中国武術雑記帳 by zigzagmax

当世中国武術事情、中国武術史、体育史やその周辺に関する極私的備忘録・妄想と頭の体操 。頭の体操なので、たまたま立ち寄られた方は決して鵜呑みにしないこと(これ、肝要)※2015年2月、はてなダイアリーより移行

張之江の元随員たち 中央国術館の成立前後2

1927年12月14日の民国日報に、張之江が国民政府委員に任命されたときに、彼にしたがって、彼の「河南勦匪総司令部の随員」は一律国民職員に編入するとして、以下の人々の所属と肩書が紹介されている。

  

秘書長 孫玉誠 国府秘書

上校参謀 駱斌 国府一等候差員

主任副官 張鴻亮 国府一等候差員

二等三等副官 閻玉振 三等候差員

譯電主任 郭敏潮 三等候差員

少校書記官 宋振華 三等候差員

軍需官 李相興 四等候差員

副官 余國棟 五等候差員

副官 劉鴻慶 六等候差員

Shi shi xin bao (時事新報) 1927.12.14 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers

 

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このうち、駱斌、張鴻亮、閻玉振、郭敏潮は孫振華(宋振華の誤り?)とともに、ほぼ一週間後に「特務副官」を命じられている(12月23日付『民国日報』「南京短簡」)。

Minguo ri bao (民國日報) 1927.12.23 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers

 

これがどのような特務で、いつまでの任務だったのかははよくわからないけれど、翌年3月からの国術研究館設立の動きの中で、このうち何名かは張之江と行動をともにしていることがわかる。 

 

たとえば、駱斌、李相興、余國棟、劉鴻慶の四人は28年3月3日の国技遊芸会において、第三部の「西北軍方面之演員」として演武を行っている。(遊芸会の記事で、金国棟、とあるのは余国棟の誤りだろう。)

 

その後、駱斌、劉鴻慶の名前は、3月5日の国術研究館準備会議の出席者の中に名前がでているし、駱斌は組織大綱の起草や、3月24日の成立大会の準備を陳公哲とともに任されている(1928年3月16日民国日報「首都要訊」)。

Minguo ri bao (民國日報) 1928.03.16 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers

 

国術館の成立後も、張之江が各地で講演を行う際に、彼らが付き従って、デモンストレーションをしていることわかる。

たとえば、4月1日に張之江は寧波の青年会館で「国民革命とキリスト教」、「国技問題」の講演を行っているけれど、同行者の中に余国棟と李相興(記事では「李梧興」になっている)の名前が見える。

Shi shi xin bao (時事新報) 1928.04.04 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers

 

また、6月3日、蘇州青年会でやはり張之江の講演のあと、王子平が虎形拳、余國棟が酔八仙、李桐興が「燕青拳」を披露している。

(講演先がいずれも青年会(YMCA)であることは気になる。このあたり、YMCAと国術館の関係はまったく考えたことがなかったので、おさらいする必要があるかもしれない。)

 

この間、彼等の一部は4月29日の蘇省大中校連合運動会にも国術館メンバーとして参加していて、劉鴻慶はこのときすでに(国術研究館)「教授」の肩書がついていて、29年2月の中央国術館の「年終考試」では教員の部で術科一位を獲得している。

余国棟は同試験の「科員」部門で学科一位、術科二位なので、学生として採用されたのだろう。

 

とくに興味深いのは駱斌で、上記のような組織大綱の準備や成立大会の仕事のあと、6月12日付民国日報によれば、国府派遣の専員として、北京に向かっている。

 

Minguo ri bao (民國日報) 1928.06.12 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers

 

北京での主な任務は、首都の南京移転(これにともない、北京が北平に改称される)などに伴う国民政府財産の整理に関するものだったようだけれど、張之江の右腕らしく、張之江の命をうけて、北京周辺の武術家を訪問して関係を築いていることがわかる。たとえば7月14日に、体育研究社に各団体を集めて行われた遊芸大会では、冒頭に自分が張之江の特使としてきたことを説明している。

〇1928年7月14日の体育研究社における国術游芸大会

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Shi shi xin bao (時事新報) 1928.07.15 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers

この時と思われる写真。中央に移っている軍服姿の人物が駱斌。

写真のキャプションは以下のとおりだけれど、時事新報の記事が正しければ、演武が行われたのは7月14日のはず。

「1928年7月6日,西斜街体育研究社为欢迎国府特务副官骆斌先生来北平访求武术专家,特开国术游艺会。表演项目有太极八卦、弹腿、形意、六合、通臂、地蹚、掼跤等,可谓北平国术表演之大观。此照中坐穿军服者为骆斌。」

 

123.127.171.219

 

