中国武術雑記帳 by zigzagmax

当世中国武術事情、中国武術史、体育史やその周辺に関する極私的備忘録・妄想と頭の体操 。頭の体操なので、たまたま立ち寄られた方は決して鵜呑みにしないこと(これ、肝要)※2015年2月、はてなダイアリーより移行

火焼少林寺 石友三、樊鐘秀、少林寺保衛団など

にわか勉強で前提知識がなさすぎるので、うまく纏められていないけれど、とりあえずの備忘録として。

 

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軍閥混戦の時代、少林寺に火を放ったのは石友三と蘇明啓。

石友三は、以下の記事によると、多くの軍閥の中でも「寝返り(倒戈)」の回数が多く、挙句のはてに日本と結託しようとして、最後には蒋介石の密命を受けた義兄弟の高樹勲によって生き埋めにされたらしい。

www.xuehua.us

 

石友三の変節ぶりは日本語版ウィキでも読みやすく纏められている。

石友三 - Wikipedia

 

ちなみに、彼が火を放ったのは少林寺の法堂。その翌日に、同じく馮玉祥麾下の旅長の蘇明啓が天王堂、大雄殿、緊那羅殿、六祖殿、閻王殿、竜王殿、鐘鼓楼、香積厨、庫房、東西禅堂、御座房等に一気に火を放ったとされるけれど、石友三に較べると、蘇明啓について書かれた記事はあまり見つけることができない。

 

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一方、少林寺を根拠に石友三らと対抗していたのは樊鐘秀。

 

〇日本語版ウィキの樊鐘秀の項目

樊鍾秀 - Wikipedia

〇「河南文物網」の紹介記事

樊 钟 秀

 

彼の経歴もかなり複雑で、上にリンクを貼ったウィキや河南文物網のような記事を見ても、どういう人物なのかすぐにイメージすることができない。

 

このブログの観点からいうと、まず13歳の頃(1888年生まれなので、1901年ごろのことか)、少林寺で拳棒を学んでいるらしい点は見逃せない。

以下の記事のように、彼が師事したのは恒林大和尚で、恒林の後を継いで保衛団を率い、軍閥混戦のなかで奉軍の一翼を担うことになる妙興は彼にとっては「師弟」であったと書いている記事もみられる。

www.lishiquwen.com

 

その彼が辛亥革命後、指名手配されることになるのは、日本語版ウィキの記事では、「河南省で挙兵していた革命派の王天縦の代表をつとめた」ためだけれど、「河南文物網」の記事では同級生の徐万年の要請(同学徐万年的邀请)によって武漢にゆき、豫軍総司令李東亜の組織した北伐軍に参加したためだと記されていて、食い違いがある。

百度百科の記事などでは、この李東亜のことを「少林拳友」と書いていたりして、このブログ的にはそのほうが面白いのだけれど、実際のところはよくわからない。

 

いずれにしても指名手配を受けた樊鐘秀、故郷の河南省を離れて陝西省で山賊になったかと思うと、陝北鎮守使によって正規軍に組み入れられて陝西省反政府軍(胡景翼の靖国軍)鎮圧を命じられ、正規軍として彼らと戦うかと思うと、逆に彼らと結んで河南に戻り、北洋政府が靖国軍の鎮圧のために奉軍(許蘭洲)を陝西省に派遣すると今度はこの奉軍に身を寄せ、再び河南にもどっては河南督軍(趙倜)に降り、馮玉祥が河南督軍を追い出すと、呉佩孚に身を寄せ・・・やがて広東の孫文に身を寄せる、という動きをみせる。

葉曙明『山河国運:近代中国的地方博弈』などはその見境いのなさを批判的に記しているけれど(P.188-189)、孫文の側についたあとは、その期待を裏切らず、危機を救うなどして、高い評価を受けている。

 

ちなみに、彼と少林寺の関係でよく知られているのは、1922年に奉軍の呉佩孚麾下の張玉山の河南暫編第四団団長として少林寺に軍を休めたときに、大雄宝殿が荒れたままになっているのをみて四百銀圓を寄付したとされること。これによって寺衆との関係が生まれたと紹介しているものも少なくないけれど、13歳で少林寺で拳棒を学んだという説が正しいとすれば、この説明とは明らかに矛盾する。

 

故事应该从民国十一年(1922年)第一次直奉战争时说起,直系吴佩孚(1873~1939年)部师长张玉山至登封,意在收抚陈青云、任应岐的部队。

张玉山手下的河南暂编第四团团长樊钟秀途经过少林寺打间休息,因见大雄宝殿残破,发善心欲修补,因军务繁忙,没有时间精力放在这里,于是暂时捐赠四百银圆,打算用来购买物料之需。寺中大众非常感激樊团长,因此而与樊钟秀时有联系。

https://kknews.cc/history/p5nqkbe.html

 

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石友三と蘇明啓が少林寺に火を放ったとき、彼らはともに馮玉祥の配下にあった。樊鐘秀は彼らによって根拠地とした少林寺を焼かれ、一時軍界を退いたようだけれど、その二年後の「中原大戦」時には旧部下を集めて馮玉祥の部隊に編制され、許昌での戦いにおいて、国民党の爆撃によってなくなっている。

北伐軍の一部だったはずの彼が馮玉祥に身をよせて国民党と戦うことになる事情や彼の行動原理は今の自分にはまだ理解できない。

「中原大戦」のときには石友三と樊鐘秀はともに馮玉祥の側にいたようで、だったら少林寺はいったい何のため、誰のために焼かれなければならなかったのかという気もしてくる。

 

前後の状況を少林寺の側から見ると、奉軍の一翼として、クリスチャンとして知られる馮玉祥の勢力が河南に広がることを防ぎながら、少林寺とゆかりの深い樊鐘秀にも加勢して、その庇護を受けようとしていたようにも見えるし、樊鐘秀としても、かつての関係を利用して少林寺の勢力を取り込み、奉軍を切りくずそうとしていたのかもしれない。

このあたりの事情については、 まだわからないことばかりだけれど、様々な思惑が交錯した結果、少林寺に火が放たれ、武術のみならず多くの貴重な遺産が姿を消してしまったという事実は変わらない。

とても重要な出来事のはずだけれど、その割には、あまり正面きって書かれたものが無いような気もする。

 

2018年がそろそろ終わろうとしているけれど、来年以降、そのあたりの状況にも注意をむけてゆきたい。

 

1928年以前の少林寺の写真はここ。

古いものは1907年、フランスのシノロジスト、エドゥアール・シャヴァンヌが撮影した7枚の写真。shaolin-monastery.blogspot.com