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中国武術雑記帳 by zigzagmax

当世中国武術事情、中国武術史、体育史やその周辺に関する極私的備忘録・妄想と頭の体操 ※2015年2月、はてなダイアリーより移行

少林寺関係の時事ネタ アップデート

現代中国武術事情 少林寺

少林寺関係のメモが続いたけれど、情報のアップデートの意味で、最近見かけた記事などの中から、時事的小ネタをまとめてメモ。

 

1.釈永信方丈のスキャンダル関係

 とりあえずメモだけ。

 

news.sohu.com

 

〇関連の過去メモ

zigzagmax.hatenablog.com


2.武僧くん
 今年2月に銀座で公開された少林武僧の写真展に関して、撮影した大串祥子のコラムとインタビュー。武術関係者ではあまり思いつかない視点が新鮮。

 

number.bunshun.jp

 

大串祥子 写真展「少林寺」特別インタビュー | アパートメント

 

「武僧くん」たちがいったい何を目指して少林寺で修行をしているのかは、大串氏ならずとも興味のあるところだとおもう。
「武僧」とはやや異なるのの、武井壮も、河南省の武術学校で学生たちに、将来何になりたいかを質問していた。

 ジャッキー・チェンジェット・リーのような映画スターになりたいという答えが返ってくるのかとおもったら、武井壮が質問した男の子からは「うちは貧しいから家族の負担を減らしたい」「学校に認められれば、学費が免除になるし、教練として学校に残ることができる」といった涙ぐましい答えが帰ってきていた。映画「少林寺」が公開された当時はともかく、いまどきカンフーの腕を磨けば映画スターになれるなんて、それほど現実は甘くないことはみんな承知しているのだろう。

 

〇過去メモにも貼り付けているけど、もう一度貼り付け。

www.youtube.com

 

「強くなりたい」とか「敵を倒す」といった答えがかえってきていないのは、不思議といえば不思議なことだけれど、建国以来、ずっと「技撃」主義を否定し、武術というのはあくまで身体鍛錬のためスポーツであることを強調してきた結果がここにも見られるということなのかもしれない。

ちなみに、以下の短文で、ジェット・リーは、もはや武術で人を倒すという時代ではなく、そんなことをしたら却って警察に逮捕されてしまうよ、と述べている。

www.qqgfw.com

 

3.少林和尚飛行劇場(Shaolin Flying Monks Theatre)

 今更言ってもしょうがないんだろうけど、静かに修行する場所というイメージとはほど遠く、もう何が何やら・・・。

 「風動装置」というトンネルみたいな装置を利用して、本当に人の身体を空中に浮かせるようなことができるらしく、このリンクにある動画の最後のほうに、それらしい映像がある。でも、何のために?

www.borntoengineer.com

 

〇以下のリンクには、風動装置の構造図などがある

www.gooood.hk

 〇日本語で紹介したサイト

tabi-labo.com

 

〇少林カンフーショーの動画

www.youtube.com

「圏外」の敗槍を救う槍法…からの頭の体操

明代武術 清代武術

程宗猷の『秘本長槍法図説』(馬力編『中国古典武学秘籍録 上巻』所収)は、「圏里」の「敗槍」を救うのは容易だが、「圏外」の「敗槍」を救うのは困難であるといい、前者には「死掤対」「翻身掤退」のような「死中反活」の方法があるのに対し、後者すなわち「圏外」の敗槍を救う方法は「ただ鈎槍の一着のみ」であるという(「一、長槍説」)。

〇『中国古典武学秘籍録』上・下

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「四、長槍図説」のところで、より具体的に、圏里の敗勢を救う方法は、「活掤対進槍勢」、「活掤退退槍勢」、「死掤対槍勢」、「翻身掤退退槍勢」の四つが紹介されている。前二者はあわせて「掤退救護」、後二者はあわせて「死中求活」の法とされる。以上の四勢に続けて圏外の敗勢を救う方法として「鈎槍」の図と説明がでてくる。その説明(仮訳と原文)は次のとおり。

 

我、まず単手で身を探りて你を圏外に扎す。你(相手)、我が槍を攔し開き、右において敗れしむ。我が前手、槍を持つに及ばず、ただ将に左脚を勢に順じて右辺に移す。左手で槍をもち、仰掌して一縮、肘を左脇下に貼りつけ、相手の槍を鈎し開き、相手を扎す。法に曰う、「無中に生を有す(無中生有)」とはこのことである。

我先单手探身扎你圈外,你拦开我枪败于右,我前手不及持枪,惟将左脚顺势移于右边。左手持枪仰掌一缩,肘贴在左肋下,勾开你枪扎你。法曰“无中生有”是也。…①

 

以上の解説から、「鈎槍勢」というのは、「青龍探爪槍勢」(孤雁出群槍法)のような片手突きの槍を相手に弾かれ、不利になった状態から体勢を立て直す方法であることがわかる。

ただ、ここでは、そもそも「鈎」という技法についての説明がないので、いきなり相手の槍(你槍)を「鈎し開」くと説明されても、あまり具体的なイメージが湧いてこない。

そこで同じ『秘籍録』上巻所収の『手臂録』をみると、巻之二「革法」に「鈎」法について、以下のように出ている。

 

鈎:真如いわく“すなわち攔なり。緊密なる者、肘が脇下に貼りつく”と。滄塵子いわく“高い槍が迫ってきたら、ただ鈎だけがよくこれを開くことができる。すなわち、白牛転角の手法である。肘は脇下に貼り付けてもなお極めて緊密であるとはいえず、須く乳前に巻き到らせる。腕は陽の状態からさらにこれを回転させ、手の甲が上を向く”と。真如いわく‘“鞭、剣を破るに 、前方において用いる。すなわち拿(拏)の手法である”と。

钩:真如曰:“即拦也,紧密者,肘贴肋下”。沧尘子曰:“高枪来迫,惟钩能开之。即白牛转角之手法也。然肘贴肋下,犹未极紧密,须卷至乳前,碗自阳而更转之,至手背向天”。真如曰:“破鞭剑,用于前即拿之手法也”。…②

 

真如いわく」の真如とは程真如のことで、『手臂録』附巻の峨嵋槍法』(峨嵋僧 普恩 立法、海陽弟子程真如 達意、古呉 後学 呉殳 輯)の「倒手篇」に、これに相当する語があり、

鈎はすなわち攔であり、その緊密なるものは肘を脇下にぴったり貼り付けるようにする。

即拦也,其紧密者,肘贴肋下…③

 

と出ている。ここでようやく、「鈎」法というのは肘を折り畳むようにしながら小さく行なう「攔」のことなのかな、と想像することができる。

 改めて、「鈎槍勢」の図を見てみると、確かに前手(左手)の肘はかなりきつく折りたたまれている。

 

 〇「秘本長槍法図説」の「鈎槍勢」(『中国古典武学秘籍録 上巻』)

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峨嵋槍法』ではその他、「身手法篇」に、

「鈎・撲・和・封の諸法は、両手の運用に尽きる

钩扑和封,尽在两手」…④

 

「革法一篇」に、

鈎:圏外より頭を戳し来るを革すものである。中平もこれを用いることがある。口伝あり

钩:革圈外戳头者,中平亦有时用之。有口授。…⑤

などと「鈎」法について言及されている。

 

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②の引用箇所に出てくる「白牛転角の手法」について、『手臂録』の「馬家槍二十四勢説」では「抱琵琶勢」が古訣(『紀效新書』の訣文)でいうところの「白牛転角槍法」であるという。たしかに、この方法もきつく前手(左手)を折り曲げて、脇(胸前)に貼りつけるようにしている。『手臂録』の「抱琵琶勢」の訣語によると、この勢で手法を「放ち尽くす」(「放盡」とは何だ?よくわからないけど仮置き)と「捺」になり、蹲坐すれば「(十面?)埋伏勢」、手を下に放てば「地蛇槍」になるという。古訣でいうところの「地蛇槍」は「馬家槍二十四勢説」では「鋪地錦勢」だけれど、たしかに「抱琵琶勢」から両手を下げると「鋪地錦勢」になるようにも見える。

 

 〇『手臂録』「馬家槍二十四勢説」の「抱琵琶勢」(『中国古典武学秘籍録 上巻』)

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〇「抱琵琶勢」そのものは 『秘本長槍法図説』にも出てくる。「白牛転角手法」についての説明はないものの、絵を見る限り同系統の技に見える。つづく、「地蛇槍勢」と。

(『中国古典武学秘籍録 上巻』)

 

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『手臂録』「馬家槍二十四勢説」の「鋪地錦」(古訣にいう「地蛇勢」)(『中国古典武学秘籍録 上巻』)

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「馬家槍二十四勢説」の「抱琵琶勢」では、このまま蹲坐すれば「埋伏勢」になるという。これを「十面埋伏勢」のことだとすると、古訣にいう下平槍法、 『秘本長槍法図説』では「低四平槍勢」にあたると思われるけれど、前手の折り曲げは見られないので、両者の関係性についてはよくわからない。(「十面埋伏勢」とまったく別に「埋伏勢」がある可能性もいまのところ排除できない。)

 

〇『手臂録』「馬家槍二十四勢説」の「十面埋伏勢」(古訣にいう「下平槍法」)と、秘本長槍法図説』の「低四平槍勢」(『中国古典武学秘籍録 上巻』)

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琵琶を抱いて埋伏する(抱着琵琶埋伏)の語は、『手臂録』「馬家槍二十四勢説」では「辺攔勢」の訣語の中にも見られるけれど、これも「十面埋伏勢」とは違うのかな?

