中国武術雑記帳 by zigzagmax

当世中国武術事情、中国武術史、体育史やその周辺に関する極私的備忘録・妄想と頭の体操 ※2015年2月、はてなダイアリーより移行

中国文化管理協会梅花拳文化委員会成立など

やや旧聞に属するけれど、1月の末に中国文化管理協会が梅花拳文化委員会というのを設立し、設立大会と梅花拳文化発展フォーラムというのが北京で開かれたらしい。

www.ceweekly.cn

 

中国文化管理協会というのは、中国文化管理学会を前身とし、中国文化部と民生部の批准を受けて1991年に設立されたということで、それなりに歴史もある団体のようだけれど、なぜこの時期にこの委員会を設立したのか、梅花拳の発展をこの団体がどう管理してゆくのか、というか梅花拳はどうしてこの団体に「管理」されなければいけないのか(民間団体のはずだけれど、そんな権威があるのか)、山東省で2月のはじめに梅花拳運動協会が成立したのは、上のような動きと関係があるのか、ないのか。ここではなぜ「梅花拳運動」という名称になっているのかなど、わからないことばかり(注)。

 

 先日メモしたけれど、中国国内の若年層への武術の普及を、体育運動総局でも教育部でもない「関心下一代工作委員会」が担おうとしていたり、従来の枠に収まらない活動が加速しているようにも見えるので、ちょっとだけ注目しておきたい。

 

『民俗研究』の2017年第4期に掲載されたという論文。

 唐韶軍 王美娟「社会组织和民间信仰:梅花拳不仅仅是一种拳」

民族スポーツとしては、余計な要素としてそぎ落とされる傾向にあった、武術流派のもつさまざまな要素や機能が、ここへ来て改めて注目されているということだろうか。

http://www.chinesefolklore.org.cn/web/index.php?Page=1&NewsID=17182

http://www.chinesefolklore.org.cn/web/index.php?Page=2&NewsID=17182

 

 

(注)

そもそも、「武術」という語と「武術運動」の語についても、どう使い分けられているのか、なんとなく想像はできるものの、よくわからない。

ちなみに、すでに成立している冠県の梅花拳関連団体の名称は「梅花拳伝承協会」。

www.kaixian.tv

 

www.ccasn.com

 

www.gxmhqccxh.com

 〇山東濮陽市の関係者団体は濮陽市梅花拳協会

市梅花拳协会成立仪式举行

 

〇 薄澤市の団体は薄澤梅花拳研究総会と名乗っており、同市には省体育総会の直属機構として海峡両岸梅花拳交流協会なる組織もある模様

菏泽市海峡两岸梅花拳交流协会成立传承中心_工作动态_山东省体育总会秘书处_直属单位__山东省体育局

 

www.hzmhq.com

v.qiye10000.com

 

以下の記事には、「经专家、学者考证,梅花拳发源地在河北省邢台市平乡县。」とあるけれど、詳しく調べていないのでそのあたりのことはよくわからない。

“中国功夫梅花拳”根在邢台平乡 花开四方 - 国内新闻 - 中国日报网 

wx.abbao.cn

 

〇河北省邢台市広宗県の梅花拳についての動画

www.youtube.com

 

〇同じく河北省邢台市の司馬村の動画 これもなんだかいい感じ

www.youtube.com

 

〇『走遍中国』の番組

www.youtube.com

 

www.youtube.com

 

教習用映像

www.youtube.com

井勿幕、井岳秀など:「鷂子高三」の関係者たち

以前にメモしたけれど、『少林拳術秘訣』に出てくる「三原高氏」について、唐豪はその実在を疑問視していたけれど、近年の研究でこの「三原高氏」は「鷂子高三」こと高占魁らしいとされている。その高占魁の弟子の魏金鐘がいて、魏の教え子の中に井岳秀がいる。清の武庠生で陕西武備学堂を卒業し、かの地では刀客と称されていた江湖遊侠たちと交流があったらしい。

井岳秀:被自己手枪走火打死的陕北“土皇帝” - 政治 - 水煮百年 - 打捞麻辣鲜活的历史细节

 

関連の過去メモ

zigzagmax.hatenablog.com

 

彼の弟の井勿幕は1903年12月に日本に留学して大成中学、経緯学堂で学び、1905年8月に東京で同盟会が成立すると陝西省の同郷の康心孚の紹介でこれに入会、孫文に同盟会陝西支部長に任じられ、さっそく西安に帰っている。

鳳凰テレビが彼ら兄弟を特集した番組(以下にリンクを貼り付け)では、井勿幕は西安に戻る際に、孫文から地元で顔のきく兄の井岳秀宛の手紙を托され、手紙を読んだ井岳秀はその趣旨に賛同して最初の会員に名乗りを上げたことになっている。

こうして井勿幕は、兄の協力を得ながら、周辺の知識青年のみならず会党、刀客(ヒ首会)および河南、甘粛、四川省の同志に連絡し勢力の拡大を図ったらしいけれど、そうしたことが可能だったのは、上記のように、兄がそちらの人脈と繋がっていたことと関係があるのだろう。

井勿幕は「侠魔」、「大無畏」などのペンネームで宣伝を行うなど文章も書けた人のようで、彼らが会党、刀客らをを仲間に引き入れるときのキーワードが、もしかするとこれらの地域で名の知られた大武術家「鷂子高三」であり、そのことが『少林拳術秘訣』に反映されていると考えると、スッキリする。(ただし、知識青年たちは、こうした人たちを仲間に引き入れることには必ずしも賛成ではなかったらしいことも、鳳凰テレビの番組から伺えた。)

