中国武術雑記帳 by zigzagmax

当世中国武術事情、中国武術史、体育史やその周辺に関する極私的備忘録・妄想と頭の体操 。頭の体操なので、たまたま立ち寄られた方は決して鵜呑みにしないこと(これ、肝要)※2015年2月、はてなダイアリーより移行

ロバート・ビッカーズ『上海租界興亡史 イギリス人警察官が見た上海下層移民社会』など

ロバート・ビッカーズ『上海租界興亡史 イギリス人警察官が見た上海下層移民社会』は、新年早々、調べたいことがあって行った地元の図書館でたまたま見つけた本だけれど、第一次世界大戦でフランス戦線に参加し、除隊後、上海に赴任したモーリス・ティンクラーを中心に、上海の共同租界や大英帝国の底辺を支えた人々にスポットを当てるという、とても興味深い内容だった。


上海共同租界の治安維持のための暴力装置としては、上海防衛隊(shanghai defence force 1927年設立)を除くと、この本でとりあげられている工部局警察と万国商団のふたつがあったと考えたらよいのだろうか。
「工部局」とか「万国商団」とか、なんだかよくわからない漢字があてられているけれど、「工部局」はShanghai Municipal Council で、共同租界の行政機関のようなもので、その下に設けられた警察機構が工部局警察。

「万国商団」はShanghai Volunteer Corps で上海義勇隊ともいい、共同租界の軍隊のようなもの、ととりあえず理解しておく。

 

上海租界興亡史―イギリス人警察官が見た上海下層移民社会

上海租界興亡史―イギリス人警察官が見た上海下層移民社会

 

 

〇上海の租界の地図(1930)

 川合貞吉『ある革命家の回想』より

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さらっとしか触れられていなかったものの、柔術中国武術を学び、「ディフェンドゥー」、「サイレント・キリング」に大別されるフェアバーン・システムをまとめるウィリアム・E・フェアバーンは工部局警察にいたようで、この本の主人公であるモーリス・ティンクラー(上海でフリーメーソンのエリン会所メンバーになる)が1919年に上海に到着したころは警官の訓練を行っていたらしい。本の趣旨とは離れるため、1907年に上海にわたった彼が学んだオカダなる柔道家についてはとくに触れられていなかったけれど、上海における柔道道場は、帝国尚武会の野口清が1910年に設立したものが最初という説が正しければ、フェアバーンがオカダに学んだのは個人的に教えを受けたものか。

1929年10月1日、酒を飲んだティンクラーは夜勤の詰め所に現れて爆竹の束に火をつけて、大勢の警官が寝入っていた複数の部屋に投げ込み(このとき、ティンクラーは私服警察から征服警官に格下げされていて、ヤケになっている)、翌朝「貴様は警部補の風上にもおけない面汚しだ。貴様は俺をコケにしようとたくらんだな。この部隊の副隊長格と目されていた貴様だが、もう許さん。貴様をわざわざこの部隊に抜擢してやった恩を仇で返したというわけだな」と当時の上司であったフェアバーン に言い渡される(P.176)などのエピソードを含めて、フェアバーンは数ヵ所に登場するのだけれど、巻末の索引ではP.64の一箇所だけしか記されていないのは残念な気がする。

かれが「中国武術」をどうやって学んだのか気になるところだけれど(技術的な観点から、八卦掌の崔振東だという説がある模様。たとえばここ)、警察官が中国人の同僚と親密な関係になることはタブーだったようで(中国人補助員(「華補」)の氏名すら共有されず、番号で認識されていたらしい)、彼が誰に何を学んだのかが史料から明らかになることはないのかもしれない。

ちなみに、中国人同僚の多くは山東省出身者だったという。上海人が採用されなかったのは「この土地にあまりに多くの関心を持ちすぎている」と考えられていたからだという(P.74)。

武装強盗」も跋扈する租界において、工部局警察が工夫したのは「防弾楯」と「訓練プログラム」で、「楯は有効だったが、モーゼル銃を防ぎきることはできないので、警察が素早く、最初に、より多く撃った」(P.108)という。

 

フェアバーンとオカダ

出典:Fairbairn' Books & Other Period Literature

 

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もう一方の「万国商団」については、この本の中ではあまり触れられていないけれど、設立は1853年と古い。のちに万国商団中華隊にメンバーを供給する華商体操会は1905年の設立。

