中国武術雑記帳 by zigzagmax

当世中国武術事情、中国武術史、体育史やその周辺に関する極私的備忘録・妄想と頭の体操 。頭の体操なので、たまたま立ち寄られた方は決して鵜呑みにしないこと(これ、肝要)※2015年2月、はてなダイアリーより移行

『秘密社会と国家』(神奈川大学人文学研究叢書)

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 8名の論者の論文(うち5つは中国に関するもの)と、冒頭に、それらの論者(一部)による座談会を文字化してものが載っている。
 義和団や紅槍会、捻軍、清末の留学生受け入れや日本人教習について専著のある執筆陣による論文はそれぞれに興味深く、参考になった。
 この本は1995年の出版だけど、その後の研究の動向は気になるところ。

(そのちょうど10年後に『結社の世界史2 結社が描く中国近現代』がでている。)

 

 筆者とその論文のタイトルは以下のとおり。

 小林一美  「中華帝国と秘密社会 中国にはなぜ多種多様の宗教結社や秘密結社が成長、発展したか」①

 孫  江  「清末民初期における民間秘密結社と政治との関係」②

 馬場 毅  「日本の中国侵略と秘密結社」③

 並木頼寿  「明治訪華日本人の会党への関心について」④

 大里浩秋  「中国秘密社会の現段階」覚書⑤

 佐々木潤之介「騒動の結集論理 -「米倉騒動聞書」から-」⑥

 小馬 徹  「西南ケニアのキプシギス人とティリキ人の入社的秘密結社と年齢組体系」⑦

 岡島千幸「スキミントン -英国西部の農民社会と文化-」について ⑧

 

 

 ①には、直接武術団体について言及した箇所がある。少し長いが重要なのでメモしておく。さすがに義和団事件の専門家で、義和団事件に至る部分についてはとてもよく整理されているように思う一方、最後の段落の近代の武術についての理解は、やや疑問もある。(普通に考えると、霍元甲は陳其美らによって担ぎ出されたのだから、清朝転覆を企てる革命の側だし、中央国術館の主要な関係者で劉静宜という名前は聞いたことがない。結社研究の中では重要な人物とされているのか?)

 ・・・明、清時代には武術結社も民間に族生してきた。その中でも、教門、教派と深い関係をもった特異な神拳という武術結社について述べておこう。乾隆年間、浙江省天台山を中心に神拳という、武術と咒術の習俗をもつ民間主教結社が発展し、一七六六年に浙江の鄞県で反乱を起こした。以後、神拳は次第に宗教色を強め、「符咒作法」、「降神付体」、「神兵相助」、「帰順神拳、便得免災」、「滅清復明」などの予言や約束をするようになり、反体制的色彩を一挙に強めた。この神拳の流れをくむ諸派、諸人脈が、大乗教や八卦教やその他の白蓮教系諸教派と深く融合し、反乱のなかで重要な役割をになうようになった。そうした流れの一端は、華北の農村地帯で特に広まった。河南の滑県、浚県一帯には虎尾鞭、義和県、紅磚社、瓦刀社、金鐘照などが活動し、林清・李文成の反乱で大きな役割を果たした。直隷(現在の河北)と山東の境界には義和拳、梅花拳、六趟拳、陰陽拳などが盛んで、林清・李文成やそれと関係のあった馮克善の徒党と結びついていた。山東省の西南部には義和拳、梅花拳、二狼拳、大紅拳、金鐘照などという武術結社があった。

 清朝中期以後、神拳、梅花拳、義和拳などは互いに影響しあい、関係しあったばかりでなく、何度も述べてきたように宗教宗派(教派、教門)と融合したのであるが、両者の関係をまとめると次のように区別できる。八卦教など白蓮教系の宗教結社が主体となり、独自に武装部門(武場)を持つ方向と、逆に宗教系教門から武装部門が独立していく方向と、武装組織が教門に入り武装部門を担当する方向と、武装組織がそのままで教門と関係なく発展する方向と、様々な方向があった。

 清朝中期以降、貧しい華北大平原の農村地帯にどうして上記のような宗教結社、武術結社が族生していったのか。根本的な原因は、明末清初以来の商品生産、貨幣経済の発展とそれを収奪しようとする国家と高利貸資本の発達、生産力の発展にもとづく異常な人口の増大等にある。明末清初に一億人ほどの人口だったものが、清末には約四億に達したのだから、人口爆発は生産力の発展、耕地の増加分を遥かに越えるもの凄さであった。商業社会、貨幣経済の発展は農民層を分解し、土地の集積、地域間の経済格差を増大させ、破産農民の大量析出と人口の流動化をもたらした。新しい時代の特徴である生産力と貨幣経済(税も地丁銀制という銀建てになる)の発展こそが、全く新しい社会の変化を生み出し、様々な宗教結社を族生させた根本の原因である。

