中国武術雑記帳 by zigzagmax

当世中国武術事情、中国武術史、体育史やその周辺に関する極私的備忘録・妄想と頭の体操 。頭の体操なので、たまたま立ち寄られた方は決して鵜呑みにしないこと(これ、肝要)※2015年2月、はてなダイアリーより移行

多賀宗之「支那の武技」(『赤裸の支那』(1932)所収)

 たまたま発見した史料。

 多賀宗之は1902年から1908年まで8年にわたって保定軍官学校の教官を務め、清朝滅亡後は川島浪速らの満蒙独立運動にかかわるが、当初、この動きを黙認していた政府の方針が一転すると、「蒙古挙兵計画は、実際には参謀本部・外務省などの指導のもとに実施されたにも関わらず、表向きには、民間浪人組と多賀・松井ら出先軍人が個人的に計画したものとされてしまった」(注)。

 このあと、福州駐在中に起きた辛亥革命の第2革命では袁世凱から孫文を守って日本に亡命させる手引きもしている。1917年に江蘇督軍顧問となるが22年辞職して帰国、少将となる。この本の出版は1932年だけれど、彼の帰国時期から考えると、中央国術館や国術館系統が作られた20年代後半から30年代はじめの国術をめぐる状況とややずれていると感じるのは仕方がないとして、8年の保定軍官学校在職を含む20年にわたる中国滞在経験をもつ人物が残した、当時の中国武術についての興味深い印象記だと思う。国会図書館所蔵の資料を地元の図書館で閲覧・コピーしたものをもとに書き起こしたものをメモしておく。(旧仮名遣いと、一部誤植と思われた場所などは適宜改めた(柔剣術術相撲→柔術剣術相撲))

 なお、1917年に彼を顧問として招聘したのは馮国璋で、アジア歴史資料センターのデータ―ベースには、同年2月3日付で、馮国璋の招聘に応じたいとの意向を陸軍大臣に申し出る、在南京参謀本部付陸軍歩兵中佐だった多賀の自筆文書(かなりの達筆)はじめ、いくつかの史料が公開されている。馮国璋は天津の北洋武備学堂卒業だけれど、その前に保定の蓮池書院で学んでおり、以下の記事にも紹介されているように、親族の多くが保定で学んでいる。多賀が選ばれたのは、そういった関係もあってのことなのだろう。馮国璋は1916年10月に中華民国の副総統に選出されて(多賀と同じく)南京におり、翌1917年の張勲復辟で黎元洪が大総統から引きずり降ろされると、代理総統に選ばれているので、この頃、もっとも勢いがあったものと思われる。(奉天派と連合した段祺瑞との対立により、1918年に政権を失ない、1919年12月に病死。)

 

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 支那は尚武の国ではない。尚文卑武の国であるから文章立国と批評して差支ない程国家社会の表面は文で飾られて居る。其文と書物だけを見たなら世界中で支那程立派な国はあるまい。又昔は芸術方面の発達も驚く程であったから、世界文化の中心とも言い得る。然るに偏したる文化即ち武力の支持なき文化は文弱国となって滅亡するのは原則で、羅馬が寂しき末路を辿ったのも、支那が先進大国でありながら退嬰を余儀なくされて居るのもそれである。而して我日本の発達の根本は国民の尚武である。それは兎に角、文弱の支那から国民的武技らしいものを捜して御覧に入れたいが、我国のように弓や柔術剣術相撲と云う一般的のものはない。無論昔から弓は行われ、清朝時代の科挙の武力試験では強弓を彎かなければ及第しなかったから、武に志す者だけは弓の稽古を怠らなかった。

