中国武術雑記帳 by zigzagmax

当世中国武術事情、中国武術史、体育史やその周辺に関する極私的備忘録・妄想と頭の体操 ※2015年2月、はてなダイアリーより移行

大陸浪人、日本人馬賊、革命派、精武会とボクシング・柔道など 

同じ時代のことだから当たり前といえば当たり前だけれど、いろいろ関心をもっていることがなんとなく繋がってきた。それぞれ掘り下げてゆければ大きなテーマに発展する可能性があるものの、とりあえずのところ連想ゲーム的にメモ。

 

1. 日本人馬賊-小日向白朗
日本人の馬賊といえば小日向白朗がいる。

合気道小林道場のブログによると、生前の小日向氏を訪れた関係者は、本人から、

馬賊時代の活躍の話、合気道創始者植芝盛平翁先生が大本教出口王仁三郎教祖と満蒙に新国家建設で行かれた時、張作霖に捕まり処刑寸前の時、解放に奔走した話又昭和30年時代の右翼の親玉として政界の裏話な(ママ)で聞けた

という。上のようなテーマについて彼が語った内容は、どこかにまとめて出版されていたりしないんだろうか。

shihan.exblog.jp

 

2. 工藤忠-陳其美 

 小日向白朗のことは渡辺龍策馬賊』をはじめ、いろいろな本に紹介されているので以前から知っていたけれど、最近になって、溥儀の侍衛長を務めた工藤忠(鉄三郎)も、「白狼」の軍に参加していたことを知った。

工藤忠資料から見た民国初年の白狼軍(白朗軍)

 

そこで、工藤忠の伝記『溥儀の忠臣・工藤忠 忘れられた日本人の満洲国』を読んでみた。

溥儀の忠臣・工藤忠 忘れられた日本人の満洲国(朝日選書)

溥儀の忠臣・工藤忠 忘れられた日本人の満洲国(朝日選書)

 

 
 とても情報量の多いこの本の中で、精武体育会の設立者の一人で「孫文の懐刀の一人」(注)で青幇の棟梁でもある陳其美について、上海の山田純三郎の家で暗殺された、と書いてあるのに目がとまり、改めて革命家陳其美と精武体育会の関係について調べていたら、以下の記事にたどり着いた。

wemedia.ifeng.com

 

霞山会の公式ウェブサイトの「山田 純三郎 「死せる良政、いける純三郎を奔らす」」(栗田 尚弥)より 一般財団法人霞山会

なお、山田純三郎は山田良政の弟。

 

3.体操会から体育会へ 精武会の「転型」

 上の記事によると、精武会は、陳其美の主導のもと、設立当初はたしかに清朝転覆を目指す同盟会の准軍事団体として機能することが構想された面があったが、その後、清朝転覆は実現するものの、袁世凱による革命派の切り崩しがなされるなかで、陳其美自身が暗殺されると、かわって運営を担うことになった陳公哲らによって、「体育」的側面をより前面に押し出す形で会の「転型」、立て直しが図られたらしい。記事では、会の名前が、(「兵式体操」の語(日本由来だろう)のように軍事との関連を想起させる)精武「体操」会から「体育」会に変更されたこともその点と関係があると説明されている。

 実際のところ、その後の精武体育会の活動は、音楽や書道から、写真撮影、弁論術まで、「体育」に納まらない幅広い人材育成・社会教育に及んでいる。中央国術館の成立後の1929年2月、上海市教育局が国術館との合併を提案すると、自分たちは社会教育団体であり国術団体ではないので、国術館と合併する理由はない、と反論し、これを逃れているのもうなずける(注)。

 

注 以下の記事より。

 1929年2 月又出风波,上海市教育局以训令,转令上海特别市政府3702号训令,要精武体育会与中央国术馆合并。行文下达后上海精武体育会据理力争,至函上海市教育局申述理由,指出:“敝会纯为社会教育团体,与中央国术馆所指为国术团体截然不同,实无并入之必要。”由于精武体育会是有广泛影响的社会团体,经多方周旋,当局同意,免予合并。

出典:

https://bbs.sjtu.edu.cn/bbsanc,path,%2Fgroups%2FGROUP_2%2FShanghai%2FDC1DF0CAF%2FD5310EDC3%2FM.1165032315.A.html

  

4. 精武体育会とボクシング

 精武体育会の知られざる歴史を紹介する上の記事では、そうした話のほかに、30年代の精武体育会とボクシングの話題も取り上げられていて興味深かった。

 具体的には、広東生まれでオーストラリアにわたり、現地でボクシングのタイトルをとったあと1928年に帰国して精武体育会でボクシングのコーチを務めた陳漢強と、彼がそだてた鄭吉常、周士彬の二人が紹介されている。

