中国武術雑記帳 by zigzagmax

当世中国武術事情、中国武術史、体育史やその周辺に関する極私的備忘録・妄想と頭の体操 。頭の体操なので、たまたま立ち寄られた方は決して鵜呑みにしないこと(これ、肝要)※2015年2月、はてなダイアリーより移行

周偉良『「易筋経」四珍本校釈』

以前に中国出張の際に購入していたもの。
タイトルのとおり、『易筋経』の数ある抄本・刊本の中から4種類の「珍本」を選んで校正を試みた本で、ちょっと前のメモで『易筋経』に話が飛んだので、思い出して読んでみた。

f:id:zigzagmax:20150429100304j:plain

 四種類の「珍本」とは、具体的には(1)国家図書館古籍部所蔵の『易筋経義』(詳しい説明は省略するけれど、もともとの所有者の名前から西諦本)、(2)台湾図書館所蔵の『易筋経』抄本(述古堂本)、(3)浙江省図書館所蔵の『易筋経』(浙図本)、(4)比較的広く流通しており、唐豪も「嵩山少林伝習的和匯輯的体操」で道光年間の成立と考証した『易筋経』(来章氏本)の四つを指す。

巻頭の解説によると、(1)と(2)は近年(2007年後半から2008年はじめ)になって筆者が「発見」したもので、なかでも(1)は、その蔵書印のひとつから明末清初の所蔵家である梁清標の抄本と考えられ、その推定が正しいとすれば、現在確認できるなかで、もっとも古いものであるという(注1)。
 
現状発見されている中では最も古い西諦本の段階から、(a)導引功法、(b)武術として指先や掌などの特定部位を鍛える功法、(c)房中術、の三つの要素から構成されていること、篇名が同じものでも具体的なテキストにはそれぞれ異動があること、西諦本についても、述古堂本等と比べてみると、オリジナルのテキストからの書き写し間違いと疑われる箇所があり、より原初の姿を伺い知るには(1)と(2)を対照させてみることが有効、といったことがわかって面白かった。


『易筋経』の代表的内容とされ、現在もさまざまな形で行われている「十二勢図」は、(4)になってようやく現れるほか、新しいものになるに従って、当事民間で信じられていた様々な内容が「易筋経」に関係づけられてくる。先行する抄本・刊本では慧可とともに少林寺からは失われたとされていた洗髄経は、若干時代的にこれに先立つと思われる道光3年(1823)の「傅金銓本」で具体的なテキストとして姿を現し、(4)でも継承されている。
巻頭の解説では、このような「易筋経」の成立と内容の変化と、明から清に至る武術の大きな流れ(民間武術の宗教や結社との結びつき、導引養生術と武術の結合、その流れの中で内家拳の誕生など)との関係が示唆されている。このあたりのところをもう少し詳しく解説してほしい気がした。

 

以前に気になってメモした「性の呪力」との関係でいうと、上記のとおり房中術的な内容は、(1)の時点から含まれているものの、(3)になってはじめて登場する「海岱游人序」では、海岱游人が友人たちと長白山で酒を飲んでいるところに通りかかった「羌人」の修行者が、指で牛の腹を貫いたり、掌や拳で牛の頭蓋骨を砕けると豪語し、信じないなら試してみるか、といってお腹を鉄や石で叩かせたあと(注2)、睾丸に車輪をくくりつけ、さらにその車輪の上に巨石を載せたものを引きずってみせたという記述が出てきているのが興味深かった。ちなみに、この「羌人」は易筋経の七つの効用のうち、四つ目が「房戦百勝」であると語っており(注3)、精力増強は「易筋経」の効能の一つにしっかりと位置づけられている。

ただし、本文を読めばすぐにわかるように、もともと「下部」の鍛錬は、保健マッサージ(セルフマッサージではなく、童男または童女にやってもらうことが想定されている)によって蓄えた体幹部の「気」を体の前面(任脈)と背面(督脈)にめぐらせた上で、その両者をつなぐ上で大切なプロセスに位置づけられている。なので、世間で「易筋経」をやっているという人がいたら、このきわめて重要な鍛錬を実践しているかどうか、聞いてみることにしよう。

というのは冗談だけど、下部行功自体は、「十二勢」以上に重要な内容であり、古い内容であることは間違いなさそうだ(注4)。

 

唐豪が『少林武當考(攷)』で紹介した「嘉慶(二)十二年歳次乙亥二月」の祝文瀾輯本の存在について、筆者は、ほかの誰もその実物をみたことがないと指摘しつつ、実際には1917年に上海大聲図書局から出版された『少林拳術精義』にある「祝跋」をもとに、同書の底本が嘉慶(二)十二年歳次乙亥二月に書かれたと推定したにすぎないのではないか、としている。于志鈞も、『太極拳史』や『中国伝統武術史』で唐豪が論考の根拠にしている史料のいくつかについて、その実在性を問題にしているところがあったけれど、このあたり、唐豪の研究についても、改めて検証することが必要な時期に来ているのかもしれない。