なお、従来、張之江館長の命を受けて、北京に向かった駱斌が、中央国術館に招聘する教官の選考を行い、それによって孫禄堂、楊澄甫、傳振崇の三人が選ばれたとの説があり、実際にこの7月14日の演武者の名前の中にも、楊澄甫、傳振崇の名前を見つけることができるけれど、上記のとおり駱斌が北上したのは、はやくても6月中旬から7月のことで、少なくとも孫禄堂はすでに国研究館からの招聘に応じて5月には南下しているので、不正確であることがわかる。楊澄甫についても、3月8日の準備会議の席で、すでに李景林が推薦する人物として名前が挙げられている。

 

ちなみに、駱斌の本来の任務である国民政府財産の接収については、1928年11月にリストの整理が終わり、一段落ついた模様だけれど、彼はその後も中南海で「国術聯歓会会長」を名乗って国術家と連絡をとったり、中南海の土地の一部を勝手に貸し出したり、入場料を徴収したりしたことが、新聞紙上で「告発」されている。

この新聞紙上での告発が裁判沙汰にまで至ったのかどうかわからないけれど、その後は陸軍四校同学会の「交際主任」として引き続き活動したり、北平市内の運動会の国術競技なども視察していることがわかる。ただし、いつまで北平にいて、そのさきはどうなったのかはよくわからない。

  

 駱斌の業務が11月に大詰めを迎えていることのわかる記事

 「駱斌清査器具」(『実報』1928.11.20)

Shi bao (實報) 1928.11.20 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers

 「駱斌組委員会清査 中南海器具」

11月末から、「中南海管理處長」「国術聯歓会会長」という呼び名が現れる

Shi bao (實報) 1928.11.21 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers

 11月25日に警備司令張桐軒、憲兵司令楚晴波、「会長」駱漢選の発起による「南海国術大会」を開催するとの告知記事。その後の報道が見つからないので、実際にどのような大会だったのかわからないけれど、駱漢選と駱斌が同一人物だとすれば、これも7月の遊芸大会と同じような意図のもとに行われたものなのだろう。

Shi bao (實報) 1928.11.22 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers

 

 11月28日の實報によれば、豊潤県三十六軍第一司令部の万参謀長から「国術聯歓会会長」の駱斌に国術教官十名を招聘したいとの要請があり、駱斌は盧香亭、揚(楊?)西城を派遣している。この二人はどういう武術家なんだろうか。直隷河間出身の軍人に盧香亭という人はいるけれど、同一人物だったりするのだろうか。だとすればかなりのビッグネームで、国術教官派遣というのは表向きの名目にすぎないような気もする。

Shi bao (實報) 1928.11.28 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers

 

 「京華美専 新址 今日遷入南海」

※京華美術専門学校が、同校董事会中南海管理處長駱斌の折衝を経て、南海に移転

 このあたりが問題行動(?)といわれるところ?

Shi bao (實報) 1928.11.26 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers

 「各方争中南海 政分会派定十五接収委員 民衆団体亦電請還諸民衆」

  中南海の財産処理に張継ら別の政府グループが動きだし、対立が深まる。駱斌はあくまで中央からの指示に従うと主張。

Shi bao (實報) 1928.12.20 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers

 「中南海管理権 移交省市政府 譸劃永久解放」

 中央政府は張継らのグループが仕事を引き継ぐ形で決着を下す

Hua bei ri bao (華北日報) 1929.01.01 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers

 北平政府が駱斌を調査すると発表

Shi shi xin bao (時事新報) 1929.01.07 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers

 市民もまた駱斌を訴えているとの記事「市民條呈 駱斌罪状」

Hua bei ri bao (華北日報) 1929.01.08 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers

 陸軍四校同学会の「交際主任」に推薦される(駱斌は陸軍大学出身)

Hua bei ri bao (華北日報) 1929.01.13 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers

 陸軍四校同学会の活動に駱斌の名前が見られる例 「陸軍四校同学会 歓迎唐生智」

 国術関係者としては、河北省国術館副館長でもある張陰梧の名前がみえる。

Hua bei ri bao (華北日報) 1929.04.15 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers

 北伐記念三周年で、商震につづき、陸軍大学代表の駱斌が挨拶。

「北平紀年北伐誓師 商震演説提倡民主精神」

Minguo ri bao (民國日報) 1929.07.14 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers

 「青年会少年運動週」「国術観摩会」「駱斌之演詞」

 駱斌は大会主席でもある。ここでも青年会の活動と結びついていることがわかる。

Hua bei ri bao (華北日報) 1930.03.10 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers

 

2020.8.11

「北京記憶」からのリンクを追加

 

2020.10.31

實報1928.11.28の記事についての記述を追加