中国武術雑記帳 by zigzagmax

当世中国武術事情、中国武術史、体育史やその周辺に関する極私的備忘録・妄想と頭の体操 。頭の体操なので、たまたま立ち寄られた方は決して鵜呑みにしないこと(これ、肝要)※2015年2月、はてなダイアリーより移行

三田村泰助『宦官 側近政治の構造』

新しい本ではないけれど、地元の図書館の蔵書にあったのを読んでみた。

宦官にまつわるさまざまな内容のほかに、恐妻家、男色、強精剤といった内容が含まれていて面白かった。

以下、このブログの観点から興味深かったについてメモ。

 

 1.恐妻家戚継光

映画『蕩寇風雲』でも描かれていた戚継光の恐妻家ぶりについて、この本でも紹介されていた。出典の記載は特になし。

 

 明の戚継光といえば、倭寇を平らげて、その威名、天下にひびいた名将であり、兵法家であった。その彼はまた、まれに見る恐妻家としても知られている。そうなったのは、ひとえに子供のためであった。その事情はこうである。

 彼が戦場にでて、軍法により余儀なくその子を斬った。これを聞いた夫人は怨みにうらみ、ついに妾をおくことを断じてこばもうと誓った。彼はどうすることもできず、やむをえず、ひそかに妾をかこい、十余年間に二人の子ができた。ある日そのことが夫人にばれてしまった。大いに怒った夫人は、妾と子供を存分に処分するというのである。彼は夫人に一日の猶予を乞い、急いで自分の部下である夫人の弟を呼び、つぎのように言った。

「母子とも無事なのを上策、母を出して子を内に入れるのが次策、もしわが子を殺すことがあれば、われは兵士をひきいてなぐりこみ、まずなんじの姉を、次になんじを、つぎになんじの一族をみな殺しにし、その後われは官爵をすてて逃げる。表門のところで太鼓で合図するから、はやく姉に頼め」

 弟は膝行し、姉に泣いて頼んだが、上、中策ともきかず、そのうち表にはしきりに太鼓がなるので、弟は泣きわめいて、「姉が死ぬはいとわぬ。しかしわが一族が滅ぼされてなろうか」と言ったので、さすがに姉も折れて、子供はひきとり、二人の妾は杖罰数十を加えて放逐した。その後数年して夫人は死に、さきの妾はふたたび元のさやにおさまった。世間ではさすがに戚将軍であると、その兵法のあざやかさを賞嘆したという。このようにして彼は家を絶やさなかったばかりでなく、彼が戦功によって賜った世襲職をあわせて子につたえることができた。PP.73-74

 

戚门王氏:被历史误解了的女性

说说戚继光的夫人-王氏_煮酒论史_论坛_天涯社区

 

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2.兵部尚書譚綸

 譚綸と戚継光のやりとりは映画『蕩寇風雲』のなかでも印象に残った場面のひとつだけれど、その譚綸は紅鉛丸なるあやしげな強壮剤の服用で命を縮めたらしい。

 

…世宗は道士陶文仲の伝える紅鉛の法というのが大変気にいった。そのため、文仲は大臣待遇伯爵という最高の礼遇をうけることになった。

 紅鉛の法というのは、十三、四歳の美麗端正な童女の月のものを金銀の器にとり、乳鉢に入れてこれに烏梅水を入れる。 烏梅というのは、半熟の梅の実をふすべて黒くしたものだが、これを七度乾燥したのち、乳粉、南蛮松脂、糞尿の粉末とまぜて火で練って作ったもので、紅鉛丸、あるいはきどって先天丹鉛ともいう。童女は病気をしたものとか男声や髪の毛のこわいものをさけるべしとある。この紅鉛丸は五労、七傷、衰弱にきくとされ、当時有名な強壮剤であった。

 明の中期以降は文化の爛熟期にあたり、これら強壮薬、媚薬のたぐいが世の中に氾濫したが、この粉鉛の秘法は、文仲から当時武勲の誉れたかい兵部尚書譚綸に伝わり、さらに鉄腕宰相張居正の愛用するところとなった。もっともこの二人は、過度の飲用のため命を縮めたといわれる。

 世宗は紅鉛丸をつくるため、北京の内外に勅命を出して、嘉靖三十一年には八歳から十四歳までの童女を三百人、同じく三十四年には百六人を宮廷に入れた。PP94-95

 

3.明代の火薬武器

明では火器だけは宦官が取りあつかい、戦争のときは、火器軍は一般の軍隊にないので宦官がひきいて行く。明廷が宦官を信用し重視した例の一つである。P.86

 

