中国武術雑記帳 by zigzagmax

当世中国武術事情、中国武術史、体育史やその周辺に関する極私的備忘録・妄想と頭の体操 。頭の体操なので、たまたま立ち寄られた方は決して鵜呑みにしないこと(これ、肝要)※2015年2月、はてなダイアリーより移行

阿徳「緊那羅考」など(釈永信編『少林学論文選』所収)

以前に少林寺の守護神といわれている「緊那羅」について、釈永信方丈が、「本来は「那羅延執金剛」神 であった」という考えを示していると書いた。

この問題について、ずっと考え続けてきたわけではないのだけれど、最近、中国のダウンロードサイトから入手した『少林学論文選』(2006 釈永信編)のなかに、少林書局の阿徳という人の「緊那羅考」という論文があった。阿徳氏は、「緊那羅」は、「那羅延執金剛」神が誤って伝えられたものであるという考えをより明確に示している。
阿徳氏によると、「緊那羅」はもともと音楽神で、武力と結びつく点はないらしい。

阿徳氏の説を自分なりに解釈すると、「那羅延執金剛」神信仰は唐代には存在していたが、金代には衰退しており、それと入れ替わるようにして「緊那羅」信仰が広まってきたようだ。(注)

明の正徳十七年(1512年)の『那羅延神護法示迹碑』では、炊事僧で紅巾軍を退散させたのは「緊那羅」ではなく、まだ「那羅延」だけれど、この炊事僧は後世「緊那羅」として伝えられており、このあたりではまだ両者のイメージが混交していることがわかる。ちなみに、阿徳氏は、この碑に描かれている「那羅延」が、従来のように「金剛(杵)」ではなく「火焼棒」を持っている点に注目している。

自分としては、五台山において、「摩訶迦羅」が武神として信仰されるようになったのが元の中国支配にともなってラマ教の要素が中国に広まる過程であったという指摘(『五台山』)を踏まえて、少林寺において「那羅延」信仰がはじまることと、なにか共通点があるのかないのか、そのあたりに注目してみたい。
少林寺ラマ教の関係については、『少林学論文集』には同じ阿徳氏の「明代ラマ教少林寺」という論文もある。)

ここで改めて笠尾恭二さんの大著『中国武術史大観』を読んでみると、少林寺の歴史についてとてもよくまとまっていて、資料価値も高く、とても勉強になるけれど、笠尾さんは、少林寺の歴史を単純にインド禅の時代(北魏の創建いらい唐宋まで)と、中国禅の時代(元から現代まで)の二期に分けられている。このあたりは再考の余地があるかもれしれない。

今後のメモとして、少林武術の発展を以下のように整理しておく。

  • 創建後、社寺の財産(とりわけ、農地)の拡大とその権利保護の必要性から、一定の武力保持の伝統

(ただし、寺院の内部で継続的な武術訓練が行われていたのか、行われていたとして、どのような訓練であったのかは不明。論者がいうように、それは外部から、傭兵的にやとってきていただけかもしれない。)

  • 元の中国支配などによる自己防衛の必要性の増大

(「那羅延」信仰もこの頃からはじまる)

  • 明王朝が地方反乱や倭寇との対抗の必要上、動員を求めたことに対し積極的に協力したことによる少林武術の名声の拡大

(少林武術の具体的な内容がこの時期はじめて明らかになる。周偉良教授など、論者によっては、少林武術の成立をこの時期と推定するものもいる。その内容は、棍術を中心としていた。民間において「少林寺」の名を語るものも、この頃から現れている。)

  • 明王朝に積極的に協力したことのツケとして、清朝政府からは疑惑の目をむけられることになる

(明代と異なり、少林寺が朝廷の軍事行動に積極的に協力したという事実も無い一方、清朝政府が少林寺を弾圧したという歴史的事実も無い。ただし、清朝政府側は少林寺が指名手配者などをかくまったりしていることを問題視していたようだ。このあたりは周偉良「明清時期少林武術的歴史流変」(『少林学論文選』所収)が参考になる。)


(注)温玉成「少林寺歴史概述」に「貞元十三年(797年)、長安大興寺の僧性寛(745-817)が“少林寺において非人を感得した”。“非人”すなわち“人非人”とは 緊那羅を指し、(その姿は)人に似ているが一本の角がある。これより少林寺は“ 緊那羅”を護伽藍神とした。」(『少林学論文選』(P.27)とあるけれど、これは『那羅延神護法示迹碑』(1517年)に「・・・且つ少林寺の如きは、乃ち後魏に創るところ、隋より唐宋を経る間、いまだ如何なる神を伽藍守護の神となすか聞かざるなり」とあり、「無典可考」とあることと矛盾しているようだ。
さらにいえば、阿徳氏のように唐代から「那羅延執金剛」神信仰があったと認めるにしても、それは守護神的な意味合いではなかったと考えるべきかもしれない。

中国武術史大観

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