胡奉三、葛月潭、千山の無量観など
百度の胡奉三の紹介に、やや唐突に「内外拳法の長所を集めて・・・」とでてくるのが不思議だと思っていたら、当時の東北地方の道教の領袖で奉天(瀋陽)の太清宮の葛月潭方丈の紹介のなかに、胡奉三とのつながりが書かれているのを見つけた。
葛月潭和胡奉三是知己,胡先生向葛月谭道总学习道家的养生法,后融进了拳法中,武功大成
どのような間柄だったのか、詳しく調べてみないとわからないけれど、ともに張作霖の支持を得ている(胡奉三は、張作霖の三男の張学思の師)ので、そのあたりからのつながりだろうか。
〇胡奉三
葛月潭といえば、日本人馬賊の小日向白朗が千山の無量観で拳法を学んだことになっているけれど、小日向白朗が馬賊の楊青山に捕えられて馬賊になってゆく間、葛月潭は上記したとおり奉天(瀋陽)の太清宮にいたはずなので、やや辻褄があわないような気もする。
いろいろ調べてみると、渡辺龍策『馬賊』では千山無量観の葛月潭は「一九四八年に八四歳で他界した」(P.79)ことになっているけれど、太清宮の葛月潭は1934年に亡くなっているなどの矛盾も見つかる。(その遺体は千山無量観に葬ってほしいという遺志に基づき、翌1935年の春に、弟子の岳崇岱らによって、千山無量観に運ばれ埋葬されているなど(注1)、千山無量観と関連があるのは確か。)
いまのところ詳しい情報が無いものの、同書に、満州事変後、全満の馬賊の頭目たちが千山に登り、「葛月潭老師のもとに抗日救国を旗じるしにして、保衛団八五万が連帯した」(上掲書P.112)というのも、具体的にはどういうことを指しているのか、できればもう少し詳しく調べてみたい。
〇葛月潭
〇葛月潭
出典:葛月潭_百度百科
ちなみに、千山の無量観で武術修行した日本人としては、ほかにも「背負いの神本」とよばれた柔道家で神本利男(かもと としお)がいて、かれの場合は「張道順」なる師に、1933年から3年にわたって学んだことになっているけれど、この時期、無量観が抗日救国のメッカになっていたのだとしたら、直前まで満州国治安部に勤めていた神本利男が職を捨てて武術修行するなどということが本当に可能だったのか、とか、満州にわたるまえに拓殖大学予科でイスラム文化を学んだ神本がなぜ職を捨てて道教の修行をしたのか、などの疑問がわいてきて、額面どおりに受け取ることができない。仮にそれが無量観訪問や武術家との接触についての事実を含んでいるとしても、何らかの事情で隠密行動していたことを「千山で修行していた」と称しているような気もする。ちなみに、三年間の修行を終えた神本は図們国境警備隊の琿春分遣隊主任を経て帰国、陸軍中野学校で学んだあと、再度の満州赴任を経てマレー半島で諜報活動に従事している。
その辺にあまり深入りするつもりはないけれど、もし千山の無量観やその周辺に武術の伝統があったのだとすると、その武術はいまでも伝わっているのかどうかはこのブログとして気になるところ。
以下の記事によると、千山のある鞍山市あたりは満州事変に先立つ義和団事件の頃、それに呼応する形で、当地の「義和団」とロシア軍の衝突があったようだし、大連やハルピンと同じように、ここにも武術家を含む山東や河北からの移民がはいっていたと思われ、中には武術を伝えていた人もいたのだろう。(葛月潭も山東省邱県(現在は河北省邯鄲市に属する)の人。)
今後のあしがかりとして、この地方の「非物質文化遺産」として登録されているものをメモしておくと、遼寧省の省レベルのものは以下のとおり。
第二次リスト
第三次リスト
序 号
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编 号
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项目名称
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申报地区或单位
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22
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Ⅵ-3
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大刀张举刀拉弓杂技表演艺术
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锦州市
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第四次リスト
序号 | 编号 | 项目名称 | 申报地区或单位 |
11 | VI — 5 | 沈阳北市“摔跤” | 沈阳市和平区 |
12 | VI — 6 | 蝗螂拳 | 沈阳市皇姑区 |
15 | VI — 9 | 通背拳 | 沈阳体育学院 |
16 | VI — 10 | 鸳鸯拳 | 沈阳体育学院 |
次に、周辺の市レベルのものとしては、(多分漏れがいっぱいあるけれど)以下のようなものがある。
〇鞍山市
〇営口市
胡氏戳脚拳、元功拳
http://www.yingkou.gov.cn/zjyk/ykmp/fyml/201703/t20170323_1150938.html
http://www.yingkou.gov.cn/zjyk/ykmp/fyml/201703/t20170323_1150537.html
〇錦州市
少北拳、太和区平和(少林)武术
〇大連市
金州梅花螳螂拳(六合棍)
大连五行通背拳
金州武当太乙四形桩内功
金州长拳短打
金州七星螳螂拳之手梢子
金州七星螳螂拳之牛郎棍
金州七星螳螂拳之八快手
金州七星螳螂拳之梅花路
金州七星螳螂拳之赤手穿掌
金州七星螳螂拳之白云追风剑
金州七星螳螂拳之三十六式双手带
王家武术之九节鞭
のちに李景林が学ぶ宋唯一の武当剣などはいまひとつ脈絡が見えてこないのは気になるところ。
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千山無量観に話を戻すと、1931年当時、金誠澤が監院を務めている。金誠澤はのちに、葛月潭の後を継いで奉天太清宮の方丈となった紀至濦(注2)の後任として奉天太清宮の方丈になり、1943年には黒龍江双城の無量観で行われた伝戒で律師を務めている。この双城の無量観は満州国の文教部によって「特殊寺廟」に指定されており、1943年の伝戒は特殊寺廟の規定に基づいて行われたらしい。
このあたりはまったく予備知識がないけれど、葛月潭やその後継者について調べてゆくと、いろいろと見えていなかったものが見えてきそうな気がする。
さしあたってとっかかりになりそうなリンクを貼りつけておく。
民国时期的全真道传戒活动考述
http://www.taoist.org.cn/showInfoContent.do?id=2509&p=%27p%27
东北高道刘明哲述评
(注1)
たとえば、毎日頭條の「葛月潭-千山之葛公塔」によると以下のとおり。
葛月潭逝世后,弟子邢真澈、刘伟华等讣告于世,并在沈阳斗姆宫,给他大办水陆道场。一连七天,前来赴会吊唁者达数千人,可见人们对他的崇敬和缅怀之情。 葛月潭的遗体于1935年春,由弟子岳崇岱等护送至千山无量观,依礼安葬于葛公塔下。
(注2)
1939年に「満州国道教総会」が成立すると、奉天太清宮の纪至濦方丈が会長、金誠澤と馬崇還は副会長となる。「満州国道教総会」はネットで検索しても日本語の情報がヒットしない。
1938年,伪满洲国民生部厚生司指令沈阳太清宫发起筹备伪满洲国道教总会[9],与全国性的中华道教总会[10]分离。1939年重阳节,于伪新京特别市(今长春)正式成立。同年刘明哲受邀在伪满道教总会当常任干事。总会会长是太清宫方丈纪至濦,副会长是太清宫监院金诚泽和闾山海云观监院马崇还,以下有若干名干事和几名常任干事。常任干事有刘明哲、铁刹山三清观房理家、沈阳南极宫许理霖、闾山海云观孙高苑等。刘明哲在该会工作将近五年,前两年当常任干事,后又晋升理事,最后晋升副会长,任期一年。