中国武術雑記帳 by zigzagmax

当世中国武術事情、中国武術史、体育史やその周辺に関する極私的備忘録・妄想と頭の体操 。頭の体操なので、たまたま立ち寄られた方は決して鵜呑みにしないこと(これ、肝要)※2015年2月、はてなダイアリーより移行

陳舜臣の少林寺観

『珊瑚の枕』からの流れで、NHK大河ドラマの原作にもなった『琉球の風』を読んでみた。そうしたら、思いもかけず、少林寺に関する記述がでてきた。それほどの分量ではないので該当部分をメモ。

『珊瑚の枕』(1982)から『琉球の風』(1992)まで、10年経っているけれど、少林寺についての見方はよく似ている気がする。特に「情報量の多さと、それを分析する知力の鋭さが、少林寺を千年にわたって安泰にした」というところ。まあ同じ作者だから当たり前か。

ところで、『珊瑚の枕』と『琉球の風』以外にも、陳舜臣の小説には明末清初を舞台にしたものが多く、登場人物たちは九州、琉球から福建、浙江あたりを縦横無尽に行き来する。当然、倭寇も出てくるので、このあたりの時代のことを知るうえでとても参考になる。つぎは『鄭成功』あたりを読んでみようかな。

ちなみに、文中の震天風は琉球の武術の師匠で、ドラマではショー・コスギが演じていたようだ。

 河南省登封県の嵩山に少林寺がある。
 嵩山には二つの山塊があり、神話では禹という天子が二人の妻にそれぞれの山に住まわせたことになっている。さきにめとった妻のいるところを太室山、若い妻の住居が少室山と呼ばれた。北魏の太和二十年(496)、孝文帝は天竺僧の跋陀三蔵のために、
 −−−少室山の麓の叢林の地
 に寺を建立したので、少林寺と名づけられた。創建まもないころ、やはり天竺からやって来た達磨大師が、ここで面壁九年の修行をしたので有名になった。
 少林寺では、ほとんど完全に近い自給自足体制がとられていた。伽藍、僧房からさまざまなな仏具、器具類にいたるまで自分たちで作った。衣服の仕立ても、僧たちの手によった。仏法修行のほか、武術は必須科目とされている。十二年の修行がすまねば退山は許されない。それ以前に退山しようとする者には、退山試験が課せられる。武術は自分と同じ級の者に五人勝ち抜かねばならない。それは至難のことであったが、露天風は在山二年あまりで退山試験に及第したのである。
 正式退山以外に、逃亡者がたまに出るが、少林寺はそれをどこまでも追求して、生命を絶つまでやまなかった。それは「白衣の者」と呼ばれる者の仕事である。
 白衣といっても、白衣を身につけているのではない。観音菩薩を安置した「白衣殿」で、極秘里に特命を受けるのでそう呼ばれた。各地に派遣されたり、寺内でふつうの僧にまじって、ひそかに監視する。誰が白衣の者であるか、一般の僧にはわからない。
「まるで東廠のようですな」
 震天風の話を聞いて、謝汝烈はそう言った。
 一つの体制がつくられると、それを防衛するための機関がつくられるのは、宿命といってよいかもしれない。
 白衣の者は外界の情報を、くわしく本山に報告する。情報量の多さと、それを分析する知力の鋭さが、少林寺を千年にわたって安泰にしたといえる。隋末の群雄割拠時代、少林寺は早くから
  −−−次は唐王の時代。
 と、唐の天下取りを予想し、積極的に支援したのである。
 千年にわたって安泰といったが、六世紀後半の北周武帝による廃仏政策で、寺院が破壊されたことがあった。廃仏運動に抵抗できなかったことに対する反省から、少林寺の武術重視がはじまったといわれる。
 「そうです、武術と団結でしょうね」
 歴代王朝が、少林寺にたいしてほとんど干渉することがなかった理由を訊かれて、震天風はそう答えた。(上巻(怒涛の巻) P.166-167)

冒頭に「思いもかけず」と書いたけど、こうしてメモしてみて、割拠する群雄に囲まれ、彼らの動向をうかがおうと必死に情報門を張り巡らせた少林寺と、明王朝、薩摩、江戸の動向を探りながら活路を見出そうとする琉球が重なってみえてきた。

琉球の風(一)怒濤の巻 (講談社文庫)

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琉球の風(二)疾風の巻 (講談社文庫)

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琉球の風(三)雷雨の巻 (講談社文庫)

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