 

 〇井勿幕(左一)、井岳秀(右一)

 出典:井岳秀统治陕北的20年--人民政协报

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井暁天『乱世云烟:井勿幕、井岳秀昆仲史事钩沉』は今年1月1日に出版されたばかりのよう https://www.amazon.cn/dp/B0788WV2RV

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井岳秀、井勿幕兄弟についての鳳凰テレビの番組。残念ながら高占魁についてはふれていない。

www.youtube.com

 

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あらためて高占魁の関係者を調べてみると、会党関係者がぽろぽろと見つかる。

たとえば、陝西省の第一届政協委員を務めた郝鵬程は、息子の范明(郝克勇)の回想録によると高占魁の弟子であり、同時に洪幇のメンバーであった。結拝した義兄弟のなかに上述の井岳秀、井勿幕のほか楊虎城史可軒魏野畴恵又光李徳(李煙杆子)らがいるという。

『范明回忆录:1914~1950』「第二节 我的父亲郝鹏程」

 

このうち、楊虎城は、叔父が哥老会のメンバーで、彼自身ものちに哥老会に加入している。西安事件のあと、アメリカに一時身を置いたとき、蒋介石の刺客に命を狙われて致公堂のボスの司徒美堂に助けを求めたというけれど、そのことの背景に、互いがもつ会党の背景があるのかないのかは未確認。なにかそういう繋がりがあると考えたほうが面白そうではある。

 杀军统特务保护杨虎城

  1936年西安事变后,杨虎城将军被迫出国,前往欧美进行军事考察。1937年7月30日,杨虎城到达纽约,司徒美堂发动侨团为其接风,然而在一个风雨交加的深夜,杨虎城突然造访司徒美堂家里,称军统特务欲加害于他,希望得到司徒先生的保护。司徒美堂先生立即派出安良堂的成员对杨虎城严加保护,甚至不惜与军统翻脸,亲手杀掉了受戴笠之命准备在美国暗杀杨将军的4名特务杀手,让杨虎城在纽约安全地度过了6天时间,并在8月份顺利前往伦敦。

司徒美堂传奇:毛主席搀扶下轿 杀特务保护杨虎城

 

胡景翼もかつて父の仕事の関係で三原にいたときに魏金鐘を師として武術を学んでおり、同盟会加入後に哥老会や刀客への連絡を担い、自分自身も哥老会に加入したらしい。

www.shz100.com

 

その他、高占魁の弟子の馬旭武、姜保(姜老五、姜宝とも)の教えを受けた楊傑(杰)や楊振西らは大道芸人の姿で積極的に連絡工作に協力したことがうかがえる。

会党のメンバーであったという記述はないけれど、なにやらそういった匂いがする。

为了联络志士,杨杰与他亲如弟兄的高家拳习练者的王振西经常掮扛着耍武术器械“把子”,在渭北一带各县,以卖艺耍权为名,作些有益于反清革命的秘密工作。

1910年,也是“辛亥革命”的前一年为例于专期的进行反清秘密活动,在“同盟会”的同意下,他报名参加了陕西新军。1911年10月“武昌首义”成功,杨杰便参加了西安的“反正”斗争,胜利后,任“秦陇复汉军”东路招过使张钫(伯英)麾下游击营营长之职。在推翻清朝统治的斗争中,杨杰以胆略、武功,带领队伍,衙锋陷阵,为民主革命作出了应有贡献。

宝鸡市武术协会,武术协会--欢迎您的来访!

 

楊傑(杰)はのち、陝西省国術館の教練にもなっているけれど、同国術館の館長は同じく姜保の弟子の楊瑞軒。以下の記事によると、同館は共産党の秘密連絡処で、学員の多くが共産党員であり、楊虎城はその活動を支援して、楊傑に春秋大刀と、長年愛用した単刀を寄贈したという。

blog.sina.com.cn

 

同じく姜保に紅拳、炮捶を学び、韓慕侠に形意、八卦、呉鑑泉に太極拳を学んだ郭叔蕃は、従軍期間中、爆薬を一人でかついで呉佩孚公館を爆破したのだという。この人自身が会党のメンバーであったかどうかは未確認ながら、「青幇之起源」と言う文章を書いているらしく(未見)、興味がもたれる。

なお、この人は 「鉄襠功」でも有名らしい。

blog.sina.com.cn

 

いろいろと芋づる式に名前がでてきて、視界が開けてきた気がする。まだまだ消化しきれていないけれど、とりあえずのメモとして。

 

なお、小ネタとして、陳亜斌『三秦武術』では、高占魁自身のエピソードとして紹介されていた、セクハラ作戦で師母から技(裙攔腿)を盗んだのと同じ話を、郝鵬程は、息子の范明に姜老五(姜保)が高占魁から学んでいたときのエピソードとして語っている。そこでは、姜老五が高占魁の奥さんから盗んだ技は「美人照鏡」とされている。「美人照鏡」は、ちょうど映画『少林小子(少林寺2)』にでてきたこの技と同じ気がする。

 

映画『少林小子(少林寺2)』から

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本メモの内容とは直接関係ないものの、致公堂・司徒美堂の顧問弁護士を大統領就任前のフランクリン・D・ルーズベルト が担っていたというところも興味深い。