 この記述が気になって少し調べてみた。火器と宦官についての情報はあまり得られなかったものの、明軍の火薬武器の改良には、黎澄(胡元澄)をはじめとする安南人技術者の働きによるところが大きいことがわかった。当時の安南は火薬武器の先進地域だったらしい。以下のジェトロのレポートによると、火薬武器の技術者のほか、土木・河川技術者も大量に明に連れてゆかれたらしく、中には去勢されたものもいるらしい。そのなかで火薬技術者は家族ぐるみで連れてゆかれるなど優遇されているようにも見え、去勢のような処置をされてはいないと思われるけれど、それだけ特殊な分野であることは伺えた。

明軍が当時としては先進的な火器兵器を備えていながら、それを十分に活かせなかったのだとしたら、宦官やベトナム人技術者によって技術や知識が独占されていたということもあるのかもしれない。

 

〇「ジェトロ ベトナム人材調査 歴史と文化から見たベトナム人 ~人材育成と活用への心構え~」ベトナム歴史・宗教研究家 大西和彦 編著

https://www.jetro.go.jp/ext_images/jfile/report/07000672/report.pdf

 

〇 互动与反哺:历史越南火器对中国影响深远

 

 4.白蓮教と宦官

  白蓮教的な教えと清末の農民反乱、義和団事件、宦官との関係をさらっと書いた以下の記述も気になったので、今後時間があれば調べてみたい。文中の「橋川博士」については未確認。

 天理教というのは宗教的秘密結社である白蓮教の一分派をさす。白蓮教は弥勒仏の信仰をもとにこの世の手なおしをはかるという革命的宗教で、一般庶民に多くの信徒をもっていた。これが仁宗の初年に十年にわたって華北、華中をさわがす大乱をおこした。この乱が鎮定されたのち、分派である天理教徒が、今度は河南北部の滑県と都の北京との二ヵ所で同時蜂起を企てたのであった。このうち北京蜂起の教徒七十人は、農民に変装し、宦官七人の手引きによって紫禁城の東華門、西華門をのりこえ、不敵にも内廷ふかくまですすんだのである。当時第二王子であった道光帝はみずから鉄砲をとって応戦したが、このとき賊に内通していた宦官はわざと空弾の鉄砲を帝にわたしたといわれる。  

 なぜ宦官がこの乱に加担したかというと、当時の宦官は多く河北省の河間地方出身であり、その地には天理教の信者が多かった。そこで天理教徒は河間出身の宦官に働きかけ、その宮廷内部に信者をひろめていたものと思われる。これは宦官がもたらす弊害というよりは、いわば偶発的な事件とみられないこともないが、ことがことだけに、当時の人心に大きなショックを与えた事実は見のがせない。PP219-220

 

 義和団は白蓮教の流れをくむ秘密結社を中核とするもので、彼らは扶清滅洋、すなわち清朝をたすけて西洋をほろぼすというスローガンをかかげ、貧苦にあえぐ農民、失業者を煽動し、山東から河北にかけてさかんに排外運動を展開した。一方保守排外の西太后政権も陰でこれをたすけたとされている。橋川博士は、李蓮英らの宦官たちがこの義和団の一味とつながりのあったことを指摘しているが、さきの天理教の乱に河間出身の宦官たちの手引きがあったことをあわせ考えると、清末の反乱の一面に宦官が意外にふかく関係していたことが知られる。PP221-222 

 

5. 后妃の数、聖数と数の魔法

 后妃の数が、三人から九人、二十七人・・・と増えてゆく過程が面白かった。

 なんだかんだと数が増えてあとから理屈付けがされるというのは、ほかの分野でもいろいろありそうで参考になりそう。

 

史記』によると、中国の開闢は五帝であり、最初の皇帝は聖人黄帝であったというが、さらに唐の宰相杜佑が著わした『通典』によると、その子に帝嚳がいて、彼のとき帝座をめぐって四つあるとされる后妃星にかたどって四人の妃をおき、そのうち一番かがやいている星を正妃、あとの三人を次妃としたという。さきにあげた四つの宦官星というのは、この四つの后妃星に相応ずるものであろう。

 このように、中国の皇帝は疑うべからざる自然の鉄則として、はじめから四人の妃をもつ運命にあった。そして実はイスラム教でも、四人の妻をもつことを教理に規定しているところをみると、東西期せずして一致したことになる。

 理窟をならべると、この「四」という数字は東西南北をかたどる聖なる数であり、またこれを皇帝とあわせると「五」になるが、五も同じく聖数で、いずれも宇宙全体をかたどる神秘的な意味をもっているとされる。おそらく、皇帝が東西南北からの代表者としての后妃を一人ずつもつことによって、四海みな皇帝の赤子であるということになるのであろう。それゆえ、天の代理として地上を支配する皇帝はいやでも四人の妃をもつ義務があった。イザナギイザナミの二柱の神を先祖にもつわれわれは、ヨーロッパの影響もあるが、やはり一夫一婦制とならざるをえないが、中国人はこれとまったく無縁であったのである。