 弓の強さは斤数で等差をつけて居る。例えば彼は百斤のゆみを彎くと云うのは、弓を釣して弦へ重さ百斤の物を下げて弦が充分に張り切ったらその弓を百斤の弓と云う。支那の一斤は我国同様百六十匁であるから百斤の弓の強は十六貫の重さで張り切るのである。昔の書物を調べてみると三百斤即ち四十八貫の弓を彎いた者があった。又岳飛は未だ冠せずして神力あり、三百斤の弓を彎いたと書いてある。百五十斤以上を彎く者は強の者として書物の上に其名が残って居る。其者は片手で二十四貫の重さを提げる力がある譯になるから、支那は昔から腕力に於て優れて居る者が少なくなかったと思われる。我々普通人は三十斤の弓を彎くのは容易でない。ある時八十斤と称する弓を買い求めたが、二人掛かりでも弦を張ることさえ容易でなかった。此弓技も科挙の制が廃せられると同時に廃れて、今では広い支那で誰独りこれを手にする者ものあく弓技は全滅である。

 此の他にはこれという国民的普遍の武技はないが、或る一部にだけ拳法という武技が残って居る。明治三十三年の義和団事変は一名拳匪事変とも云うが、これは拳法を行って居る者が中心となり、これを宗教化して拳法を使ってある呪文を唱ふれば、弾は中らないという迷信を鼓吹し、これを利用して排外的行為をやらせたので、この拳法だけは今でも護身術としてある地方で極めて少数者が練習して居る。この拳法はわが柔術と西洋の拳闘術とを混合したようなもので、わが柔道衣と同じようなものを着け、拳で敵を突きまた取組みもする。そして敵の虚をみて足で蹴り上げるので中々勇壮で、しかも身体が練れ、腕も冴え足も利くのには感服する。彼が足蹴をするとその足尖が頭より上に上がり、股を開いて尻を地に着けると、両脚は左右一直線になり、その姿勢から瞬間に飛び立つというようなことは慥かに離れ業で、腰だけでも如何に柔軟に鍛えられて居るかを窺われる。戦場殊に塹壕内で短兵器叉は徒手格闘には極めて有利と認めた。その他に探せば青龍刀を水車のように廻したり、鎖鎌のようなものを振廻したり、槍を遣ったりする等の武技もあるが、これは国民的武技ではなく特殊の見世物に過ぎない。

 斯く文弱な支那には、まったく国民的武技がない。昔あった弓術も滅び、その他の武張ったこともごく少数者の拳法以外に見る事のできないのは、支那人が現実主義で、現在自己の生活か、自己に実利がなければ触れようとも思わないからである。これを考えると我国には弓術、柔術、相撲が行われ、中学校では武術が正科となって居るから、文化に偏せんとする今日、聊か意をつよくするに足るものがある。これは我々大和民族は伝統的に尚武の精神を尊び、現在の実生活に関係なき昔の武技も之れを弓道、剣道、柔道、相撲道として精神鍛練を根本として居るからである。そこで今後文化が進めば進む程、我が固有の武道武技を奨励しこれによって尚武の精神を練って、羅馬や支那のごとき弱弊い陥ることを避けなければならない。

 近来野球その他の競技が輸入されて学生を中心として大騒ぎをして居るが、これは武技でもなければ尚武の精神を練るのを主としたものでもない、一種の運動遊戯と認められるから、これを奨励したところで国民の気風が確立すると思い違いをしてはならない。又今日の模様では此遊戯も興行化しつつあるのであるから、寧ろ弊害も認められて来た。余は強いてこれを止めるのではないが、これが極度に大繁昌をするのは用心をしなければならないことを一寸断っておく。

 又、外国の諸運動を取入れる以上には、支那の拳法も採り入れて、これを我武道で魂を入れたらどんなものかと思う。印度仏教を救うたの日本である。支那儒教を活かしたのも日本である。而して支那の拳法を救い、西洋の野球その他も武道的に神聖化して救ってやるのが、世界の上に立つべき日本青年の自覚的奮発ではあるまいか。

 (注)佐々博雄「多賀宗之と中国大陸」(国士舘大学大学史学会『国士館史学』第2号所収)P.25

 同論文によると、多賀宗之の三男であり、国士舘大学史学の元教授・多賀宗準氏の手元に北洋軍官学校時代のことをまとめた『北洋陸軍建設記』なる記録があるらしい。宗準氏は平成六年3月、83歳で逝去。この史料はどうなったんだろう。

 その他、多賀宗之の活動については、波多野勝『満蒙独立運動』も参考になる。