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中国武術雑記帳 by zigzagmax

当世中国武術事情、中国武術史、体育史やその周辺に関する極私的備忘録・妄想と頭の体操 ※2015年2月、はてなダイアリーより移行

呪術、迷信と武術

陰門陣という、ぶっとんだ戦法があることを、最近読んだ相田洋『中国中世の民衆文化 呪術・規範・反乱』所収の「春画と厭勝 ---中国における性と民俗」という文章で初めて知った。

 

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これは、官軍の用いる大砲を避けるために、民衆が性の力を利用したまじないで、簡単にいうと、官軍の大砲を男性器に見立て、これに対抗できるのは女性器だということで、裸にした女性を並べて立たせると、官軍が大砲を打てなくなると信じられ、実際に用いられたということで、いくつかの実例が紹介されている。

筆者は、この戦法が生まれた時期を、官軍の火砲装備が普及し、官軍と反乱軍の軍事的格差が決定的となる十六世紀後半から、十七世紀初頭ごろと推定している(P.53)。この戦法は、太平天国軍や義和団にも用いられたらしい。

対抗する官軍のほうは、動揺せずに大砲で攻めればいいんじゃないのかと思うのは現代人の発想なのか、この呪術に対抗するために、官軍の側も、兵士や僧侶を裸にして、その男根の呪力を利用した陽門陣という呪術をおこなったり、「おまる」を集めてきて、これを相手に向けたり、清めの効果があると信じられていた犬の血を浴びせたりしたのだという。すさまじい情景であまり想像したくない。

 

あまり深入りするつもりはないけれど、このブログの観点からいくつかおもついたことをメモ。

 

1.

上に書いたとおり、陰門に対抗するには陽具(ひらたくいえば、ちん〇ん)だということで、官軍が、「陽門陣」を用いたケースがある。たとえば、太平天国の乱の際にも、陰門陣に対して、「有力の和尚数十人を用い、陽具(いちもつ)を露出して與(とも)に戦わば、以って之に勝つべし」(P.54)と対抗策が打たれたことがあるらしい。ここで、「有力の和尚」がでてきて思い出したのだけれど、少林寺の武僧たちが、いまでも股間に重たいものをぶら下げて引っ張ったりして、陽具を鍛えている。もしかしてもしかすると、あの鍛錬は、このような実際の戦闘上の需要となんらかの関係があったのだろうか? (たぶん、ないけど。)

そういえば、易筋経にも、つねったり、ひっぱったり、にぎったり、薬であらったり、たたいたりして、ちん〇んを鍛える「壮陽」の法が詳しく記されていて、『武芸叢談』のなかで、龔鵬程は、いったい武芸と何の関係があるのか?と疑問を呈しているけれど(達磨「易筋経」論考)、呪術にまみれた時代においては、実は関係おおありであったのかもしれない。

 時代は異なるけれど、倭寇と戦った少林寺の武僧は、緊那羅への信仰から、顔を青く塗っていたという(釈永信の「少林功夫源於仏教信仰」に、鄭若曽の「僧兵首捷記」に「僧兵臨戦暗約以靛塗面」とあるのを引いて言う)し、これもなんだか呪術的な雰囲気が濃厚だ。

 

2.

戦場で、一方の側が裸の女性を並べて盾にし、もう一方がそこに犬の血をあびせるという呪術の応酬…。あんまり想像したくないけれど、「前近代の戦いは、武力と武力の直接的な戦いのほかに、このような呪術と呪術の戦いという側面が濃厚であり、・・・ この点は、現代の我々には理解しがたいが、看過すべきではあるまい」(P.50)と筆者は述べる。

こういう部分まで含めて考えると、ついこの前のメモに書いたような軍隊武術と民間武術と綺麗に分けて考える前提そのものが大きく揺さぶられる気がする。もちろん、徒手や武器で相手を制する技術が武術であって、こういう呪術や迷信の領域とはわけて考える必要があるけれど、隣り合った領域であることも否定できない。

 水滸伝でも、豪傑に混じって、方術使いの公孫勝の活躍が重要な位置を占めている。

 

3.

