝采,溥仪点头称赞“好功夫,好功夫”,真是美钩王,从此刘宝瑞美钩王的绰号,从此在武林中流传起来。

沈阳弹腿、查拳的开拓者——刘宝瑞_长恩_新浪博客

 

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そもそもこの奉天武道振興会とは何なのか。志々田文明『満州国・建国大学における武道教育』には、満州帝国武道会について紹介されているけれど、奉天武道振興会についての記載はみあたらない。詳細は今後の課題に。

 

関係するいくつかの動画を貼り付け。

〇王慶斎の蟷螂拳と青萍剣

v.qq.com
www.youtube.com

〇王善徳の太極拳(顧胤柯伝)

v.qq.com

 

 (注1)

遼寧国術館がもともとあったといっても、『遼寧体育文史資料第4輯・武術専輯』の記載が正しければ、館長を許笑羽、副館長を張策と紀綬卿として遼寧国術館が設立されたのは設立は1931年の春なので、活動はわずか数カ月ということになる。同じく『遼寧体育文史資料』には、この国術館の場所は西華門の故宮西院で、設立後の最初の大仕事が1931年の省考であったと書かれているけれど、辛延海によると、辛健侯が北市場の中央大劇院のとなりで「遼寧国術館」をはじめたのは1930年前後で、この二つの国術館は別のものらしい。また、辛延海によると瀋陽の人で許笑羽が瀋陽に来たことがあると認識している人はいないという。ただの名義上の館長であったのか、あるいはなにか間違った情報に基づくものなのかは未確認。

tieba.baidu.com

 

以下の記事は、遼寧国術館の設立の事情について詳しく紹介されていて参考になるものの、1931年に設立された国術館が1929年の省考を実施したと書いていて、前後に明らかな矛盾があり、どこまで信用してよいのかわからない。

 为推动各地武术发展,1929年中央国术馆下令各省筹建分馆。同年2月,中央国术馆向辽宁省政府函寄 《省、县、国术馆组织大纲》、《国术馆考试条例》及学员招收《简章》,并敦促辽宁组建国术馆。其中不仅规定了办馆宗旨、机构设置、职能、管理范围、办学内容等。还对国术馆学员招收考试做出详细的说明与建议,即参赛者逐级推荐逐级考试的方式参加预试与正试,考试科目分为国术和国学两部分,国术包括着拳脚、摔跤、器械(指定枪棍刀剑),国学包括国术学、生理大要、卫生要义等。考试以比试拳脚为主(穿手、溜腿、少林十二式等),对各级考试优胜者赋予不同的称号,国考甲等前三名分别授予“捍卫”、“辅卫”、“翊卫”,乙等授以“校卫”,丙等授以“勇士”:省级为“武士”、县(市)级为“壮士”。
  时任东北政务委员会主席张学良一贯重视体育,主张“强身强国”,提倡“强国强种”。加之请立辽宁省国术馆的呼声越来越高,1931年4月18日,由张学良捐助的辽宁中小学教育基金董事王树翰、辽宁省教育会会长王化一等49人发起,联名上书请求建辽宁省国术馆。 5月21曰,辽宁省国术馆召开第一次董事会议,选举辽宁省国术馆董事会董事9人,推举辽宁省政府主席臧式毅为馆长,辽宁省教育厅厅长金毓绂为副馆长,馆内设教务、事务两课,馆址设在辽宁省政府教育会院内 (今沈阳市沈河区怀远门里沈阳故宫西侧),辽宁省国术馆正式成立。

www.chinanews.com

 

(注2)

記事は、桑永茂はほかにも、徳州の楊俊峰から八卦掌を学んだほか、多くの師に学んでいるという。

 

 

4. 回教改革派と日本の対中国イスラム工作

海朝英をきっかけに調べていたら、全然違うところにたどり着いてしまったけれど、こういう展開もまた面白い。

改めて海朝英に話を戻すと、海朝英は同時代の回教徒の中では保守派だったのだろうか。

父親の海宏鋆とともに、天津の一部のイスラム教徒を率いて同時代の改革派で四大アホンの一人といわれる王静斎らに反対する運動を起こし、2カ月の実刑判決を受けたらしい。それらの点を含めて、詳しい情報がないのは残念。

王静斎の経歴の中では、コーランの翻訳について要請を受けた人物として、1914年に済南鎮守史の馬良の名前が出てくることを一応メモしておく。

回教徒の改革派は、関東軍の謀略に利用されたりしており(以前にメモした『支那風俗春秋』の佐久間貞次郎などはそうした動きを扇動していた人のようでもある)、それはそれで深い世界が人がっているような気がする。このあたり、あまり深く立ち入りたくはないものの、避けては通れないような気もして悩ましいところ。

 

   王静斋年谱より

1934年,55岁。
任北京宣外教子胡同清真寺教长,萧德珍阿訇接任其三义庄清真寺教长职。秋季,海宏鋆、海朝英(1902-1981)父子率部分教众发动“天津市驱逐新行运动”,称王、萧等人为“猴都斯”(新行),发表了《天津市驱逐新行运动第一次报告书》,用武力占据了三义庄清真寺,将萧阿訇等遵经革俗者逐出寺外。王静斋闻讯后义愤填膺,接连发表了《海氏父子听着》、《新旧与是非辨》等文;萧德珍也相继发表了第一、二、三号《天津三义庄清真寺教长萧德珍宣言》。王静斋力主具呈天津检察处,控海氏父子“纠众作乱,侵占寺权罪”。结果,海氏被判处两个月徒刑。

http://www.norislam.com/?viewnews-11106

 王静斋年谱 - 伊斯兰之光 中国最早的伊斯兰教宗教信仰网站

 王靜齋 - 维基百科,自由的百科全书