中国武術雑記帳 by zigzagmax

当世中国武術事情、中国武術史、体育史やその周辺に関する極私的備忘録・妄想と頭の体操 ※2015年2月、はてなダイアリーより移行

霍元甲の上海来訪と逝去

前回のメモを書いているとき、南洋大学技撃部が精武体育会から講師を呼んでいたことを確認しようと思い、精武体育会関係の本をいくつか見ていたら、霍元甲の没年を1909年9月としているものと、1910年9月としているものがあることがわかった。

 

1.

1909年説をとっているのは、たとえば笠尾恭二『中国武術史大観』、林伯原『近代中国における武術の発展』、昌滄、周茘裳主編『中国武術人名事典』など。

 

中国武術人名事典』の記載は以下のとおり。

霍元甲 (1869-1909)

1909年英国大力士奥皮音到上海赛艺,辱我民族。霍应上海武林友人之邀请前往,与奥皮音约期比武,奥皮音未敢交手而逃。是年6月,在武术界同仁协助下,在上海创立精武体操学校,任主任教师,传授十二路潭腿等武术技法。数月后病逝(一说是日医秋野暗害,中毒而死)。

次年,陈公哲等在原精武体操学校基础上组成精武体育会,奉其为该会创始人。

◎『中国武術人名辞典』

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中国武術史大観』、林伯原『近代中国における武術の発展』は基本的に陳公哲の『精武会五十年 武術発展史』に基づいている。そこでは奥皮音が上海で中国人を「挑発」したのは1909年の「春」、奥皮音の敵前逃亡を経て、精武体操学校が6月(陰暦)に設立されるも、同年9月(陰暦8月)に霍元甲が逝去したと記されている。精武体操学校から精武体育会への改称(精武体育会の成立)は1910年3月3日(宣統二年正月二十二日)で、霍元甲の死後。

 

2.

ところが、国家体委編纂『中国武術史』や楊祥全『津門武術』、さらには上海精武体育総会の公式ウェブサイトでは霍元甲の没年を1910年9月としていることに気がついた。

上海精武体育総会のウェブサイトの記述から、霍元甲の上海来訪から死去までの流れをピックアップしてみるとおおよそ以下のとおりになる。

◎トップページ

上海精武体育总会

◎以下は、参照したページ

http://www.chinwoo.org.cn/page/section/25

http://www.chinwoo.org.cn/page/section/13

 

 ・1909年(宣統元年)冬、奥皮音が中国人を挑発

 ・同年12月下旬、霍元甲が上海に来る 奥皮音と翌年春に勝負をすることを約束

  ※年初の「時報」に張園比武の広告が掲載される

 ・1910年4月 霍元甲、劉震声を伴い再び上海に来る。奥皮音と勝負の詳細を談判

   4月14日、試合当日に奥皮音は姿を見せず

  ※4月23日の「時報」に、試合の延期についての広告が掲載される

 (※ 4月19日~21日「時報」に三日連続で、中国大力士の名義で、腕比べの希望者や、学習希望者に向けた告知が掲載される)

  ※6月14日~26日まで「時報」に中国精武体操学校の設立に関する広告が掲載される。設立大会(?)は6月20日とされ、 広告には霍元甲の落款がある

 ・7月7日(陰暦六月初一)、精武体操学校が成立

 ・日本人医師の薬を飲んだあと、病状が悪化した霍元甲は2週間後に逝去

  (時期についての記載はないものの、上海にきてから6ヶ月後のことであったと紹介されているので、2回目の上海来訪から半年後の1910年9月と考えられる)

 ・1911年3月3日 旱橋万国商団中国義勇隊旧址に「第2校所」が完成

 ・1916年4月 藍橋倍開尔路73号新校所に移転、同時に精武体育会と改称

 

そもそもの発端である奥皮音の「挑発」時期から違っていて、精武体操学校の成立は1年のズレがある。

 

3.

 楊祥全『津門武術』は、霍元甲の上海来訪については陳公哲の上掲書を引用しつつ、1910年7月7日に「精武体操学校」から「中国精武体操会」へ改名され、1910年9月14日に霍元甲が逝去したと記しており、折衷案のような形になっている。この記述だと、霍元甲は1年半上海にいたことになってしまうのと、7月の精武体操会への改名の説明箇所で引用している陳公哲『精武会五十年』の文章「学校之设,原为安顿霍先生,以传其艺耳,今霍先生既逝,将何所传。且以学校为号召。未免范围太狭」(P.195)は、もともとは、1910年3月の新校所への移転と、精武体育会への改称について述べた箇所であり、引用としては不適切だと思う。且つ、「今霍先生既逝」とあるように、この時点で霍元甲はすでに亡くなっている前提の文章なので、10月に亡くなったという説明とあわせて用いることにも矛盾がある。

 

ただし、同書では、注釈の形で、未公開の『上海精武体育総会会史』によりつつつ、精武会公式ウェブサイトのような説があると紹介されている(P.194の注③)。

◎楊祥全『津門武術』

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4.  