 

『手臂録』「馬家槍二十四勢説」の辺攔勢」

 秘本長槍法図説』には「辺攔勢」はないけれど、同じ程宗猷の『少林棍法闡宗』には「辺攔勢」と「群攔勢」がある。(『中国古典武学秘籍録 上巻』)

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「捺」法については、『手臂録』「附巻」の「行著」(これも『峨嵋槍法』の一部?)には「小提と反対(与小提相反)」と出ていて、「小提」を探すと、その直前に「提の小さき者(提之小者)」とあるのは別として、「革法一篇」に

小提:攔の緊小なるものである。拿・攔に習熟したら次第に(動作の幅を)緊小に収めてゆく。(この勢の)遊場における変化は神の如しである。これは敬岩真如の心血である。冲斗はこれを「小手先の技だ(小巧用耳)」と評したが、少林棍の見識で峨嵋槍を論じるとは、まさに隔靴掻痒である。 

小提:拦之紧小者。拿拦久熟,渐渐收为紧小,游场变化入神,此敬岩真如心血也。冲斗评此曰:“小巧用耳”。以少林棍之见识论峨嵋枪,真是隔靴瘙痒。…⑥

とあって、呉殳はこの技を高く評価していたことが伺える。

ちなみに、「抱琵琶勢」は騎龍、伏虎を畏れるという。 

---------

①の中にでてくる「無中生有」について、『手臂録』では、「馬家槍二十四勢説」の「霊猫捕鼠勢」の説明のなかで

「古訣に曰く‘すなわち、無中生有槍法である。’…」

とでているほか、峨嵋槍法』の中では「扎法篇」のなかで、相手に纏槍された中から退いて、回龍槍を用いることを「無中生有」と説明している。その少し前の記述にも、「相手の槍が来たら、その槍に従ってやや後退し、相手が槍を収めたら、その隙に乗じて入る」ことを回龍扎とし、石敬岩はこれを「就」と名付けている、と説明している。

石敬岩の「就」法については、『手臂録』巻二「戳法」(潘氏抄本)に

就:真如は「回龍扎」と名づく。口伝がある

就:真如名“回龙扎”,有口授。…⑦

 

とあって、『秘書録』下巻の『無隠録』を見ると、もう少しだけ詳しく

就:槍来たり、我、蹲坐して少し退く。彼の槍を収めるを見て、虚に乗じて即ち入る。真如は「回龍槍」と名付ける。

就:枪来,我蹲坐少退,看彼收枪,乘虚即入。真如名回龙枪。…⑧

と書いてある。前手の掌を上に向けているところがポイントのような気もするけれど、少なくとも絵の上では、「鈎槍勢」とはあまり似ていない気がする。

 

〇 『手臂録』「馬家槍二十四勢説」の「霊猫捕鼠勢」(『中国古典武学秘籍録 上巻』)

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…というような感じで、なんとなく「鈎槍」についてわかったつもりになっていたら、『手臂録』附巻峨嵋槍法』では③④⑤の箇所以外にも「行著」の箇所で「鈎槍勢」は説明されているところがあった。その説明は以下のとおりで、地の文は程真如の原文を呉殳が編集したテキスト、カッコの部分はそれに呉殳自身が添えたコメントだとすると、程真如も呉殳も、(特に呉殳は)この技の事を実用的ではないとして、厳しい評価をしていたことがわかる。

 …というよりも、そもそも真如・呉殳は「活掤対」「死掤対」「活掤退」「翻身掤退」「鈎槍勢」の五法について、程宗猷(冲斗)がいうように、敗槍の状態から形勢を立て直すことなど無理だと言っていることがわかる。

 

「鈎槍勢 :圏外に敗槍を救う。前手を失ったとき、前足を急ぎ後方に移す(孟浪(けいそつ)の極みか。必ずや間に合わず)。左手の槍を急ぎ仰掌で一鈎す。左肘はきつく脇下につけ、もって槍を開く(妄語である)。この五法、いずれも冲斗より出る。前の四つがすでに疏ましいが、鈎槍はさらに誤謬である。ここに留めて、執迷を破らんとする。槍法に非ず。

钩枪势:救圈外败枪,失前手者,急移前足于后(孟浪极矣,必来不及),左手急枪,仰掌一钩,左肘紧贴肋下,以开其枪(妄语也)。此五法皆出于冲斗。前四势已疏,钩枪更谬。留此以破执迷者,非枪法。 」…⑨

 

その他、『秘籍録』が底本にしている『手臂録』のテキストには無いものの、許金印『手臂録校註』には、後巻下の『夢緑堂槍(鎗)法』「程冲斗十六槍(鎗)勢」の「鈎槍」の部分で、歩を進めて左手で槍をつかもうとする間に、「相手の槍で十回も刺されてしまうよ」という語が記されている。相当この技が気に入らないのだと思う。

 

〇許金印『手臂録校註』後巻下の『夢緑堂槍(鎗)法』「程冲斗十六槍(鎗)勢」の「鈎槍」

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…ということで、いろいろ調べてはみたものの、これらの技はそもそもあまり実用的ではないということで、振り出しに戻ってきた気がする(苦笑)。でもまあ古典を読みこむ練習になったし、頭の体操というこの電子メモ帳の趣旨には適っている。なので、それもまたよし。

 

〇「秘本長槍法図説」の「活掤対進槍勢」「活掤退退槍勢」「死掤対槍勢」「翻身掤退退槍勢」 (『中国古典武学秘籍録 上巻』)

 

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許金印『手臂録校註』によると、『手臂録』の「騎龍勢」と「長槍法選」の「鈎槍勢」はまったく異なる勢であるのに、故宮本『手臂録』をはじめとしていくつかの写本では、「騎龍勢」の挿図に「鈎槍勢」が使われていることを指摘していて、参考になる。

 

許金印『手臂録校註』

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唐豪『少林拳術秘訣考証』

少林寺

数年前にメモを書こうと思って読み始め、途中で挫折していた唐豪の『少林拳術秘訣考証』をなんとか読了。

 

少林拳術秘訣考証』(山西科学技術出版社版)

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尊我斎主人の『少林拳術秘訣』とそのベースになっているといわれる『少林宗法』は清末の革命志士が日本の武士道論の影響を受けて書いたものであることを論証したものだけれど、日清・日露戦争後盛んになった武士道論の中国への影響(柔術という名称や、禅の工夫による恐怖心の克服という、中国にはなかった方法が採用されていることなど)を具体的に記したものとしても、とても興味深かった。

ちなみに唐豪によれば中国の伝統的な恐怖心の克服(練胆)法とは、禅の工夫ではなく、戚継光が『紀效新書』に書いたように、人より優れた技を身につければ自信がついて、おのずと恐怖心は消える(=藝高人胆大)ということらしい。そう解釈すると、以下のリンクにあるようなイチローの考え方(「準備とは言い訳を排除すること」)に通じるものがある。

 

tabi-labo.com

 

その他、とりあえず気づきの点をメモ。

1.

