弘文書院、大森体育会、中国体操学校とその関係者たち
1. 王潤生、不肖生、楊昌済、柳午亭、毛沢東など
清末の日本留学生の中に、湖南の「拳王」八拳の王潤生がいる。平江不肖生こと向愷然の「拳術見聞録」や「拳術伝薪録」では王志群と記されている人物で、帰国後は太極拳にも興味をもち、年下の呉鑑泉にも学んでいる。
〇1932年、湖南国術考試の頃と思われる写真 左から鄭佐平、劉百川、王潤生、修剣痴
彼ら2人が学んだのは弘(宏)文学院。その代表は、当時、東京高等師範学校校長だった嘉納治五郎。
清朝留学生の受け皿(の一つ)だった弘文学院にはほかも孫文の片腕で、映画『1911』ではジャッキー・チェンが演じた黄興も学んでいる。黄興も、王潤生、向愷然と同じ湖南出身で、孫の黄偉民によると、来日前に地元の拳法・巫家拳を学んでいる。
その他、同じく日本で学んだ湖南関係者の中に、杜心五(注)や、若き日の毛沢東が教えを受けた楊昌済がいる。楊昌済は弘文書院、継いで東京高等師範学校で学んでおり、嘉納治五郎の思想の影響を受けている可能性がある。
そう考えると、毛沢東(二十八画生)「体育の研究」に知育・徳育・体育の三育併重、儒教の中で体育を重視した顔李学派と並んで、嘉納治五郎や、嘉納も評価していたというユージン・サンドゥ(近代ボディビルの父・・・らしい)の名前がでてくることも納得できる。
なお、以下の記事(黄柏强 文熱心「怪人柳午亭」)によると、毛沢東は「体育の研究」の発表前に、楊昌済の日本留学仲間でもあり、留学中に王潤生に八拳を学んだ柳午亭という人物を訪ね、武術と体育について教えを受けている。そのことと、彼の「体育の研究」の内容に直接の関係があるのかわからないけれど、調べてみると柳午亭の自伝というのがあり、はじめは警察、次いで弘文書院中学部、早稲田大学、大学院でまなび、日本人女性(小野芳子 中国名 柳芳兹)と結婚していたり、なかなか興味深い経歴の持ち主であることがわかった。
やや話はそれるけれど、中国体育への加納治五郎の影響に関し、高嶋航『「東亜病夫」と近代中国(1896–1949)』では
…1906年5月に上海道台の瑞澂は、上海の紳商が設立した華商体操会の開会式典に参加し、嘉納治五郎の「中国の教育は必ず体育を重視すべきである」「文を重んじ武を軽んじる風習に反対し、全国皆兵の制度を実施する……」という言葉を引用したうえで、中国は文弱の積弊により、「老大」「病夫」との譏りを受けるようになったと述べ、軍隊や警察の不足を補うものとして体操会を高く評価した。
と紹介されている。
(注)
林輝編著『自然随心録 万籟声自然門武学、史料匯編』所収の「歴史上真実的杜心五」 は、「杜が日本に赴いた時間は1904年の夏季、最初に学んだのは日本東京百科学校、のちに宏文学院普通科で学んだ。おそらくこの二校はともに短期の語学学校であり、1904年9月に東京帝国大学に進み、農科を専攻した。」(仮訳)と記しているけれど、そのあとに引く瀋雲龍主編『清末各省自、官費留日学生姓名表』に「杜慎愧、湖南省官費生、入讀東京帝国大学農科、以及之前在宏文普通科末畢業」とあるように、普通科に入学してすぐ中退したのだろう。いずれにしても、かれも宏文書院と関係がある。
その他、管見の限りでは江蘇国術館事務長の陽鉄生は湖南禮凌の人で明治大学法科を卒業ということになっている。(童旭東編著『孫氏武学研究』所収「江蘇国術館十八年年刊」より(P.199))
〇 弘文学院
『中国古典武学秘籍録』下巻収録の「拳術伝薪録」にも「拳術見聞録」が附されている
〇忘れられた拳王---王潤生
〇八拳の紹介動画
〇黄偉民の語る黄興
巫家拳、弘文学院、神楽坂武術会、大森体育会などに言及
黄伟民介绍,黄兴不仅是革命领袖和军事家,同时也是体育活动的爱好者和提倡者。黄兴小时候经常与村童一起爬山、游泳、钓鱼、打拳和下棋,14岁时还拜师学习巫家拳,在武昌两湖书院求学时十分重视兵法和体操,留学日本东京弘文学院时,黄兴每日清晨必去神乐坂武术会参加射击比赛,还获得了不少奖牌。
