「洋人大力士」たち
ドニー・イェンの人気シリーズ『イップマン』のシリーズ第3作の予告編がちらほらと流れてくるようになった。
今回は、マイク・タイソンと戦うらしい。
娯楽映画のこのシリーズで、史実との整合性とかを求めるのは野暮だけれど、イップマンに限らず中国武術の近代史上の名人は、外国のボクサーやレスラー、武道家と対戦したというエピソードにこと欠かない。
それでも、中国にきて、中国武術家に挑戦状をたたきつけたとされるこうした人々の素性は、あまり知られていないのではないかと思う。彼らはいったいどんな人たちだったんだろう。
この点について、以前に、彼らは真剣勝負なんて最初からやるつもりはなく、単に(本国でやっているような)興行がしたかっただけじゃないのか、と考えたことがある。
最近、『津門武術』を読んでいたら、上海のアポロシアターで中国武術に挑戦状をたたきつけ、霍元甲の上海来訪、ひいては精武体育会設立のきっかけをつくった「奥皮音」の挑戦のいきさつについて、陳公哲の『精武会50年』を引用しつつ以下のように記されていた。
1909年春、英国の大力士「奥皮音」が上海に来て、北四川路52号のアポロシアター(亜波羅戯院)で「ステージにあがり重量挙げや、肌を露出して各種のボディビル(健美)のポーズを行なうこと約20分間、続けること数夜に及び、最後のステージで華人と力比べがしたい(与華人角力)と言った。その言談は多少軽蔑した口吻を帯びており、翌日の新聞に載ると上海人は騒然とした。」そこで、陳有美、農勁蘇、陳鉄生、陳公哲などは「技撃の名家を招聘して、ステージで競わせ、黄色人種の魂(黄魂)を顕示しようとした」。 (p.193)
ここにかかれた展開のとおりだとすると、奥皮音は、ただ自分の怪力ぶりをアピールして、最後にひとこと二言、挑戦めいた言葉を述べたにすぎず、わざわざ天津からつれてこられた用心棒と、「死んでも恨みっこなし」と署名のうえ果たしあいをするような展開になるとは、予想していなかったかもしれない。「東亜病夫」という批判にコンプレックスを感じていた人々が過剰反応したようにも見える。
『津門武術』ではさらに、孫文のボディーガードとして知られる劉百川をはじめ、数人の武術家が戦ったエピソードのある「康泰尓(カンタイル)」についても、多少ボクシングの心得はあったかもしれないが、実はたいした実績もない、どさまわりのペテン師(江湖騙子)にすぎないと推論している(pp212-.222)のは、とても客観的で説得力のある考察だと思った。
ちなみに、最近目にした以下の動画では、韓化臣と佟忠義の二人が、中央国術館時代に日本の武芸者を相手に戦い、退けたエピソードが紹介されている。韓化臣はそれによって日本軍の恨みを買い、さらには後日、日本軍官への指導を拒否したことも重なって、日本が手をまわした漢奸が渡した薬(注射)によって暗殺されたのだ(どこかで聞いたようなストーリーだ)というような陰謀説が示唆されている。
この他流試合について、百度百科では、李松如の1973年の回想によりつつ、韓化臣が戦ったのはアメリカ人で、韓と一緒に戦ったのは太和門の童仁富だったと記しているのと一致していない。ほかにも、百度百科では、黒竜江で翻子拳の郝紹功と別れるときのエピソードとされていることが、関東三老とのエピソードにかわっていたりして、この番組はいささか信頼性に欠ける印象を受けた。例によって、日本が悪者ということで、政治的には正しいんだろう。
他流試合のことは当時の新聞のトップ記事になったというから、それが事実なのかどうかは、実物が残っていればすぐに確認できるんだろう。そこまで追いかけるつもりはないけど。
百度の韓化臣についての紹介はとても内容が充実していて参考になった。お父さんは武挙の合格者という武人の家系で、張景星の拳房も韓家にあり、英才教育を受けたらしい。兄弟弟子たちも錚々たる顔ぶれ。
いくつか関係ありそうな動画を貼り付け。
2015.11.16追記
ちょうどいい具合に以下のような記事をみつけたので、以下の記事を追記。
2017.3.19追記
韓来魁の動画を追加