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中国武術雑記帳 by zigzagmax

当世中国武術事情、中国武術史、体育史やその周辺に関する極私的備忘録・妄想と頭の体操 ※2015年2月、はてなダイアリーより移行

増田俊也『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか?』

話題の本をようやく読了。
かなりのボリュームだけど、読み始めたら一気に読めてしまった。

寝技中心の高専柔道のことは、以前に読んだ松原隆一郎『武道は教育でありうるか』にも書いてあったけれど、この本を読んでさらに理解が深まった気がする。そして、高専柔道大日本武徳会という二大勢力が、戦後の混乱の中で消滅してゆくなかで、もともとは新興柔術流派の家元の一つでしかない講道館が柔道の競技スポーツとしての統括団体の役目を果たすようになり、柔道の段位といえば講道館の段位をさすことになるのは、実はかなり複雑な事情があることがわかった。

それでいうと、数多くの流派がさかんに自己主張を続けているなかで中国武術界に本当に段位制が定着するのか。中国において官主導の段位制がもしめでたく定着するとしたら(必ずしも定着するとは思わないけど)、それはどういうことなのかいろいろと考えるヒントがあるように思う。

そんなことを思っていたら、中国社会科学院文学研究所の李兆忠氏が、平江不肖生の「留東外史」を引いて、清朝末期の中国人留学生と柔道家の対戦を紹介している文章を見つけた(「ゴマとスイカ」)。

『留東外史』は1916年の小説だけど、平江不肖生こと向愷然は一九〇七年から一九一三年まで日本に留学していたので、多少のデフォルメなどはあるにしても、そこに紹介されているエピソードは、彼の日本留学時代の伝聞がもとになっていると思われる。

その部分の引用。

「物極まれば、必ず反す」という。分類や整理も、それが行き過ぎると副作用が起こる。日本の武術、相撲、書道、絵画、舞踊の世界は、流派が多く、技法は煩雑、しかも決まりは複雑で、性格が大まかな中国人はこうした精緻さになかなか適応できない。不肖生が一九一六年に著した『留東外史』の中に、中国大陸の武術家と日本の武術家が試合をする際の煩わしさが何度も書かれているが、その原因はおそらくここにあるのだろう。

中国の武術は、その種目にはそんなに多くの区別がなく、試合の規則も比較的簡単である。これにひきかえ日本の武術は、種目がものすごく多く、かつまた厳格でわずらわしい規則があって、半歩たりともその限界を超えてはならない。『留東外史』にはこんな風に描かれている。

試合に飛び入りし、日本の柔道の達人と腕比べをしようとした中国の武術家、蕭煕寿に対して、日本の審判員はあれこれと規定を作った。「第一、脚を使ってはならない。頭突きをしてはならない。拳で打ってはならない。肘を使ってはならない。手刀を打ってはならない。頭を打つのは禁止。腰を打つのも禁止。腹を打つのも禁止。陰部を打つのも禁止」という具合である。

試合が始まると果たせるかな、蕭煕寿はいつものように戦ったためあれこれ咎め立てられ、続けざまに「反則」をとられて、たちまち試合場から立ち去らざるを得なくなった。

こうした描写は、あるいは誇張があるかもしれない。だが、日本の武術の試合規則がどのくらい厳格であるかがわかるだろう。

日本の相撲も、素人である外国人の目から見れば、たぶんおもしろいレスリングの一種に過ぎず、その中にあれほど多くの含蓄があるとは誰も思わないだろう。裸の超弩級の大男2人が直径4、5メートルの土俵場にうずくまり、相手を土俵の外に出すか、相手を投げ倒せば勝負が決まるというのは、一見、非常に簡単なようで、実は複雑至極なのだ。

相手を倒す技術だけでも、昔は百手以上あった。それがあまりに煩雑なので40数手に減ったが、なお、押す、引く、寄る、つる、はたく、引っかける、投げるなどに分類されている。組み手も上手、下手、右四つ、左四つなどと、それぞれの動作がみなはっきりと、細かいところまで区別されて説明されている。ニラとニンニクの苗はよく似ているが実は異なるように、決して一緒くたにはしないのである。

こうした煩わしさが、中国人は往々にして耐えきれない。『留東外史』の中の留学生、黄文漢は、これに対して大所高所から、次のような評価を下している。

「およそ一つの技や芸は、少し多く習得すれば、自然に流派に分かれるが、実はそれは形式に過ぎない。精神的にどこにどのような区別があると言うのだろうか。見識の低い人がわざわざ奇をてらって、流派を立てるのだ」

 最後の一文、「見識の低い人がわざわざ奇をてらって、流派を立てる」は、いまの中国武術界のことを言っている気もするけれど、それはさておき、この「試合」そのものについて言えば、事前にルールについての説明を聞いたにもかかわらず、つい体が動いて反則技を出してしまった蕭煕寿の「反則負け」であることは明らかだけど、もし木村政彦だったら、反則だ何だという前に、「その技、俺に教えてくれ」という話になったんじゃないか、などと想像してみたくなる。

ちなみに、この本から、木村政彦は少なくとも2回、中国武術とすれ違っていることがわかる。
1回目は、昭和十五年(1940)の五月十八日から十九日に、中華民国満州国、蒙古などから代表選手を招聘し、小石川の後楽園で開催された「東亜武道大会」。この大会には、興亜院華北地区文化調査官の武田熙が審査、決定した18人の武術家が参加したことがわかっているけれど、木村政彦はこの大会で七人掛けをやっている(P.177-178)。この大会に参加した呉斌楼が「農民道」の「嘉廷真雄」なる人物に勝負を挑まれ、退けたとされていることについては、以前にメモした。


2回目は、木村政彦牛島辰熊と袂を分かち、ハワイでプロ柔道をはじめたときのことで、初興行のリングには前座として、琉球拳法と「支那拳法(中国拳法)」がリングにあがっていた(P.315)。その後も、興行のたびに似たような「演武」はあったのかもしれない。

ボクシングや空手にも通じていた木村政彦の目に、当時の中国武術はどう映っていたんだろうか。そして、彼がみた中国武術とはどんなものだったんだろうか。

木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか

木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか