中国武術雑記帳 by zigzagmax

当世中国武術事情、中国武術史、体育史やその周辺に関する極私的備忘録・妄想と頭の体操 。頭の体操なので、たまたま立ち寄られた方は決して鵜呑みにしないこと(これ、肝要)※2015年2月、はてなダイアリーより移行

満洲国皇帝陛下御一行(1935)

 国立公文書館に保存されている、昭和10年の溥儀来日時の資料がアジア歴史資料センターのサイトに公開されおり、団員リストの中に「霍慶雲」の名前があることを確認した。肩書きは「宮内府従士」だった。

出典:満洲国皇帝陛下御来訪に関する件 (全7ページ中の3ページ目)

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 それで、ほかにも関係者がいないかと思って確認してみると、同じく「宮内府従士」として名前の見える「張公田」、「連雲亭」はどうやら霍殿閣の門人で、 「知乎」の記事「六世先贤------“神枪”霍殿阁公」によると、いずれも天津から新京に移っているようだ。

〇同上資料の第5ページ

〇「知乎」の記事「六世先贤------“神枪”霍殿阁公」

zhuanlan.zhihu.com

 

 張公田の子孫に取材した以下の記事によると、張公田はこの昭和10年の来日のほかに、もう一度来日しているらしい。

・・・据张先生介绍,他的舅舅张公田出生与河北的武术之乡,沧州沧县人。当年,跟随师傅霍殿阁习武期间,正好赶上在当时已经成了日本人傀儡的溥仪招募近卫军,就这样同师傅一行30多人来到了伪满皇宫,成了一名贴身保镖。舅舅为保护溥仪的安全,曾经两次随行东渡日本。

《宫内职员录》接开伪皇宫秘史

news.sina.com.cn

なお、「宮内府従士」はほかにも何人かいるけれど、それらの人物については、いまのところどういった人物なのかよくわからない。また、「宮内府従士」と「宮内府侍衛官」「侍従武官」の役割の違いも未確認。

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 李樹棟『八極拳教程』によると、溥儀が天津の日本租界に身をひそめていた1927年、霍殿閣は「二指神功」で軽々と「日本武士工藤」をやっつけたといわれ、これによって霍殿閣が溥儀の武術教師になったということだけれど、ここでいわれている「工藤」とは、もしかすると溥儀と一緒に天津を脱出し、最終的には溥儀から「忠」の名をもらう、工藤忠こと工藤鉄三郎のことかもしれない。実際、工藤は「大男で、身体強健、かつ剣術に「練達」していた人物」(山田勝芳『溥儀の忠臣・工藤忠 忘れられた日本人の満州国』P.28)とされる。

 工藤忠は、宮内府侍衛官長の肩書で、昭和10年の訪日団一行に名前を連ねている。

 ちなみに、霍殿閣が「日本武士工藤」に技をかけたとき、同じく霍慶雲も「猛虎鑽襠」で日本人武士を跳ね飛ばし、それによって侍衛に採用されたとのことで、日本人武士の名前は「出口岩田」と記されている。この出口岩田についてはいまのところノーアイデアだけれど、清朝復辟運動にも係っていた日本人に岩田愛之助がおり、岩田と近いところに、「出口王仁三郎」がいたことをいちおうメモしておく。

もっとも、工藤忠は「言論人よりは剣道などの武道に優れた行動派・体外硬派的人物に親近感を抱いたようである」(山田前掲書P.34)ということで、はまったく別の大陸浪人の類かもしれない。

 

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 もう一人、訪日団の一行の中で注目したい人物として、中島比多吉(なかじま ひたき)がいる。

