中国武術雑記帳 by zigzagmax

当世中国武術事情、中国武術史、体育史やその周辺に関する極私的備忘録・妄想と頭の体操 。頭の体操なので、たまたま立ち寄られた方は決して鵜呑みにしないこと(これ、肝要)※2015年2月、はてなダイアリーより移行

霍元甲、同盟会、「東亜病夫」など

1月18日は霍元甲の誕生日だったようで、その前後に霍元甲についてとりあげたサイトも少なくなかった。

 

その関連でいろいろ見ていたときにyoutubeで見つけたCCTVの人気番組「百家講談」で霍元甲をテーマに語られた回(2015年5月の放送)の動画が興味深かったのでメモ。

 

◎百家讲坛 清案探秘(第二部) 13 一代宗师霍元甲之谜

www.youtube.com

 

語られているのは、主として
霍元甲は強かったのか。真剣勝負の実績如何。
ブルース・リーの『精武門』以来有名な、陳真という弟子は本当にいたのか
霍元甲は(日本人に)暗殺されたのか

などなど、ある種いつも取り上げられるポイントではあるけれど、
人民大学の教授が、CCTVの人気番組のなかで一般の人々向けに、40分にわたって語るというところが面白いと思った。

 

ちなみに、上に挙げた点について、番組の中での回答を約めていうと以下のとおり。
・映画「SPIRIT」の中では39戦無敗という設定だが、実際に擂台賽に出たのは2回。その2回はいずれも「不戦勝」であった。
・入手できる資料から、そのような陳真という弟子は確認できない。「陳真」像は、実在する弟子のうち、主として劉震声(閃電手飛燕子劉、鉄胳膊劉)、陳其美、陳公哲、陳鉄笙の4人を原型に、『精武門』の台本を書いた倪匤が作り上げた。
霍元甲はもともと肺病を病んでいた。日本人医師から渡された薬を服用してから病状が悪化して亡くなったのは事実だが、そのことからただちに暗殺の陰謀があったいうことはできない。

 

上にかいたとおり、これらのポイントはいずれも、いろんな形で取り上げられてきた問題なので特に驚くにはあたらないけれど(注1)、この番組では、精武会の設立と同盟会の関係について、わりと正面から取り上げているのが興味深かった。

 

具体的には、精武会というのは、清朝転覆をはかる同盟会のメンバーたちが国民体育振興(「強身健体」)を隠れ蓑に作った准軍事組織であるという。農勁松、陳其美は日本留学経験のある同盟会のメンバーで(番組では触れられていないけれど、陳其美は青幇の一員でもある)、孫文(精武会では名誉会長に)とも繋がりがある。そもそも奥音皮のような一介の流浪の芸人と霍元甲の戦いを、民族の威信をかけた戦いであるかのように大々的に宣伝したのは、同盟会が当局の警戒心を解きながら、広く青年たちを動員して訓練するための「幌子(みせかけ)」であったのだという。いわば、霍元甲も奥皮音も、同盟会にうまく利用された、という主張。
 
これまで読んだ精武会関係の本では、精武会で政治とは距離を置くことによって継続してきた点が強調されていたような気がするし(注2)、創立メンバーの一人陳公哲も、精武体育会が発展できた理由について政治的中立を保ったからだと書いてるけれど(注3)、以上の説明は、そのような主張と正反対の立場になっている気がする。

 

どっちの見方がより真実に近いのか、即断は避けたいけれど、なかなか興味深い観点だと思う。この見方にたつと、もともとは中国の政治の停滞を指すことばであった「東アジアの病人(東亜病夫)」という言葉が、中国人が西洋人に比べて身体的に劣ることを揶揄することばのように中国人自身によって捉えられた(注4)理由も理解できる気がする。

 

以下に、同じ観点から書かれた、「騰訊評論」の関連記事を貼り付け。

 霍元甲一夜成名 同盟会竟是幕后推手

 

[摘要]为霍元甲在幕后做策划的,是他的哥儿们农劲荪。

1909年春,上海滩刮起了一股霍元甲旋风。旋风起源于前来中国走穴淘金的英国大力士奥皮音。这个来自英伦的“型男”在位于四川北路的亚波罗影戏院(ApolloTheatre)表演举重、健美等,严格地说,无非是个走江湖、卖把式的洋艺人,在技击格斗方面,只会些花拳绣腿的招式。洋卖艺的当然也要吆喝,指望大清国人民有钱的捧个钱场、没钱的捧个人场。奥皮音的吆喝有点过头,在舞台上公然表示要与华人打一场擂台,被记者们一炒作,成了对“东亚病夫”的挑衅与侮辱,深深地伤害了大清人民那本就敏感而易受伤的感情,于是,“沪人哗然”,群情汹汹,渴望着本土英雄们挺身而出,为国争光。

