中国武術雑記帳 by zigzagmax

当世中国武術事情、中国武術史、体育史やその周辺に関する極私的備忘録・妄想と頭の体操 。頭の体操なので、たまたま立ち寄られた方は決して鵜呑みにしないこと(これ、肝要)※2015年2月、はてなダイアリーより移行

清代陝西塩商と会党と武術  楊宝生・王培仁「走近紅拳的大師們」など

四川省自貢市は塩の都といわれ、岩塩が有名だけれど、ここの塩田は陝西省の商人たちが開発をしていたらしい。

四川の塩田の関係者10人中7~8人が秦人であったともいい、現在自貢市にのこっている塩業歴史博物館も、もともと陝西商人の同郷会館であった建物らしい。 

楊宝生・王培仁の「走近紅拳的大師們」によると、この同郷会館(西秦会館)に残る「演武場」、「献技楼」では、かつて鷂子高三こと高占魁が「献技」したのだという。

 

〇自貢の西秦会館(自貢塩業歴史博物館)

 出典:《话说陕商》数据库_陕西省图书馆

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〇自貢の西秦会館の献技楼

出典:《话说陕商》数据库_陕西省图书馆

 

 それだけではなく、同文章によると、高占魁の祖先も商人で、湖北の沔陽でタバコを売ったり(于湖北沔阳为菸商)、四川の成都で質屋を営んでいた(开当铺于成都)が、「三世祖」が自貢の四大塩商のうち2家の共同出資を得て「天子井」の開発に成功、巨額の利益をあげ、塩の輸送から石炭、陶磁器の輸送に業務を拡大したのだという。

詳しく調べる必要があるけれど、高占魁の武術が成都重慶で広がっていることも、こうした一族の商業活動と関係があるのかもしれない。

もし、こうした陝西商人の活動の中から高占魁が出てきたという仮定が正しいとして、そのことは徽商の中から程宗猷がでてきたことと似ているようにも見える。 

 

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なお、「走近紅拳的大師們」によると、張集馨『道咸宦海見聞録』にでてくる「探弁(密偵のようなもの)高占魁」は三原の高占魁と同一人物であるという。さらに同文章によると、高氏の門人の『高山史略』に、高占魁はこの記事の前年の同治二年(1863)に三原に滞在した固原提督雷正綰の部隊で武術教官を務めている。こうした点も、少林武術に通じた程宗猷が明軍の教官を務めたことと似ている(注)。

「走近紅拳的大師們」で気になる点としては、高占魁は表面的にはこうした官職をつとめつつも、本来は反清思想の持ち主で、裏では太平天国の石達開と呼応する計画であったという点。この辺については、すなおに受け止め難い部分もあり、さらに調べる必要があるけれど、陝西図書館の陝西商人の活動を紹介したサイト「話説陝商」で紹介されている李剛『陕西商帮史』からの以下の引用では、四川の袍哥のトップは伝統的に陝西商人が務めてきたと指摘している点が気になる。

陝西商人の活動や、哥老会と辛亥革命について少し調べてみたくなった。

 