華商体操会は共同租界の万国商団にメンバーを提供したけれど、上海市南部(共同租界は北部にある)では、中国人資本家が自分たちの利益を守るために、万国商団にならって、彼ら自身の「武装力量」(注1)として、上海商団を組織する。

上海商団は「体育団体」として活動を行っていた滬学会体育部、商業体操会、商余学会、商業補習会、滬西体操会の五つの体育会が1908年にまとめられて上海南市商団公会となったもの、という理解でよいのかな。

精武体育会が設立されるより前に、上海においてこのような体育(操)団体が作られていたこと、とりわけ、おなじように「体育」「体操」を名目としながら、実際には商人により結成された地方武装団体であったことは、初期の精武体育会の性格を考えるうえでも注目に値すると思う(注2)。

 

そして、上海の流れに対応するように周辺の各地で商団が設立される。具体的には

常州、苏州、无锡、硖石、浏河、濮院、平湖、周浦、界沟湾、张家楼、塘桥、烂泥渡、高行镇、大场等处」で商団が設立され、それらの連絡調整のために、1911年3月、全国商団聨合会が形成される。滬北商団体操会(万国商団中華隊の対内名称)もこれに加わっている(注3)。各地で作られた商団のなかで、たとえば平湖商団の中には、のちに中華武術会を作る呉志青がいる。

そういう目で 中華武術会の設立当初の会長、副会長の名前をみると、以下のように上海商団や、上海総商会の人脈と繋がっているような気がする

 

蘇本炎(筠尚)(初代会長)は商業補習会の組織者 上海総商会会長

葉恵鈞(第三代副会長)は全国商団聨合会の副会長

王一亭(第三代、第四代会長)は上海総商会会長

于右任(第四代副会長)人脈的に李平書、葉恵鈞らと繋がる

 

今後はこのあたりのことも視野に入れてゆきたい。

 

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かなり掲題の本の中身から脱線したけれど、最期に、冒頭の本に少しだけ戻ると、

ティンクラーやフェアバーンのほかに、ほんのわずかながら

・ボクシング指導員の職を求めて(英国?)海軍を除隊するがこれに失敗、工部局警察に入隊するが、5ヶ月後に流血横丁(Bloody Alley 朱葆三路 現在の渓口路)にあるカフェでホステスと殴りあいを演じ、入隊取り消しになったアレクザンダー・クライトン(P.216)

・英国工兵隊や香港経由で上海にやってきて、クラブの所有者やボクシングの興行主になり、「中国人や日本人関係者の仲介人として、うさんくさい投機事業に首を突っ込み」、(警察から?)盗品を受け取った疑いをかけられていたというカルカッタ生まれのイギリス人・ジェリー・モーガン(P.230)

・日本人に似ていたために中国人に袋だたきにされるフィリピン人拳闘家(氏名不明) (日本軍占領統治下の上海では、このような、「中国人による日本人のみならず朝鮮人や他の不運な人間、に対する自然発生的襲撃」(P.248)がおこっていたらしい。)

 

などがでてくるところも興味深かった。

 

ティンクラーその人は、最期は租界の外にある浦東地区のイギリス企業で警備のような仕事をしているときに死亡する。彼の死は複雑な背景があるようだけれど、日本との間で外交問題にまでなっており、重い。

 

〇万国商団

zh.wikipedia.org

 

〇華商体操会設立者の虞洽卿について

wemedia.ifeng.com

 

 

〇上海商団

www.baike.com

〇上海商団の代表者 李平書と日本の関係について

 薄培林「李平書と20世紀初頭の日本」

szb.pudong.gov.cn

 

 

 

注1

「…这些以体操命名的团体,实际上并纯粹的体育团体;它们的发展也可以证实这一点,因为很快它们就改旗易帜,不以体操会命名了 (郎净『近代体育在上海 (1840-1937)』P.117)」。

 

注2

この点に関して、華商体操会設立者の虞洽卿は同盟会会員であり、同じく同盟会員で精武体育会(最初の名前は精武体操学校)の設立者の一人・陳其美の活動に資金援助を行っていることや、1911年に精武体育会が移転した先が「万国商団中華義勇隊旧址」であることが気になる。陳公哲の『武術発展史 精武会50年』をみると、会員の王維藩は万国商団中華隊の団員である関係で、旧址の利用にあたり、本来は年租300金のところ、200金にしてもらっていることがわかる。

また精武体育会第二分会は、「南市商団会員」によって、商団会所の中に設立されている。郎净上掲書P.134

 

注3

郎净『近代体育在上海 (1840-1937)』P.117-119