“祖父将体育作为培养和造就革命力量的重要手段之一。”黄伟民说,黄兴当过体育教师。1903年,29岁的黄兴从日本回国后,在长沙主持明德学堂速成师范班,并在附设的高等小学担任体育教员,1904年又兼任新湖南民立第一女学体育教员,教学生翻杠、做柔软体操、玩哑铃。1908年,黄兴再度去日本,在东京发起成立了大森体育会,并亲自任教员。
访黄兴长孙黄伟民:黄兴曾想葬身长江_后裔寻踪_纪念辛亥革命武昌首义100周年
〇巫家拳 (麒麟六肘)
〇柳午亭と柳芳兹(黄柏强 文熱心「怪人柳午亭」 湖南省人民政府のサイトより)
〇柳午亭自伝
〇この部分の原稿の執筆時期は不明ながら、唐豪の『行健斎随筆』にも、「記日本柔道家嘉納廣瀬湯浅本田」と題する一文がある。
当時の状況に鑑みて、武術を提唱するにあたっては、体育の目的だけでなく、軍事の補助手段とするべきだが、それには武術家の「妖妄怪誕の観念」を糺し、反帝国主義や民族の自由、平等などの観念を理解させる必要がると述べている。さらに近代戦争の時代に、その価値を誇張しないことが大切と述べているのが興味深い。
2.第5回極東選手権競技大会、呉志青「中国新体操」、上海中華武術会
嘉納治五郎といえば、1921年、上海で第5回極東選手権競技大会を視察しているけれど、同大会では中華武術会による武術と呉志青発案の「中国新体操(のち科学化的国術と改称)」が披露されている。
演武された内容の中には、
単演:洪拳、六合拳、六合棍、単刀、査槍、雙掌入門(?)
雙演(対練のこと?):三把腰、雙頭槍、査拳、月牙鏟、雙劈単刀等の内容が見える。
雙演のうち三把腰は「八十老翁何玉山與于振声」、査拳は「柳奉真呉志青之対打四路査拳」、月牙鏟は「羅叔青(と)韓凌青」によるものだったらしい。(「再版科学化的国術弁言」)。
呉志青は安徽宵歙県の人。今に続く上海中華武術会(設立当初は中華武侠会)の設立発起人として知られ、中央国術館では董事、教務処副処長などに任じている。杭州巡警学堂から中国体操学校に転入して学んだという。
〇第五回極東選手権大会 入場式
第五届远东运动会入场式 | 上海图书馆历史图片搜集与整理系统
〇「科学化的国術」
〇上海中華武術会の公式ウェブサイト
3.中国体操学校
呉志青が学んだ中国体操学校は徐傅霖、徐一冰、王季魯らが上海で設立した学校。設立時期は林伯原『近代中国における武術の発展』では、「1906年11月16日(一説には1908年2月28日)」と紹介されているけれど、光緒三十三年(1907年)と紹介している記事や、
「1904年,毕业于日本体操学校的徐敷霖在上海创办中国体操学校,1908年由毕业于日本大森体育学校的徐一冰接办」
などと記してあるサイトもあり(南京図書館の画像データベース)、詳細は確認が必要。
〇「上海年華」より、「中国体操学校創始人合影」
この記事では、中国体操学校は「中国体操学校创办于光绪三十三年(1907年)」と記す。別のサイトの説明によると、写っているのは徐一冰(左座一),袁公诚(左座二),瞿正戍(右座一),王石士(左站一),王季鲁(左站二),徐筑岩(右站一)。
〇中国体操協会の公式ウェブサイトから「中国体操学校」の紹介
徐一冰が「大森体育学校」で学んだ、とみえる
天下兴亡,匹夫有责。一批爱国的热血男儿和革命志士,目睹祖国体操事业的颓败,国民体质的衰弱,莫不痛心疾首。于是他们怀着兴办体育、培养人才、强宗强种、卫国御侮的宏伟志向,纷纷赴日留学,专攻体育。这时期留学的仅四川一省就有十余人。近代著名体操教育家徐一冰,著名革命党人王金龙就是在这时东渡日本,进大森体操学校学习的。1906年前后留日学生相继学成回国。他们在各地创办了体操学校、体育专修科。中国体操学校就是他们所创办学校中最大最有影响的一个。
〇湖州体育局の公式ウェブサイトから、徐一冰の紹介
「三十一年(1905)因不忍“东亚病夫“之耻辱,遂东渡日本,进大森品川体操学校,专攻体育」などとみえる。
4.大森体育会など
中国体操学校以上によくわからないのは、徐一冰が来日中に学んだとされる「大森体操学校」。