 宗教結社や武術結社がいつも貧しい人々を結集して、国家や地主、大金持に対抗するのだ、といえばそれはあまりに中国社会を単純に見ているといわざるを得ない。反乱を起そうとして信徒から軍資金を集め大金持になる教主もいれば、金を集める目的で組織をつくり、それで弾圧されて心ならずも「迫られて梁山に登る」(反乱する意)場合もある。反逆的な結社もあれば、一方でサギ宗教、暴力団的武術結社も生まれてきたのである。信仰などは口実で金あつめを目的にする結社も沢山生まれてくるのは、商品経済、貨幣経済、流通交易網の発展を前提としており、両者は正比例の関係にあることは、古今東西いたるところで見られる通りである。

 武術結社、武術習得の風習が社会で日常化してくるのは宋代以降であるが、量的に圧倒的になるのは清代に入ってからである。武術が民間で盛んになる理由の第一は、「身家防衛」にある。治安が乱れ、悪人がはびこり、生きるのに危険がふえれば、まず自分と家族を武術で守らねばならない。武術が上達すれば、それで金持や商人の用心棒になったり、徒党を組んで金儲け仕事などをしたり、悪い役人を殺したくなるのは世の常のことである。商品が流通し、人が動き、旅に危険がふえれば、様々な仕事が武術者に舞い込んでくる。最も手っ取り早く稼げるのは用心棒稼業である。用心棒をしっかりやるには、自分一人が拳棒、刀槍の武術に優れているだけでは不充分である。特に物資の輸送の用心棒などの仕事は行く先々で強悍な運輸労働者、強盗、悪役人、饑民などに襲われる危険が大きいから、用心棒の方も徒党を組み、各要衝を縄張りにしている組織と話をつけておいたり、前もって様々な手をうって情報通になっておく必要があった。武術の達人は義兄弟とか、師弟の契りなどで結合し、次第に組織を大きくし、勢力を伸ばしていく。こうした用心棒の仕事を「保鏢」といった。清朝末期になると、天津、臨清、済南、済寧、徐州などの大都市を中心に、大運河、黄河淮河などに沿った商工業の中心地、物資の集散地を拠点として、武術結社以外に様々な結社が族生してゆく。義和団運動も、梅花拳、神拳、義和拳などが統一して中心集団を形成し、白蓮教の宗教的パラダイムを核心的思想として、「扶清滅洋」、「降神付体」、「刀槍不入る」などの熱狂的スローガンをかかげ、交通運輸網を幹線にして急速に拡大したのだった。

 武術の達人は義和団運動の指導者になってゆく者と、官・地主側につく者との二つに分裂していったが、後者で最も有名な人物は、天津の南方にある静海県の霍元甲である。彼は清末の有名な武術家で義和団指導者を殺して体制側についた一人である。霍元甲は後に上海に出て精武会を組織し、この武術会はのち東南アジアにまで広がった。もう一人の武術の名手は劉静宜といい、彼のつくった国術館なる武術組織は全国へ、さらに台湾まで広がった。大都市周辺の有名な武術家は軍閥、大商人、大地主などと結びついたが、山東、河南、安徽、江蘇の交界一帯などの特に貧しい農村地帯では、王倫、林清、李文成、宋之清、宋景詩などの反乱に参加する者が多かった。華北農村地帯は武術結社と宗教結社が特に発展し、民国時代を迎えるのである。PP80-82

 

 中国共産党が、1930年代に行った、地方の匪賊や結社への対応については、福本勝清『中国革命を駆け抜けたアウトローたち 土匪と流氓の世界』に書かれていて参考になったけれど、②では辛亥革命後に袁世凱・北京政府や革命党も同様に、反社会性を理由に、一時は協力関係にあった結社の活動を制限したり弾圧しようとしたことがわかり興味深かった。

 P.114の表3「袁世凱政府に禁止された秘密結社(一九一三-一九一六)」と題された表の中に、

「一九一四 四川省成都 少林教」と「一九一四・八-十一 山西南部 金鐘罩」とあるのは気になる。前者についてはとくに説明がないけれど、後者については「備考」欄に「斬妖除邪、保命護身」とある。

 

 ③と④をあわせると、清末から日中戦争まで日本人教習や大陸浪人、軍関係者などと結社の関係がなんとなく概観できる。とくに④を参考に調べてゆけば、いつか『少林拳術秘訣』の津川氏にたどり着けるかもしれない。(著者の並木頼寿は捻軍研究などでもとても興味深い成果があり、若くして亡くなられたのはとても残念。)

 日中戦争時代、日本に協力した結社については③に詳しいけれど、その情報はほとんどを周育民・邵雍『中国幇会史』によっている模様。複数個所で張璧の名前がでてくるけれど、張璧については、劉正が彼は終始愛国者であって面従腹背であったと『民国偉人 張璧評伝』で論じている。また、論文のテーマとかかわりが深いと思われる、昭和8年の満洲青幇代表団の来日については触れられていない。現在ではアジア歴史資料センターの資料がネットで公開されていたり、中国のサイトには写真まで公開されており、その後、この分野の研究はかなり進展があるようにも思われる。

華北で広く山堂を開いている青幇首領」として「杜心五」も出てくる(PP.129-130)。土肥原賢二が彼を担ぎ出そうとしたが拒絶される話は、杜心五の伝ではよく言及されているけれど、この辺についてもなかなか一次資料にたどり着けない。

 

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