 中島比多吉は漢学者の中島撫山の六男で、作家の中島敦の叔父にあたる人物だけれど、佐野眞一が『甘粕正彦 乱心の曠野』で『続対支回顧録』によりながら記すところによると「東京外国語学校支那科を出て、明治三十五年に清国の警察学校(引用者注:保定警務学堂(のちに天津警務学堂ができるとこれに合併される。天津警務学堂はのち北洋学堂に改名)のことだと思われる。に招聘され初めて大陸に足跡を印した。そのとき日露戦争に際会し、特別任務班の一員として奉天北方の虎石台付近の鉄道を爆破するなど敵の側面からの脅威活動に従事した。昭和六年満州事変が勃発するや関東軍事務嘱託を命ぜられ、次いで満人関係の渉外事務を管掌して満州建国の裏面工作に参画した。」「支那在住の通訳官のうち中島君に勝る者絶無なり」(P.342)という人物で、もう一人の通訳官の吉田忠太郎(中島撫山の門人)とともに「溥儀の側近中の側近」であったらしい。団員リストでは、国務院総務庁嘱託の肩書になっている。

 彼がどうやら単なる通訳ではなかったであろうことは、佐野眞一の前掲書で昭和四年一月に起きた奉天城占拠計画で、中国側の抗議によって小日向白朗ら八人が日本政府から満州からの退去命令を受けるなか、「上角利一と中島多比吉という人物だけはなぜか日本政府の処分を受けていない」と記していることや、アジア歴史資料センターのサイトで「中島比多吉」で検索するとヒットする報告書の類からもわかる。 (上角利一は、関東軍から派遣された通訳官として、天津を脱出する溥儀や工藤と共に淡路丸に乗船している。)

 

 中島撫山の子・門人には、この中島比多吉、吉田忠太郎以外にも、中国語教育や日中交流に関わった人物が少なくなく、撫山の三男・中島 竦(なかじま じょう)は、京師警務学堂勤務を経て帰国、善隣書院の宮島大八に厚遇されたとのこと。宮島大八については、天津中華武士会とゆかりのある保定の蓮池書院の関係者として、以前にメモした。

 やっぱり、このへんをもっと掘り下げてゆくといろいろヒントが見つかりそうな気がする。

 

 

 なお、以上のように記すと、中島多比吉や中島撫山一門が、得意な中国語を生かして喜々として謀略に従事していたかのように読めてしまうけれど、実際はそう単純ではないらしいことは、佐野が記す比多吉の長男・元夫氏のことばからもわかる。

 中島比多吉が十八歳で中国に渡ったとすれば、比多吉の大陸生活は、明治、大正、昭和と五十三年にも及ぶ。

「親父は中国を愛していましたからね。若いときは弁髪にして、見も心も中国人になりきっていたそうです。もちろん、工作のためという側面もあったでしょうが、少なくともそうやって中国を理解しようとしていた。

(中略)

 甘粕正彦は親父とは仲が悪かったと聞いています。『甘粕は満州のことではなく、軍のことしか考えていない』と言っていました。どうやら親父と甘粕さんは中国についての考え方が大きく異なっていたようです。

 日本を理解するには漢学の祖である中国を理解しなければならないというのが、中島撫山の基本的な考えでした。その撫山から感化された親父としては、中国に攻め入ることしか考えていない関東軍とは心情レベルでも一線を画していたんだと思います。

 私は甘粕さんが本当はどんな思想をもっていたかはわかりませんが、親父の目には関東軍イコール甘粕正彦と見えていたんでしょうね。

 まあ、歴史家から見れば、親父も関東軍の一員だといわれそうですが、米英に食い荒らされる中国を守るためという大義名分だけは大事にしてきた人だったと思います」

佐野眞一甘粕正彦 乱心の曠野』文庫版PP.352-353)

 

 

 〇久喜市公文書館第4回企画展「中島敦とその家系」

https://www.city.kuki.lg.jp/shisei/kokai/tenji.files/zuroku04.pdf

 

久喜市教育委員会「歴史資料でよむ久喜市ゆかりの人物ブックレット① 中島撫山」

http://www.city.kuki.lg.jp/miryoku/rekishi_bunkazai/kankobutsu/jinbutsu_booklet/booklet01.files/nakajimabuzan_no_shogai.pdf

 

zigzagmax.hatenablog.com

 

甘粕正彦 乱心の曠野 (新潮文庫)

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溥儀の忠臣・工藤忠 忘れられた日本人の満洲国(朝日選書)

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