 

〇致公堂とルーズベルト

至公堂与罗斯福 -- 华侨历史文献档案馆

 

 

 

河北省国術館、天津市国術館、『形意拳術講義』など

 河北省国術館の設立と館長について、ふたつの説があることに気づいた。

一つは、李書文と関係の深い許蘭州が1928年に天津で設立し、自ら館長に任じたという説。
許蘭洲の故郷でもある南宮の南宮広播電視台のサイトの以下の記事には、日本で著書も出版された張世忠氏の名前も見える。

  

1928年许兰州将军捐资在天津创办河北国术馆,他亲自任馆长。河北国术馆的宗旨是“继承中华武技,强种强国”。许兰州将军创办的河北国术馆,入选学员不但不教学费,一切由许将军全面供应,每月还发津贴。国术馆以传授八极拳为核心,封闭训练,培养了鲍有声、张世忠、王绍先、吴玉昆、杨国茂等大批闻名全国的武术人才。河北国术馆是1928年后中国影响最大三大国术馆( 即南京国术馆、河北国术馆、山东国术馆)之一。

 

 

www.nangonggdw.com

 

 

もう一つの説は、設立時期は同じく1928年ながら、館長は当時の河北省政府主席の商震という説。商震館長の名義で、教務長に形意拳家の李星階(李文亭)を招いた文書も公開されており、文書の日付や文書番号からも、こちらの説に分があるように見える。

 

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〇出典:民国十七年李星阶先生任河北省国术馆教育科(后改称教务处)主任的聘书_李洪钟_新浪博客

 

李瑞林の「商震自幼学练形意拳 曾入军界成立河北省国术馆」には、商震館長以下、董事、顧問、教職員の名前が多数紹介されているけれど、このなかに上の記事に上げられている李書文らの名前は見られない。名簿部分を貼り付けておくと以下のとおり。

河北省国术馆董事:李景林 傅作义 崔廷献 曾延毅 高志仁 贺芝生 蒋馨山 郭铸山 张宪武 霍双立 刘善菁

河北省国术馆顾问:孙禄堂 于风顺 马贵 冯俊义 居庆元 叶潜国 门宝珍 李梦瑞 脱鸿逵 刘庆福 张古尘 于殿鳌 刘印樑 毛维才

河北省国术教职员:姬凤祥 张辅臣 张式涛 何金奎 尹金玉 尹成章 尹玉章 李秋轩 刘斌 程有信 毕爵 杜汉升 修显 梁忠慎 卢书魁 阮玉书 于环 何忠麒 黎雪樵 刘殿臣 王丹林 李性和 武承烈 杜之良 孙传桂 高星樵 郑玉亭 居文耀 高克兴 贾宝华 董文修 刘宝琦 孙梦麒 张德荫 唐煜南 谢燕南 郭向荣 黄沛庭 于继瑞 于继璋 李金科 盛启辉 张国栋 严元生 蔡国英 陆启明 于家凤 卢明亮 杨卓华 俞辉如 沈达文 宫金祥 于升阶 韩世勋 许泰征 李振如 张芾南 刘西川 沙云祥 王景孟 孙锡 何寿康 何寿堂 王少田 张恒 王镜清 张子连 王席珍 张宝鼎 王沐堂 王景山 邱式俭 田庆升 田凤鸣 史文瑞 钱茂林 刘来考 张宝善 刘益三 王才臣 张宝年 王景安 李午山 张西川 赵积善。

 

 どういうことかと思ってさらに調べると、同じ李瑞林の「民国政要津门挺武术(下)」に、河北省国術館は馬良の干渉により、1929年の夏から秋ごろ(つまり設立から半年あまりで)、北平に移転を余儀なくされ、1932年8月に再び天津に戻ってきたが、その際に許蘭州を館長に奉じたと書いてあった。

1928年秋天,商震耳闻目睹“南京中央国术馆”搞得热火朝天,如火如荼,立刻招兵买马,在天津组织成立了河北省国术馆,并担任馆长。时任北平警备司令兼陆军42师师长的张荫梧被聘任河北省国术馆副馆长,天津警备司令傅作义也在河北省国术馆有任职。武士会第三任掌门李星阶任河北省国术馆教务长,部分武士会员过渡到河北省国术馆任教员。从遗留下来的河北省国术馆组成人员的名单中,我们可以了解到中华武坛“黄金年月”的辉煌。
因为受到马良(汉奸)的干扰(另文介绍),1929年夏秋之交,河北省国术馆迁址到北京(平)西城太仆寺街七十号。
1932年8月,河北省国术馆又迁址回天津,落居中山公园,并设立演武场。原奉军将领许兰洲任馆长。抗日战争爆发后,河北省国术馆解散,原址建为“觉民学校(堂)”。

 

この説が正しいのかどうかわからないけれど、馬良はこの頃、1928年9月に設立された天津市国術館の館長に任じているようで(注)、天津市国術館としては、最後の会長の李星階をはじめ、中華武士会の人員を引き継ぐ形で河北省国術館が設立されることに脅威を感じただろうことは想像に難くない。許蘭州が1928年に河北省国術館を設立したという説は、1932年以降の話と混同されてしまっているのかもしれない。(上に引用した記事とは違って、着任時期を明確に書いていない記事も散見される。)

