中国武術雑記帳 by zigzagmax

当世中国武術事情、中国武術史、体育史やその周辺に関する極私的備忘録・妄想と頭の体操 。頭の体操なので、たまたま立ち寄られた方は決して鵜呑みにしないこと(これ、肝要)※2015年2月、はてなダイアリーより移行

韓賀仙『武之魂 記中国散打創始人之一 梅恵志先生的風雨人生』

北京散打チームの生みの親、梅恵志コーチの伝記。

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内容は大きく立志篇、磨励篇、教学篇、創新篇、開創篇、伝承篇6つの部分に分かれている。

立志篇 では飛び込み、体操を学んだ少年時代が紹介される。少年時代は、父親の仕事の関係で北京にいながら、故郷の河北省覇州市信安鎮に戻ったりしており、堂兄(父方のいとこ)の縁で、信安鎮で六合拳、青龍拳などの武術を学ぶこともあったらしい。ただし、この信安鎮の師の名前は紹介されておらず、本格的に武術を学ぶ以前のエピソードに留まっている。

磨励篇 では、ふとした縁で、近所の女子学校にいたインドネシアの華僑の王老師から、2年間にわたりボクシングを習ったこと[注1]、中学を卒業して軍の工場(9123厰)に就職したころに、程派八卦掌の王栄堂の知遇を得て、八卦掌や摔跤を学んだことが紹介される。1970年に、八人の師兄、その他師叔ら百人以上の同席のもと王栄堂

の九番目の弟子となるための拝師の儀式が行なわれたという。このころはまだ文化大革命の最中じゃないのかな。

この間、スポーツ万能の梅恵志は、勤務先の9123厰でも、工場を代表して卓球やバスケットボール、レスリング[注2]の試合に参加しており、レスリングの試合に出ていたのが、摔跤の蘇学良の目にとまり、工場から転籍、地元の体育運動委員会で蘇学良の調査の仕事を手伝いながら摔跤を学んで頭角を現し、1976年には北京市レスリングの試合で優勝する。

 

[注1]王老師はその後、国内状況の変化にともない(文革のことを指すのか?)インドネシアに帰国、以後はいっさい音信不通であるという。

[注2]本文のなかで特に中国式摔跤とことわっていないで、単に摔跤と書いてあるものは、いわゆるレスリングであると解釈した。実際には、どちらかよくわからない箇所も多数あり。

 

教学篇 前述のように北京市レスリングの試合で優勝するなど頭角を現すと、1977年には、什刹海体育運動学校所属となり、ここで李宝如、王躍維、宋兆年らとともにレスリングのコーチとなり、散打の研究をスタート[注3]。同時に、北京市レスリング集訓隊[注4]の補佐(助理教練)を務める。体育運動学校には、腕試し、道場やぶりのような人間がたびたび現れ、梅恵志のそうした人々との対戦は1000回をくだらないという。そのなかには大成拳のグループ、江南から来た詠春拳の名手、陳家溝の拳師なども含まれ、大成拳のグループが来たときには、一人目の相手を30秒、二人目も30秒以内で倒してしまうなどして、2分間で5人を倒してしまったのだという(P.86)。レスリングのタックルなどをしかけたのだろうか。このあたり、すべて具体的な人名が掲げられていないので詳細は不明だけど、「万一自分が怪我しても、業務上の負傷として医療費が保障されるけど、彼らは民間人で何の保障もないからねえ」(P.85)と考える余裕すらもっていたらしい。

 

[注3]国家体育運動委員会が散打の試験をはじめるのは1979年のことで、作者によると梅恵志らの研究はそれに先立ってはじめられていたという。ともに、改革開放という時代の流れに対応するものといえる。

[注4]レスリングチームは、1980年までは常設のチームではなく、試合の約半年前に組織される形だった。

 

創新篇 1982年に、国内ではじめて開催された全国散打擂台賽にチームとして参加、彼自身も70kg級で優勝するほか、8人の弟子がいずれも金メダルを獲得して団体優勝を果たし、それまでアマチュア(業余)扱いだった散打チームが集訓隊に格上げされる。

