陳舜臣『新装版 阿片戦争』
長編だし、小難しい感じがして敬遠していたこの小説、活字が大きくて読みやすそうな「新版」が地元の図書館に入っているのを見つけたので、読んでみた。
アヘン戦争前後の複雑な過程が、清朝側は満人官僚と漢人官僚、中華意識の強い鎖国派と経済的利益を考える現実派、広州で外夷への「恩恵」としての貿易の窓口として利益を独占している御用商人とそれらの御用商人のグループから排除されている一般の商人などなど、英国側も政府高官から商社の代表、その使用人など、さまざまな立場から多面的に描かれていて、とても参考になった。
満人官僚と漢人官僚の違いを明らかにするために、満人官僚の場合は、名前の漢字のよみをカタカナで当てているところなども、読みやすかった。
主人公の連維材は、御用商人からは排除された貿易商という立場だけど(そのために、現在の体制が壊れることを望んでいる)、その用心棒的立場で余太玄という武術の使い手が出てくる。
前半、イギリスとの戦争勃発前は、連維材の商売敵(同時に恋敵)の暗殺などをうけおっている。戦争が近づいてくると、団練の教練として注目を集め始めるものの、武術の使い手としてはともかく、団練をまとめる棟梁の器ではないということがある出来事で露呈してしまい、そこから存在感を失ってゆく。結局、戦争の途中で死んでしまうのだけれど、その死に様もとても悲しいものだった。その死は、もはや刀や槍をもって戦う時代ではないことを象徴しているようにも思えた。
その他、このブログの観点から面白かったのは、清朝の正規軍が、呪術を利用してイギリス軍に対抗しようとする場面がでてくるところと、tiger soldierがでてくるところ。
まずは、呪術で対抗しようとする作戦が検討される場面。部下を連れて広州に到着した参賛大臣楊芳が作戦を練るところ。
「解せぬことじゃ。我が方は地上に据えた砲を撃つ。敵は兵船から撃つが、これは水上にあってたえず揺れているはず。それなのに、我が方のうごかぬ砲はあたらず、揺れている敵砲の弾は正確無比に命中したと申すのじゃな?」
「はい、そのとおりです」
軍情報告の副将が答えた。
楊芳はしばらく目を閉じた。
その席に、湖南から随行してきた一団の幕僚がいたが、そのなかの一人が前にいざり出た。軍装ではない。白い獣毛の帽子をいただき、白衣である。長いあごひげまで白い。
楊芳は眼をあけて、その老人をみつめ、
「象法道士はいかがみられるか?」
ときいた。
異形の老道士は、胸をそらすようにして言った。
「妖邪の術でござります」
「敵陣営にも術士がいると申すのか?」
「さよう、それもすぐれた術士でしょう。揺れる船から撃つ砲弾が命中するのは、妖術による以外にはございません」
「象法道士にはその術が破れるか?」
「いうまでもございません。いま、黙想によって、破妖術を按じまする」
老道士は片手拝みの格好で、からだを斜めにかまえた。
彼はながいあいだ『黙想』した。
手をかざして一礼すると、彼は言った。-------
「外夷妖邪の術が最も忌むのは、婦人の尿であります。したがって、敵に圧勝する具は、婦人の尿桶(便器)でございまして、その蓋をとり、その口を敵船にむけますれば、妖術たちまち破れるでありましょう。尿桶の数は多ければ多いほどよろしゅうございます」
それをきいて、楊芳は会心の笑みをもらした。
「さすがは象法道士」
当時の婦人は、別棟に作られた毛坑(便所)へは行かず、寝室の隅を板または屏風で囲い、そのなかに尿桶を置いて用を足した。それを『馬桶』ともいう。金もちの尿桶は漆を塗って美しいので、定海占領の英軍はそれを貯水桶だと思って、飲料水をいれたという。また後年日本軍も、それを飯櫃とまちがえた。
武勲赫赫たる参賛大臣楊芳将軍が、任地に着いて最初に発した軍令は、
------保甲(隣保組織)に命じ、夫人の尿桶をあつめよ。
であった。 第三巻PP.502-504
楊芳の命令によって、特別の筏が組まれ、そのうえにおびただしい数の例の婦人用の尿桶が積みこまれた。一人の副将が数名の部下をつれてその筏にのりこみ、尿桶の口を敵船にむけて、外夷妖邪の術を破ろうとしたのである。
しかしこの『まじない』の筏は、通りかかった小艇のイギリス兵の一隊に捕獲された。副将はもともとまかされた任務を
-----ばかばかしい。
と思っていたので、敵襲をよいことに、筏をすてて逃げた。
楊芳はこの副将を斬刑にしようと思ったが、さすがに周囲の文武官は猛烈に反対した。副将の首は、おかげでつながったのである。
同上 PP.509-510
このエピソードは別の著作でも紹介されているようなので、まったくの創作というわけではなさそう。
◎関連する話題の、以前のメモ
つぎは、虎兵が登場するところ。
寧波城に英軍が侵入してくるのを待ち伏せして迎え撃とうという作戦の中で出てくる。
虎兵というのは、ふつうの皮革衣服を黄色に染め、虎の斑線を描き込んだものを身につけていた兵隊のことである。帽子もおなじように、虎の頭を描いてあった。これで敵を脅そうという、児戯に類する発想でつくられた制服なのだ。虎兵隊は、えりすぐった兵士で編成されていた。体格もよくなければならない。
遺棄された死体をみた英国の将兵は、彼らを奥地か山地に住む別の種族とでも思ったらしい。平均身長は約一七八センチであったと、英軍がわの記録にある。
そんな服装をした大きな兵隊たちが遁走する光景は、ずいぶんはでであったにちがいない。
舐めてかかった相手に、意外に手ごわい反撃を食うと、どうしてよいかわからない。彼らは白兵戦で寧波城を奪取しようとしたのだが、迫るべき敵兵のすがたはなく、いきなり砲弾が降ってきたのである。虎兵の半数が城内で死に、半数が城外にのがれた。第四巻 PP.366-367
◎虎兵についての以前のメモ
◎謝晋監督の映画 「阿片戦争(鴉片戦争/The Opium War)」
当然ながら、小説とは観点が違うところも。
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アヘン戦争を境に、清朝は崩壊に向かってゆくけれど、陳舜臣は列強による侵略という外的要因以外に、清朝衰退のより本質的な理由として、人口の急激な増加によってうまれた余剰人口・流動人口の一部が匪賊化し、匪賊の掠奪から自治体を守るための自営組織が各地で生まれつつあることに触れている。この小説の中では、林則徐が、武装したこれらの集団の矛先が清朝側にむけられることになったら・・・と夢想する場面が出てくるけれど、イギリスとの対決という本書の主題の中では、大きく取り上げられるまでにはいたっていない。そのあたりは、つづく『太平天国』で描かれているのだろうか。『太平天国』も読んでみたくなってきた。