 

(注)

天津地方志網の記事参照

天津地方志网

 

この件に限らず、形意拳の関係者の書いているものと八極拳の関係者の書いていることは、微妙にズレていることがあるような気がする。

天津中華武士会の100周年にあたっては、李瑞林や閻伯群、李洪鐘をはじめ、形意拳の関係者の書いているものが多く、従来の八極拳関係者による説明と比べて、形意拳家の活動がかなりわかってきた気がするけれど、どちらにも身内びいきのようなものがあるかもしれないので、注意しておこう。

 

なお、 李瑞林の上の記事では、傅作義(河北省国術館では董事に名を連ねている)が樊瑞峰の『形意拳術講義』に序文を寄せた、これと書いているのだけれど、『形意拳術講義』は薛顛の本じゃないのかな。

しかも、傅作義が樊瑞峰の『形意拳術講義』によせたという序文(以下の①)は、薛顛の『形意拳術講義』にある傅作義の序文(以下の②)と、「山西樊瑞峰君」が「束鹿薛君」にかわっている以外ほとんど同じなのはどういうことなんだろう。

頭の体操として大胆に想像してみると、傅作義は中華人民共和国でも水利部長を務めるなど第一線で活躍した人だから、処刑された薛顛の『形意拳術講義』に序文を書いているのでは都合が悪く、『形意拳術講義』自体が樊瑞峰の著作ということにされていて、関係者もそれが事実だと信じていたのが、近年の薛顛の再評価と著書の復刊でようやく事実が明らかになった、などということがあるだろうか。

 『薛顛武学辑注:形意拳術講義』ほしいけど高くて手がでない・・・。

 

① 傅作義が樊瑞峰の『形意拳術講義』によせたという序文(李瑞林「民国政要津门挺武术(下)」による)

“吾国以积弱不振,受辱列强。其原因固非一端。而国人轻视体育,忽于运动,尽亦致病之由。拳术者,中国古来之国粹也,最良体育之法也。昔管子重拳勇,齐人隆技击,拳术之兴,乎尚已降,及隋唐少林派出,外家始盛说者,谓太平之宗,王世充、昙宗等亦已有刀焉。迨至宋时而张三丰以绝技名世内家祖,到明代张松溪为最著,而陈元赟乃传其术于扶桑,彼日本之谓柔术、武士道者,皆国术之流派也。迩年,张子岷、李芳辰先生懔国势之凌夷,悯国术之衰弱,力加提倡,特立专馆,各省闻风兴起,颇不乏人。而河北省国术馆成立最早,唯自来精斯道者,传授心法多层,面授口传,承学者钻仰为难。今山西樊瑞峰君著以拳术讲义说明,使学者易懂,得以研究深造。用科学之方法,容易领悟其中之奥妙用,教诸般剌密谛之释,易筋经与夫前人之著内功图说者亦何,多让吾知。付梓后,其有稗益于体育,而可以强国者,必非浅鲜。
宁谨个人健身之助而己哉,惜作义于国术未窥门径,扣扣盘扪烛之谈,因知其无当于要奋也,是以为序。
荣河傅作义叙于天津市警备司令部
中华民国十八年十月十五日”

 

② 傅作義が薛顛の『形意拳術講義』によせた序文

吾国以积弱不振受侮列强,其原因固非一端,而国人轻视体育,忽于运动,盖亦致病之由。拳术者,中华固有之国粹,最良之体育运动法也。昔管子重拳勇,齐人隆技击,拳术之兴,夐乎尚已。降及隋唐,少林派出,外家始盛。说者谓太宗之平王世充,昙宗等亦与有力焉。迨至宋时,而张三丰以绝技名世,内家祖之。明代则张松溪为最著,而陈元赟乃传其术于扶桑,彼日本之所谓柔术、武士道者,皆吾国拳术之流派也。迩年张子岷、李芳宸诸先生懔国势之凌夷,悯国术之衰微,力加提倡,特立专馆,各省闻风兴起者颇不乏人,而河北省国术馆亦早成立。惟自来精斯道者,传授心法,多属面命;承学之士,钻仰为难。今束鹿薛君以国术之名家,阐师传之秘奥,编为讲义,解以详图,俾学者得以研究科学之方法,领悟其中之妙用,较诸般刺蜜谛之译《易筋经》与夫前人之著《内功图说》者,亦何多让!吾知付梓后,其有裨于体育而可以强国者必非浅鲜,宁仅个人健身之助而已哉!惜作义于国术未窥门径,扣槃扪烛之谈,固知其无当于要旨也,是为序。

中华民国十八年十月

荣河傅作义叙于天津警备司令部

出典:傅作义:形意拳术讲义序_搜狐历史_搜狐网

 

zigzagmax.hatenablog.com

八極拳―中国伝統拳の精髄 (中国伝統拳シリーズ)

八極拳―中国伝統拳の精髄 (中国伝統拳シリーズ)

 

 

「蕩寇風雲 God of War」など

倉田保昭が映画「蕩寇風雲 God of War」の演技で香港電影評論学会の最優秀男優賞を受賞したらしい。

倉田保昭が演じているのは、松浦藩の若頭を中核とする倭寇の軍師のような存在で、
サモ・ハン・キンポー演じる兪大猷、チウ・マンチェク演じる戚継光らと対戦する。
飄々とした立ち居振る舞いや、最後のチウ・マンチェクとの一騎打ちは見ごたえがあり、この演技が高く評価されたこともうなづけた。

