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中国武術雑記帳 by zigzagmax

当世中国武術事情、中国武術史、体育史やその周辺に関する極私的備忘録・妄想と頭の体操 ※2015年2月、はてなダイアリーより移行

周世勤、楊祥全『燕京武術』

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 天津の武術を紹介した楊祥全の『津門武術』という本が面白そうで、著者について調べていたら、掲題の本の著者(周世勤との共著)であることがわかった。

 地方ごとの武術を紹介したこのシリーズは、ちょうど仕事で中国に駐在していたころに出版されたのだけれど、従来にない切り口が新鮮だったこともあり、附属のDVD目当てで一式購入してはいたものの、気になったもの以外、特に本文を通読していなかった。

 『燕京武術』なら持っている、ということで、今回はじめてこの『燕京武術』を通読してみた(通読、と言っても、後半はほとんど附属DVDに収録されている套路の写真解説)。

 第一章は北京の歴史の概観、第二章は北京の武術文化の概観、第三章で具体的な近現代の代表人物、第四章で代表的な流派がとりあげられる。第五章~七章は、DVD収録の八卦掌(梁式。演武者は李子鳴の娘の李秀仁)、三皇炮捶(演武者は張成仁)、戳脚(演武者は李鵬)の解説。

 代表人物として具体的にとりあげられているのは、ここ数回言及している大刀王五のほか、会友鏢局の李堯臣、焦朋林、京城鏢戸(京北李家、京南高家、京東邱家、京西王家)、估衣梁こと梁振蒲、張文広、北京武術隊から映画スターになったジェット・リーこと李連傑。


Shandong Cha Quan 5 [张式查拳五路] - YouTube

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 流派としては、八卦掌、戳脚、三皇炮捶、各種の太極拳意拳などのほか、仏門清拳、戚家拳、内八卦(三皇功、醉鬼張三の功法)、無極拳などの珍しい流派について紹介、さらに李連傑を排出した北京武術隊や、牛街の回族の武術や天橋の大道芸の中に含まれる武術と関係する内容など、コンパクトに纏められていて参考になった。なお、序文に書かれているとおり、1984年から86年にかけて行なわれた発掘調査では61の拳種が確認されているらしいので、ここに紹介されているのはあくまでも代表的なもの。どうせなら、その61流派の名前を列挙してほしかった。

 いくつか不満に思ったところもある。具体的には以下のとおり。

 

1. 人名の間違い

 P.28に、北京市の優秀な競技武術の選手として、李連傑と並んで、李建軍、郝志華の名前があげてある。これは、明らかに「王」建軍、郝「致」華 の間違いだろう。郝「志」華はP.106にも出てくる。P.106ページでは、李建軍の方は王建軍になおっているけれど、戈春燕、1ページ前には喬謀業という名前がでてくる。これも、戈春「艶」、「斉」謀業の誤りだろう。こんな、外国人でも気が付くような間違いがつぎつぎに出てくるのはちょっと勘弁してほしい。

ぜんぜん関係ないけれど、 斉謀業の査拳は昔教習用ビデオも出ていたけれど、すばらしいと思う。王建軍(+趙長軍)、戈春艶郝致華の動画とあわせてはりつけ。

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2. 武田西

  同じく人名の誤りといえるかもしれないけれど、P.51、李堯臣のところに出てくる武田西は、いうまでもなく武田熙。日本の軍官で柔道と八卦ができた、と書かれているけれど、武田熙が得意だったのは通背拳で、中国で書籍も出版されているはず。

 ところで、この本とは関係ないけれど、武田熙に関しては、最近、国立公文書館アジア歴史資料センターのサイトで、二つの資料を見つけた。

 一つは武田が外務省文化事業部の第三種補給生として訪中するに際しての留学計画や途中での留学計画の変更など、留学に関連する一連の文書。もう一つは、その留学成果として自費出版した2冊の著書の外務省による買い上げに関する文書。2冊の著書のうち一冊が有名な『通背拳法』。買い取られたこの本は講道館早稲田大学などに寄贈されており、これらの寄贈先のリストや受領証も公開されている。これは日中武術交流に関する、相当貴重な史料だと思う。

 