迷信ということで思い出した、この本の前に読んだ陳舜臣『中国の歴史 近・現代篇(一)』からの引用。

袁世凱は、義和団員は「渾功」を百日訓練すれば、銃弾を避けることができるというが、それをテストしてみようと言い出した。おどろいたことに、このテストを受けようと申し出る者がいたのである。実は毓賢時代にも、そんなテストがあったらしい。射撃手がわざと弾をはすしたようだ。だが、袁世凱は新建陸軍の訓練を受けた射撃兵に、一斉射撃をおこなわせた。テストを受けた義和団員は、一人残らず死んでしまった。

 

二十万の義和団を迎えた北京は、狂気によって支配されたかのようだった。洋人一人殺せば銀五十両、女の洋人なら四十両、子供は三十両という懸賞がつくことになった。もはや理性のかけらもない。

 西太后は董福祥の甘軍と武衛軍に、公使館区域である東交民巷を攻撃させた。甘軍は一万であり、東交民巷の各国守備兵は、僅か四百にすぎない。それなのに、一ヵ月余りも攻めて陥落させることができなかった。

 礼部の啓秀は、

---公使たちを除かなければ、必ず後患となるだろう。五台山の僧普済は、神兵十万をもつというから、これを召して逆夷を殲滅しよう。

 と、妙なことをいっている。御史の彭述は、

---義和拳の咒文は、大砲を撃たれても燃えない。その術はまことに神わざであるから、夷兵を畏れることはない。

 と、大真面目で言った。徐道焜という人物にいたっては、

---洪鈞老祖(造物主すなわち天)はすでに五龍に命じて海口を守らしめた。夷船は当に尽く没するであろう。

 と、神がかり的なことを口にした。翰林院編修の蕭栄爵は、

---夷狄は君父の道無きこと二千年に及ぶので、天が義民(義和団)に手をかして之を滅ぼそうとするのだから、時機を失してはならない。

 と論じた。王龍文は天下の三賢を、このさい用いるべきだと進言した。彼のいう三賢とは、妖僧の普法、土匪の余蛮子、狂夫の周漢であった。王龍文はまた玉泉山の水をひいて、公使館区域を水攻めにすべしと、無責任なことを言っている。

 御史の蒋式芬は、

---夷人に心を寄せている李鴻章、張之洞、劉坤一を斬るべし。

 と、奏請した。狂気は狂気を呼ぶものであるらしい。PP.259-260

 

民衆の側にも、官の側にも同じように呪術的な思考が宿っている。(袁世凱の冷静さが際立っている気がする。)

 

中国の歴史 近・現代篇(一) (講談社文庫) 

 

4.

今もそうなのか知らないけれど、大悲拳は、もともと、仏教の大悲咒を唱えながら行うものらしい。『京城武林往事』の李秉慈の回想によると、李秉慈は師匠である楊禹廷からの指示で、雲居寺の奇雲和尚(当時は還俗して史正剛)から、4,5年にわたって大悲拳を学んだことがあるという。当時は宗教が認められていなかったので、大悲拳は「柔拳」と名乗り、大悲咒はとなえず、動作だけを教わったというけれど、史正剛は結局その後の文化大革命のなかで紅衛兵によって死に追いやられたという。(pp.111-112)

紅衛兵の熱狂も義和団の熱狂と大差ない気がする。さらにいえば、ときおり起こる、反日のデモも…。

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5.

「刀槍不入」を唱えた義和団からわずか10年ぐらいで、体育としての武術の普及を提唱する精武体育会ができ、それから20数年後には、中央国術館が、国術のPRのために、ベルリンオリンピックに代表団を派遣している。長らく見たかったその映像を最近垣間見る機会があった。現代の競技武術のようなアクロバチックな技はないものの、洗練された動きに目を奪われた。義和団からわずか30年ぐらいの間の出来事であることを考えると、この間の武術家をとりまく環境の変化の大きさと、それを乗り越えて受け継がれてきた武術のもつ生命力のようなものを感じずにいられなかった。この激動の時代に武術家たちがどう対応していったのか。そのあたりをもっと掘り起こしてゆきたいと思った。

 

陰門陣については、(深入りしないといいつつ)中国語で書かれた、以下のような文章も参考になりそう。このページの一番したからアクセス/ダウンロードできる。

 

・ 「陰門陣」新論--明清身體的文化小史

・女體與戰爭-明清厭砲之術「陰門陣」再探