この映画は、最優秀男優賞以外にも、最優秀脚本賞を受賞しているけれど、以下の記事の中で、陳嘉上監督が「倉田先生が受賞したことが一番うれしい」と語っていることがうれしい。

hd.stheadline.com

hongkong-bs.com

www.youtube.com

 

作品は、倭寇のなかにも中国人や日本の浪人、武士などが混じっていること、倭寇に対抗する明朝のなかにも中央の政局との関係でさまざまな駆け引き・足のひっぱりあいがあり、それが前線にまで影響を与えていることが丁寧に描かれていた。

よくは知らないけれど、戚継光が夫人の尻にひかれているような描写も史実に基づくものらしい。(この様子を見るに見かねた戚継光のとりまきたちが、夫人をなきものにしてしまおうと企むのも史実に基づくもの?)

 

中国側の腐敗ぶりを描く一方で、極悪非道の倭寇の一団の中にも真の武人がいた、というような映画は、メインターゲットと思われる中国大陸の人々には受け入れ難かったのか、興行的にはあまり奮わなかったらしい。

それでも倭寇役の倉田保昭を受賞させてしまったところに、この学会の気骨のようなものを感じるのは考えすぎか。

 

香港電影評論学会の過去の受賞作品をみると、最優秀作品賞をウォン・カーウァイの「楽園の瑕」や「グランドマスター」が受賞しているのは、ちょっと自分の趣味とはあわないけれど、ジョニー・トー作品がたくさん並んでいるところは嬉しく、地元のツタヤにあるのを知りながらあまり手が伸びなかった「燃えよ!じじいドラゴン」もちょっと見てみたくなった。

香港電影評論学会大奨 - Wikipedia

 

全体的に火器による戦闘シーンが多いなかで、戚継光が兪大猷に棍の教えを受けるシーンの二人のアクションはカッコよかった。

 

映画にも歴史顧問として名前がでてくる南京師範大学・酈波副教授による「百家講壇」の「抗倭英雄戚継光」シリーズ。全14集。メモしておいて時間があったらみよう。

 

www.bilibili.com

 

CCTVのドラマ。こっちもタイトルは「抗倭英雄戚継光」。全30集で、

以前、途中まで見て挫折してしまった。これもここにメモしておいていつか見よう。

tv.cntv.cn

 

このアニメもいつか見てみたいなあ。

www.youtube.com

 

 

view.news.qq.com

 

中華幼児武術級位制など

1月初旬に天津で、「関心下一代・全国幼児武術教育工作発展検討会」なる会議が開かれていたらしい。

 

sports.xinhuanet.com

 

会議を主催した「中国関心下一代工作委員会」には健康体育発展中心という部門があって、さらにその下に「少児武学伝承研究院」なる組織があるらしい。

その「少児武学伝承研究院」の常務服院長の王天明董事長をつとめる北京日月天地体育文化有限公司が実行部隊として、昨年11月にも全国首届幼児武術運動会が開催されている。

www.china.com.cn

 少児武学伝承研究院は全国の省レベルに分院を作ろうという構想ももっているようで、なんだかとても勢いがあるように見える。

 

www.sohu.com

 

1月の会議では、今後の少年児童向けの武術普及の3年計画なるものが議論されたようで、

 

・六月一日(中国の子供の日)の大型イベントにおける武術の積極的に紹介する

・中央テレビの2019年の「春晩」(日本の紅白歌合戦にあたる人気番組)の武術についてのコーナーを活用する

・教育体制、教員の資格制度を整備

・「中華幼児武術」の普及促進

などがあげられている。

数値目標的なものとして、「100都市、100万人」という数が掲げられているのも興味深い。

 

彼らが普及しようとしている「中華幼児武術」 には一級から六級まで六段階あり、「中華幼児武術級位制」といっているらしい。これは北京市武術運動協会の小児武術研究会の活動ともリンクしているように見える。

本家の「中国武術段位制」にも、「段」に到るまえの「級」が想定されていて、教材も作られているはずだけれど、それとどう対応しているのかなど、詳細はよくわからない。

 

ちなみに、教育部と体育運動総局が小中学生向けに「旭日東昇」、「雛鹰展翅」、「英雄少年」、「功夫青春」の四つの型を作ったときの2012年の報道をみると、「2014年には85%の普通小中学校で武術の授業を設置する」と書いてある。この目標はどうなったんだろう。

地方は地方で、各地の伝承に応じた普及用の教材を編集したりもしているようだし、どうもこのあたりは役所の縦割りの弊害があるような気もする。

 

〇幼児武術操

www.youtube.com


 〇教育部と体育運動総局の武術操(旭日東昇)

www.youtube.com

〇段位制の段前級(趣味武術) 段前級1級

v.youku.com

 

1985年の春晩 趙長軍、王建軍、李彦龍、王傑、邱建国、張小燕によるコテコテ?な感じの寸劇

www.youtube.com

 

〇2017年の春晩

www.youtube.com

ベルリンオリンピックの国術代表団4 幻の山東代表? など

山東国術館について紹介した記事を見ていて、以下のような記述があるのに眼がとまった。

 