本書のなかで日本の武士道論の著作をあげてその影響について論じた主な部分をメモ(長いけど、具体的な書名など含めて興味深い。この議論は個別の箇所で繰り返し出てくる。)

  宗法以禅観練胆、何由見其従日本転販過来呢?査日本古代、分貴族武士平民為三個階級、而皆信仰中国伝来的佛教。武士寄生於貴族、非軽生楽死、貴族即不為用、当源平争覇時代、兵戦靡已、禅宗的生死観、深合於武士們的心理修練、故其宗風、因而大張、成為彼邦武士練胆的惟一法門。時隔七百余載、新渡戸稲造於明治三十二年、為宣伝其甲午戦勝的精神因素、用英文写了一本武士道出版、旧調重弾、此風又開、他們一面体外誇張、一面対内鼓吹、宗法作者受其影響、決不能在明治三十二年以前、這是可以肯定的。

  考清原貞雄武士道十講、謂継新渡戸稲造武士道而出版的作品:有三十四年井上哲次郎的武士道、三十五年佐藤巌英的精神講話武士道、山岡鉄太郎的武士道。三十七年日本武士道研究会的日本武士道之神髄。三十八年久保得二的武士道史譚与少年武士道之訓、井上哲次郎与有馬祐政的武士道叢書、秋山悟庵的現代大家武士道叢論。三十九年安芸喜代香的土佐之武士道、佐賀藩僧侶的葉隠集。四十年秋山悟庵的禅与武士道、蜷川達夫的日本武士道史。四十一年山方香峰的新武士道、葦名慶一郎的日本武士道気質、岡元慶的武士道実話、緑園生的武士道小説叢書、熊田宗次郎的女武士道与少年武士道。四十二年東郷吉太郎的軍人武士道論、大畑裕的武士道与家庭、重野安繹与日下寛的日本武士道、池辺義象的武士道美譚。這些書裏、一定含有宗法所根拠的理論、可資考証、但目前因為日本正在瘋狂地侵略中国、必須等到抗戦勝利以後、方能乗風破浪、去到他們図書館裏、尋找此等史料、以供徴引。茲就手頭蔵有的文献、足為鄙説佐証者、略挙二三、以窺一斑。

  明治四十一年、日本副島八十六所編開国五十年史:大隈重信在本邦教育史要一篇内、謂鎌倉室町時代的武士修養、精神上以死生観念為心的磨礪、身体上以弓馬刀槍為武的鍛錬。藤岡作太郎在同書風俗変遷一篇内、謂日本国民的武士道、是受三種影響所合成:其一、受武家時代連年戦乱生活貧困的影響。其二、受重実行而卑空想的儒教影響。其三、受三界唯心、死生一如的禅観影響。高楠順次郎在同書佛教一篇内、謂武士道的精神修養、多由禅宗的櫜鑰鎔鋳而出。並且指明這是在維新以前、由佛教的余恵所結成的果実(此書商務印書館有譯本、可資参考、惟不尽与原文相合)。其外、光緒二十八年、羅孝高譯日本維新三十年史、第七編宗教史内、也提及「源平由遞興、武士以禅定直入而悟道。」光緒三十年、帝制余孽楊度序梁啓超的中国武士道、謂「日本無固有之学術、自与中国交通以後、乃以中国之学為学、直接而伝中国之儒教、間接而伝印度之佛教、挙国中人、無能出此二教之範囲者。夫此二教者、其義相反、而其用相足者、何以言之?孔子之道、専主現世主義、諄諄於子臣弟友之節、仁義礼智之道、経伝所載、惟於身心性命家国天下之関係、反復言之、而於有生以前、既生以後、皆不過問、故曰未知生、焉知死?又曰吾欲言死有知乎、恐孝子順孫妨生以事死、吾欲言死無知乎、恐不孝之子棄其父母而不葬、故惟言朝聞道可以夕死、無求生以害仁、有殺生以為仁、以此数語為其教戒而已矣。蓋儒教対於生死問題、乃以局外国而厳守中立者也。其切於人事之用、自非他教所能及、故有謂儒教非宗教者。若夫佛教則不然、釈迦本以此死生問題、棄其王子之位、三衣一鉢、入山学道、彼時覩天地念無常、覩山川念無常、覩万物形体念無常、径十二年、而一旦於菩提樹下、豁然大悟、其後広説妙法、普済衆生、皆無不準此問題、以為済度。以三界為火宅、以此身為毒蛇、特立十二因縁、以明生老病死、因果環復、苦業無窮、而以滅去無明、免此生死為唯一之手段、以為身者衆苦之本、禍患之源、又以生死皆由于心、若心滅則生死皆滅、龍樹諸人譯之、又謂所有一切法、皆是老死相、終不見一法、離生死有住、皆対於生死問題而力求其寂滅者也。此与儒教教義、実為大相反対、而日本学之、則反能得二者之長、而相輔相助、以了人生之義務、故其人於成仁取義之大節、類能了達生死、捐躯致命以赴之。」楊氏所言、与藤岡作太郎之語契合無間、可証明治時代、日本武士道諸書中、発揮禅宗的生死観、必甚普遍。楊序又謂:「予聞梁氏将述武士道之死生観別為一書、曰死不死。」梁氏於中国武士道外、至欲再著死不死一書、以励国人。可見満清末造、無論保皇党与革命党、受日本武士道影響的、皆有其人、宗法作者、僅僅之其中的一員而已。

  新渡戸的武士道、為中日戦争而作。日本武士道之神髄、武士道史談、少年武士道之訓、武士道叢書、現代大家武士道叢論、為日俄戦争而作。前者是弱肉強食的侵略戦、後者是新旧帝国主義的争奪戦、日本智識分子不暴露這種戦争的本質、而以宗教色彩的武士道、麻酔其国民、這当然是所謂神国也者的一貫政策。

  沈寂了二十年左右的武士道、他們自九一八以来、又利用這件老法実作宣伝、希図在侵華戦事中発生相当作用。昭和九年横尾賢宗的禅与武士道、其上篇第八章、極力以生死透脱来鼓吹其国民、作盲目的犠牲。昭和十三年梅田薫的精神強化療法、其第六篇以「禅為超脱生死、消滅一切恐怖心的方法」、及「坐禅養成武士的胆量、有巨大助力」等理論、強化其国民的精神。

  読者若将宗法第一第八両篇的禅観練胆法、与以上所引的日本武士道理論作一対比、立刻就能够領会其是転販過来的。

  従宗法的慣用柔術二字来観察、作者一定僑居過日本、其僑居的時期、一定在明治三十四年---即光緒二十七年以後、否則、不会受這種理論影響的。

  宗法作者、為甚麼要採取日本武士道理論入其書中呢?推其用意、大概在激発同志、解脱於恐怖罣礙之中、了却生死関頭、以応其革命的要求。但無意中却留下一個重要証拠、使著者得以証明宗法的撰述時期。PP.35-42

2.

緊那羅伝説に関して、唐豪は当時の碑文などを検証して、緊那羅が紅巾軍から少林寺を守ったという伝説にかかわらず、実際には少林寺は紅巾軍によって占領され(原文では「失守」)、僧侶たちは寺を離れて近くの村に非難していたと考えていることがわかる(「六 秘訣的棍法」)。この説を紹介しているものをほかにみた記憶がないけれど、現在ではどう理解されているのか気になる。

 

3.

また同じように清の康熙・雍正・乾隆年間の碑文や筆記の内容をリストアップし、ここに出てくる僧侶の名前を挙げて検証する手法で、清朝少林寺を弾圧したとする説は成り立たないことを証明しているのだけれど、具体的な碑文とそこに記された僧侶の名前、碑文の年代などを一つ一つ丁寧に掲げるという論証の仕方で、とても説得力があると思った。

 

〇二つの表の、それぞれ一部

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4.

内家拳外家拳という議論に関して,唐豪の説明によると、『少林宗法』の作者は、気功を原則とする少林の武術はすなわち「内家」であると考えているのに対し、『秘訣』の作者は、(その考えが通説とは異なることを気にしてか)少林を直接に「内家」とみなすことは避けつつも、一貫以後の少林武術は馬士龍の気功の要素が加わり、内家と外家が一体化して(内外家合而為一)、両派を兼ねており(以少林派而兼内家)、これによって内家と外家の区分は存在しなくなったと考えていることがわかるという。このあたりの、少林の側から見た内家・外家の考え方は、太極拳などから見た内家・外家の考え方とはやや違っていて、面白いと思った。

 

5.

