中国武術雑記帳 by zigzagmax

当世中国武術事情、中国武術史、体育史やその周辺に関する極私的備忘録・妄想と頭の体操 。頭の体操なので、たまたま立ち寄られた方は決して鵜呑みにしないこと(これ、肝要)※2015年2月、はてなダイアリーより移行

吉燦忠『同興公鏢局考』

山西省の平遥(晋中市平遥県)にあった「同興公鏢局」に関する研究書で、昨年、北京で購入していたもの。最近、関羽やら水滸伝に関する本を読んで、山西省周辺のことが気になってみたので読んでみた。


「同興公鏢局」は1855年に設立され、1913年に活動を終えるまで、58年にわたって活動を行っていたらしい。最盛期には130余名を擁し、車馬隊や駱駝隊といった輸送部隊をもつ、それなりに規模の大きな鏢局であったようだ(注1)。

設立者の王正清は、1801年生まれ。嘉慶21年(1816年)に北京に出て、麺屋で修行したとき、「大槍劉」こと劉留の知遇を得て十趟腿、六趟大槍、瘋魔棍などを習ったのち、劉留の兄弟子であり、宮廷内で道光帝に武芸を教えていたという賈殿魁の紹介により、宮廷で5年間護衛をつとめ、この間、賈から八趟信拳、少林散手108式などを伝授される。その後、賈の弟子である張正山の推薦により武挙人の常義に弟子の礼をとり、心意六合拳法、四把拳を学ぶ。道光11年(1831年)、江西道台・朱文の教習となる。道光20年(1840年)、上述の張正山に請われて、彼の家でその甥に武術を教えたり、同24年(1844年)には河北省粛寧県朱家荘などで武術を教えるなどなどの経歴を経て、官界・武術界などさまざまな人脈を作ったあと、同28年(1848年)に平遥に戻り、咸豊5年(1855年)にこの鏢局を設立したのだという(注2)。
鏢局というのは、あくまでも・人や荷物を預かり、指定された場所に護送したり、屋敷を警護する「ビジネス」だから、単に腕に自信があるというだけではなくて、地方の官僚を含めて、各方面に顔が広く、政治力のある人が求められたらしい。王正清の経歴からもそのことが垣間見られる。

鏢師には、王正清の門弟や血縁関係者を中心に地縁関係者が選ばれていたという。
門弟ということでいうと、一門は「信拳」や少林散手108勢、綿掌などのほか、各種の武器を修練していたようだ。そのほかにも、渡世人たちの専門用語(江湖語・春点)などを仕込まれたらしい。

巻末に、その拳譜などが掲載されているのだけれど、そのなかに「通臂行拳」とあるのが目を引いた。全部で24勢あるのだけれど、その名称は紀效新書の32勢と一致しており、一部欠落しているとはいえ、戚氏拳法の一部であると思われる。
この拳譜については、本文で特段の説明がないので、抄本なのか刊本なのか、そもそもいつの時代のものなのか、王氏一門のなかでどのような位置を占めたのかなど、詳しいことはよくわからないけれど、個人的には紀效新書の拳法を「通臂(行)拳」として伝える人々がいる、ということ自体が面白いと思った。本文によると、平遥にはいまだに通臂拳が伝えられていて、80年代には研究会も設立されたと書いてあるけれど、どんな内容が伝えられているのだろう。陳家溝の武術との関係が指摘されている洪洞県の武術も通背纏拳といわれているけれど、通臂拳通背拳と名乗る武術の由来や広がりについては、まだまだ不勉強な部分が多い(注3)。

山西商人の守護神たる関羽との関係でいうと鏢局内には関公の廟があり、入門儀式の際には入門者が王正清はじめ一門の先達に加え、関羽の像に香をたき、叩頭の礼をした、ということが書いてあって面白かった。(伝承内容にも春秋刀が含まれている。)

ただ、この入門儀式(光緒11年(1885年))の誓詞として、「本人志願学習中国武術・・・」と書いてあるのは、年代的にあわない気がする。清の時代に「中国武術」などという言い方があったとは思えない。

小ネタとして、鏢師の劉徳臣の弟子の張徳安は書画が得意で、その作品は日中国交回復以前の1964年に日本で出展されたこともあるという。

この本では、同興公鏢局の歴史の中で、請け負った仕事を一度も失敗したことがなかった、と書いてあるけれど、百度の綿掌の紹介ページでは、綿掌の左昌徳(左二把)と、王正清(百度では王正卿)の出会いは、王正清が護送の業務で失敗して、左昌徳に協力を仰いだのがきっかけ、とある。注に掲げた矛盾点も含めて、記述にはあいまいというか、確認不足な点が多いのが気になった。

信拳は、「中華武蔵」シリーズの一つとしてDVDが出ているみたいだ。

http://ishs.sxu.edu.cn/docs/20120922112816417897.pdf


(注1)P.71に、光緒帝中期の人員は130余名に達した、とでている。ただし、P.41では、同じ時期の人数を70余名(うち鏢師が20余名)とあり、記述に前後で矛盾がある。

(注2)P.119-121による。ただし、P.58では、賈殿魁に師事したあと、賈の師兄である「大槍」劉留に、武挙人常義に弟子入りした、とあって、賈殿魁と劉留に師事した順番が逆になっている。

(注3)崔虎剛校注『通背拳』冒頭の「導読」で、崔虎剛はまさにこの問題について、近年の学界の研究成果を整理していて、参考になる。同書のタイトルになっている通背拳の拳譜は、山西文水から出たもので、陳王庭、洪洞通背拳と同一の体系に属するものだという。
 ちなみに、1980年代の発掘調査で、王正清の流れを組む武術家から提供された拳譜に、二郎神拳、弾腿、綿拳、十手芸、少林散手一百零八勢、断門刀、槍等の内容があるらしい。同じ崔虎剛の点校により出版されている『拳譜志三』にはそれらの内容と重なる部分があり、さらに、王系の多くの伝承者の伝える八趟信拳の文字があること、王の早期門人の譜に見られる二郎神拳第9趟譜の内容が見られることから、崔虎剛はこの譜と王正清の関係を指摘している。崔虎剛は、この譜には、姫氏武学に属する内容(「姫氏槍法」、「拳論質疑序」(十法摘要) など)が見られないことから、王正清が常義に姫氏武学を学ぶ前の譜である可能性がある、等としている。(『拳譜志三』「導読」)。
これまで、この人の本は買ったことがなかったけれど、オリジナルの拳譜に即した新しい研究スタイルかもしれない。
外国人として、これらの拳譜を自分で読み比べたりするだけの知識・時間はないけれど、ちょっと注目しておきたい。

2021年9月5日
注3を加筆