中国武術雑記帳 by zigzagmax

当世中国武術事情、中国武術史、体育史やその周辺に関する極私的備忘録・妄想と頭の体操 。頭の体操なので、たまたま立ち寄られた方は決して鵜呑みにしないこと(これ、肝要)※2015年2月、はてなダイアリーより移行

眞神博『ヘーシンクを育てた男』

アントン・へーシンクを育てた柔道家・道上伯の伝記。中国武術と直接の関係はないけれど、道上は1940年から1945年まで上海におり、東亜同文書院で柔道を教えていたということをこの本で知った。東亜同文書院柔道部は内地をはじめ、満州国などでも試合に参加している。

道上は、上海で、親しくなった中国人から、「当時でも珍しい武道に関する稀覯本」などを贈られており
(P.114)、戦況が悪化に伴って帰国する妻に、写真などとともに日本に持って帰るように頼んだのだが、妻の小枝はそれを拒んだというエピソードが紹介されている。この本を譲った男はどんな中国人で、どんな本だったのだろう。

その後、さらなる戦況の悪化で、入学予定の学生たちが富山で足止めを食ってしまい渡航できないという事態が生じ、早期解決をはかるために現地入りする目的で、上海、青島、ソウルを経て福岡に一時帰国したのが1945年の8月7日、そのまま終戦を迎えることになる。終戦にともない、東亜同文書院は閉校。

道上は戦前、大日本武徳会の段位を保持していたので、戦後は大日本武徳会が解散し関係者が公職追放されるなか、柔道は武道ではなく健全なスポーツである、と訴えて存続をはかる講道館の姿勢に疑問を持ち、講道館から段位認定のオファーがあったときも一度はこれを辞退をしているらしい(のちに、試験を受けて七段に認定される)。
なお、しばらくして大日本武徳会の再建に向けた動きが一度は起こるものの、すでに柔道・剣道・弓道は個別競技団体が成立していたことから、この動きを歓迎せず、大日本武徳会再興を目指す人々の間でも対立があったりして、結局再興には至ることはなかった。

それとは直接関係ないけれど、中華人民共和国の成立後も、いったんは国術館系統の再興を目指す動きがあったことを思い出した。1958年に出版された『武術運動論文選』という小冊子の「武術工作中的二条路線」という文章にそのことがでているのだけれど、1953年から1954年にかけて、張軫が国家体育運動委員会の民族形式体育運動委員会主任のときに、国術館形式の組織を復活させようとしたが、これは人民を抑圧するために個人的勢力を拡張しようとするための陰謀だ、ということで厳しく非難されている。大日本武徳会と同じで、国術館系統も、各地で軍界・政界の要人を代表に据えたりしていて、ある種の政治性を帯びていたので(注)、そのままの形で復活させることはできなかったのだろう。中華人民共和国においては、国民党時代の各界要人と結びついた武術家の発言力を弱めるために、国術時代の武術を「唯技撃主義」として批判し、ソビエトの身体文化論やスポーツ行政システムを参照しつつ、型競技中心の新しい官方武術が提唱された、というのが現在の自分の仮説。とはいえ、資料があまりにも少ないのであくまでも仮説でしかない。あまり単純化しすぎても事実を見誤ると思いつつ、自戒の意味をこめてメモ。

ヘーシンクを育てた男

ヘーシンクを育てた男

ウェブページ『道上伯物語』

(注)中央国術館は通常、中央政府直属の国家機構と位置づけられているけれど、教学内容のなかには、「党義(三民主義)」という科目もあったようで(武術研究院『中国武術史』P.339)、当時は国民党が第一党であるとはいえ、国の機関としてはやはり国民党の色が強くでていたのだと考えられる。