中国武術雑記帳 by zigzagmax

当世中国武術事情、中国武術史、体育史やその周辺に関する極私的備忘録・妄想と頭の体操 。頭の体操なので、たまたま立ち寄られた方は決して鵜呑みにしないこと(これ、肝要)※2015年2月、はてなダイアリーより移行

満洲皇帝陛下ご一行2(1940)

 前回、昭和10年の溥儀来日時の団員リストをメモしたけれど、気になったので、昭和15年の来日時の団員表についても確認してみたら、内廷随侍の肩書きで「霍福泰」という名前がでていた。

〇出典:紀元二六〇〇年慶祝満洲国皇帝陛下御来訪に関する件

 

 霍福泰と謂う名前は霍氏八極拳の関係の本でもあまり見かけないけれど、80年代に書かれた小説『末代皇帝和他的御拳師』(作者は吉林省京劇団の編劇・斉鉄雄)には霍殿閣のおい(本家侄子)と紹介されているほか、前回も参照した「知乎」の記事「六世先贤------“神枪”霍殿阁公」では、1942年に霍殿閣が亡くなったとき、霍福泰が葬儀を取り仕切ったと紹介されていた。

 

〇『末代皇帝和他的御拳師』 

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 ちなみに、この小説では、1927年に天津で霍慶雲に敗れた日本武士は岩田愛之助(霍殿閣に敗れたのはやはり工藤鉄太郎。もしかして、この小説が出所?)で、1935年に溥儀が来日したときに、霍慶雲を指名して、天皇の御前で再戦することになっている。岩田は天津で霍慶雲に負けたことを恥じ、霍殿閣と溥儀の稽古を盗みみようとして見つかって国外退去させられることになり、日本に帰国してからは上地流の空手を修行し、技を大成したあと日本国内を武者修行していたらしく、八極拳の技が通じないので霍慶雲形意拳の技で応戦する・・・と漫画チックな展開になってゆくけれど、そのあたりは、小説としての誇張だと考えて、とりあえずスルーしておく。

 

 ただ、小説では、昭和10年の溥儀の来日で霍慶雲と一緒に来日したことになっているので、改めて昭和10年(1935)の一行のリストを確認したところ、前回は気づかなかったけれど、「内廷随侍」の肩書で、霍福泰の名前があった。

 なお、昭和15年(1940)の団員表には「内廷随侍」はほかに二人いるけれど、そのうち趙炳武は、茶善房を管理する侍従で趙蔭茂という名前でよく知られている。武術とは関係なさそう。

 もうひとりの董景斌については、いまのところ情報がないけれど、「内廷随侍」は完全に執事のような役割で、護衛とは関係ないのかもしれない。

 

  ・・・と、ここまで書いていたところで、霍福泰については、福昌堂の雑誌『武術』の1994号の八極拳の特集の中で言及されていることを教えていただいた。同誌によれば、霍福泰は溥儀の「毒見役」であったということで、毒見用の銅の食器も写真つきで紹介されており、納得した。有る意味、用心棒以上に命を張った役割にあたるだろう。

 そもそもが匿名のブログなので具体名は挙げないけれど、ここに記して感謝申し上げます。