 在明末清初,陕西商帮的发展获得了一个意外的因素,这就是李自成农民义军从京师挖掘的巨额银两通过各种渠道流到陕西商人手中,为陕西商人资本的原始积累注入了新的血液。明末李自成农民义军攻克北京后,设“比饷镇抚司”由刘宗敏、李过主其事,向豪强富室,达官显贵“追赃助饷,”获银七千万两,又从“旧库地坎中发掘黄白大锭无算,每锭重三四百金”(128),后吴三桂合兵三十万人,将收复京师,消息传来,农民义军将“敛内库银及拷掠所得并诸器物,尽熔之,千两为一饼,凡数万饼,以伺西奔”(129),到甲申年四月决定放弃京师“还都关中”后,“尽敛都中金帛千万,捆载西安”(130),“自京门达潼关千余里,日夜不绝道路”(131)。这些得自京师的脏银库锭流入陕西后,又通过各种渠道最终流入陕西商人手中,转化为商业投资。其形式有三:一是直接流入陕商手中,如大荔八女井的李姓商人资本家族,自明代以来就是远近闻名的富户,“相传他们的财宝是得自李自成的。李自成兵败退经八女井的王店,因有追兵,把元宝埋在地下,此元宝为李家所得”(132),成为八女井李家在清代继续兴盛的重要原因。二是通过反满组织间接流入陕商手中。1994年笔者赴四川自贡市做陕商资料跟踪调查时,曾访问了自贡市政协对自流井陕商素有研究的何元文先生,他告诉笔者:明末清初,顾亭林等反清志士和明王公贵族搞“反清”事业,从李自成携带到山西五台山的银两中筹措资金,等待多年,这些资金后来有一部分流入四川反清组织“袍哥”手中,在康熙年间被拿出来投资川盐运销,成为川省陕商资本的一个重要来源(133)。相应的佐证材料是入清后直到民国,四川“袍哥”组织的龙头老大基本上是由陕西商人担任的。如清末自贡哥老会的龙头大爷就是陕商会首常让侯。三是这些得自京师的货币财富作为流通手段,也会有一部分最终沉淀在陕西商人手里,增加了陕西商人货币财富的原始积累。

http://www.sxlib.org.cn/dfzy/hsss/ssls/201612/t20161205_496404.html

 

〇楊宝生・王培仁「走近紅拳的大師們」

 初出時期、媒体は不明。

blog.sina.com.cn

 

〇楊宝生についての紹介記事 

ren.wfeng.net

 

(注)黒岩高「械闘と謡言 ---一九世紀の陝西・渭河流域に見る漢・回関係と回民蜂起---」

 「…おしなべて回民は漢人に比べて尚武の気質に富み、団結心が強いとされるが、渭河流域の回民についても同様の印象を抱く漢人は少なくなかった。『臨潼記事』では回民について「勇猛果敢で結束力が強い」と述べられており、『平民志』にも、「咸豊十一年、河南巡撫巌樹林はたびたび要衝を襲撃する太平天国軍と捻軍に対する防衛に苦しんでいた。彼はもともと渭南の人で、回民が勇猛で死を恐れないことを熟知していたので、人を派遣して渭南・三原・涇陽一帯から回勇六百名を募集し、河南に呼びよせて直接指揮下に配した(43)」とある。このような回民に対する印象が地方官のみに限られなかったことは、在地の知識人の間で回民の性質について「団結心が強固である」と述べられ(44)、伝承中においてもしばしば「少数であるとは言っても、その性質は頑固で勇猛である」などと表現されていることにも窺うことができる(45)。さらに、同治元年に太平軍が侵入した際、各県の団練幹部たちが「勁勇」すなわち屈強の義勇兵を求めて回民義勇兵を募集したことは“勇猛な回民”という印象がいかに広く漢人の間に浸透していたかを物語っている(46)。」

と述べている。

「同治元年に太平軍が侵入した際、各県の団練幹部たちが「勁勇」すなわち屈強の義勇兵を求めて回民義勇兵を募集した」とは、まさに高占魁が同治二年(1863)に三原に滞在した固原提督雷正綰の部隊で武術教官を務めた状況と重なり、興味深い。

引用箇所に対応する注は以下のとおり。

(43)『平民志』巻一(『回民起義』Ⅲ 五九頁)

(44)劉東野『壬戌華州回変記』(近代史資料』一九五七年第二期、六六頁)

(45)『調査記録』一〇二頁。李蔚若(大荔県在住、漢族、五六歳)の供述による。

(46)鄭士範『忠義編』(『調査記録』三六三頁)中の記述によれば、鳳翔県では強兵を得るために回民を義勇兵として募集したとあり、また渭南県の同某(漢族)の供述によれば、趙権中の団練では、太平天国軍の侵入に際し、当初は回民の義勇兵ばかりを募集したという。(同前、六四~六五頁)

 

2020.4.12

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