 

こうした問題提起を含めて、地味だけれど、中国の第一線の研究者による、きっちり第一次史料にあたったうえでの研究成果で、とても参考になった。

精読したとはいえないけれど、この本をざっと斜め読みしたことで、易筋経関連についての見方がちょっとかわった気がする。

たとえば、別途購入していた厳蔚冰『達磨易筋経』は「官衙板」を謳っているけれど、ああこれは来章氏本のバリエーションのことだ、とか釈延億『袪病養生易筋経』は、テキストの出所についてなにも説明がないけれど、紹介されている動作の口訣から、来章氏本をもとにした『内功図説』(この本でも一部を紹介。『内功図説』の易筋経十二勢については、方春陽主編『中国気功大成』(吉林科学技術出版社)で確認可能)の易筋経十二勢図の解説だ、とか(間違ってるかもれないけれど)おおよその見当をつけられるようになった。これらの二冊は、いずれも、付属のDVD目当てで買っていたもの。

その他、釈徳虔・徐勤燕編著『少林気功秘集』は、石友三が少林寺を焼き討ちする前に永祥和尚が書き写していた内容と、徳禅方丈から伝えられた秘伝の数々で、その多くは初公開という触れ込みだけれど、「内壮論」(P.26)や「凝神気穴」(P.27)、「下部行功論」などに関しては易筋経と共通しているようだ。十二勢は、同じ少林寺由来のもののはずだけれど、釈延億『袪病養生易筋経』に紹介されているものとは勢の名称を含めて若干異なっており、口訣も紹介されていない。

f:id:zigzagmax:20150429100151j:plain f:id:zigzagmax:20150429100206j:plain f:id:zigzagmax:20150502075104j:plain f:id:zigzagmax:20150502075016j:plain

 

また、このメモを書く過程で、国会図書館のデジタルライブラリーに易筋経(および洗髄経)を収録した達磨大師原著 吉田正平(幸田露伴の実兄)訳「霊肉修養 神通自在」という本があることもわかった。「静功十段」「動功十八勢」などの内容から、1917年に出版された『少林拳術精義』ではないかと思われる(注5)。翻訳にはルビもふってあって、とてもわかりやすい。「十二勢」は含まれていない。

とはいえ、そもそも「膜論」の「膜」って何だ?とか、まだまだ理解できないことが多いし、間違って理解しているところもあるはず。ここまでをとりあえずのメモとして、少しずつ掘り下げてゆこう。

 

中国の男根崇拝の話はあまり聞かないけれど、イギリス人宣教師のティモシー・リチャードは、天台山国清寺の境内で二フィート(60センチメートル)余りの高さの「男根崇拝の痕跡」を見つけたと記しているので、あわせてメモしておく。『中国伝道四五年』P.303(2020.11.21追記)

 

 

 

 

(注1)『易筋経』の成立に関して、筆者は達磨伝来説や、李靖・牛皋の序文が実物であるという考え方には否定的。ただし、もうひとつの有力説として唐豪が指摘し、現在広まっている紫凝道人創始説にも疑問を呈している。
ちなみに、この本では、このほかに12種類、全部で16種類の『易筋経』(『衛生要術』や『内功図説』など、タイトルが『易筋経』でないものも含む)の概要が紹介されている。
 

(注2)このあたり、「羌人」に、その鍛えた掌や拳で実際に何かを打たせるのではなくて、こちら側が「羌人」のお腹を叩くという展開になるのが面白くもあり、やや不思議でもある。どことなく、煙にまかれたような気がしないでもない。ちなみに、易筋経で鍛えると牛のお腹を貫き手で貫いたり、掌や拳で頭蓋骨を打ち砕けるようになるという記述そのものは、先行する述古堂本では序文ではなく、本文のテキストにその原型が認められる。

 

(注3)七つの効用とは、「永不生病一、飢寒不惴二、多男霊秀三、房戦百勝四、泥水探珠五、御侮不惴六、功成不退七」。続けて、これらはいずれも「小用」であり、これをもとに仏に至る道の礎を築くことができると述べる。

 

(注4)もっとも、「易筋経総論」に従えば、易筋経は本来、洗髄経とセットであって、洗髄経にしたがってまず体を浄化してから易筋経にしたがって鍛錬することが必要なはずで、現在伝わっている洗髄経が本来のものかどうかはわからないけれど、あわせて鍛錬しないと本来の効果は得られないはず。

 

 (注5)『少林拳術精義』は、山口大学の図書館の所蔵されているらしい