中国武術雑記帳 by zigzagmax

当世中国武術事情、中国武術史、体育史やその周辺に関する極私的備忘録・妄想と頭の体操 ※2015年2月、はてなダイアリーより移行

少林寺と日本僧 佐藤秀孝「入元僧古源邵元の軌跡」など

天津の北少林寺盤山北少林寺)についてメモした中で、元代の少林寺の中興の祖といわれる雪庭福裕の名前がでてきた。それで、同じ元代に日本から留学して諸寺を遍歴し、嵩山少林寺の首座も務めた古源邵元についての駒澤大学・佐藤秀孝教授の論文(注1)があったことを思い出して読んでみた。

 邵元が嵩山少林寺を訪れたのは、雪庭からはかなり下った息庵が方丈の時代(注2)。天津の北少林寺に伝わる北少林武術は、雪庭によって伝えられたとされていたけれど、仮にその説が正しいとすれば、邵元(21年にわたる在元生活の大半を少林寺ですごしたとされる)も当時の少林寺の武術を眼にしているはず。いや、「眼にしている」どころか、釈永信の『少林功夫』でも、伝聞の形式ながら、邵元は息庵方丈から少林功夫を学んだと伝えられている(「传邵元曾从息庵学习少林功夫」P.157)、としている。邵元は日本に帰国しているので、そうした言い方が本当なら、彼の帰国後の足跡を辿れば、なにか少林寺における修行の成果が残されているのではないかと思われるけれど、佐藤教授の論文の下篇に名前のでてくる、邵元が足跡を残した天龍寺東福寺、播磨の法雲寺(雪村友梅(後述)が開祖)などに、邵元由来の武術が伝わっているという話は確認できない。もっと調べたら出てきたりするんだろうか?

 

邵元はもともと東福寺臨済禅の修行をしており、元に着いてからも、東福寺開山の円爾の人脈を辿るような形で福建や江南の臨済宗破庵派の諸寺を訪問している。それがどういうわけで、雪庭以来曹洞宗を立てている少林寺で修行するようになったのか、そのあたりの経緯はよくわからない。(少林寺とならんで、邵元が一時首座を務めた湖北省の玉泉寺は、関羽信仰ともゆかりのあるお寺で、こちらは天台宗。)

帰国当初は臨済宗夢窓派の天龍寺の首座を務めるなど、もしかすると宗派を超えた活動を望んでいたのかもしれないけれど、結局は「衆議」を経て、本来の派閥である聖一派の中でキャリアを重ねてゆく。その意味では、派閥の論理で押さえ込まれ、せっかくの留学による修行・見聞の成果を派閥を超えて広く還元することができなかったような気もする。もしかすると、他宗に属する少林寺での修行内容を紹介すること自体が、国内仏教界の派閥の論理の中では困難であったのかもしれない。

 

なお、邵元に先立って少林寺を訪れている日本僧に雪村友梅がいる。邵元が請われて一時は主持を務めた播磨の法雲寺は、雪村友梅が開祖の赤松氏の菩提寺

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元代の少林寺といえば、自分の関心のなかでは、武神としての緊那羅信仰が形成されつつあった時期ではないかと思うのだけれど、その点については特にヒントは得られなかった。

 

明代にも無初徳始という日本僧少林寺を訪れているけれど、邵元のように長期にわたって修行したということではなさそう。徳始は帰国しないで明で生涯を閉じている。徳始については佐藤教授の別の論文がある(注3)。

 

◎雪村友梅についての本(未見だけど、面白そう)

 

 雪村友梅 - Wikipedia

法雲寺 (兵庫県上郡町) - Wikipedia

  

◎玉泉寺

www.baike.com

 

少林寺公式ウェブサイトの雪庭福裕についての紹介

 この記事の中に、「元史専家」として馬明達教授の名前がでている。

 福裕以来続く、「七十字輩」もこの記事の最後にでている。

 福裕禅师定下的“少林七十字辈”为:“福慧智子觉,了本圆可悟。周洪普广宗,道庆同玄祖。清净眞如海,湛寂淳贞素。德行永延恒,妙体常坚固。心朗照幽深,性明鉴宗祚。衷正善禧祥,谨悫原济度。雪庭为导师,引汝归铉路。”

http://www.shaolin.org.cn/templates/t_publication/article.aspx?nodeid=207&id=3185

 

 

(注1)

入元僧古源邵元の軌跡 

ci.nii.ac.jp

ci.nii.ac.jp

 

ci.nii.ac.jp

 

(注2)

釈永信『少林功夫』によると、少林寺の「主持時段」は、雪庭福裕が1246-1253にたいして、息庵義譲は1336-1340。

 

(注3)

ci.nii.ac.jp