 聖人皇帝の舜は、即位前に一農夫として妻をめとったまま、あらためてそのことを天に告げなかったというので、制度としては正妃をおかずに三人の妃だけにした。

 五帝時代がおわって夏王朝になると、この制度をかえ、妙な計算法からわりだして后妃をふやしていった。すなわち舜のときのものをもとに三三が九であるから、あらたに九人の妃をまし、はじめの三人をたして十二人おくべきだとしたのである。この計算法を説明すると、ここに出てくる三、九という数字は、中国人にいわせると、ともに神秘的な数、つまり聖数であり、数の極限をしめすものだという。また掛け算はたがいに切れることなくつながりをもつことを意味するもので、この場合、おそらく男女の関係を象徴するものであろう。

 三三が九とは、無限をはらむ三と三を掛けあわせて無限を意味する九を生みだすことで、具体的にいうと霊験あらたかな数の魔法により、数かぎりなく子孫を得たいということである。このことは、紀元前三〇年ころの漢代人が、「一度に九人の女をめとるのは、後つぎを広くし、結果において祖先を重んずることになる」と言っているごとくである。わが国の結婚式におこなわれる三三九度のさかずきとほぼ同じ発想である。 

 殷王朝になると、また妃の数がます。例の計算法により、三九は二十七だから二十七人まして、はじめの十二人と合わせて三十九人おかねばならぬというのである。これはおそらく、縁起をかついだ末広がりの思想からでた考えで、夏では三人チームの三組であったから、殷では九組となったのであろう。このようにふやした根拠は一体なににあるのかわからないが、つぎのような理由ではないかと思われる。

 さきにあげた漢代人は、「元来、男子は五十歳になってもまだ好色の道は衰えないが、婦人は四十歳になると容貌が前よりおとろえて魅力がなくなってくる。したがって、両者の間に以前のような関係をつづけさせるのは無理な話だ」ということを言っている。これで見ると、色の道では男には定年制がないが、女は四十で一応定年に達するわけで、その場合、退職させるわけにはいかないから、定員数をふやそうということのようである。

 周になるとまたまたふえて、殷のとき三九の二十七人であったから、二十七人1チームを三組の八十一人となり、合計百二十人となった。それに周では、舜のときやまた正妃、すなわち皇后をその前の帝嚳にならって復活した。したがって、例の聖人周公の書とされる『周礼』には、この等級の内わけを「后一人、夫人三人、九嬪九人、世婦二十七人、女御八十一人」と記している。

 以上のべた后妃の制度は、いうまでもなく歴史的事実として存在したものでなく、漢代の礼学者がもっともらしく整理体系づけたものであろう。しかし唐代になると、これを古代の聖王の遺制であると認めて、名称はちがっているが百二十人の后妃を現実にもうけているから、けっして無視はできない。このため中国の皇帝は、制度の上からは、この百二十人の后妃のうちどれかとは寝台をともにせねばならぬ義務があった。

 顧炎武と同じく宦官縮小論者であった黄宗羲は、炎武よりもっと手厳しく、このように多くの后妃をおくことを説いた『周礼』こそは、帝王に淫蕩を教えるの書であるといっている。彼は真実のまえには、神聖な儒教の経典といえども容赦しなかった。彼の結論としては、思いきって最初の帝嚳のときにまでさかのぼって一后三妃にし、残りはみな廃止せよ、そうすれば宦官もわずか数十人でたりるはずであると言うのである。しかし、彼の革新説をもってしても一夫一婦制は頭にうかばなかった。はじめの言葉の調子からみると、いささか竜頭蛇尾におわったような感がなくもない。ともかくもこの二大家は、口を大にして宦官を攻撃するが、廃止せよとは言わないところがわれわれにはなかなか理解できない。PP.61-64

 

6.その他

 まさか、去勢したあそこの部分は再生しないと思うけれど・・・

 文中のステントとは、一八七〇、八〇年代に北京で宦官について調べた人のようで、本書の中では何度か引用されている。

…性の復活をねがった不逞な宦官がいたことも、これまた事実である。版万暦のころ、福建にきて過酷な税をとりたて、人民ののろいの的となった税監に宦官高寀がいた。彼は失われた性器の再生をはかるべく、童男の脳髄がきくという術士の言にまどわされ、数多くの小児を殺して食ったといわれる。高位の宦官にはこの方法がはやったとみえ、例のステントも指摘しているように、大逆魏仲賢も罪人七人を殺してその脳髄をたべたという。P.96  

  

宦官―側近政治の構造 (中公文庫BIBLIO)

宦官―側近政治の構造 (中公文庫BIBLIO)

 

 

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