…据张香圃(济南太乙门传承人)回忆:(1985年《少林武术》第三期记载)1936年林秉礼、佟顺禄、张香圃、马洪智、赵玉庭五名山东选手被选拔为参加第十一届奥运会的“世运选手”,前往德国柏林进行武术表演,服装做好以后,因为经费得不到解决未能成行,抱憾终生。

旧山东省国术馆风云逸事_中国传统文化社区_才府

 

1936年のベルリンオリンピックの代表選抜については、以前に予選参加者までメモしたけれど、そのときに見たウェブ上の文章(原典不明)には、駐日留学生監督处を含む7機関と、25人の予選参加者の名前があったものの、山東から予選参加者がいたとは書かれていなかった。

代表選抜の経緯から、最終的には実現に到らなかったということなどわからないけれど、とりあえずメモしておく。

名前のあがっている5名のうち、林秉礼(字は経三)は第2回国術国考の拳術甲等で第一位、佟順禄は1935年の中華民国第六届全国運動大会の摔跤中量級で、卜恩富、宝善林に継いで第三位に入賞者している。張香圃というのは太乙門という流派の人らしい。のこる馬洪智、趙玉庭についてはいまのところ手がかりなし。

 

〇 林秉礼

wudangtaiyimen.com

 

〇佟順禄

baike.baidu.com

 

〇張香圃 

blog.sina.com.cnh

 

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冒頭の「旧山东省国术馆风云逸事」の記事で改めて気づかされたのは、山東省国術館と馬良の軍士武術伝習所(技術隊 1914設立)、山東武術伝習所(1917年設立)の関係。武術伝習所の活動は1925年まで続いているようだけれど(注1)、山東省国術館の設立は1929年4月だから、山東省国術館が武術伝習所の活動を直接に引き継いでいるわけではないけれど、山東省国術館で副館長の竇来庚は高鳳嶺が武術伝習所で教えていたときの弟子であるなど、一定の関係があることが改めてわかった。

 

なお、山東武術伝習所の教官の中に王子平の名前が見えるけれど、王子平は『中国武術百科全書』の昌滄による人物紹介に

光绪二十六年(1900)义和团失败,他亦因避嫌出走济南。初以行商为业,往来各地,每到一地,多着意寻访武术名家,求学各门技艺;后弃商从戎,投济南镇守使马良兴办的军事武术传习所学习,从执教该所的查拳大师杨鸿修精习査、滑、炮、洪等拳及弹腿诸艺技。

とあり、軍武(事)武術伝習所を経て山東武術伝習所の教習になったことがわかる。このことについて書いてある資料が少ないように思うけれど、それは最終的には漢奸として捕らえられ獄死した馬良と王子平の関係を敢えてわからないようしているのかもしれない。

 

なお、ここでは詳しく書かないけれど、李景林が設立間もない中央国術館を離れて山東省国術館館長に任じた経緯についても諸説あるようで、李景林の青幇大字輩としての身分や「武當剣」めぐる思惑との関係で論じたものなどがあり(注2)、とても興味深いと思う。なにが正しいのかまだよくわからないけれど、そのあたりも含めてちょっと注意しておきたい。

 

(注1)

以下の記事では、1922年12月に「解散」し、総教習の韓愧生をはじめ、教習の王子平、楊明斎、恒秉毅などは青島に定住し、韓愧生は国技学舎、王子平は中華武術社を設立したと記しているけれど、張健『斉魯講武史話』では武術伝習所の活動は1925年までとしており、1922年以降も上海の全国武術運動会(1923)、第十一届華北運動会(1924年4月)、第十二届華北運動会への参加の事例が紹介されている。このあたりは要確認。

 

arc.dailyqd.com

 〇張健『斉魯講武史話』

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(注2)

李景林的青帮身份与国术界地位と同ブログ内のほかの関連した文章を参照。

 李景林が青幇の一員であることは、渡辺惇「都市下層民と幇会・黒社会」(天津地域史研究会『天津史』所収)でも言及されていた。

  

 

 

 

 

中華武士会とその周辺の日本関係者

掲題のテーマに関連して直接的、間接的に関係のある人々の情報が少しずつたまってきたような気がする。まだ頭が整理できていないので、注釈を連発してしまっているけれど、とりあえずのメモとして。

 

1.呉汝綸、杜之堂

 呉汝綸は1889年、李鴻章の推薦により当時の河北省の最高学府、保定の蓮池書院の長となる。

 蓮池書院には、宮島大八、中島裁之らが訪れ、それぞれ張廉卿、呉汝綸に師事している。後述の鄧毓怡は蓮池書院で英語と日本語を学んでいるけれど、宮島や中島に教えてもらったのだろうか。

 呉汝綸は1902年、4カ月の日本視察を行っているけれど、このときに門人の杜之堂も来日し、杜之堂は1905年まで早稲田大学で学んでいる。

 杜之堂はのちに中華武士会の張恩綬(後述)に招かれ、李存義口述『五行拳譜』をはじめ中華武士会の教材を編集・記録している。

 