3.大刀王五の漢回和解斡旋

 清朝政府は回族と漢族の対立を煽り、互いに牽制させることで不満の矛先が政権に向けられないようにしており(以漢制回、以回制漢)、北京でも農暦7月15日に南横街東口の小東岳廟で行なわれる廟会などで毎年衝突事件が起こっていた。ある年も牛街の回民たちが、同じ回族の武術家である王五に加勢を求めに来たのを、王五が回族、漢族の関係者の間を奔走することで対立事件を未然に防ぎ、関係者から「徳容感化」の額を送られたとのエピソードが紹介されている(P.49)。この本では王五は回族(P.46)とだけ紹介されているので、なぜ彼が両民族の対立を防ごうとしたのか、その理由が説明できていないのだけれど、いろいろなサイトにも紹介されているように(たとえばこれ)、彼は本来漢族で、回教徒の李鳳崗に師事するために回教徒になった人物だとすれば、なぜ彼が両者の対立を防ごうとして奔走したのか、その理由がわかるはず。この点にまったく触れていないのはいささか説明不足というか、もったいない気がする。

 

漢回対立に関しては、馬振邦の伝記では、1950年、朝鮮戦争支援のために組織された表演会で、漢族の選手と回族の選手が対立する騒ぎがあり、春秋大刀をもった馬振邦が漢族の選手の肩に斬りつけ、その選手が血まみれになって病院に運ばれるという事件があったらしい(のちに、二人は仲直りしている)。(『馬振邦武学集・宗師伝奇』pp32-33)

 

4.武士?

 過去のメモでもとりあげたことがあるけれど、P.84では、1939年に呉斌楼が来日したときのエピソードを紹介している。日本の著名な武士「嘉廷真雄」を三手で倒したと書いてあるのだけれど、著者は1939年当時に「武士」がいたと思っているのだろうか?なぜ「武道家」ではなく「武士」という言葉を使ったのだろう。インターネット上の記事ならまだ許せるけれど、学者さんが天下の人民体育出版社から出版する書籍の記述としては書きぶりがテキトーすぎないか?という気がする。1939年の来日というのも、自分は1940年だと考えている。

(「農民道」なる、わけのわからない武道の名前を出していないだけマシというべきなんだろうか。)

 

5. 体育研究社

 この本では、許禹生が1911年につくった団体について、北平体育研究社と書いたかと思うと北京体育研究社と書いていたりして、一定していない。おまけに、 許禹生は同社の副社長に就任、社長には当時の「北京市長」が就任と書いているのだけれど、百度百科を参照すると、袁世凱が北京に臨時首都をおいたときの北京は清朝の旧制にならって順天府と呼ばれていて、その首長は順天府伊、その後京兆と改名されて、首長の名前も京兆伊になったけれど、北平特別市の成立は1928年。1911年当時の北京市長とか北平市長という言い方は、若干正確さを欠いている気がする。

馬力編『中国古典武学秘籍録』下巻に許禹生の『太極拳勢図解』が収録されているけれど、その自序をみると「中華民国十年秋古燕許龗厚叙于(於)体育研究社」と書いてある。同書の「許禹生小伝」も「・・・民国時任教育部専科主事、在学校設国術課、并立体育学校。創体育研究社・・・」(以上の引用、実際はいずれも簡体字)となっており、本当はただの「体育研究社」が正しいような気がする。(社長がどういう肩書きの人であったのかは、今後機会があったら確認しよう。)

ただし、この点については、ある種定説化してしまっているようで、ほかの書籍の情報も似たりよったりで、「北平」体育研究社の社長は当時の「北京」市長が就任したとか、平気で書いているものも多い。(中には、ここのように、二人いた北平特別市の二人の副市長が交代で社長に就任したと書いているものもある。)

  許禹生も、武術家としてより、政治的にミソがついてしまった人なので、中国の人にとっては、彼のつくったものが北京体育研究社だろうが、北平体育研究社だろうがどっちでもいいのかもしれない。(こんな記事も参考になった。)

 

『津門武術』は・・・もう注文しちゃったけど、大丈夫かな。ちょっと不安になってきた。

 

 もっと掘り下げられそうな点も多いけど、きりがないのでとりあえずはこの辺で終了。

 

 2016.1.9追記

戈春艶のインタビュー動画を追加