 このうち鄭吉常は、もともと精武体育会のバスケットボール、バレーボール競技に欠くべからざる人材で、さらにボート競技にも出ていたということなので身体能力の高い人だったのだろう。とくに武術のことにはふれられていないので、中国武術はやっていなかった人なのかもしれない。(詳細は不明ながら、仮に陳漢強がそういう武術と関係のない人を敢えて育成対象として選んだのだとすると、それはそれで興味深い。)

 

〇陳漢強(後列中央)、鄭吉常(前列左から2番目)ほか

 出典:热血“精武门”的真实历史: 霍元甲与陈真只是故事的开头


 もう一人の周士彬は、やはり武術との関係はわからないものの、ボクシング以外に摔跤や柔道などの格闘技を学んでいた人らしい。

 特に柔道に関しては、『話説摔跤与上海』によって改めて確認してみると、大日本武徳会の上海分会で学んだ、と出ていた。

 

 〇周士彬

 出典:热血“精武门”的真实历史: 霍元甲与陈真只是故事的开头

 

4.日中戦争期の上海の柔道

 大日本武徳会の上海分会における柔道については、上海市地方志弁公室のサイトに短い記事がある。どうやら日本が上海を占領したあと、精武体育会の本部が大日本武徳会の上海分会となり、精武会堂が柔道場として使われたらしい。

:::: 上海市地方志办公室 上海通网站 上海市地情资料库 上海市的百科全书::::

 指導者の具体的な名前は記されていないものの(注1)、有段者数名が主として在留邦人の指導にあたっており、一部中国の学生も学んでいたとのことで、中国人学生のなかに上記の周士彬の名前も挙げられている(注2)。

 また、同記事によると、武徳会は中西女中(市三女中)に分会を設けていたようで、そこの責任者(主持)は道上柏であったとかかれている。

 道上柏については、『ヘーシンクを育てた男』という伝記が地元の図書館にあるのを読んだことがあり、上海の東亜同文書院で柔道を教えていたことをこのブログでもメモしていたけれど、上海に大日本武徳会支部があり、そこでも指導していたとは書いてなかった気がする。このあたり、日本側と中国側の資料をつきあわせることで、まだまだいろいろな発見ができるかもしれない。

zigzagmax.hatenablog.com

 

(注1)

設立関係者らしき人物として「納嘉魯」という名前が見える。

(注2)

名前がでているのは蒋恵濂、楊傑民、林永傑、周士彬。

蒋恵濂は30年代の上海のプロボクサーとして知られている一人で、晩年指導しているときの動画がある。

www.youtube.com

 
5.日中戦争期の日中武道交流
 少し視野を広げ、戦前の柔道関係者の日中交流ということでは、最近気がついた名前として中国回教総聯合会の初代首席顧問を務めた講道館の高垣信造がいる。

安藤潤一郎「日本占領下の華北における中国回教総聯合会の設立と回民社会」


 高垣氏は頭山満の紹介により、直前までインド、アフガニスタンで柔道を教えていたらしいけれど、それまでの中国との関係についてはよくわからない。回教工作ということで、イスラム圏に理解のある高垣氏が担ぎ出されたような印象も受けるけれど、顧問に就任して北京滞在中に中国武術家を含む中国人との間で、なにか面白いエピソードはなかったのかなあ、と妄想が膨らむ。

 

 柔道家中国武術家の交流ということでは、牛島辰熊が北京で摔跤の人たちと交流していることが、松田隆智の本にも載っているらしい。

 松田氏の本については未確認だけれど、そのことは手元にある本の中では『京跤史話』でも紹介されていた。1941年に北京で宝三(宝善林)、孫栄らと交流しているようで、牛島の天橋訪問からはじまった交流は、「新民会」での柔道、摔跤交流に繋がったらしい。牛島が実際に誰と戦ったのか、とか、どっちが勝った負けたという点については諸説あるようだけれど、武道家同士の気持ちのよい交流であったことが伺える。「さまざまな原因により、数年来このことにふれる人は少なくなってしまった 由于种种原因,多年来很少有人提起」(P.69)なのはとても残念なことだと思う。なお、同文章では、当時の北京にいた柔道の「高手」として、八田一郎、安平光兆大佐、沢井健一、小林、佐藤等の名家」が挙げられている。

 

bbs.tianya.cn

 

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中華民国第六届全国運動大会(1935年)の摔跤中量級の入賞者の写真

 左から「卜恩富、宝善林、佟顺禄、孙荣、许麟左锡五」(もとのキャプション)「许麟左锡五」は「许麟」と「左锡五」のことか?

 出典:https://baike.baidu.com/item/%E4%BD%9F%E9%A1%BA%E7%A6%84

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