サイトによって大森体育学校、大森体育会、大森体育講習会などと書かれている。
革命家の黄興に引き寄せて、彼が8度目の来日にあたる1908年に、革命のための軍事人材を育成するために設立した、と紹介しているサイトが多いけれど、設立が1908年では、徐一冰の来日していた時期と合わない。革命の準備をするための地下的な組織であるとして、その設立はもう少し遡る必要があるのだろう。
たぶん、「大森体育会」の名前は、 「清国留学生取締規則」に抗議して大森海岸で投身自殺した陳天華の意思を継ぐ暗号のようなものなのだろう。(そのようなことを指摘した研究を見たことがないけれど。)
いずれにしても、この時期、「体育」というものがもっていた重み、体育と軍事、体育と革命の関係などが垣間見えて興味深い。この流れのなかに、「光復会」の徐錫麟が設立した大通体育学堂の校長となり軍事蜂起を計画した秋瑾も入ってくる。(前掲ジャッキー・チェンの『1911』は秋瑾の処刑の場面から物語が始まる。)
近年指摘されるようになった、精武体育会が「体育」を隠れ蓑に若者に軍事訓練を施したというような説も、こうした流れの中で考えると納得がゆく。
いろいろなことが繋がって見えてきたので、うまく纏めきれていないけれど、とりあえずのメモとして。
〇陳天華
彼も、湖南省の出身だ
〇『中華武術文選』
二十八画生(毛沢東)「体育之研究」秋瑾「宝刀歌」などを収録
〇东莞中学のサイトから「清朝末年学校体育师资的培养」
中国体操学校、民主革命人士と体育について、秋瑾も例にあげてコンパクトに紹介されている
〇「科教近代体育学科留学研究生教育的发展与史学贡献」
早期留日体育教育家徐一冰所著《二十年来体操谈》中所述:“丙午丁未间(1906年至1907年间),留学日本大森体操专校毕业者,每归国任学校教科”。大森体操专校(又称大森体育会)是同盟会在日本兴办的一所速成体育师资学校。设立体育学、教育学、生理学、解剖学、音乐、徒手体操、器械体操、兵式体操等专业课程。1901年至1906年间,中国留日的1.3万名学生中,有相当一部分曾到这里学习体育专业。“时徐君筑夫人汤剑娥女士,亦归自日本,因即创办女子部(即中国女子体操学校)”。另据《上海东亚体专简介》所记:“创建人博朗斋(留美学生)、庞醒耀(留日学生)二人都是专攻体育的”。可见当时留学生出国学习体育,已非偶然现象。
http://www.xzbu.com/4/view-5590175.htm
〇こちらのサイトでは、1908年に再来日した黄興はかつて設立していた大森体育会を新たに革命のための軍事幹部を訓練する場所として再組織したとされていて、わりと実体に会っているのではないかと思われる
1908年7月河口起义失败回到日本后,黄兴“注重训练党员之军事常识” , 决定先从培养军事干部入手,逐步建立一支由革命党领导的军队。于是,黄兴重新组织了先前在日本设立的大森体育会,作为训练革命军事干部的场所,并聘请日本军官多名为教练,从河内、香港、日本召集林时爽、刘揆一、焦达峰、孙武、夏之时等一百七十人为学员,参加训练。经此训练,参学人员的军事知识和技能大有提高,许多人后来在辛亥革命中发挥了重要作用。
〇「大森体育会」と同盟会の関係、学校の性格について記述したサイト
到日本后,王金发进入大森体育学校,据说以第一名毕业,只是大森体育学校并非正规院校,其原名“大森体育会”, 以体育、军事学为特色,实际上是同盟会参与创办的的“野鸡学校”,只需一年或一年半即可速成毕业。话虽如此,当年入读该校的中国人也不在少数,金发哥以第一名毕业,当然也不能说是侥幸。
但懋辛(1884—1965),字怒刚,清光绪十年(1884),生于复兴场方家冲。光绪二十九年,去日本东京入东斌学校求学,亲聆孙中山教诲。光绪三十一年8月,由孙中山、黄兴介绍,加入同盟会,为评议部评议员。次年,回上海参加同盟会东部支部工作,约集同学集资创办中国公学。6月,在上海迎接章太炎出狱,派专人同章去日本与孙中山晤见。光绪三十四年,又去日本入大森体育会。次年回国,先后在南京、汉口谋炸清总督端方未成,后又赴北京谋炸摄政王失败。宣统三年4月27日参加广州起义,同熊克武、喻培伦等16人,组成小分队,攻打两广总督府受伤被捕,经营救出狱,于7月回川参加重庆起义,先后任蜀军政府参谋总长、中路总指挥、川南总司令等职。