霍元甲就在这个时候闪亮登场。

幕后策划

霍元甲在幕后做策划的,是他的哥儿们农劲荪。农劲荪在天津经商,身家富裕,在经济上一直照顾霍元甲。据说他也是霍元甲在政治上的启蒙者及几乎所有事业的幕后主持者,正是在他的谆谆教诲及不懈的包装下,霍元甲从靠拳头吃饭的一介武夫,最终树立了类似民族英雄般的光辉形象。

农劲荪是同盟会会员,他的背后还有一个更为隐秘的推动者:陈其美(即陈英士,其侄子为陈果夫、陈立夫)。陈其美是孙中山的助手,也是当时藉藉无名的蒋介石的结拜兄弟。身为青帮骨干与同盟会高级干部,陈其美在上海负责协调这两大帮派的造反事宜。依靠黑帮闹革命屡战屡败后,同盟会便越来越深刻地感觉到必须建立自己的武装。此时,大清政府正在全面推进政治体制改革,出现了中国历史上前所未有的宽容局面,在地方自治运动中,一些以强身健体为旗号的民间准军事力量纷纷出现,同盟会自然也要抓住机遇,“希望十年内训练出千万名既有强健体魄,又有军事技能的青年以适应大规模革命运动和改良军事的需要”(陈其美语录)。霍元甲在江湖上名头响亮,而且又是农劲荪的哥儿们,自然是第一选择。

事实证明,同盟会策动霍元甲迎战已经在上海家喻户晓的奥皮音,是一次十分成功的“借势公关”。报刊连篇累牍地进行报道,霍、奥之战俨然成为事关中华民族尊严与脸面、彰显“黄魂”(即黄种人的魄力)的巅峰对决。

万众瞩目之下,策划者们开始在上海著名的“张园”内搭建大擂台,“高达4尺,宽广20尺”(两个月后,大清国第一家股份制企业轮船招商局也在此举行第一次股东大会,参阅本专栏8月24日《帝国的墙脚》)。霍元甲在报上刊登广告,高举爱国主义的大旗:“世讥我国为病夫国,我即病夫国中一病夫,愿与天下健者一试”,并宣称“专收外国大力士,虽铜筋铁骨,无所惴焉!”

吊足胃口的霍、奥之战,最后没有上演。主流的说法是,奥皮音被霍元甲和其所代表的中国真功夫吓破了胆,落荒而逃。“不战而屈人之兵,善之善者也”,这样的结局,自然是大长了中国人民的志气,大灭了帝国主义分子的威风。

而据居间担任翻译的另一同盟会会员、孙中山的小同乡陈公哲回忆:“奥皮音初来中国,不晓国人拳术比赛方法,只取西洋拳术比赛规则,手戴皮套,只击腰围上部,不许足踢。霍元甲则以中国擂台打斗方法,手足并用,无所限制,如有死伤,各安天命。彼此协商,未能获得协议。”其实,奥皮音无非是个跑码头的卖艺人而已,“嘴大”并不意味着“无脑”,自知之明还是有的,没必要非把大英帝国的荣誉套在自己身上,与中国功夫名家性命相搏。

总之,在这场高调宣扬的比武中,霍元甲已经不战而胜。为了满足台下观众的热情(笔者尚未查证到同盟会设定的入场券票价),主办者只好邀请观众上台打擂,“以不伤对方为原则,以身体倒地分胜负”。一场关系到民族荣誉的大战,至此演变为一场集体联欢。霍元甲及其徒弟自然是轻松获胜,自此在上海滩打响了名头。

霍元甲的品牌在上海滩立足后,同盟会再接再厉,于1909年当年就开始在闸北的王家宅筹备“精武体操会”,自然挂的是霍元甲的名头:由霍主持精武技击并习军事,农劲荪担任会长。“精武体操会”宣称以提倡尚武精神为目的,招收12~35岁的健康男子,每人收会费鹰洋2元。

次年,大清政府依法批准成立“精武体操会”,首批会员73人,成为日后反清的骨干。而霍元甲本人也在随后不久离奇死去,一般认为是被日本人下毒致死。

枪杆子脱手

同盟会对精武会的“类黄埔军校”政治属性,毫不讳言。孙中山的亲密助手邵元冲,在回忆这段往事时说:“其时有北方拳术家霍元甲到申,先生(陈其美)重技术,就相结识,谈论间颇觉霍君富爱国思想,乃运动上海各界人士为技击者谋划创办学校,挑选同志中志向坚定体格强健者,由霍君传授拳术,并及军事,以应革命之需要。”(《陈英士先生革命小史》)日后,当精武体操会改造为精武体育会时,处在政治低潮的孙中山亲临训话,俨然将该会当做了自己的军官学校。

