中国武術雑記帳 by zigzagmax

当世中国武術事情、中国武術史、体育史やその周辺に関する極私的備忘録・妄想と頭の体操 ※2015年2月、はてなダイアリーより移行

「パス回し」からの頭の体操

サッカーのロシア・ワールドカップで日本がとった、パス回しの作戦に関連して、為水大氏のコラムが面白かった。

 

www.nikkansports.com

 

氏のコラムのポイントは、以下の三点。

 

 (1)W杯はエンターテインメントか勝負か

 (2)ルールにないことはどの程度までやってもいいのか

 (3)勝利条件はどこに設定すべきか

 

(1)に関しては、競技をする側、見る側、運営する側など立場によって意見が異なるのは仕方がないのだろう。自分としては、勝つことが求められていた状況で、批判覚悟でとられた戦略だと思うし、その後の監督や選手の態度は毅然としていて立派だったと思う。

ちなみに、これに関連したエピソードとしては、個人的には高校野球での松井選手の敬遠よりも、日本シリーズ完全試合の可能性もあった山井投手を交代した落合采配についての議論が記憶に残る。

 

(2)に関しては、新田一郎『相撲 その歴史と技法』の中で、相撲で用いられる技が「ホワイト」な手、「ライトグレー」な手、「ダークグレー」な手、「ブラック」な手の四種類に分類されていたことを思い出した。

 

それぞれの定義は以下のとおり。

「ホワイト」な手:誰からも文句の出ない、いかにも「相撲の手」。例:押し出し。 

「ライトグレー」な手:「禁じ手」ではないし、「相撲の手」ではあるけれど、あまり褒めてもらえない。例:立会いの変化。

「ダークグレー」な手:「禁じ手」ではないが、「あんなものは相撲ではない」と非難されること請け合い(な技)。例:ラリアット

「ブラック」な手:「禁じ手」で反則になる。例:髪をつかんで引く。

 

相撲の技がこのように分かれるのは、相撲が「「相手を痛めつけることを目的としない」という競技の特性」(P.11)をもつためだという。別の場所では、相撲はその「競技の目的や歴史的成り立ち」から、「「戦いの相手をしとめ、とどめをさす」という実戦的な発想が遮断されて」おり、「「規則による制約の中での勝利の最大化」という(競技スポーツにおいて一般的な)単純な構造にはなっていない」とも述べられる。

 上でいう「競技の目的や歴史的成り立ち」は、相撲が宮廷行事として、やんごとなき人たちの鑑賞用の技芸として発展してきたことを指す。王侯貴族の目の前で流血の事態や殺傷沙汰にならないように、相撲が「相手を傷つけることを意図しない方向への技術的展開」(P.50)を見せたことを、筆者は「相撲の非「武技」化」とも呼んでいる(注)。

 

相撲 その歴史と技法

相撲 その歴史と技法

 

 

そういう観点から考えると、太極拳の推手なども、相手を痛めつけてとどめをさすことなく技術の優劣を競い、磨くプロセスといえるかもしれないけれど、同じようにホワイトな手からグレー、ブラックな手があり、そのため、練習はともかく競技になると、「こんなの太極拳の技じゃない」という議論が起きる原因になっている気がする。

 

少し話はそれるけれど、アメリカ西部のインディアンの間では、クウ棒(クウはフランス語でcoupで打撃の意味)という棒で敵に触れることで、実際に敵を殺すことなく戦士としての勇気が認められたというけれど、これなども、どうしても戦わなければいけない場合でも、必要以上に凄惨な状況を生みださないための英知のようなものかもしれない。

 

Counting Coups (Counting What?) | Follow the Stories | Antiques Roadshow | PBS

 

 

(3)の点を中国武術にひきつけて考えると、どんなことがいえるだろう。いいかえると、現代に生きる自分のような人間が中国武術を学んで得られる「勝利」とは何だろう。

試しに、いくつか挙げてみる。

 

a.いざというときに、身を守れること 

b.格闘技の競技でいい成績を出すこと

c.型の競技でいい成績を出すこと

d.人生の充実感を得ること

e.より長く生きること

f.a.からe.のような個人レベルを越えた何か(愛国心の発揮など)に貢献すること

 

このあたり、答えは人によって異なるだけなく、同じ個人のなかでも、人生のステージや置かれた環境によって求める答えが変わってくるようにも思える。

自分などは、20代の独身時代は競技武術に熱中していたけれど、それ以後はサラリーマンで家族をもちながら伝統武術の稽古にシフトしてきた。そんな自分にとってのゴールは、上の分類に当てはめれば、c.からd.にかわっており、今後さらにe.になってゆく、ということになるのかもしれない。a.のような観点から「使える」技を身につけたいという気持ちももっているけれど、どちらかといえば個人レベルの暴力によってしか物事が解決できない「いざという時」など永遠に訪れることがないことを心の底から願っている。

そういう意味では、コラムの結びで為末氏が述べているのと同じように、自分も平和な環境にいられることに感謝しているし、中国武術という文化の懐の深さを日々楽しんでいる。

 

(注)

 明治になって、相撲の武道的側面が注目されるなかで、以上のような相撲のあり方を批判して、理想の相撲を目指す動きが、天竜三郎などによって満州で展開される。このブログの観点からはそのあたりももう少し調べてみたいところ。

 

〇関連する過去メモ

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