〇大森体育会の「教員」の名前が窺えるサイト
暑假期间外祖父还与李根源、李书城担任留日学生创办的“大森体育会”的教员,教授军事知识。
〇「大森軍事講習所」と記すものも
孙武(1880—1939),湖北夏口人,同盟会会员,中国近代民主革命家。1896年考入武昌武备学堂。1900年参加唐才常汉口自立军,被推为岳州司令。1904年9 月赴日本,入成城学校习陆军。1905年11月归国,加入武昌日知会,并帮助刘静庵办江汉公学。1908年夏再往日本,入大森军事讲习所,研究野外战术及新式炸弹;8月与焦达峰等在东京组织共进会,任军务部主任。不久被推为湖北主盟;旋回鄂策划革命。1909年编会党为五镇,旋赴梧州参加起义;事败退居香港,加入中国同盟会。1911年被武汉共进会、文学社等团体推为主席。辛亥革命武昌首义的组织者之一。武昌起义后,任湖北军政府军务部部长,1912年3月自行引退。1915年12月任参政院参政。1922年,鄂督萧耀南委其为汉口地区清查督办。1926年夏,任湖北地区清查督办。北伐军抵武汉后退居北平。1939年11月10日,病逝于北京史家胡同。
〇「大森体育講習会」と記すサイト
趙伸:(1876——1930)字直斋,号雄飞,嵩明人,增生。原欲学矿学。选送日本成城学校留学,参加同盟会,与李根源等创办《云南》杂志,任总经理。1908年,倡设“云南独立会”,与黄兴创设“大森体育讲习会”,培训革命军事人才,并担任党内暗杀部副部长。日本警方侦捕急,潜走广西,充任江右镇管带。辛亥回滇,筹设云南同盟会支部,任副支部长,创办《天南日报》。民国元年(1912),任省参议会会长。曾筹办修治嘉丽泽水利工程,任水利局局长。护国军兴,任云南兵工厂会办。赴日本购办枪械。民国十二年(1923)国会重开,当选参议院议员。曹锟贿选事起,偕诸议员南下护法,旋回滇任省府军事参议。著有《立体战术》一书。
作者:赵以炯状元文化研究
链接:http://www.jianshu.com/p/adbb6aae4cc6
〇朗凈『近代体育在上海 (1840-1937)』から関連個所をメモ
从初级、优级师范学堂毕业的学生,成为教师队伍的主要力量。
如前所述,他们去各个学校任教师,并非专教ー门,而是兼任的性
质,所以,从这些学校毕业的教师,日后许多兼任体操课程。
除了一般的师范学堂之外,政府开始号召在师范学堂之中设置
专门的体操专修科,这也得到了地方的认同和响应。
“体育宜振兴,晋俗俭而弊在惰,宜培养其活泼进取之志气,故
体操甚紧要。但讲求体育,先宜养成教员,以前多用武备出身人员
充当,甚不合宜小学体操,意在令国民体力发达,非所以养成技勇。
凡为教员者,必须略道教育卫生之理及讲求教授之法与夫一切游戏
运动,此非武备卒业生所能胜也。宜遵照部电,迅于师范学堂附设
体操专修科,聘学力相当之教员教学生数班为校外生,不给餐不住
宿,讲筵即借师范讲堂充之,岁增经费有限而功效实巨。至一切学
堂亦必以体育为最要之学科,又省内隙地甚多,宜辟公共运动场以
导晋民,养成好勤动之习惯,此当注意者ニ。”①
除了在师范学堂中设置体操专修科,各地也开始发起建设专门
的体操学校。培养专门的体操人才。
师范类学堂的大致情況如上,除了上述学堂,新政期间的还有
关于女子学堂、实业学堂等等新式学堂的规划,其中都有対“体操”
课程的设置。
清末新政,废科举、派游学、兴学堂,是共同推进,互为因果的。
所以除了对于学校的立法与规划之外,派遣大批的留学生出国学
习,也是教育改革的重要内容。进入20世紀,掀起了留学日本的热
潮,直至1907年这股热潮才有所減退。这些留学人员可分为两个①《山西师范学堂调查意见》,《东方杂志》第5年第3期,教育第62页。