 呉汝綸は日本視察からの帰国後、北京大学の前身・京師大学堂の学長(総教習)になるとともに、北京で再会した中島裁之の北京東文堂設立を支援。

 若干横道にそれるけれど、北京東文学堂で教鞭をとった日本人(日本教習)の表が劉建雲「清末の北京東文学社 ---教育機関としての再検討---」に載っている。

  このなかで、在籍期間はそれぞれ開設当初の三カ月程度ながら、当時陸軍予備役曹長だった武歳熊次郎が体操、慶應義塾出身の倉田敬三が課外活動で柔道を教えたらしい(汪 向栄 著、竹内実監訳『清国お雇い日本人』P.273)。その他、体操教師としては、1906年に着任した斎藤伝寿という人物は、東文堂の経営が行き詰まって中国側に譲渡されてからも留任したようだけれど、『清国お雇い日本人』の1909年時点の日本教習の表では、天津の音楽体操伝習所にやはり体操教師として名前が見える。清国駐屯軍司令部編『北京誌』(1908)の北京東文学社の紹介にも鈴木直人とならんで教員として名前がでている。『北京誌』の紹介によると、同社は専門科(二年)、普通科(三年)のほか、附属として体育会を設けており、「二ヶ月の速成教育を以て体育音楽を教授」していたらしい(同P.264)。

この人物について、いまのところそれ以上の詳しい情報はないけれど、やや気になるところ。

 

〇呉汝綸

 呉汝綸 - Wikipedia

 

〇杜之堂 

 http://wgwushu.com/thread-1564-1-1.html

 天津武林史话(29)文韬武略的杜之堂_搜狐旅游_搜狐网

 

〇蓮池書院を訪れ張廉卿に書を学んだ宮島大八とその家族 

宮島家 - 善隣書院

http://tohhigashi.fc2web.com/miyajima.html

 

〇 呉汝綸と中島裁之、北京東文堂については、汪 向栄 著、竹内実監訳『清国お雇い日本人』が参考になった。

  日本教習の数は多かったが、玉龍混雑、玉石混交であった。人格高尚で人に尊敬されるものもあれば、品行下劣で聞くに耐えず、中国の人士に大きな反感を抱かせるものもいた。東文学社を創設した中島裁之はその著『東文学社紀要』でかなりの紙幅を割いて、こうした醜聞や不良行為を記述している。中島は、日本教習の間で一連の喧嘩や暴力沙汰、甚だしきは日本刀を持ち出しての騒ぎという事実を述べたあと、こういう感慨を漏らしている。「この騒動の始終は、寄宿学生の看観する所にして、甚だ不体裁を極めたり」

 中島はおよそ想像もつかないようなことも記している。たとえば、一部の日本教習に授業ボイコットを扇動し、学校の備品を密売して私服を肥やそうとした者がいたこと、刀剣を振り回して他人を脅迫するものなどである。そして学生たちに「日語は誓って学ばざる可し。かくの如く乱暴なるものの下に学ばば国民は滅びん」とまで言わしめた。この激昂した言葉からも日本教習が劣悪な印象を与えたことが想像される。

 こうした状況に対して、中国人ばかりでなく、日本人、そして日本教習自身もこれに対して強烈な不満を表明している。・・・ P.149 

清国お雇い日本人

清国お雇い日本人

 

 

2.葉雲表

叶云表

出典:http://his.tsingming.com/yeyunbiao/

 同盟会員で中華武士会の初代会長。

 山口高等商業学校に学んでおり、同校に明治42(1909)年から43(1910)年在籍の清国留学生部予科37人の中に名前が見える(注1)。

 

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 留学先が山口というのがやや意外な気がしたけれど、「说说中华武士会会长叶云表_朗照八极_新浪博客」によると、葉雲表が山口に留学したのは、葉と同じく白洋橋村の鄧家学館で学んだあと蓮池書院に進み、初代の公費留学生として法政大学に留学した梁建章のつてをたどってのことであるという。上述の北京東文堂にはごく短期間ながら、のち山口高等商業学校の教授になる西山栄久が含まれているのもなにか縁があるのかもしれない(注2)。

 明治末期に東京につづき神戸(1902)、山口(1905)、長崎(1905)などに設立される高等商業学校のなかでも留学生の数は山口が飛びぬけて多かったようで、1907年から1911年までに東京、神戸、山口、長崎の高等商業学校が受け入れた留学生の数は、それぞれ41、7、114、31となっている(注3)。

 鄧家学館出身の日本関係者は、ほかにも天津武備学堂から陸軍士官学校に留学した張紹増(張紹曽)、梁建章の紹介で蓮池書院で学び、のち早稲田大学に留学した鄧毓怡(後述)がいるらしい。 

 中華武士会の設立にかかわり、初代会長に任じたあとの葉雲表の足取りについて詳しいことはわからないけれど(注4)、1914年には郝恩光を伴って再び来日し、中華武士会の東京分会を設立したことになっている。さらに中央工商会議代表、1918年8月には国会衆議院議員に選出されたという。

 1930年代には梁漱溟の郷村建設運動にかかわったり、山東省国術館の設立準備にも携わったと書いているものもあるけれど、山東省国術館との関わりの詳細は未確認(注5)。

 

(注1) 

国会図書館の『山口高等商業学校一覧. 明治42,43年』より。この資料については、

片桐陽先生の示唆による。

国立国会図書館デジタルコレクション - 山口高等商業学校一覧. 明治42,43年

(注2)

『清国お雇い日本人』の1909年時点の「日本教習分布表」では、西山栄久の名前は安徽省安慶の安徽師範学堂に見える。

(注3)

ただし、どの学校においても、卒業まで至った学生は少数であったらしい。

この部分は、王嵐、船寄俊雄「清末における商業系留学生の派遣政策と派遣実態に関する研究」を参照した。

(注4)

