『イップ・マン 継承』『イップ・マン 最終章』など
公開時、見逃していた『イップ・マン 継承』を、先日アマゾンプライムの週末特典100円で先日ようやく観賞。
アクション的には、マイク・タイソン(そこそこ台詞もあって、役者っぷりも見事!)、売り出し中のマックス・チャンとの対決など見ごたえがあったけれど、最後の見せ場が中国人同士(しかも同門同士)ではやはり中国の人たちにとっては盛り上がりに欠けるのか、興行的には苦戦したらしい。配給会社が興行成績を水増し報告して、営業停止処分を受けたという公開時のニュースもある。
そこまで出来の悪い映画だとは思わなかったけれど、前2作のヒットからの期待値が高すぎたのかもしれない。
個人的に、「イップ・マンもの」の成功には、「最後の本格派」ドニー・イェンや、毎回ゲストを固める人たちの見事なアクションもさることながら、それまでカンフースターの登竜門的な位置づけだった「精武門もの」が、日本人を恋人に登場させたり、中国人同士を戦わせたりして(注)、勧善懲悪の活劇としての爽快さを失っていたときに、外国人(その筆頭はいうまでもなく日本人)を改めて単純な悪として描くことで成功した面が無視できないと思っている。
その「イップ・マンもの」も、3作目(ドニー・イェン以外の作品は数えない)に到って、早くも勧善懲悪や敵討ちではない、身内同士の正統派争いといった話にスケールダウンしてしまったというのは面白い。イップ・マンが戦いよりも病気の妻に対する配慮を優先させる人間的な姿など感動にしたという声もきかれるものの(娯楽映画なので史実云々をいうのはヤボだけれど、そこは話として一番「盛ってる」部分でもあり、自分などはかなりあざといと感じてしまった)、胸のすく活劇を期待していた人々にとっては、やはり期待はずれであったようだ。
その意味では、倭寇の棟梁のカッコよい部分を描いて興行的に苦戦した『蕩寇風雲』のたどった道と似ているような気もする。
(注)
ジェット・リーの『精武英雄』には主人公の恋人役で中山忍が出演。チャウ・シンチーの『新精武門1991』は途中で日本人の道場やぶりのエピソードはあるものの、最後は中国人同士の戦いに。
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フィクションとはいえ、今作で最愛の妻の死を看取り、なんのしがらみもなくなったドニー版イップ・マン、もしさらに続きが作られるとしたら、今作では(前作でも)自信家で鼻っ柱の強い青年として登場する李小龍(なぜか日常生活においても芸名)を、哲学者然とした姿で教え導く姿を見てみたい気がする。
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このメモを書くために、改めて、アンソニー・ウォンがイップ・マンを演じた『イップ・マン 最終章』も見直してみた。
こっちの作品ではより史実に近く、香港に単身逃れてきたイップ・マンとその妻は、香港でつかの間の再会を果たすものの、結局佛山に戻り、やがて大陸と香港の関係に変化が生じて佛山でなくなっている。妻の死の知らせを聞いたときなども含めて、夫婦愛の描き方としてはこっちの作品により共感した。ドニー版イップ・マンは、話を作りすぎて、却って人間イップマンの姿が見えなくなってしまっている気がする。
『最終章』は、イップ・マン本人が木人を打っている貴重な映像が生まれるところをクライマックスにもってきたところもよかったと思う。
その前の熊欣欣との大立ち回りは、それはそれで見ごたえがあったけれど、これをなくして、敢えて地味な作品に徹してもよかった気がする。(さすがに、アンソニー・ウォンとエリック・ツァンの戦いだけだと地味すぎるか。)
この映画では、以下のようなイップ・マンの台詞も印象に残ったけれど、これって本人の生前の言葉を踏まえていたりするんだろうか。
(ナレーション)いろんな人間が集まった。だが師匠の考えは
「バカには教えん。小利口もダメ。貧しすぎるのも教えられん。」
(ナレーション)師匠の教え方は率直で古い考えに固執しないので弟子の上達も早い。
「1年習って喧嘩ばかりするなら、もう1年習えば 今度は人を殺すかお前が殺されるかだ。」
(弟子の一人)「師匠 習った技は実戦で試さないと」
「拳法を習うのは 体を鍛えるためだ。」
(弟子の一人)「身体を鍛えるなら他にも方法が・・・走ったり泳いだり・・・」
「では走ればいい。私がお前たちに泳ぎを教え 泳げるようになると 人を水の中へ突き落とすのか?」
「武術をケンカにつかうな 力で人を抑えるのではない。武術で大事なのは仁徳だ。」
「看板を出せば商売になる 武術は金では買えないんだ」
「看板を掲げても教えたくない人間は体よく断れ」
「詠春拳も変わっていい。変化なくしては進歩もない」
(ナレーション)ある日 父は木人の打法を録画させた みんなに残すために。
〇葉問が「みんなに残すために」録画させた映像