 邱丕相主編『中国武術史』はさらに違っていて、奥皮音が中国人を挑発したのは「1909年春」、霍元甲がやってきて「6月」に比武をすることがきまる。(ここまでは1.と同じ。)約束どおり霍元甲が6月に上海に来ると、奥皮音は「南洋」に出かけていることがわかり、比武の日時は「1910年3月」に改められる。ところが、霍元甲が2010年3月に上海にやってくると、奥皮音は今度は「漢口」に出かけており、やはり比武は成立せず。・・・ということで比武は成立しないものの、この間に霍元甲の名声が高まり、学校を作ることが決められたのだという。「新青年」に掲載されたという蕭汝霖の文章からの引用がある。学校の成立時期は具体的には記されていないけれど、1910年7月に、「精武体操学校」から「精武体操会」に改名、霍元甲の逝去については1910年9月14日としている。

 上の両説とくらべても、いささか独創的な香りがする。これ、大学の民族伝統体育専攻のテキストのはずなんだけど、こんな記述でいいんだろうか。

 

◎邱丕相主編『中国武術史』

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 ◎蕭汝霖の「大力士霍元甲伝」。蕭汝霖にはもう一篇「述精武体育会」という文章があるようで、同時期「新青年」に掲載。上の引用は後者からだと思われる。

大力士霍元甲传(萧汝霖)_自然门吧_百度贴吧

 

 ついでに、以前にメモした聶宜新編著『話説摔角与上海』をみたら、これもまた違っていて、精武体操学校の成立を1910年3月と記していた(P.132)。逝去は1910年9月の説が採用されている。

 

zigzagmax.hatenablog.com

 

5. 

 なんだか見るものすべて違う説明になっていて、どうしてここまで違ってしまうのか、理解に苦しむ。そもそも奥皮音との交渉の通訳をしたはずの陳公哲が、いくら回想録といっても(いや、正式な回想録であるがゆえに、というべきか)、一番重要な霍元甲の上海来訪とその逝去の時期を書き間違えることがあるんだろうか。

 

未公開の『上海精武体育総会会史』にどのようなことが書かれているのかわからないけれど、公式ウェブサイトの説明にあるとおりの時期に、「時報」に広告が掲載されているならば(上で整理した際に※印をつけた時期)、それが一番の客観的な証拠になるかもしれない。その場合は1910年説が大きく有利になるだろう。

 

ただ、それでも旧説(1909年逝去説)が捨てがたいと感じるのは、1919年に、精武体育会は設立10周年を記念して『精武本紀』を出版していること。そこには孫文も、民国八年(1919)10月20日付で序文をよせている(注)。「国父全集」のウェブサイト。この場合、精武体育会の前身である精武体操学校の設立を1909年とし、そこから起算しないと辻褄があわない。

 精武体育会自体が、どこかでその設立にかかわる公式見解を変えたということだろうか。

 

sunology.culture.tw

 

6.

精武体育会については、関連書籍が多いので、以上のメモは手許に入手済みの本の一部や公式ウェブサイトを見ての疑問に過ぎない。

関連書籍としては、2007年に上海市虹口区人民政府が制定した『2008-2010年精武体育三年保護計画』に基づいて、上海社会科学院出版社から、設立当初の10種類の刊行物が復刊されている。そのほか、『精武本紀』も再版されているようだけれど、現時点では残念ながら未入手。

この叢書のうち唯一手元にある『精武内伝』(1923刊行)をみたところ、「精武先民国二年成立,民十一即精武十三年」(P.2)という不思議な記述があった。

民国二年(1913)成立というのは、上に見たどの説明とも一致しない(苦笑)し、もし民国二年成立ならば、そもそも民国十一年は精武十三年にはならないはず。単なる誤植なのか、誤植だとして、それは1923年当時からすでに誤植なのか、再版の際の誤植なのかはわからない。もし機会があれば、原版も確認してみたいところ。

 

◎羅嘯敖『精武内伝』

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この問題、専門家の間ではすでに決着済みなのかもしれないけれど、そういう説明はどこにも見つけられなかったので、とりあえず疑問としてメモしておく。諸説があるのはいいとして、本を書いたりするときに諸説を比較検討したりしないのかなあ。

「毒殺」説よりも、こっちの方がよっぽど謎だし、中国の専門家にはしっかりした見解を示してほしいと思う。

 

 ◎関連メモ

zigzagmax.hatenablog.com

 

(注)

孫文は、精武体育会の活動をあとから支持したというよりも、農勁蓀、陳其美といった、精武会(体操学校)設立の立役者との繋がりから、設立当初から「名誉会長」に任じていたらしい。西青区政府のサイトから。

 霍元甲与孙中山

  孙中山先生与精武会有不解之缘。

  霍元甲在上海创办精武会时,背后就有孙中山和陈其美的支持。据农劲荪之子农彼得给霍元甲之孙霍文亭来的信中说,精武会成立之初,霍元甲是技击部主任,农劲荪是精武会第一任会长,而孙中山是第一任名誉会长。因当时还属清朝末年,孙中山不宜过于暴露,就没公布。

霍元甲与孙中山和同盟会」西青区政府ウェブサイト

http://www.xq.gov.cn/whly/system/2011/05/24/000005845.shtml