 中華人民共和国政治協商会議天津市委員会文史資料委員会編『近代天津武術家』所収の張振発「李式太極拳創始人李瑞東」によると、葉雲表が中華武士会の会長に任じていたのは1912年9月8日からわずか数日。その後、「時局の突然の変化などの理由(原文は「時局突変等原因)」により天津を去ることを余儀なくされ、幹事の身分は残しながら会長を李瑞東に譲ったという(P.72)。時局の突然の変化とは、革命の成果が袁世凱によってかすめとられ、革命勢力の切り崩しが図られたことと関係があるのだろうか。葉雲表や、同じく同盟会員の馬鳳図も、は1912年10月15日華新印刷局が刊行した『国民党燕支部党員録』に名前があるようなので、天津を離れざるをえなくなったというのは、理解できなくもない。

なお、葉雲表の後を継いだ李瑞東は1915年の年初まで会長に任じている。その次の会長は後述の張恩綬。張恩綬の次の卞月庭は当時の天津商会会長で、会長在職はわずか1カ月だけれど、霍元甲の霍家とも繋がりがあり、秘踪拳をやる人とも。

 

〇張振発「李式太極拳創始人李瑞東」より

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〇『国民党燕支部党員録』(1912年10月15日刊行)の表紙と、葉雲表の掲載ページ。

出典:说说中华武士会会长叶云表_朗照八极_新浪博客

 楊祥全『津門武術』は、『天津河北文史』第28輯所収の張俊英「辛亥革命与天津中山路」によりつつ、この名簿に馬鳳図(紹介者は李啓祥と牛楷、職業は「高等商業」 年齢は数え年で25)の記載があることを記している(P.45の注②)。ぜひ実物を確認できたらと思う。

 

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(注5)

葉雲表の経歴については以下のブログ記事に詳しい。

说说中华武士会会长叶云表_朗照八极_新浪博客

中华武士会首任会长——大城人叶云表_朗照八极_新浪博客

 

〇山口高等商業学校についての参考情報 

山口高等商業学校成立

 

3.鄧毓怡

 上記のとおり、法政大学で学んだ梁建章の紹介で呉汝綸の蓮池書院に進むが、義和団事件が起こり、「洋人」に英語や日本語を学んでいた彼は退学を余儀なくされる。

 1901年、呉汝綸が北京で報社(のち華北譯書局と改名)を設立すると、編集を補佐するが、1903年早稲田大学に留学し、1904年帰国。帰国後は啓智学堂、自強女子学堂などを創設。科挙が廃止され、北洋政府が天津に北洋法政専門学堂、北洋女子師範学堂を設立すると、鄧毓怡は啓智学堂などの運営の経験が買われて教員に招かれるとともに、北洋法政専門学堂では「斎務長」(学長)に任じる。 

 その後任が同じ早稲田留学組の張恩綬ということになるのか?

 

〇 鄧毓怡

 

4.張恩綬

 河北省深県出身。保定大学堂から選抜されて1904年に日本留学、経緯学堂普通科を経て早稲田大学政治経済科に進学。深州市人民政府の記事によると、1910年7月に卒業して帰国とあるけれど、楊祥全『津門武術』では1909年には形意拳家の李存義、劉殿琛(文華)の推進のもと、張恩綬と実業家でもと武進士の杜暁峰が深県の同郷籍の退役軍人の同郷組織「軍人会」(同じく李存義が張占魁、李瑞東らと1911年に設立した「中華武術会」とともに、中華武士会の前身とされる)を作ったとしており(P.26)、このへんは情報が少し錯綜している。

 それはともかく、帰国後に任じた北洋法政専門学校では教員、教務主任を経て校長を務め、形意拳家の劉殿琛を招く。劉文華は中華武士会の北京の支部にあたる尚武学社、清華大学でも指導している。

 

 张恩绶-深州市人民政府网站

  

出典:张恩绶生平简介_杜香五_新浪博客

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5. 劉殿琛『形意拳術抉微』の序文

 劉殿琛の著書『形意拳術抉微』には斉樹楷、高步瀛、王道元、江壽祺、張恩綬の5人の序文が寄せられている。プロフィールがよくわからない王道元を除くと、それぞれ以下のとおり日本との接点がある。それぞれの序文のなかにも日本の武士道を意識した語が並んでいることに改めて気づかされる。

brennantranslation.wordpress.com

・斉樹楷

早稲田大学留学経験者で、意拳の故・佐藤聖二先生がブログで書かれていた顔李学派の思想を学ぶ四存学会の設立者の一人。

 齐树楷 - 维基百科,自由的百科全书
・高步瀛

 弘文学院に留学。呉汝綸の門人。

 高步瀛_百度百科

・江壽祺

1906年設立の陸軍大学の卒業生で、日本人を教官とする「兵学研究会」を作って陸軍大学の教官を育成。

 江是安徽潜山人,也是黎元洪的老下属,旧学颇有根基,但对陆大的教育并无多大贡献,仅仅创设了一个兵学研究会。该会为培养中国籍教官而设,挑选本校前三期优秀毕业生入会学习,由日籍教官指导。学员在该会学习半年之后,即在本校充任兵学助教,试任半年合格后,充任兵学教官。该合的创设,开创了陆大教育史上中国教官和外国教官并用的新时期。

陆军大学_互动百科

・張恩綬

 上述のとおり。