中国武術雑記帳 by zigzagmax

当世中国武術事情、中国武術史、体育史やその周辺に関する極私的備忘録・妄想と頭の体操 。頭の体操なので、たまたま立ち寄られた方は決して鵜呑みにしないこと(これ、肝要)※2015年2月、はてなダイアリーより移行

中国体操学校、清末の日本人教習など

前回のメモの後半で少し触れた呉志青については、最近、別途入手した『明清徽州武術研究』にも、同地方出身の代表的武術家ということで詳しく紹介されていた。

 

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その内容は、例によって『中国武術人名事典』の記述と一致しないところもあるのだけれど、上海の中国体操学校で学んだ点は共通していた。

中国体操学校については前にメモしたけれど、日本留学がえりの徐一冰、王季魯らによって設立された。

zigzagmax.hatenablog.com


以下のサイトによると、ここの教員で、同じく日本に留学した徐傅霖という人が、講道館の早期のテキストを翻訳したのが『日本柔術』(1917)になるらしい。 

徐傅霖はほかにも、趙鉦訳『師範学校新教科書 体操』(1914)や、『生育節制論』(1930)といった本の編纂にかかわっているらしい。

 なお、山西科学技術出版社の老拳譜輯集叢書に、日本の柔術関係の書として、殷李源著『柔術入門』、殷師竹『柔術生死功秘伝』があるけれど、著者をふくめて、どういう由来の本なのか、あまり詳しい情報がない。

zhuanlan.zhihu.com

 

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上に引用した記事によると、帝国尚武会の野口清が1908年に一門をひきつれて上海を訪れ、現地で設立したのがいわゆる虹口道場(「精武会」もので、「陳真」が道場破りをする道場」)の原型だという。

野口清について、日本のネット情報では、中国にいたという情報にたどりつけないものの、肖朗 施峥「日本教习与京师警务学堂」によると、1910年6月に栃木県の野口清が京師高等巡警学堂に月給150元で招かれて柔術を教えたことがわかる。この人物は、台湾大学中国文学系の許暉林「「柔術」的旅行:一個伝統日本漢字語彙在中国的伝播與想像」で「漢文台湾日日日報」1908年6月17日の記事をもとに紹介されている、同年5月に天津の軍医病院で行われたイギリス、ドイツ、フランス、清、日本の兵士による腕比べの場にいた「日本武術家野口清」と同一人物だと思われる(注1)。この同じ人物が北京天津あたりを転々として、1910年ごろに上海に辿り着いたのか、渡航・帰国を繰り返していたのか、詳細は未確認。

 

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話を中国体操学校に戻すと、中国体操学校は、王季魯を校長に女子部を設立している。

王季鲁_百度百科


その時期は、上のメモで引用した林伯原先生の『近代中国における武術の発展』では1910年となっているけれど、1908年秋と紹介されているサイトもある。

浅沼千恵「清末民初の中国社会における女学校運動会」は、「申報」1909年11月15日の記事「中国女子体操学校開運動会」によりながら、この学校で1909年に開催された運動会で薙刀が披露されたことを紹介しているので、正式な設立が1910年だとして、女子生徒の募集や授業自体は1908年ごろから行われていたのかもしれない。

同論文によると、薙刀は1910年11月に武陽公立女学および分校と,銭氏私立半園女学が行った合同運動会や、愛国女学校の運動会(1905年ころ?)でも行われていたらしい。

愛国女学校の設立の背景や教育内容については晏妮「近代上海における愛国女学校の設立について」が参考になる。1902年設立のこの学校では、辛亥革命以前の一時期、「暗殺は女性に向いているので、愛国女学校では暗殺の種をまいた」とか、「毒薬や爆弾の製造のために理科、特に化学の教科を重視し」たという記述もあり、もはや薙刀なんてどこかに霞んでしまう感じもする。

 〇晏妮「近代上海における愛国女学校の設立について」

 

〇南京図書館のデータベースより

「上海爱国女校的学生正在练习器械体操」

出典:http://www2.jslib.org.cn/was5/web/detail?record=382&channelid=6851

 

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清末の日本人教官(教習)の派遣は、留学生受け入れブームの後だと思っていたけれど、実は留学生受け入れと同じ時期に教習の派遣はスタートしている。
たとえば、留学政策を決めた張之洞のお膝元の武漢には、日本への留学がはじまる1902年に、はやくも東京高等師範学校文科卒業の戸野周二郎が派遣されている。高嶋航「なぜbaseball は棒球と訳されたか -翻訳から見る近代中国スポーツ史」によると、この戸野周二郎がとりしきった、1903年湖北師範学堂における運動会が、近代中国史上はじめての運動会であるという(注2)。

ちなみに、戸野周二郎の妻で、二年後に赴任したみちゑは、方言学堂幼稚園(「湖北幼稚園」とかいているものも)の園長を務めている。

 

 

清国お雇い日本人

清国お雇い日本人

 

 

以上のような情報をもとに、改めて『清国お雇い日本人』の日本人教習の表を確認すると、戸野みちゑについては反映されているけれど、周二郎の名前は出ておらず、野口清の名前も出ていないことに気づく。

 

まだまだ、中国では知られているけれど日本では知られていないことや、その逆のことが多いように思われる。このブログで扱うのは、中国武術に関連したジャンルに限定されるとはいえ、そういった人の動きも見えてくるといいなと思う。

 

 

 

(注1)

台湾大学中国文学系の許暉林「「柔術」的旅行:一個伝統日本漢字語彙在中国的伝播與想像」

 …1908年5月24日、中國天津的一所軍醫院內舉辦一場英、德、法、清、日等國士兵中武術好手的比試. 會。日本的代表是漫遊世界、暫時寄居天津的日本武術家野口清及其同伴。野口清為柔術神道六合流的高手,著有《柔術修業祕法》一書。…

http://www.cl.ntu.edu.tw/files/archive/1565_4c711aa5.pdf?fbclid=IwAR0V-S5mfDz9b-t2Lr1DjFIaBwxn_hmKwbrB1_cSNDxM5WXA3nUXglQkvoM

 (注2)

 ただし、同じ高嶋航氏が執筆した一色出版『スポーツの世界史』のウェブコンテンツでは、「1890年、セントジョンズ書院(のち大学)で中国最初の運動会が開かれた。競技種目は不明だが、翌年の運動会では短距離走長距離走走り高跳び走り幅跳び、二人三脚が実施されている。」とあり、こちらの方が時代的に早いと思われる。

 慶応義塾大学のデータベースにある笹島恒輔「西欧スポーツの中国への導入と定着」は、「光緒25年(1899年)以降各地で陸上競技の競技会が開催されるようになっている」とし、具体的に天津の北洋大学総長王少泉と英人が提案し、水師学堂、電報学堂、武備学堂が参加した「競技会」の例が紹介されている。「運動会」と「競技会」は厳密には違うのかもしれないけれど、未確認。

www.isshikipub.co.jp

 

2018.12.1

注2の情報を加筆

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