小沢昭一・土方鉄『芸能入門・考』
武術とは直接関係ないけれど、小沢昭一の、芸能に対する距離感が興味深かったのでメモ。
早稲田大学でフランス文学を学んだ小沢昭一は、差別の中で、生きるために芸能を担ってきた(担わざるをえなかった)芸能者と自分の違いというのを、とても強く自覚している。小沢昭一と自分を並べるのはおこがましいけれど、そのあたり、映画をみてたまたま中国武術に興味をもった日本人である自分が、競技武術にしろ民間武術にしろ、それぞれの専門家のお話を聞くときに感じる距離感と似たところがあるように感じた。
小沢 …どうも、芸の内容、芸の質、芸のやり方、それから、芸そのものの持っている迫力を考えると、おれはだめだなあって、毎度、壁にぶち当たってしまうのですね。おっしゃるように落差を感じるんです。ぼくは、非常に慕ってなんとか仲間入りしたいと頑張っても、逆に、そこからぼく一人、はじき飛ばされてしまうようなところがある。日常生活の中で、みんながお茶を飲んでいるのに、ぼく一人、入れてもらえないというようなことではなくて、それは、芸そのもののことなんですけどね。
早い話、万歳ひとつみても、ガラッと入っていくと、その家が何宗かということが、すぐにわかるそうですね。それで、法華なら、法華の万歳やる。本願寺なら、本願寺の万歳、神道ならば、神力という万歳をやる。
管 門付ですね。
小沢 そいういう力というか、その順応性というか…、ぼくも、順応性では、おばあちゃんが来ればおばあちゃんにうけるように頑張るし、子供が来れば、子供にうけるように頑張るということでは、相当、負けないつもりでいるが、万歳の衆のそこまではとれもやれない弱さがある。pp.177-178
そんな小沢昭一の悩んだ結果の考え方がまた参考になる。
ダラシナイけど、ぼくは、ぼくなりの生き方をしなくてはならない。写真屋の倅で、庶民の中ぐらいのところで、一人っ子で、町場の商人のお坊ちゃん育ちで、今日までなんとなくきてしまったやつは、それなりの仕事しかできないのじゃないかな。よし、それならば、正体さらけだして自分の本質に合ったところで、仕事をしなくちゃいけないなと思った。 P.181
このブログは個人的な武術修行とはまったく切り離したことを書いているけれど、それなりの年月、稽古を重ねていると、ときには周囲から持ち上げられて、なんとなく自分も一端の人間になったような錯覚をさせられることもある。それでも、所詮はサラリーマンが生活の中からなんとか時間をひねり出して武術をやった気になっているだけ。生命や生活がかかっているわけではないし、伝統を背負っているわけでもない。ただ、それは必ずしも不幸なことや、負い目に感じるようなことではなく、戦ったり守ったりという覚悟とは無縁で生きたり、自己管理の一環として武術を稽古できるのは幸せなことだという気もする。そんな態度はもってのほか、武術を学ぶものとして、必要に迫られたら、何ら躊躇なく人の頭を武器や拳で打ち付けたりできるようでなければならないのかもしれないけれど、そういう覚悟はいつまでたっても身につきそうにない。だとしたら、そういう自分と向き合いながら、自分の本質に合ったところで武術をやってゆくしかない。そんなふうに前向きに考えることができた。
このブログも約4年かけて200回目が見えてきたところだけれど、一万回を目指すか(笑)