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中国武術雑記帳 by zigzagmax

当世中国武術事情、中国武術史、体育史やその周辺に関する極私的備忘録・妄想と頭の体操 ※2015年2月、はてなダイアリーより移行

南洋大学技撃部

今年創立120周年を迎えた上海交通大学は、大学における「技撃運動」においても古い歴史を有するらしい。120年の校史を振り返る中で、その点に焦点をあてた記事が学校の公式ウェブサイトに掲載されていて、興味深いのでメモ。(出典は王宗光主编、欧七斤编著《上海交通大学史》第二卷“创建近代工科大学”らしい。)

記事によると、もともとの発端としては、1910年、ある偶然の出来事から附属中学の学生・向紹洪に「南拳」の心得があることがわかり(注1)、彼を教員として数十人の学生が「技撃」を学び始めたらしい。あわせて、精武体育会からも劉振声、趙冨有、趙連和を招き、彼らは交替で指導にあたったという。
非公式な活動がこのような配慮を受けたのは、改革論者で国学にも造詣の深い唐文治校長の理解が欠かせない模様。設立間もない時期の精武体育会としても、教員派遣はわたりに船であったのではないか。

 

○唐文治校長

baike.baidu.com

劉振声らが着任した具体的な時期がよくわからないけれど、それほど長い期間にはならなかったようで、1912年の春には離任している。その後も学校は、温州の某寺から倉演・粛謙(蛤蟆功)を招き、同年秋には技撃部が正式に成立。当初の会員は100名を越えていたという。学校ではさらに劉震南形意拳、六合拳等)、李存義(形意拳)、劉世傑(白水功)などの武術家を、それぞれ短期間ながら相次いで招聘、教授体制は1914年に再び劉震南を招へいした際にようやく落ち着いて、劉震南は1930年まで教官を務めている。(1914年から1930年までだと、普通に考えると16年近くになるけれど、本文では「長達14年」となるので、どこか年代にズレがあるはず。)
ちなみに劉震南の月給は、宿舎なしで30元、これに対してアメリカ人の体育教師・モリソンの月給は数百元だったという(注2)。

 

○次の写真は、引用元の記事では「民国初年」とかいてあるけれど、
 劉震南の着任時期からすると、「民国初年」という説明には疑問が残る。

(同じ写真が西安交通大学のウェブサイトにもあり、1915年と記載されている。こちらのほうが正しいように思われる)

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出典:上海交通大学建校120周年

 

技撃部が「正式に成立」ということの意味がまだよくわからないけれど、正式設立から10周年までの間に、18人に卒業証書(4年間成績優秀であったもの)を出しているとかかれている。「専攻」ではないようなので、単位認定証のようなものが発行されたのだろうか。その主力は附属中学の学生(体育科目として、ボーイスカウト、技撃、体操の中から一つを選択)ともあるので、中学生を中心にしつつ、希望する小学生や、大学生が含まれていたと考えられる。

なお、創立10周年までの間に卒業証書を得たという18名の名前は以下のとおり。


黄照临、鲍国宝、伍渊、叶舒瑶、王寅清、张令采、张孝友、李果能、吴维翰、汤辅成、华寿奎、费福焘、高谓初、陆定一朱麟五

 

1922年、学校が南洋大学という名前だったころ、この技撃部が10周年を迎え、「南洋大学技撃部十周年記念册」という冊子が作られている。
ちなみに、この冊子は駒込の東洋文庫にも実物が保存されており、閲覧することが可能。

この冊子は、以前に張之江「東遊感想録」を閲覧しに東洋文庫にいったときに発見して、手にとってみた。出版年代を確認していなかったので、そんなに古い冊子であるという意識がなく、学生の手作り感満載で楽しい冊子だったという印象しかもたなかったけれど、いずれ再訪してもう一度確認したい。

 

〇1922年、設立10周年当時の写真

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出典:上海交通大学建校120周年

 

〇1930年の技撃活動

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出典:::上海交通大学党史校史网::