层次,“一个层次是由清政府或各部院、督抚派出的游历职官,即所
谓考察学务官员,许多自费出国考察的各级办学人员亦可纳入此
类;另ー个层次是广大官费、自费留日学生。”①
我们在当时的文献中可以发现,这些出外游学的人员,为我们
带来了国外最新的教育状况,其中也包括体育教育的状況,例如日
本早稻田大学,为清留学生开设的课程表中,就有兵式体操和体操
课;另一方面,留日学生中读师范、学教育者占多数,他们归国之后
形成国内新型的教师力量,为体育的建设也作出了很大的贡献。
以上我们大致梳理了猜末“新政”时期教育改革对于体育的影响。
下面我们逬入上海,具体宥看一下这段时期上海的体育教育状况。
新政期间,由于受到官方的支持,加之原本就有的办学传统,上
海兴起了办学热②,到1911年为止,上海公、私立各级各类学校大
多采用了新学制,上海教育基本形成了从幼稚园、小学、中学到大
学,包括エ商、体育、师范等专业的近代教育体制框架。
第一,普通学堂方面,上海县在这一时期创办了约131所初等
小学堂、34所高等小学堂、6所中学堂、3所国人自办的高等学堂,
均为私立学堂。这些学校大部分设有体操课程,例如1901年创办|
的澄衷学堂,课程有国文、英文、算学、物理、化学、博物、图画、体操
等,澄衷后来形成了以体操技巧见长的特色;1905年创办的龙门师
范附属小学堂初等小学科目有修身、讲经读经、国文、算木、体操、图
画、唱歌、手工。而1907年创办的浦东中学堂,不仅科目中有体操。
教学及管理上也注重德育及体育,力图养成学生朴实、整洁、勤奋的
品格和活泼、健康的身体。该校在组织学生远足、挙行体育大会等
活动中,工作颇为得法。
① 陈学恂主编:《中国教育史硏究》近代分卷,华东师范大学出版社2001年版,第154 页。
② 参照《上海近代教育史》。
第二,上海开办了初等、中等、高等各类实业学堂。
第三,专门学堂方面,上海设立了医学、体操、师范学堂等。
最值得关注的是体操类专门学堂的设立,1908年,浙人徐ー冰
在上海黄家阙车站路创设中国体操学堂,该学校得到清政府资助并
准予立案。中国体操学校,是我国近代第一所独立设置、专门培养
体育师资的学校。它的办学宗旨是提倡正当体育,发挥全国尚武
精神,养成完全体育教师,以备教育界专门人才。”学生的报考条件
是品性纯良,身体健全,国文精通,年在十六岁以上,二十四岁以
下。”学校制订了我国第一个近代体育专门学校章程,从宗旨、学制、
课程设置、招生、升留级、奖惩、考试,以及交学费等方面都作了规
定。学习的科目有兵式体操、器械、游戏、柔术、击剑、生理、医学、音
乐等。课本多由日本翻译而来,毕业生也多从事体育工作,早期许
多重要的体育学校的创始人均出自其间。后来,由于上海场地有
限,对体育教育带来许多困难,故1920年徐ー冰将学校迁至家乡南
浔。中国体操学校自创办到結束,办学共16年,计36届,毕业学生
达1531人,为我国体育界造就了一批优秀人才。
值得我们关注的还有徐ー冰本人,他正是东渡日本,学成归来
的留学生。徐ー冰1905年留学日本大森学校,专门研究西方体育,
主张体育救国和“正当体育”,力主改革只重兵操的学校体育。1907
年回国后曾任爱国女学、中国公学等校的体操教练,曾在上海华商
体操会传授所学柔软操、器械操等。1908年中国体操学校创立后
主持校务15年,同时从事教学和体育技术与理论研究。1909年徐
一冰和高仲南主编的《体育界》杂志创刊,这是国内迄今为止发现的
最早的体育刊物,内容分论文专著、体育史、体操游技资料、教授法、
体育新闻、小说、译文、杂谈,等等。1914年进ー步向全国创编发行
《体育杂志》,他还编写了我国最早的体育史讲义,著有《徐氏体育
学》、《体育原理》等。
另外值得关注的是,中国体操学校的学生在辛亥革命上海光复时,参与革命,攻打上海制造局。 PP.107-110
〇林伯原『近代中国における武術の発展』から関連個所をメモ
上海の中国体操学校以外にもさまざまな体育専門学校について紹介