 80年代の中国国内各地で行なわれた散打の試合は、地元参加の民間の拳師と、彼らのような省・市を代表するプロやセミプロの散打の選手が入り混じったりして、一種異様なものだったらしい。時には水滸伝の行者の武松のような風貌をしたものや、道士の装束をしたものが参加し、エントリーにあたっても「名乗るほどのものではござんせん」とばかりに、名乗りを拒否するものもいたらしい。散打選手のように、日ごろから突かれたり蹴られたりした経験の少ない彼らは、散打選手の繰り出す重たい攻撃に耐えられず、往々にして、一発二発いいパンチやけりを食らっただけで退散していったらしく、散打選手の側も、大きな怪我を負わせる前に、一発で実力の差をわからせるよう心がけていたらしい。

 

開創篇 82年の全国散打擂台賽以降、国内で快進撃を続けてきた北京散打チームは、さらなる発展の機会をもとめて、手始めにこの当事はまだ本土返還前だった香港との交流を開始。1990年から1996年までに行なわれた「京港杯」世界摶撃拳王擂台賽(一年おきに、北京と香港で開催)では、防具をつけずトランクス一枚で戦うという、当事まだ国内の散打の競技では導入されていなかったルールにチャレンジし、初年度こそ香港のムエタイチームに惨敗するものの、その反省をもとに訓練をつみ、翌年以降は常に香港チームに圧勝する[注5]。

そのほか、1992年に、イギリス、フランス、イタリア、ニュージーランド、タイ、アメリカなどが参加した「八国武術争覇賽」には、北京から若手選手2名が参加するなど存在感を示す。

 

[注5]

この香港チームの選手たちがどういう選手たちなのか、プロなのかアマチュアなのか、と言った点も含めて、具体的なことはよくわからない。

なお、海外との交流という点では、1990年からの「京港杯」に先立って、1985年に北京を訪れた、おなじく香港のムエタイチームと、非公開の交流を行なったことがあるらしい。

 

伝承篇 エピローグのようなこの伝承篇では、還暦祝いにあつまった多くの関係者のコメントや弟子たちの活躍が紹介される。

 

全体の構成はだいたいこんな感じだった。

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たぶん、取材に十分な時間をかけていないのだろう。関係者への簡単なインタビューや、過去に書かれたものなど、ごく限られた素材から再構成しているように感じられた。

書き方も抽象的な表現や比ゆが多い一方で具体性な情報が豊富とはいえないと思った。

たとえば、90年代にはいって、北京散打チームは、上記のように香港とムエタイ交流を行い、圧倒的な強さを示したほか、日本の空手道、韓国のテコンドー、ブラジルの 柔術とも公開の国際対抗戦を行って常に優性を保ったかのごとく書いてあるのだけれど(P.195)、これも具体的にどのような競技会で、どういう成績だったのかが書いてないので、単なる自画自賛にしか見えなかった。果たしてこの時期、中国の散打って、そんなに世界の格闘技の中で評価されていたのかなあ。

 

それから、書籍としては、同じ写真が何度も使いまわされているのが気になった。たとえば、梅恵志と什刹海体育運動学校の李宗権の二人が並んでいる同じ写真は、口絵、139ページ、211ページの3箇所に使われている。

漢字の変換ミスや、句点と読点の打ち間違いと思われる箇所も多く、書籍としては、やや編集がずさんだと思わざるを得なかった。題材としては、競技武術一辺倒の中から散打が生まれてくる過程を、一人のコーチ、チームの歩みと共に振り返るもので、文句なく面白いだけになんとも残念な気持ちが残った。

 

作者の韓賀仙については紹介がなく、ネットでざっと調べた範囲では、この本のほかに著書は見つからず、どのような人なのか情報なし。

編集委員会が組まれていて、そこにたくさんの弟子が名前を連ねているので、作者も弟子の一人なのかもしれない。還暦を迎えて一線を退いた師への、弟子一堂による贈り物のような性格の本なのかもしれない。

だとしたら、客観的なデータとか、あまり多くのことを期待するのはもともと無理な話ではある。