 

武术运动的蓬勃开展
[编者按]2016年4月8日,上海交通大学即将迎来一百二十岁华诞。从南洋公学到上海交通大学,交通大学建校至今始终以振兴中华、造福人类为己任,在跨越三个世纪的风雨历程中谱就了薪火传承、思源致远的历史篇章,也汇成学校文化和精神的宝贵财富,见证了中国近现代高等教育从涓涓细流汇成滔滔大江的历史印迹。值此欣逢校庆之际,特推出“120周年,交大曾经走过”“交大印迹”专栏,彰往考来,发扬踔厉,崇树风徽。
技击,即武术,是一种用于搏击的武术,它是我国民族传统的体育项目之一。本校的技击运动发起于1910年,是我国开展技击运动最早的学校。1910年春,一位外籍教师在试验机器机车时,轮转如飞。这时,附中学生向绍洪以臂一挡,车轮立即停止,一时间惊动校内外。后来得知向绍洪精熟南拳,臂力过人,能运气,气到处刀剑不能入。校长唐文治闻之后十分高兴,就聘向绍洪担任技击教练。初期,跟他练习的有数十人,这时本校有组织的技击运动的开端。
唐文治对于我国传统体育项目的技击推崇备至,竭力鼓励更多的学生习练技击。在为技击部成立10周年纪念册所撰跋文中,他申明了当年倡导技击的深意:“提倡技击者,则正欲以吾国固有之体育良法,以使吾民族有发扬蹈厉之精神,勇敢振奋之气概,以求达其国内之安全,俾世界日臻和平者也。”又说:“发奋有为之精神,必寄于发奋有为之体魄,是余昔年所以提倡技击之意也。”技击运动开展起来后,参加人数愈多,向绍洪因功课学习繁重,辞去技击教练兼职。唐文治决意扩展技击运动,另延请武术界名师、寺院高僧来校掌教,先是聘上海精武体育会著名拳师刘振声、张富有、赵连和三人轮流来校担任拳术教练。刘振声等皆是武术大师霍元甲的高足,武艺精湛,精于北拳,他们来校后推动了学校技击运动的开展。
1912年春,刘振声等离职,学校聘请温州某寺高僧仓演、肃谦两人教授蛤蟆功。9月,本校代办商船学校迁往吴淞,唐文治拨出所余校舍一间,作为学生练习拳术的专门场所。是年秋,学校正式成立技击部,确定以“发扬国粹、强健身体”为宗旨,推举附中学生黄照临、李鸿儒担任首任正、副部长,订立规则,购备器械,制订服装,当年会员即达百余人。1913年春,仓演、肃谦两僧离校,由黄照临介绍精武体育会刘震南传授心意六合拳法,同时王芝祥将军介绍深州李存义来校授形意功。数月后,两拳师离校,唐文治复聘湖南刘世杰传授白水功。1914年春,刘世杰得军界要职离校,唐文治复请刘震南来校执教。
刘震南(1860-1934),曾用名刘同岭,字寿山,人称“震南天”,山东德州德平县(现临邑县)人。少习武术,谙熟武当太行拳、心意六合拳形意拳等,曾中武举。中年在张家口一带设镖行,辛亥革命前夕来沪加入精武体育会,另创办中华国技传习所,广收门徒,从学者甚众,武术名家顾留馨、唐豪、任志傲皆出其门。刘震南第二次来校后,在唐文治及后来主校者的礼遇下,长期担任技击部教练,任职直至1930年,先后长达14年之久。任职期间,刘震南始终勤于职守,热心教授,不计名利,深为学生所尊敬。当时美国人体育教授莫礼逊,月薪高达数百元,而刘震南薪俸只有30元,又不供住宿。他每天乘人力包车,准时来校,从不迟到早退。他曾说:“唐校长知我为人正派,不以我为江湖卖技之流,而付我以消除‘东亚病夫’之称的重任,因此薪金虽薄,非所计也。”