『行健斎随筆 唐豪太極少林考』に収録されている顧留馨の「憶唐豪」という一文にこの本について触れた箇所がある。それによると、『少林拳術秘訣考証』が書かれたのは1941年だけれど、その後唐豪自身の研究の深まりにより、唐豪は1957年にこの本に対して改定を行っているという(注)。今回参照した山西科学技術出版社版は民国三十年(1941)版で、その後の修正版ではないので、もし修正版というのが公刊されているのであれば、どこが違うのか確認してみたい。

 

(注)その部分の原文

解放后,唐豪的思想有了新的提高,对此书见解也有所发展,有些见解就不同于当年了,1957年,他对此书曾着手进行过修改。

 顧留馨「憶唐豪」『行健斎随筆 唐豪太極少林考』所収 山西科学技術出版社版

 

 6.

5.で 顧留馨がいう「改定(修改)」との関係はわからないけれど、唐豪のその後の著作の中で、このテーマについて触れているもの。上の引用で列挙されている武士道論の本の中では『葉隠』に言及されている。

(1)旧体育史上附会的達摩(1958『中国体育史研究資料』)

  十八罗汉手的附会

  考出少林宗法的著作年代,也就连带考出什么时代开始附会十八罗汉手”为達摩所传。从《宗法》理论上考察,证明这部书作于19世纪末叶,从而证明“十八罗汉手”的附会达摩就在同一个时期。

  书中采用日本柔术名称《宗法》作者在第一编里说:“术以柔为贵”。接着又说:“出手不知师法,举步全无规则,既昧于呼吸运使之精,复不解刚柔虚实之妙”的“下乘拳技,不得混以柔术称之”。从以上理论可以看出,这部书里采用日本柔术来改称我国拳术,是本于“术以柔为贵”这个基本理解出发的。“不得混以柔术称之”,是演绎出来的结论。要不是《宗法》作者曾和日本人接触过,不会采用这个名称。

  书中采用日本武士道理论:《宗法》第一篇“以参贯禅机,超脱于生死怖之域”为柔术“极致所归”的理论,第八篇以解脱生死”为少林“内功”的理论,无一不出于日本武士道,在《宗法》以前我国出版的少林武术书中是根本没有的。“解脱生死”的日语为生死を超脱すろ(ママ)”,源出于日本宝永七年(1711)享保元年(1716)之间的山本常朝语录《叶隐》这部书里。常朝为九州佐贺的锅岛藩家臣,学禅于湛念和尚,42岁出家,是18世纪初年的封建武士。他的理论,被后出的《武士禅机缘集》等书所发挥。日本明治时代利用这类封建武士道理论麻醉其本国人民作炮灰,以达到军国主义侵略的目的---特别对中,朝两国。要不是《宗法》作者曾和明治时代的日本人接触过,不会采用这种理论。

  书中的五拳即洪拳:主编天铎报》副刊的陈铁生说:在辛亥革命前夕未刊出的《宗法》“图像手法,纯是广东之洪拳“。洪拳是洪门假托少林传习的一种拳术。在清朝,加入洪门时要作如下的问答:”武从何处学习?在少林寺学习。何艺为先?洪拳为先。”又:“尔武从何处所学?武从少林寺学。学乜件为先?洪拳为先”。同盟会和中华革命党的洪门秘书,也有这样的回答。《宗法》第六篇和第九篇,以”洪门”为拳中的正门,即暗示此拳的来历。由此可以推定,《宗法》作者是洪门中的成员。

  《宗法》作者接触的日本人:1956年11月10日,《中国青年报》4版曾刊载孙中山,郑士良,陈少白等合摄的一张照片,并附以说明:”1885年中法战役,中国失败给孙中山以很大刺激。在这一时期他结识三合会洪门)首领郑士良和陈少白等人,倡导革命。”据《中国秘密社会史》作者说,日本宫崎寅藏,可儿长一,平山周,山田良政是在光绪二十三年(1897)参加孙中山领导的资产阶级民主革命的。《宗法》作者可能在1897年就和她们有过接触。

  《宗法》作者与孙中山的思想:《宗法》作者在第二篇中说:”吾宗之练习此术(洪拳),乃有爱国思想存乎其间,诚恐筋肉废弛,不能报国,东海可移,此志莫易,磨练筋骨,留以有待,故吾人歹夜孜孜,以俟机会。”孙中山在自传里说:”二十余年之前,革命之成否尚有问题,故未敢表示兴中会之本旨为倾覆满清者。”兴中会会章第八条,称其筹集革命运动的经费为”爱国之诚”,《宗法》称其革命活动”有爱国思想存乎其间”,这正和孙中山的初期革命活动思想一致。

  《宗法》作者的附会:根据 《宗法》作者的采用日本柔术这个名称和日本武士道理论以及表现的思想,我推定这部书的著作时期当在公元1897年之后的兴中会革命运动时期。作这部书的目的,在于联络洪门成员参加孙中山领导的资产阶级民主革命。

  但辛亥革命前后以孙中山为代表的知识分子,由于他们身受狭隘的资产阶级利益的局限性,这种民主主义革命便不能不以失败告终。”

  根据以上考证,现在来对十八罗汉手”的附会达摩作分析。《宗法》第八篇说明  “十八罗汉手”“挽弓开胸”一势:“此与世俗所传之八段锦中‘左右开弓如射雕’正复相类。”这一种八段锦,最早出版的是上海同文书局石印本。从《中国近代出版史料》二编考出,同文书局的开设在光绪七年(1881)。《宗法》所说的“世俗所传之八段锦”袭用光绪十六年(1890)盛宣怀《幼学操身》序文中“世俗所传八段”之语而加上一个“之”字,这是我推定《宗法》作于1897年之后的兴中会革命运动时期的佐证。附会达摩在少林传“十八罗汉手”的《宗法》第八篇,其中有日本武士道理论,这是我推定《宗法》作于1897年之后的兴中会革命运动时期的又一个佐证。十八手的附会达摩,从而也可以推定在这个时候。

  继起的附会:1915年出版的少林拳术秘诀》,它的第九章就是《宗法》的第八篇,所以附会相同。1919年出版的《中国体育史》作者,倾心行销近三十版的《秘诀》“十八罗汉手”的附会是真事,在第四编第三章里作出结论说:“少林拳实始于达摩之十八手,其动作姿势为(少林)拳术之基础,后人推衍,终不能畔其藩篱。”又在第十编第二章里作出结论说:“技击之为术虽古,而有一定之成法足资人以学习,则自少林始。达摩之罗汉十八手为拳术之基础,故我国国技之发达,以释家之功为巨。即宋人之八段锦,亦自达摩十八手脱胎而出--如所谓‘两手托擎天理三焦’,即‘朝天直举’之二手,‘左右开弓如射雕’,即‘挽弓开膈’之一手,可知吾国体操术之发明,皆释氏之力矣。”把19世纪末叶附会达摩的“十八罗汉手”,当做6世纪时达摩所创所传,作出的结论自然不会对头。达摩根本没有传过什么体操给少林僧,我国的体操和拳术远在达摩之前就有自己的发展历史,与达摩毫不相干。宋朝的坐式八段锦,还没有“两手托擎天理三焦”和“左右开弓如射雕”这类名称。开始有这两个名称的立式八段锦,出现于公元1881-1890年之间,“十八罗汉手”里面类似的三手,只能说它脱胎于立式八段锦,这才不至于颠倒事实。我国拳术的基础,我国体操的发明,何尝“以释家之功为巨”,何尝“皆释氏之力”。前面所说5世纪末少林小和尚们爱好的摔跤,跳跃,拳击,都是我国早有的体育活动,也不是跋陀从印度带来。19世纪末叶洪门附会的达摩传“十八罗汉手”给少林僧是假托的。洪门成员并不是少林僧,更谈不到它的传播是“释家之功”和“释氏之力”。『行健斎随筆 唐豪太極少林考』所収 山西科学技術出版社版 PP.33-36

 

 

(2)中国医療体育概述

5.1915年出版的《少林拳术秘诀》,书内的达摩十八手强身术,原文说明中“挽弓开膈”一手,与光绪初年“所传的(立)八段锦‘左右开弓如射雕’正复相类”,可见十八手是在光绪初年后才附会达摩的。辛亥革命以后,陆续出现的,还有《达摩剑》和《达摩派拳诀》等书,都假托一千几百年前达摩所传。『行健斎随筆 唐豪太極少林考』山西科学技術出版社版 P.44

