中国武術雑記帳 by zigzagmax

当世中国武術事情、中国武術史、体育史やその周辺に関する極私的備忘録・妄想と頭の体操 。頭の体操なので、たまたま立ち寄られた方は決して鵜呑みにしないこと(これ、肝要)※2015年2月、はてなダイアリーより移行

山田賢『中国の秘密結社』

以前メモした宮崎市定毘沙門天信仰の東漸について」では、仏教が西域経由で中国に伝来する過程で、祆教(ゾロアスター教)と習合したことが、毘沙門天信仰を例に述べられていた。その毘沙門天信仰は、宋代に盛んになるも次第に廃れ、それにかわるように関羽信仰が広がっていったということだったけれど、同じゾロアスター教の流れを汲むマニ教は「白蓮教」という形でその後も民衆の間に広がっていった。

この本で紹介されているところによるとマニ教の教義の根底にあるのは「二宗三際説」である(P.23)。

二宗とは「光明と暗黒、善と悪、正と負という、世界を成立させている相反する二つの根本原理」のことで、マニ教において世界は「両者の対立、葛藤、抗争の結果として観念されている」。

三際とは、「原初においては光明がすべてを覆い、世界は欠けるところなく至福であった。しかしやがて暗黒の世界の挑戦とともに抗争が始まり、原初の至福は終わりを告げる。うってかわり、暗黒の力が世界を覆う時が来る。(中略)やがて明王が現世に出現し(「明王出世」)暗黒を打ち払い、光明を回復し、最終的な救済は達成される」という歴史観のことを指す。

「明」という国号のなかにも、こうした世界観が反映されているのではないか、と作者は問う。

各地に廟が作られている毘沙門天信仰とは異なり、白蓮教は、その内部を非教徒・部外者に対して秘匿された、秘密結社的組織になっているけれど、このことは上記のような歴史観とも関係があるのだろう。(このページをみると、実はそんなに秘密裏に信仰されてきたわけでもないのかもしれない。)

こうした組織の特徴は、一定の儀礼を経て組織の構成員となり、共通の秘密を保持しながら、構成員同士で相互扶助を行うことである。その共通の秘密とは、本来の趣旨からいえば、明王が出現したとき、信徒である自分たちだけが救われる、という一種の選民思想だけれど、加入儀礼を経た構成員による秘密の保持という組織のあり方は、天地会などの会党にも引き継がれ、「秘密」の中身は「反清覆明」「滅満興漢」などの内容に置き換えられてゆく。

このように、「秘密」の中身は時代状況によって異なるものの、一定の儀礼によって排他的な人間関係を結び、相互扶助を行うという社会集団のあり方は、「銀の「一撃」による好況的局面の発生とともに、人口の急増、周辺への開発移住という終わりなき膨張の連鎖へと突入した十六世紀以降にわかに顕在化した」(P.204)という。

拝師という儀式を経て門派の一員になり、門外不出の技を伝承することで団体の結束を維持するという伝統武術流派のあり方は、まさしくこうした人間関係の取り結び方を反映している。そして、河北の農村において梅花拳に関して長年にわたってフィールドワークをしている友人が早くから注目しているように、実は「門外不出の秘伝」よりも、構成員同士の相互扶助こそが大切であったような気がする。えらそうな言い方になるけれど、伝統武術の「保護」は、単に優秀な民族体育の保存という観点を超えて、武術が果たしていた社会的機能により広く注目する必要があるだろう。

中国の秘密結社 (講談社選書メチエ)

中国の秘密結社 (講談社選書メチエ)