清朝は新しく施行した学校制度の中で武術の内容を規定しなかったが、新学校が発展して行く過程において武術は中国伝統の体育として一部の学校で注目され、課程の中に取り込まれていった。
初めて武術を体育の授業に取り入れたのは、一部の体育専門学校であった。例えば、清の光緒31年(1905年)、婁県の人、何東(字は亜雄、ブルジョア民主主義革命の同盟会の会員で日本の早稲田大学を卒業した)が設立した体操伝習所は松江城西祭江亭勧学所内に立てられ、五人の教師を招き、経費は婁県政府が半額を負担し,残りの半分は自ら募集を行った。学校教育年限は、半年を一期とし、科目には武備(武術等の内容を含む)体操、運動、課間操(授業と授業の合間に行う体操)等があり、第一期として、華亭、婁県、金山、青浦、南江、奉賢、上海等から43人を集めた。大
半は在職中の教師であり、合わせて四期にわたって運営された。1908年、何東が病死したことにより、その活動を停止した。1906年11月16日(一説には1908年2月28日)、徐傅霖、徐一冰、王季魯は上海で中国体操学校を設立した。場所は上海北浙江路北興坊で、学校の宗旨は“正当な体育の提唱、全国の尚武精神の発揚、教育界の専門的人材となる完全な体育の教師の養成”であった。学校教育年限は本科(一年半)と専科(卒業の年限は特に定めず、学校を出る際に選択した科目の履修証明書を発行した)の二種類があった。実科の中には、普通体操、軍隊体操、遊戯、射撃術、教学法の他に、拳術科が設けられていた。1908年に設立された四川重慶体育学校もまた、武術を授業科目の中に取り入れていた。この学校は、中学校と高等小学校の体育の教師を養成することが目的であった。学校教育年限は一年半で、三つの学期に分かれていた。授業は学科と術科、随意科の三つに分けられており、随意科の中に拳勇(拳術)と刺刀術(刀術)の二種類があった。 1910年上海ではさらに中国体操学校女子部(王季魯が校長を兼任、1913年には女子部を中国女子体操学校と改名した)が設立された。この学校は日本舞踊と中国武術で有名であった。1911年、北洋法政学校では“体育を重視し、「技擊(即ち武術)」科目を増設し、精神を奮い立たせることを決定”し、張恩緩の推薦によって形意拳の劉殿琛を武術担当教師とすることが決められた。当時、“全校の学生のほとんどが彼について武術を学び、授業以外の練習も欠かすことがなかった”という。
—部の体育学校で武術科が設けられたほかに、普通学校の中にも武術科を設けるところがでてきた。例えば天津官立中学校は1901年に創立され、最初は学校の名前は「天津普通学堂」と呼ばれ、1903年に「天津官立中学校」と改名した。課程には武術科が設置され、週に2回、2時問が課されていた。また、課外活動にも学生の自由に組織した「武術会」があり、武術家である李星階の指導を受け、拳術、刀術、花槍、棒等を練習し、毎年の学校の建学記念日(学校祭)にあたっては演武が行なわれていたという。1907年、湖南の劉蜀生は奉天女子師範学校に招かれて武術(剣術、柔術)、体操の授業を設けた。1907年-1908年、湖南長沙中学校、湘潭県中学校で国技科(武術科)が設けられた。山西『河津県志』の記載によれば“清の宣統1年(1909年)、蒙養学校で「拳術科」が設けられ、本県の学校体育の始まりとなった”という。
1905年には、四川省で省内の学校が参加して第一回の近代運動会が開催された。運動会の種目は多数に及び、普通体操、兵式体操、競走と擊剣等があった。撃剣は武術の項目であり、武備学校の三十名の生徒が代表隊を組織して演武を行うというものであった。1907年江蘇省南京で第一回学校連合会運動会が行われ、宏育書院、高等府中、浙江公学、両江師範、上江公学、湖南公学、湖北公学、府属公学、旌徳公学、法正公学、旅寧第一女学、寧属師範、陸軍小学、元寧小学、講武堂、憲公練習所、陸師、水師、達材、思益、崇文、商業、実業、高等、測絵、獣医、衛生、蚕桑等八十数校の学校が参加した。競技の行われた種目には競走、武装競走、体操、球技、球類運動、舞踏、武術、馬術等、69種目があった。その中で武術は撃剣競争、刺槍競争、柔術競争の三種目が含まれていた。ここで言う競争とは、試合の意味であり、現存の史料では限界がありどのように試合したのか判断できないが、30年代の資料によると、擊剣競争は樹脂でできた竹刀の様なものを用いて互いに打ちあう試合であり、刺槍競争は搶頭(槍先)を外して戦う試合であった。また、柔術競争とは実際には角力の試合で