 


笠尾恭二編訳『宗法図説 少林拳術秘訣 いま甦る秘密結社の少林拳』が中古版でアマゾンに安価ででていたのでとりよせてみた(右)。

 全訳ということになっているけれど、大意に影響のない範囲で個別の語句の訳が省略されている気がする。

 

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〇メモとは直接の関係はないものの、羅漢十八手の動画

www.youtube.com

孫徳朝、趙明、康意「 峨眉武术研究三十年」

現代中国武術事情 峨嵋派

 前回、過去100年の少林武術研究を振り返る論文についてメモしたあと、ちょうどよいタイミングで、内江師範学院の学報に載った峨眉派武術についての研究状況を振り返る論文を見つけたのでメモ。

 

 〇以下のリンクのPDFのボタンでPDFファイルのダウンロードが可能

210.41.176.25

 

取り扱われている期間は30年(1986年から2016年)ということで、80年代の発掘整理以降の研究動向の整理と位置づけられるのだろう。Cite SpaceⅢというソフトウェアを使って、CNKI(China National Knowledge Infrastructure)データベースからの解析がなされている。このソフトのことや、こういった研究手法そのものについては、よくわからないけれど、データベース内にある論文の「キーワード」をもとに、さまざまな分析をして、どのようなテーマで研究が行なわれているか、全体的な傾向を可視化するものらしい。

30年間で対象となった論文は104本、そのうち1986年から2006年までの20年の間の論文はわずかに10本で、ほとんどは最近10年のもの。

この論文によると、30年来の峨眉武術研究は(1)峨眉武術の起源と変化(峨眉武术
的起源、衍生)、(2)峨眉武術とその文化(峨眉武术及其文化)、(3)峨眉武術の継承・保護(眉武术传承、保护、转换性生成) に分けられるという。

 

通过梳理和分析,本研究认为,三十年来峨眉武术研究历程可分为三个阶段:第一阶段为峨眉武术的起源、衍生,研究特点为运用历史文献描述性梳理峨眉武术地域文化符号;第二阶段为峨眉武术及其文化,力求强化表达峨眉武术地域文化符号特质,但学科采借性不强,研究水平参差不齐;第三阶段为峨眉武术传承、保护、转换性生成,研究整体性和系统性不强,缺乏田野考察的数据和传承人深度访谈的口述史和文献观念史记载.

 

以下、前回の例にならって、それぞれの部分について興味深いと思った点をメモ。

(1)では、峨眉武術の「白猿起源説」が批判的に検討され(疑問を呈しているのは程大力、王小兵など)、峨眉武術は明代に成立したが清初には失伝し、いまに伝わる峨眉武術は各種の武術が混じりあって形成されたとする説、また歴史的に峨眉武術の範疇に巴渝武術(重慶地区の武術ということか)は含まれるのか、といった議論が紹介されている。

程大力、王小兵等认为:峨眉武术源于白猿祖师说法缺乏史实记载和依
据,不支持此种观点.通过研究,他们认为峨眉武术自明朝形成体系,和少林武术有着密切的联系.王小兵在后续研究中进一步佐证峨眉武术并非起源于“白猿祖师”,同时提出明清之际的峨眉武术并非是一脉相承的连续发展,而是明代已成体系的峨眉武术在清初却已失传,今人所称的峨眉武术是后来许多拳种的混杂体.陈振勇认为,少林拳巴蜀武术有着深厚的历史渊源,通过史料和事实论证了少林武术在峨眉武术形成与发展的过程中具有一定影响和作用

 

关于峨眉武术衍生与起源的研究,目前学界仍有争议,学者们的观点莫衷一是,多种起源说缺乏历史依据,经不起推敲.总的来讲,峨眉武术起源的研究是对峨眉武术追本溯源,也是人们认识峨眉武术这一传统身体活动式样的过程.在这一阶段的研究中,多为历史古典文献的梳理性和描述性研究,研究方法较为单一,缺乏田野考察和口述史研究.

 

嵩山少林寺の公式ウェブサイトにある陳振勇「少林拳巴蜀武术源流考」

少林拳与巴蜀武术源流考(陈振勇) - Shaolin

 

(2)では「古代峨眉武術・近代峨眉武術・現代峨眉武術」の三段階論や、個別研究例として、鄭志兵の峨眉道人拳歌についての研究、韓民勝の毒蛇吐信拳、呉保占の峨眉盤破門武術についての研究などがあることが紹介される。

ただし、筆者は、本来もっとも充実しているべきこの部分の研究はあまり充実しておらず、水準もまちまちであると指摘する。

 

峨眉武术的第二阶段研究是峨眉武术研究的脊梁与架构,通过梳理和分析发现第二阶段的研究中学科采借性不强,研究水平参差不齐.在峨眉武术研究的整个历程中,本阶段的研究理应最为丰富、系统,从而为后续研究打下坚实的基础.然而,第二阶段的研究倍显中空.

 

峨眉武術文化普及基地の公式ウェブサイト

峨眉武术文化普及基地

 

(3)では、今後の研究や伝承維持のための課題などが示される。

フィールドワークや口述筆記などの方法を用いたり、その他の武術文化(少林武術や太極拳を指すのか?)との比較の視点も必要であると述べられる。

この論文もその一部だけれど、(2)の部分で紹介されている、内江師範学院の四川省峨眉武術文化普及基地などが中心になってさらに研究が進むことを期待したい。

.目前,关于峨眉武术传承与保护、发展以及推广的研究数量较多,研究多为从宏观上去探讨峨眉武术的保护、转换性生成的相关性,但缺乏田野考察、对传承人口述史、文献观念史的数据和材料支撑;研究缺乏系统性和延续性,对峨眉武术和峨眉武术文化符号意涵和理解不够深刻,难以准确把控峨眉武术发展方向.

 

文章とは関係ないけれど、峨眉派関連の動画

〇呉信良の特集

www.youtube.com

〇「走遍中国」の峨眉派の回

 

www.youtube.com

 

程馨,程大力『近百年少林武術研究述論』

少林寺 現代中国武術事情

国家体育総局体育科学研究所のサイトで見つけた論文。

国家体育总局体育科学研究所-近百年少林武术研究述论

 

郭希汾の「中国体育史」や徐震、唐豪以来の中国国内における少林武術についての研究を

1.少林武術の起源

2.少林武術の誕生とその存在の歴史・文化的背景

3.対倭寇戦と少林僧兵

4.南少林、北少林問題

5.易筋経の成立時期

6.易筋経以外の少林武術関連古典についての研究

の各点(項目名は自分の理解のために適宜改変した)からレビューした、とても参考になる論文で、どの部分もとても興味深かった。

 

郭希汾の「中国体育史」(1919) 

郭氏26歳のときの著作とのこと

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第一著者の程馨のことは知らないけれど、程大力については、以前に著書『中国武術 歴史与文化』を読んだことがあるのと、『中国武術百科全書』の武術史部分を担当されていることで名前は覚えていた。
近年、競技武術は極左思想の産物であり、その発展は行き詰まっていると述べたことが、いろいろな文章で引用されていることに気がついて(注)、注目していたところ、掲題の文章にたどり着いた。このほかにも、師でもある峨媚派僧門の彭元植の口述をまとめた記事も読み応えがあった。

2000年に提出した博士論文という『少林武術通考』(未入手)は面白そうなので、いつか読んでみたい。

 

baike.baidu.com

 

〇程大力 中国武術 歴史与文化』

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〇四川武林和我的习武生涯 彭元植

www.360doc.com

 

備忘録として、各パートごとに、印象に残った部分をメモ。

1.少林武術の起源

程大力认为,少林武术源自元末,于紧那罗王传说中有相当反映,少林
武术体系层累构成,紧那罗是历史上出现最早、年代最晚的少林武术偶像,这个偶像的年代可能最接近少林武术诞生的真实年代,不无道理。少林武术武僧起源自元末的观点,已经越来越多地引起学者关注;马贤达、张传玺、旷文楠、周伟良等的少林武术“明清说”,则主要是出自少林武术体系和成
熟角度的考量,亦言之成理。

筆者の観点は、「少林武術」の誕生は元末。

このまとめ部分では、(論文の引用がある)「馬明達」とあるべき部分がなぜか「馬賢達」になってしまているのは残念。

 