在唐文治的大力提倡,刘震南的循循善诱之下,技击运动在校园内日渐发达,取得显著成果,使技击部能与当时上海驰名的精武体育会及体操学校相媲美。1914年,会员周仁山从中学毕业后,留校专任附小拳术教练,使技击运动扩展至全校学生。10月,技击部拍摄了会员搏击照片6张,送至美国巴拿马世博会陈列,颇得外国人赞赏。从1915年起,学校将技击列为校运动会比赛项目,另每年召开全校性技击大会,专来观看技击表演者甚众。唐文治进而认为技击为我国固有国粹,在1915年实行强迫运动时将技击列入必修项目之一,规定以25人为限,每学期小考一次以分优劣,每学年大考一次以定升降,练习四年成绩优良者发给毕业证书。到1922年技击部成立10周年纪念时止,毕业者有黄照临、鲍国宝、伍渊、叶舒瑶、王寅清、张令采、张孝友、李果能、吴维翰、汤辅成、华寿奎、费福焘、高谓初、陆定一、朱麟五等18人。

参加技击部队员的学生,以附中学生为主,也有少数附小、专科学生,当中有凭着兴趣自愿报名参加的,也有选作必修运动的。附属小学学生是自愿报名参加的。到了附属中学时,则必须从童子军、技击或体操三者之中选习其一,一些附中学生将选习技击。从中学三年级起,在打好基础而又认识到技击对健康和自卫的益处,则可以继续深造,就能成为技击部主要队员。技击部以健身自卫为目标,教学步骤一般分基本功、动作、实战三步,练习内容有南拳、北拳及其各类冷兵器,技击部毕业生朱麟五曾忆及当年所学内容:
我在小学从周仁山老师学南拳,中学一年级从刘师学北拳,如练潭腿、二郎拳、六合拳、长拳、行拳、燕青手等。二年级加练简单器械如青天棍、六合枪、昆仑刀等;第三年始,再提高到较难的武器如三节棍、七节钢鞭(又称九节鞭)等,以及从二人到四人的对打,如“三英战吕布”之类。
1916年夏,技击部长黄照临毕业,改由张孝友任部长,后鲍国宝、张令彩、叶舒瑶、金泳、朱维铨先后任部长。次年春,在学校举行的20周年校庆纪念大会期间,表演节目中首为技击,十分精彩,观看者人山人海,技击部声名鹊起。此后相继应邀赴上海青年会、沪江大学、无锡等处表演,屡屡得到各界人士赞许,从而吸引着更多的学生加入技击运动。至1921年春,参加技击部队员增至200余人,成为校内会务最发达、影响最大的体育组织之一。1922年技击部编辑《南洋大学技击部十周年纪念册》,1925年组织编辑出版《技击丛刊》;1930年在上海召开的武术大会上技击部表现出色。此后技击运动在交大一直延续至抗日战争时期,先后长达30余年,是一项很有群众基础的文体项目。技击运动对活跃校园文体生活,以及对中华武术运动的普及与传承,都起到了一定推动促进作用。
来源:王宗光主编、欧七斤编著《上海交通大学史》第二卷“创建近代工科大学”。
单位:党史校史研究室(档案馆合署)

上海交通大学建校120周年

 

注1
偶然の出来事とは、記事によると以下のとおり
「1910年春,一位外籍教师在试验机器机车时,轮转如飞。这时,附中学生向绍洪以臂一挡,车轮立即停止,一时间惊动校内外。后来得知向绍洪精熟南拳,臂力过人,能运气,气到处刀剑不能入。校长唐文治闻之后十分高兴,就聘向绍洪担任技击教练。初期,跟他练习的有数十人,这时本校有组织的技击运动的开端。 」


注2
南洋公学以来、体育に力を入れていることで知られており、1899年には第一回運動会を開催している。(郎凈『近代体育在上海』P.87-88)西洋体育の導入については、こちらページを参照。

::上海交通大学党史校史网::

郎凈『近代体育在上海』から、清末の南洋大学足球隊

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