あった。1910年湖南長沙で第二回公立、私立学校連合運動会が行なわれ、国技を競技種目の一つとしたのである。これらの運動会で設置された武術の項目の中からも、当時、一部の学校において体育課或いは体育活動等の形で武術がすでに取り入れられていたことがわかる。つまり、学校の体育課程の中へ武術の授業の設立を押し進める動きをはっきりと示していた。
このように、当時武術は一部の学校の体育課の中に取り入れられつつあったが、武術そのものの発展から見ると、普通学校の中に取り入れられていくまでには相当の困難があったと言わざるを得ない。まず第一に、学校体育において武術の授業を行う上での研究がなされていなかったことがある。一般に学校体育における武術の授業は民間伝統技藝の延長線上にあり、後にある人が以下のように指摘している。“わが国では以前から文を重んじ武を軽んじてきたが、庚子之変(1900年の義和団運動を指す)等もあり、旧来の武術のことを敢えてロに出す人はいない。練習している人々もいるとはいえ、個人の身体のために行っているだけであり、教授方法の研究は欠如しており、団体を対象にしたり、学校に取り入れようとするならば困難は倍増するであろう。第二にその時代、武術に関する科学の研究もまた為されておらず、多くの場合は一般的に健康になる、といった程度の認識しかもたれていなかったため、武術に対する誤った認識も多かった。20年代までも体育界の人々の多くは“国術は陳旧な項目で、すでに時代の流れに合致しなくなっていると孝えており、これを提唱する人の数となると非常に少なかった。”このことは、学校体寿として取り入れられて行く上で障害となっていた。さらに、第三に、学校課裎としては教材が必要であったが、一部の明清時代の著作以外には武術教育に関する新しい著作がまた為されていなかったから、このことは武術の普及をますます困難なものにしていた。一方では、西洋体育に関する著作の翻訳や、これらを紹介する目的の著作が絶えず出版されておゆ、光緒26年(1900年)に湖北武備学校が出版した『湖北武学』ではドイツの軍隊休操と日本の中学校と師範学校で教えられている普通体操が系統的に紹介されており、それぞれの動作毎に説明と、要領、合図の拍子が示され、挿図が付されていた。光緒30年(1904年),上海広学会が出版した『体育図説』は上•下巻に分かれ、上巻では徒手体操、下巻では哑鈴練法を解説し、いずれも図が付けられていた。しかし、当時武術に関してはこうした類の本は未だに出版されてはいなかった。
このような状況にもかかわらず、武術は中国の伝統体育項目として一部の学校において非常に重要視されていた。特に1909牛から(清朝の滅亡3年前)全国に広まったルジョア革命運動が発展していったことと、西洋体育が絶え間なく中国に入り込んでいったことに伴って武塾や武道場が中心となった武術教育形式は徐々に変化を生じでいった。1911年6月、北京で開催された近代中国における第一回の全国教育会議において,“高等小学以上では拳術を併せて学ばなtナればならない”という内容が『定軍国民教育主義案(国民に対する軍事教育を求める提案))』中に盛り込まれることになった。これは、各方面から練武(武術の練習)が提唱され、圧力が高まってきた結果決議案に入れらたものである。そして、この基礎の上に、民国初年、教育部は武術を学校課程の中に盛り込むことになった。林伯原『近代中国における武術の発展』PP.181-183
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