2.少林武術の誕生とその存在の歴史・文化的背景

キーワードは禅宗儒学化と、「頓悟」による戒律順守の形骸化、だろうか。

禅宗儒学化に関しては、日本の忽滑谷快天の禅学思想史(中国語に翻訳されているらしい)をもとに語られている。

 

程大力在1990 年《少林尚棍渊源论—兼析少林武术产生的文化历史原因》一文中详细论证了禅宗儒学化的过程:宋代契嵩大师更将佛教“五戒”与儒家五常”相比拟,“仁学爱人,与佛教慈悲虽有相同之处,但孔孟讲仁却从未无条件、无原则地规定什么‘戒杀’。相反,由‘仁’的核心民本思想出发,人人都有权力惩治甚至诛杀罪大恶极者”。“五戒”与“五常”相比拟,“慈悲”向“仁义”靠近,实际上就意味着不再是绝对“戒杀”。佛教教律被禅宗打开了一条门缝,这就为武术产生或进入少林寺提供了可能性。在少林寺内,与武术更密合
的实际上不是佛教教义而是儒家思想。少林寺寺存碑铭的“本寺僧徒,文武并用,护国强兵”以及门联的“效劳社稷”“除暴安良”语,和佛教宣传的业报轮回,以及“无父无子”“无家无国”的思想,已迥然有别。然而,忧国忧民,匡扶正义,正是儒家积极入世思想的一贯主张。

 

郝勤1990 年在《论中国佛教与少林武术》一文中指出,禅宗的“见性成佛全在于‘顿悟’,亦即毋须长期修习(渐悟),也毋须遵守一定的戒律,只要一念觉悟,刹那间即可成佛。禅宗的这套学说使深奥繁琐的印度佛教一变而为适合中国传统思想习俗的、世俗化的、简易的中国化佛教,使佛教从严格的戒律和修行中解脱出来,‘担水斫柴,无非妙道’,世俗生活行为均为禅宗所宽容,甚至出现了孝僧、艺僧、茶僧、酒肉僧等,禅宗成了佛教内部十分鲜见的宽容宗派。在这种情况下,可以想象,所谓‘武僧’‘拳棒僧’的出现就不是什么奇怪的事了”。

 

 少林寺禅宗 儒学化和“顿悟”的道路上,无疑走得最远。少林寺作为一个 宗法庄园实体,其利益当然也需要以政治和武力手段,即僧 兵和武术的维护。元代崇佛,僧人是特权阶级,少林寺僧多 有为帝师者,当然少林寺的地位也因此更为显赫,禁武的元 代,少林寺可能是例外。紧那罗王传说所言为元末,少林武 术可能发端于元末,在接下来的明代,拥有武术和僧兵的少 林寺,顺应明代广泛建立民兵组织的潮流,终于迎来了大发 展的契机。

 

3.対倭寇戦と少林僧兵

 このパートは、後半の部分で、倭寇の大部分は実は中国人であり、倭寇の乱というのは明朝の海禁政策に反対する商民たちの武装闘争であり、「少林武僧」の「抗倭」というのは一種の悲劇であったという観点を紹介。もしそういう見方が成り立つのでなら、「少林武僧」のみならず、戚継光らの活躍もすべて中国人同志が戦った歴史の悲劇ということになってしまう。筆者自身は、日本人か中国人かとそう簡単に割り切れるものではない、と若干態度を保留しているものの、こういう観点が武術史の世界でも紹介されるようになってきているのがわかり、とても興味深いと思った。

 唐豪曾将抗倭僧兵名录与少林寺七十字派诗对比,认为,“合于七十字派者,只了心一人”,“余则与七十字无一相合”,“不能证明其为少林僧”。天员与月空争为将领,天员说“吾乃真少林也”,“实则以字派考之,二人均难言为少林僧也”。唐豪认为:“不合字派诸僧,所擅者均少林棍,则谓为少林派武僧则可,谓为少林僧则不可”。
程大力对此提出了质疑,见于文献记载的僧兵,留下的应该多是法号而非法名。抗倭僧兵主体是少林寺僧兵,但既有少林寺本寺籍的,也有少林寺分院籍的、非少林寺籍的、乃至游方无定籍的最后来到少林寺的僧人。

 

近年有人提出,所谓倭寇,实际上绝大部分是中国人。所谓倭寇之乱,实际上是沿海商民反抗明王朝海禁的武装斗争,是朝廷实行闭关锁国政策结下的苦果。张亚芬等1988年《嘉靖少林僧兵“御倭”的历史真相》一文袭用了上述观点,即所谓“倭变”是人民起义。并认为,虽然僧兵身怀绝技勇猛善战,“但可惜的是,他们打击的对象却是中国的武装反抗明王朝的海商,多少生灵惨死在僧兵飞舞的铁棒之下”。该文以为:“少林僧兵‘御倭’是一出历史悲剧,应予否定”。

 

4.南少林、北少林問題

 南少林寺問題に関しては、まず(1) 莆田林泉院説、(2)泉州東禅寺説、(3)福清少林院説、(4)東山古来寺、仙游九座寺説、の各説を概観。そのうえで天地会の伝承の中に出てくる、大廟、僧兵、武功を備えた天地会の大本営となるような南少林寺は実際には存在しないと述べる。

本研究认为,天地会附会少林寺,初始只是漫称少林,并不指明到底哪个寺庙是南少林,或者说这个南少林具体的位置。因为这个集大庙、僧兵、武功于一体并为天地会大本营的南少林寺实际上并不存在。当时闽、粤、台地区实际有过的那些极少的移民带来的“少林寺”,要么早就毁弃不存,要么只是村里小土地庙规模,所以天地会只敢泛泛谎称为少林。将少林寺附会于一个具体寺庙的做法,是从清末开始的,因为这时已无需再顾忌时人见到那些真的小“少林寺”了。所以,《香花僧秘典》就有了“古来寺”有“南少林之誉”的
说法。当该做法是出于政治目的,那就是反清革命,堂皇而正派;而当该做法是出于经济目的,那就是旅游捞金,不怎么光彩。而如果林泉院石槽是为了达到某种目的而人为造成“其”字的漫漶,则尤为恶劣。泉州、莆田、福清,早已耸起几座规模宏大的“南少林寺”,一律名家题词,泉州、福清,夸大
其词,而莆田则迹近作伪。

北少林問題に関しては、以下の結論部分をメモ。天津の北少林寺の武術の由来についてはやや慎重な論調が紹介されている。

雪庭福裕曾“分建和林、燕蓟、长安、太原、洛阳为五少林”,唐豪说的7 个真少林,就是这5 个再加上登封少林和泉州少林,换言之,洛阳和登封各有一个少林寺。而叶宪允说的5 少林中,洛阳少林就是登封少林,也就是说它们是1 个而不是2 个。现在的登封虽属郑州管辖,但历史上登封长期属洛阳辖境,洛阳治所也一直在今洛阳,称登封少林为洛阳少林,也并没有错。但少林寺并非元蒙福裕时候才有的,早在北魏时就叫少林寺了,那怎么福裕洛阳少林寺叫“建”?既然洛阳登封就是一个少林,那怎么能叫“分建”?另外,若洛阳还有一个少林寺,为什么史籍和考古一点痕迹也看不到?叶宪允找到了福裕住持和林兴国寺的资料,也找到了福裕开建和北少林的资料,但兴国寺和北少林寺究竟是1 家还是2家?蓟县盘山少林寺,有寺确凿无疑,但是否有少林武僧武术,值得怀疑。研究者并未找到直接证明盘山少林寺有武僧武术的文献资料,而蓟县商仕芝少林习武,因此,那可能只是商氏后人的未经任何材料证明的自说自话。如果少林武术确实诞生于元末(即紧那罗王时代),那么福裕在世的元初,少林寺就根本还没有少林武术,他创立的北少林,何来僧兵武术?改朝换代,悬隔千里,这些分寺和母寺,不可能还有紧
密联系行为同步,因此,本研究认为北少林没有少林武术。

 

5.易筋経の成立時期

 このパートでは、阿徳の論によりつつ、徐震、唐豪らが論証したように、序文が偽書であるのはほぼ明らかであるとしても、内容については那羅延金剛神信仰に基づく「金剛堅固」、「金剛の体」を手に入れる伝統があり、「金鐘罩」や「鉄頭功」の類もその遺風であるとの観点が紹介されている。

