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中国武術雑記帳 by zigzagmax

当世中国武術事情、中国武術史、体育史やその周辺に関する極私的備忘録・妄想と頭の体操 ※2015年2月、はてなダイアリーより移行

『洛陽伽藍記』

図書館にあった本を読んでみた。この本のことは、武術史の教科書の中では、魏晋南北朝時代、洛陽のお寺の門前市で行なわれていた大道芸のことが取り上げられていて、名前は知っていたのだけれどちゃんと読んだことはなかった。

気になったところをメモ。
3つ目のメモの、禅虚寺のことが、中国武術研究院『中国武術史』にも引用されている箇所だった。武器を空中に放り投げて受け止めるという行為は、いまの競技武術の中でも行なわれているけれど、はるか昔からそういうことが、余興?訓練?として行なわれたいたというのはやはり面白い。

西域の奇術師については、杉山二郎『遊民の系譜』も書かれていた。西域の雑技や奇術のことは、もう少し詳しく勉強したいと思いながら、なかなか手がつけられずにいる。

 境内に三重の塔一基があり、その金盤と刹竿は、域内に輝きわたった。六つの牙の百象が釈迦を乗せて空中を飛んでいる像がしつらえてあった。荘厳の仏具は、すべて黄金と宝玉で作られ、この世ならぬ作りの精巧さは、つぶさに説明できることではない。四月四日の降誕会には、この像をかつぎ出して都を練る習わしで、魔除けの獅子が先払いをつとめた。さらに、刀を呑んだり火を吐いたりなどする奇術が、そこらじゅうで縦横無尽に演ぜられ、竿登りや綱渡りなど、奇異の限りをつくした変幻ぶりだった。彼らの奇抜な術と異様な服は、都第一の見物であったから、象のお練りが止まった場所では黒山の見物人で、人を踏みつけたり飛び越したりで、いつも死人が出たほどであった。
(巻第一 城内 長秋寺 P.38-39)

 宋聖寺には仏像が一体あり、高さ三丈八尺、すばらしく端正で、仏としてのすべての相が備わっていた。参拝の人々は、しばしもまばたきできないほどであった。この仏像が(降誕会に)お練りに出ると、都じゅうの人は家を空にして出かけた。その輝くばかりに光を放つ姿は、まさにこの世のものとは思われなかった。(そのとき演ぜられる)軽業や芸能のすばらしさは、劉騰(の建てた長秋寺)のそれに次ぐもので、城東に住む男女がたくさんこの寺へ見物にやってきた。
(巻第二 城東 宋聖寺)

 禅虚寺は大夏門の外、御道の西にあった。寺の前には練兵場があり、取り入れ後の農閑期に兵士が戦の訓練をした。いつも千乗万騎がここに集まっていた。
 近衛の兵士で馬僧相という者がおり、角抵戯(すもう)が強くて、戟を百丈の樹と同じ高さまで投げ上げることができた。また宿営の兵士の張車渠は刀を楼より一丈も高く投げることができた。帝も楼で御覧になったが、いつも両人にさしで力比べをやらされた。
(巻第五 城北 禅虚寺)
 (「近衛の兵士」以下の文は、一段下げられており、正文中の自注という扱い?)

 このころ西域の僧で菩提達磨という者がいた。ペルシャ生まれの胡人であった。彼は遥かな夷狄の国を出て立って、わが中国へ来遊したが、この塔(引用注:永寧寺の九重の塔)の金盤が日に輝き、その光が雲表を照らしているのを見、また金の鈴が風を受けて鳴り、その響きが中天にも届くさまを見て、思わず讃文を唱えて、まことに神業だと嘆称した。その自ら言うところでは、年は百五十歳で、もろもろの国を歴遊して、足の及ばぬ所はないが、この寺の素晴らしさは閻浮(ひとのよ)には又とないもの、たとい仏国土を隈なく求めても見当たらぬと言い、口に「南無」と誦(ず)しつつ、幾日も合掌しつづけていた。
(巻第一 城内 永寧寺 P.22)

洛陽伽藍記 (東洋文庫)

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遊民の系譜 (河出文庫 す 11-1)

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