中国武術雑記帳 by zigzagmax

当世中国武術事情、中国武術史、体育史やその周辺に関する極私的備忘録・妄想と頭の体操 。頭の体操なので、たまたま立ち寄られた方は決して鵜呑みにしないこと(これ、肝要)※2015年2月、はてなダイアリーより移行

馮驥才『神鞭』『鷹拳』など

掲題の小説の日本語訳が古本で安く手に入ったので読んでみた。

 

〇『神鞭』井口晃 湯山トミ子訳 北京外文出版社

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『神鞭』は天津の市井を題材にした「怪世奇談」三部作の一つで、のこる『陰陽八卦』、『三寸金蓮』(文庫版では『纏足』と改題)も邦訳が出ている。日本語版『陰陽八卦』 のあとがきで、作者は以下のように述べている。

・・・私は、中国文化の弊害の根本を三段階に分けました。その一は保守性、二番目は自己を束縛する力、三番目は自己を封鎖するシステムで、それぞれに伝統的文化を特徴づけるものを象徴とし、順次、三部の小説を書き上げました。それは『神鞭』、『三寸金蓮』そして『陰陽八卦』です。

『陰陽八卦』「日本語版によせて」

そして、それぞれの作品の特徴を

・・・『神鞭』は中国人の文化の欠点について描き、『三寸金蓮』は中国人の文化による束縛を描いた。『陰陽八卦』は中国の封建的な文化の閉鎖システムと神秘性、その魅力、そして荒唐無稽なさまを描いた。・・・

『陰陽八卦』「文庫版あとがき 書外のことば」

といっている。

 『陰陽八卦』は直接武術とは関係ないけれど、渾元気功使いの「青目」や同じく気功使いの劉老師はじめ、個性的な登場人物が多く、訳もこなれていて読みやすかった。『纏足(三寸金蓮)』はとりあえず古本を入手して、読むのはこれから。

 

陰陽八卦―中国怪世奇談 (小学館文庫)

陰陽八卦―中国怪世奇談 (小学館文庫)

 

  

纏足―9センチの足の女の一生 (小学館文庫)

纏足―9センチの足の女の一生 (小学館文庫)

 

 

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老舎の『断魂槍』で、沙子龍は秘伝の槍術を伝えない理由を語らないけれど、『神鞭』の主人公・傻二が技を人に教えないのは「人に知られると、たちまち災いを招く」から、「どうにもならなくなったときでなければ、決して使っちゃいかん」という父の教えを守っているため。ある事件で、この教えに背いて技を披露してしまうことでさまざまな騒動に巻き込まれ、義和団にも参加し、散々な目にあったあとに、最後は先祖伝来の「神鞭」を棄て、二丁拳銃に鞍替えする。

以下は、因縁浅からぬごろつきの玻璃花から、「おい、おまえはご先祖が残してくれた「神鞭」を切っちまったのか?」と問われた傻二のこたえ。

それはちょっと違うな!うちの先祖がどんなきっかけで弁髪技を編み出したか、それがわかれば、俺が先祖の本当の技量を受け継いだんだってことがわかるさ。ご先祖のものがどんなに立派でも、切るべきときには切らなきゃならん。俺は「鞭」は切って、「神」を残した。これがつまり、どう変化しようとわれらは不滅だということだ。どんな新しいしろものでも、ちゃんとものにすれば他人に敗れることはない。・・・」

傻二の先祖のことを知る劉四叔の説明によると、傻二の家にはもともと仏門拳の流れを汲む頭の技がつたわっていたのだという。その技は、対戦するときに相手に髪をつかまれないために頭を丸坊主にしておかなければならないため、清の時代になって弁髪を結わなければならなくなったときに、祖先の一人がそれまでの技を捨て、弁髪を使う技に変更したのだった。それを考えると、傻二が弁髪を二丁拳銃に持ち替えるのも、先祖がやったのと同じ選擇であったといえる。

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 『神鞭』には短編「鷹拳」が収録されていた。この作品の鷹拳使いの老人も、人助けのためとはいえ、技を披露してしまったことを深く後悔して、老人から技を学びたいと願う人々を避けるように姿を消す。ある日、たまたま老人を見分けた錫五に対して、老人は最初は人違いだといって逃げようとするけれど、しらを切りとおせないとわかって最期に次のように語る。

「本当のことを話そう。武術にはほんものとにせものとがある。にせものは身体を強健にするから、学んでも差し支えはない。だが、ほんものは人の命をそこなう。心が正しくないと、逆に邪悪な術となってしまう。だから、わしは自分の技を、これまで人には伝授しなかったのだ。わしは一生、その術を使って人を傷つけたことがなかった。わしと一緒に棺桶のなかへ持っていくつもりだったのに、この歳になって思いがけず人を傷つけることになった。事の成り行きにせまられて、ちょっと技をひけらかしてしまったのだ。われら中国人にも絶妙な神技があるのだと、毛唐どもにわからせたかっただけのことだ。いいか、わしは術こそ伝えぬが、思っている事は洗いざらい話してきかせた。まあ、よく考えておくことだな…。」 

「先生…」

錫五は、なおもしつこくせがもうとする。

「話すべきことはすべて話した。もう話すことはない!」

 

 

伝えるべきもの、伝えるべき人、伝えるべき時…いろいろと考えさせられる連作だった。

いまの、ある意味古典芸能化した「伝統武術」は、本来の武術の「神」を残せているだろうか。 

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ちなみに、楊祥全『津門武術』によると、天津を舞台にした武侠小説の作家には、宮白羽(1899-1966)や鄭証因(1900-1960)がいる。宮白羽の書いた最初の武侠小説『青衫豪侠』の内容は、『津門武術』によると「映射媚日漢奸褚民誼」ということで、褚民誼について描かれているようで、いつか機会があれば読んでみたい。

鄭証因は許禹生に太極拳を学んでおり、地元では、作家としてよりも「武術をこころえていて、子供のいない変わり者(会点把式,无儿无女的怪人)」として評判だったようだけれど、この人の代表作は『鷹爪王』。未読だけれど、馮驥才の『鷹拳』はそこから何かインスピレーションを受けたりしているんだろうか。これも気になる。

 

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〇1986年の映画『神鞭』の予告編

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