 

 徐震、唐豪考证之出,达摩传《易筋经》之伪几成定论,但也有不同的观点出现,阿德是其代表。“序文伪经文不伪”是他的核心观点。他2006 年在《<易筋经>李靖序文考析》一文提出,《易筋经》所表现的对“金刚坚固”的追求、以及经文所描述的修炼方法,显然与少林寺传统的那罗延金刚神信仰有
关。将其演变形态的文本《易筋经》视为房中书,或世俗意义的内功功法典籍,是为“俗眼”。阿德认为,“少林功夫一直以刚猛著称,正是那罗延金刚神信仰的外化。《拳经拳法备要》的‘壮形骸’、‘胜铁胎’,与《易筋经》的‘金刚坚固’‘金刚之体’,应该源于同一背景。”“少林寺内流传至今的功法中,尚有‘金钟罩’‘铁头功’之类,皆其遗风”。

 

阿德提出的序文伪经文不伪的观点值得重视。是否可以这么理解他的观点:《易筋经》是纯粹佛门的自身源流发展,是纯粹少林功夫的结果和产物,其作者是佛门少林武僧。《易筋经》伪是根据李靖的序得来的,是李靖序说的达摩传《易筋经》,如果除掉这些序,那《易筋经》就是一个佚名作者的著作而已,这个作者并没有说自己就是达摩,那么,“伪”字便无何谈起。这个作者为什么隐匿了自己的姓名,可以猜测的原因很多,但最大的可能是,《易筋经》应该不是一时一地一人的专利,而是长期在很多人中流传并不断完善的实作功夫,最后有人行诸文字,甚至执笔者都不是一人。少林寺
自然可以认为,历史上少林寺僧人习武集团,是最有可能创造这门功夫的组织实体。阿德判断《易筋经》的著作年代是相当早的;周伟良认为,《易筋经》产生的时间“至少是明末,有可能更早”,具体时间并未谈及,但至少也是万历年间了;《易筋经》成书年代按张志斌的观点是最晚的,大致在顺治年间到康熙中期。

 

现在发现的《易筋经》最早抄本,是在清初,张志斌甚至认为“沈校本”可能就是《易筋经》的祖本。因此,发现明本《易筋经》的可能性是越来越小了。

 

6.易筋経以外の少林武術関連古典についての研究

取り上げられているのは、 俞大猷『剣経』、程宗猷『少林棍法闡宗』、『少林衣鉢真伝(または「羅漢行功全譜」、「羅漢行功短打」)、『拳経拳法備要』、尊我斎主人『少林拳術秘訣』、佚名氏『少林宗法図説』

李良根1992 年发表的《<剑经>注解》,将《剑经》内容归纳为6 类205 条,每条包括原文、词解、释义3 部分,其中,词解既有对《剑经》词语的解释,也有对原文的校正和存疑。而释义则既有对原文的概括,也有他自己的心得阐发。有学者称李良根的著作为“用功颇深”者。

 

〇文中でも紹介されている李良根『剣経』注解

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由曹焕斗《注张孔昭先生<拳经>序》序名看,仿佛《拳经》作者就是张孔昭;曹焕斗在序中又说其“得孔昭先生从余族高伯祖在壶关县任中所撰《拳经》”,也说是张孔昭撰著《拳经》。但《拳经》书名下又有“横秋张孔昭述;在东曹焕斗注”,却是有“述”、有“注”,就是没有“著”,奇怪得很。余
水清2008 年《<拳经拳法备要>拳学论析》中提到,真正的最初撰稿人不是别人,就是张孔昭之徒、曹焕斗的“高伯祖”曹某。“句中的‘从’字,按繁写为‘從’,而‘從’字很可能是‘徒’字之误。”“若将‘从’字还原成‘徒’字,这句话就该是‘得孔昭先生徒——余族高伯祖在壶关县任中所撰拳经’,如是语义
自然通顺,柳暗花明”。

 

欲を言えば、もう少し、易筋経以外の個別の伝承内容についての具体的な事例研究みたいなものがあったらよいのに、というのと、少林寺といえばやはり少林寺周辺の武術学校や、少林寺というブランドのもつ影響力(いい意味でも悪い意味でも)を含めた、社会的、経済的側面からの研究があったら面白いのにと思う。後者の点については、釈永信方丈の自伝や評伝(内容はほとんど被っている)は時代の変化も感じられて、とても面白かった。

(注)

「競技武術は改革の結果では全くなく、そもそも左傾化の直接の産物である。その実践は、実際にはとっくに行き詰まっている」「様板武術(競技武術)は極左思想と路線の直接の産物である」
❝竞技武术根本不是改革的结果,它原原本本就是左倾化的直接产物,它的实践实际上早就走入了死胡同❞,❝样板武术(竞技武术)是极左思想和路线的直接产物 ❞

中華人民共和国武術史』(楊祥全・楊向東)に引用されている程大力「伝統武術;私たちの、最大にして最も大切な、絶滅寸前の非物質文化」(「传统武术:我们最大宗最珍贵的濒危非物质文化遗产」)

周偉良編著『中国武術史参考資料選編』

清代武術 中華人民共和国の武術(建国初期)

昨年暮れにインターネットで注文。

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 この本のウリは個人的には二つあって、一つは清朝の公文書(檔案資料)の部分で、白蓮教や八卦教の反乱の関係者の供述書や、これらの事件に関する地方官僚から中央への報告書のなかに見られる武術の内容が約20ページにわたって紹介されている。梅花拳や七星紅拳、八卦拳、異伙(義和)拳、八番拳、神拳、金鐘罩…といった語が見られる。

 昔の文章のはずだけれど、供述書などの口語体はいまの言葉とそんなに変わっていないようで、意外に読みやすいとも思った。

このあたりの史料は、周教授が明清時代の少林寺や、梅花拳についての論文を書かれた際に活かされている模様。 

 

嵩山少林寺公式ウェブサイトより 周偉良『明清时期少林武术的历史流变

◎人民大学清史研究所の公式ウェブサイトより 周偉良『梅花拳信仰研究 兼論梅花拳的組織源流

 

もう一つは中華人民共和国の建国初期の武術に関するさまざまな議論が紹介されているところ。

建国初期の議論に関して、以前に蔡龍雲の「我対武術的看法」についてメモしたことがある。この文章が引き金になって、武術の性質に関する論争が雑誌『新体育』などで展開されたことや、反右派闘争のなかで、武術の普及方針をめぐる意見の相違が政治問題化し、王新午が厳しく批判されたことなど、建国50周年時に出版された『中華人民共和国体育史』で簡単に触れられていたほか、最近では楊祥全『中華人民共和国武術史』でも比較的詳しく取り上げられていたものの、なかなか当時の雑誌資料などを見られる機会はなく、やや物足りなく思っていた。

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〇建国50周年の1999年に出版された『中華人民共和国体育史』

 

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〇楊祥全、楊向東『中華人民共和国武術史』

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その点、この本の205ページから237ページの建国初期、文革期の史料を集めた部分は、「新体育」などの雑誌記事からの抜粋が多数収録されていて、とても参考になった。

武術における「舞」の要素をどのように理解するかという点に関する、蔡龍雲の主張とその他の論客の反論のほかに特に面白いと思ったのは、(上記のように)王新午の論(「開展武術運動的一些意見」)が共産党批判と曲解されて政治問題化し、糾弾されてゆく過程(注1)、綿拳の改造(バレエの要素を取り入れたことが議論を呼んだ)についての温敬銘の苦言と藍素貞の反論(注2)など。

 

それぞれ部分的引用で、全文掲載ではなく、かつ漢字の変換ミス(「武術」が「誤叔」「無叔」になっているような考えられないミスも)や、同じテキストが二重にでてきたり(コピペの間違い?)、いまいち参考資料としての信頼性に欠ける部分もあるけれど、ないよりは全然マシだし、檔案資料などは、そもそも自分のような素人外国人が閲覧の機会を与えられたとしても、膨大な資料の中から必要箇所を探すことすら難しいと思うので、とても有難く、かつ刺激的だった。

こういう史料を見るにつけ、武術史についてますます興味が湧いてくる。そして妄想は続く(笑)

  

 (注1)

王新午への個人攻撃は、『武術運動論文選』(1958年)などでも、王の論文は掲載せず、糾弾するような文章だけ掲載する形で露骨に行なわれている。

 