其实,类似精武体操会这样的武术团体,在晚清及民国初年,如雨后春笋般在全国涌现。这其间,自然有着强身-强国的朴素追求,但背后也掺杂了各种政治势力跑马圈地、拉杆子聚团伙、以期实现“枪杆子(包括刀把子)里面出政权”的现实目的。

同样在1909年,性格温和的苏州人,也在地方自治运动中,建立了“观前大街市民公社”,后来改造为“苏州市民公社”。根据“公社”的章程,“本社以联合团体,互相保卫,专办本街公益之事为宗旨”,属于街道商民的自治机构,但这些“居委会”却在不久后以健身强体为理由,获得政府许可,建立了准军事的保安组织。由苏商体育会等自治机构演变而来的“苏州商团”,到民国时居然发展成下辖45个支部、2000余名“团员”、1400多杆枪及其他军用设备的庞大武装。

其实,在大清国的改革过程中,地方的分离趋势一刻也没有停歇过,并在关系到政权根本的警政、国防方面屡有突破。早在戊戌变法期间,湖南就成立了“保卫局”,由官、绅、商联办,行使地方的公安大权。而新政改革中,上海成立了“南市商会公会”(上海商团公会),公开组建武装力量,在政府许可下,配备了160支步枪及500发子弹,人员多达2000人。其后,这支商团武装更名为“上海保卫团”,在上海历次的政治武斗中,时而唱红脸,时而唱白脸,扮演了重要的角色,也开创了上海地方武装干预政治的传统。

“枪杆子里面出政权”,历来是中国历史颠扑不破的真理,同样的,这条真理的反推也无数次地被历史所应验:枪杆子脱手,政权一定会出问题。晚清政治改革不断加速,并最终失控导致翻车,其中,包括准许地方建立准军事力量,乃至允许这种准军事力量脱离中央的直接控制,都直接引发了中央权威丧失、凝聚力涣散。大量地方准军事力量的出现,并没有推动宪政改革中设定的地方自治,相反,却推动了地方的离心,并为日后军阀林立准备了丰饶的土壤。晚清到民国的转变,在某种程度上,只是由爱新觉罗家族大一统的中央独裁,转变为各地实力派在地方上的小型独裁,共和取代了君主,却没有改变权力万能及赢者通吃的规则,“万岁万岁万万岁”的呼声依然响彻大江南北、长城内外,无非是把主语“皇帝”替换成了别的与时俱进的名称而已。

在这样的天地之间,功夫卓群的霍元甲,自然也无法逃脱作为枪杆子的宿命定位,以一个英雄的悲剧,演绎一个时代的悲剧,去激励无数生活在悲剧时代中的时人及后人……

 

 

(注1)

たとえばこんなサイト

霍元甲真相_历史频道_腾讯网

 

(注2)
たとえば、笠尾恭二『中国武術史大観』「この精武体育会の組織的生命力は、まず第一に創始者陳公哲らが同会をあくまでも体育組織として育成し、政治的中立を守ったことにある」(P.576)としている。

http://view.qq.com/a/20151020/011435.htm

 

(注3)

精武会创立于宣统二年,以迁入闸北万国义勇队旧址时始,时在一九一〇年三月三日,正式成立。会员分子,极其复杂,其中如陈其美(即英士),旦冒申,为国民党党员。陈铁笙为同盟会会员。其中有一位竟废除姓氏,取名“虚吾”者,闻为无党党员。因是颇受官厅侦缉之注意,余仍聘商业有名人物。聂云台,黄阁臣,霍守华等先后为会长,借此标榜。渐次获得官厅之信任,公哲对于精武以无党派立场办理。不自我利用,亦不许他人利用,以专门学术为依归,十年之后,故能获得一般社会之信任,宗旨纯洁,驰名中外。

(中略)

此后国内政治,历经变迁,计经过国民革命时期,袁世凯帝制时期,齐卢战争时期,国民革命军北伐时期,日本第一次侵华时期,第二次世界大战时期,精武仍能屹立不动者,无政治作用也。环顾海内外社团五十年来,而仍能存在者,惟精武一团体耳。

陳公哲『精武会五十年』瀋陽春風文芸出版社版pp.28-29

 

(注4)

たとえば、奥皮音の「挑戦」を、現地メディアは「東亜病夫無人敢応戦」という見出しで煽ったうえで、後日、それに対する霍元甲の以下のようなコメントを発表する。対戦の舞台の設定とあわせて、メディアによる応酬を仕掛けたのも陳其美であるという。

 「世讥我国为病夫国 我即病夫国中一病夫愿与天下健者一试 (苏报)」

 

中国人自身が「東亜病夫」ということばと身体能力を結びつけたことについては、以下の記事にも詳しい。 

东亚病夫:国人自己想象出来的民族耻辱_历史频道_腾讯网