(注2)

「早在1953年,蓝素贞表演的绵拳就得到了人们的重视。1957年,蓝素贞将自己演练的绵拳整理成书并由人民体育出版社出版。温敬铭在详读了该书后,对蓝素贞这种勇于创造的精神和基础功夫颇为钦佩,但对她创造的方向有不同的看法。他认为“现在整理研究武术是在老树上发新芽”。而蓝素贞的绵拳,六段36个动作,除第二段还像拳术外,其余五段都是把武术的动作芭蕾化了。温敬铭认为这种创造方式是砍掉老树接新枝,已经将武术改头换面,绝对不可能保留武术的特点。
1958年,蓝素贞专门撰写了《从改编绵拳谈对武术技术的看法》一文,在该文中蓝素贞认为:“武术技术是技击、体操和武舞的综合体。三者是不能分割的,但成分的轻重,不是等量配合的。因而才能形成各个拳种内容的不同和概念的区别。”发展到今天,“武术作为军事技术和自卫的作用基本上是消失了。因此,今后在整理武术的技击内容方面……只能以它为手段,以达到强身的目的”,“唯技击论的观点是不符合实际情况的”。 」
楊祥全「根基乍立——新中国武术史之一」

 ◎藍素貞の『綿拳』

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武術競技の国際化(国際武術聨合会 呉廷貴取材記事)

現代中国武術事情 オリンピック競技種目化 人物

国家体育運動総局のウェブサイトに、国際武術聨合会執行副主席の呉廷貴(Anthony Goh)への取材記事(中国体育報からの転載)が掲載されたのでメモ。

呉廷貴は米国籍の華人

GKF - History

 

記事によると、国際武術聨合の会員は現在147(記事によれば、それに対して空手は180以上)、2年に一度の世界大会には約80の国と地域が参加、という状況らしい。2017年のユニバーシアード台北大会で中国武術ははじめて正式競技化され、アフリカ競技会、2019年のパンアメリカ競技大会での正式種目化、地中海競技大会などの大型競技会での競技種目化を目指すという。

 

2015年、コンゴで開催されたアフリカ競技会の開幕式では中国武術が取り上げられたようだけれど、この記事によると正式競技化はされていなかったようだ。

 

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 国际武联执行副主席谈武术国际化和发展
发布时间:2017-02-09 来源:中国体育报 作者:蒋亚明 
  去年底,第八届世界杯武术散打比赛在陕西西安举行,这也是国际武术联合会全年举办的重要赛事之一。“把我们的会员协会建设得更有实力,实现武术项目的全球化均衡发展,是国际武联在推广武术进程中的重要策略。”国际武术联合会执行副主席吴廷贵在谈到武术国际化和发展时,这样表态。
  实现全球化均衡发展
  对于武术来说,散打和套路是最主要的两个项目,国际武联在推广武术的进程中,也是将这两个项目作为一个整体统筹考虑的。吴廷贵介绍,目前国际武联采取的推广方式包括增加自身会员、举办国际性赛事等多种途径。
  据了解,国际武联现有147个会员,在它所举办的赛事中,世锦赛每两年举办一届,每届都有80多个国家和地区参加;青少年世锦赛则一般有40-50个国家参赛。目前,这样的赛事规模和局面与其他一些国际体育组织还有一定距离,例如空手道项目的国际组织有180多个会员,而且他们的组织历史更悠久、各成员国的实力更均衡。
  吴廷贵表示,在这样的情况下,国际武联希望给予自己的会员协会更多技术、器材、培训、参赛等各个方面的支持,把会员协会建设得更有实力,从而实现武术项目的全球化均衡发展。“我们希望武术项目能够进入各个国际性或区域性的国际赛事中,2017年的世界大学生运动会上,武术项目将第一次进入比赛项目,对于国际武联来说,这也是一个里程碑,因为世界大学生运动会是仅次于奥运会的国际性综合运动会。”他说。
  实际上,2009年武术项目已经进入了世界运动会比赛项目,2013年则再次入围。目前,国际武联希望能成为世界运动会的永久会员,让武术项目成为它的永久项目。吴廷贵还透露,国际武联正在争取成为非洲运动会、2019年泛美运动会、地中海运动会等大型区域运动会的比赛项目。“如果实现,在正式进入奥运会之前,武术在国际上、区域上的重要运动会中都是其正式项目,这将有力地帮助武术的国际化推广。”他表示。
  加强国际宣传与项目改革
  目前,国际武联在宣传上的投入和精力正逐渐放大。但吴廷贵坦言,过去与其他的运动项目相比,作为非奥运项目的武术,在国际宣传上确实比较薄弱。他介绍,国际武联现在正致力于加强作为一个国际单项组织的宣传,例如2016年的武术散打世界杯赛事上,国际武联就邀请了欧洲的一个制作公司作为赛事转播合作伙伴,通过多种不同渠道向全球实现网络直播。
  吴廷贵认为,散打世界杯这样的商业性武术赛事更能超越原有的武术关注群体,成为面向一般公众的一个很具有观赏性的赛事,而它也正是国际武联未来短期内想努力去做好的一个赛事。
  在奥运会以及整个国际大环境背景下,目前“性别平等”是一个很重要的议题。武术散打女子项目由于开展相对较晚,在推广上也更弱一些,因此导致了女子选手与男子选手在技术水平上的差距比较明显。这也是武术散打世界杯比赛中,男女选手在护具使用程度上有所区别的主要原因。
  但从2016年武术散打世界杯开始,武术散打项目的护具改革就开始实施。本届赛事上,男子选手的部分护具已经开始去掉。吴廷贵说,传统武术中,护具本身就很少存在,但作为一项体育运动,我们必须照顾到运动员的人身安全。
  但吴廷贵认为,对抗性项目中的严重受伤很多都是由于实力悬殊而产生的,男子散打项目发展相对成熟,能进入世界杯赛事的选手更是全球这个领域的顶级选手,他们具备了非常强和均衡的实力,去掉护具问题不大。但在女子领域,国际武联一直还不是很放心,所以可能还需要一段时间去观察。
  充分利用中国武术人才师资
  吴廷贵一直认为,在中国国内,作为一项运动,武术目前的地位与它的国际影响力还并不匹配。他说,武术源于中国,属于世界,作为在海外推广武术多年的美籍华人,自己深深了解中国武术在海外的受欢迎程度,“中国武术在国外受到广泛欢迎,大家都很喜欢,而且在中国那么多的文化中,只有武术不受语言障碍,普及性非常高。”
  吴廷贵介绍,在海外武术项目开展较好的国家和地区中,中国移民都普遍较多,例如上世纪后半叶,通过李小龙、李连杰、成龙等武术明星的宣传,中国武术一些拳种在海外得到了很好的宣传和推广。但在那些华人较少的国家和地区,武术项目的开展则没有那么好。近年来,吴廷贵先后到过非洲的突尼斯、刚果,他发现那里武术基础确实比较差,而且那里也基本上没有中国人教拳。
  去年,中国武协主席张秋平提出,希望能将武术退役运动员作为武术推广的师资人才,派赴海外进行武术教学。吴廷贵表示,国际武联非常赞赏这样的思路,也希望与中国武协合作,提供相应的语言培训,“我们可以借鉴早期华人在海外通过‘餐厅英语’进而掌握当地语言的经历,首先学会‘武术英语’,从而可以先出去进行武术教学。”
  他说,国际武联目前具备这样的能力,可以帮助中国的退役运动员出去,在全球范围推广武术。并且,对于那些无法解决经济问题的运动员,国际武联也可以提供相应的帮助和扶持。吴廷贵说,在中国,武术人才济济,但是国内的竞争也非常激烈,向海外推广也为这些武术人才提供了更多发展的空间。

http://www.sport.gov.cn/n317/n344/c788216/content.html

 

彼が代表を務めているのかどうかわからないけれど、U.S.WUSHU CENTERのコーチは 元北京チームの兪紹文と、元福建チームの高佳敏が勤めているらしい。兪紹文の長拳は、ロードショー公開された「ドキュメント 燃えよカンフー」でも紹介されていて、いかにも北京チームらしいきびきとした長拳で素晴らしかった。

 

www.uswushu.com

 

兪紹文の長拳

www.youtube.com

 

〇高佳敏

www.youtube.com