中国武術雑記帳 by zigzagmax

当世中国武術事情、中国武術史、体育史やその周辺に関する極私的備忘録・妄想と頭の体操 。頭の体操なので、たまたま立ち寄られた方は決して鵜呑みにしないこと(これ、肝要)※2015年2月、はてなダイアリーより移行

小島一志、塚本佳子『大山倍達正伝』

※この本を読了してから2カ月ほど経ってしまった。以下のメモは、その当時おおよそアウトラインを纏めながら、細部を確認したり、読み直す時間がないまま年を越してしまった。ズルズルと寝かしておくのも嫌だったので、半ば付け焼刃的に見直し・修正をほどこしたもの。膨大な内容を含む本であるだけに、いろいろなヒントが詰まっている。

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600ページを超える分厚い本は通勤電車の中で読むにはちょっと不便だったけど、意外と一気に読めてしまった。

第一部では筆者の歴史観、第二部では筆者と大山倍達の個人的なエピソードを紹介するために話が脱線することが多いようにも思ったけれど、まだ我慢できる範囲か。
武道・格闘技好きに限らず、日本と朝鮮半島をめぐる近代史、近代空手の歴史、武道や格闘技における伝統と現代、武道・スポーツとメディア・興行の関係、武道団体の組織論、師弟関係や継承者をめぐる問題、などを考える上で興味深いと思った。最後の2点については同じ著者による本書の続編と言うべき『大山倍達の遺言』も出版されているけれど、こちらは未見。いまのところ、あまりその問題に深入りするつもりはない。

このブログの観点から、メモしておきたい点は以下のとおり。

1.史料のとりあつかいについて
 日本の「大山倍達」と韓国の「崔倍達(チェ・ペダル)」の二つの戸籍が存在することについて、第一部の終わり近くで「「日本戸籍の大山倍達」と「韓国戸籍の「崔永宜」は物理的に同一人物であるが、法律上、戸籍上はまったく別の人物である」(P.266)と記している。
 なぜそのような事情が生じたのかはこの本に詳しいので繰り返さないが、後世、たとえば200年後、300年後の研究家が、この指摘のように、大山倍達と崔倍達は別人である、という頓珍漢な主張をしださないとも限らない。似たようなことが実は中国武術史研究の中で生じている可能性がある。この点は頭の片隅においておくべきかもしれない。

2.伝説はいかにして作られるか
 大山倍達(この頃は、まだ崔永宜)は、子供の頃、父が経営していた農場に現れた季節労働者から、「ある格闘技」を習う。この格闘技は、『ダイナミック空手』(1967年出版。1967年に英語で出版された『What is Karate』の日本語版)では「中国拳法の十八技」であると記されており、その労働者の氏名は記されていない。話の舞台も特定されていない。それが、『ダイナミック空手』から25年を経て、満州における、「借力と李相志の物語」として形成されてゆく過程が第二部第一章で詳しく紹介されている。

筆者は、さまざまな関係者へのインタビューから、「ある格闘技」とはボクシングであったとし、大山倍達がボクシングを学んでいた過去を封印し、また民族運動時代の師でもあり空手の師でもある者寧柱との関係を封印するために「借力と李相志の物語」を形成しなければいけなかった理由を分析している。

名前を成したある武術家が、修行時代に、だれかに師事していた過去を隠すために別の物語を作るということは、ありがちな話だけれど、一つの物語・伝説が、いくつかの著書を通して次第に形成される過程を丹念に検証しているところはとても参考になる。
 
3.本人の主張は必ずしも真実とは限らない
 「嘘も百回繰り返せば伝説になる。千回繰り返せば真実になる」「伝説というのは、いかに大きな嘘をついたかに価値がある」というのは大山倍達が筆者(小島)に語った言葉である。
 これは、多くの武道家、武術家に共通する心性かもしれない。彼らは、意図的に大法螺を吹きながら、世間やライバル、商売仇を牽制し、戦っているともいえる。
 彼らにしてみれば、裁判の証言ではあるまいし、真実だけを語らなければいけない理由は無い。
 このあたりは、史料を漁って、武術家本人が語っているものを見つけたとしても、語られていることが全て事実とは限らないということの例証になるかもしれない。

4. 稽古法、教学システムについて
 本書によれば、沖縄から本土に伝わった当時の空手は型の稽古が中心で実戦形式の練習法がなく、それに飽き足りなかった当時の人々が防具や、「一本組み手」から極真スタイルまで、さまざまな稽古法を工夫していったのだという。 実戦形式の練習法がなかったという指摘については、沖縄の空手界の人々には異論があるかもしれないけれど、大山倍達を含め、本土で空手を学んだ人々が、稽古法について工夫を凝らし、それが現在の各流派の体系の基礎になっているというのは、そのとおりなのだろう。
 中国武術界では、中央国術館の時代には、戦争という時代背景もあって、国術考試など、実戦を想定した訓練方法が模索されたけれど、実戦性を重視する姿勢は、中華人民共和国の新しい武術政策の中で「唯技撃論」として批判され、官主導の社会主義的スポーツ体制の中で、労働者のレクリエーションや健康増進、型競技の競技体制の整備に重点を置いた政策がとられてゆくことになった。この変化の意味について、日本の中国武術関係者にはあまり認識されていないかもしれない。

5.段位制について
 大山倍達が優勝したという、幻の第一回全日本空手道選手権大会(筆者はこれを、「見世物興業」(P.401)に近いものであったと考えている)との関係で、本土に伝わった頃の空手の競技ルールは必ずしも整備されていなかった(だからこそ、試合形式の選手権大会など行われたはずもなかった)と指摘されている。ただ、上記4で言及した稽古法(教授システム)や、競技方法が未整備な状態である一方、段位制度は比較的早い段階からある程度整っていたかのような印象も受ける。このあたり、もう少し事実関係を知りたい。

6.流派成立以前のこと
 1950年前後の日本空手協会は松涛館の本山を自負しながら、積極的に各流派の師範を招き指導を仰いでおり、剛柔流の山口剛玄や和道流の大塚博紀も指導したらしい(P.377)。「当時は流派間の交流がきわめて良好な時代だったことは歴史的事実」(同)というけれど、もしかしたら当時はまだ現在のように各流派が流派として自己主張するに至っていなかったということなのか。中国武術も、いまは同じ流派でも○○氏、××派などと冠をつけて、相当に細分化しているけれど、少なくとも中央国術館の時代にはそこまで細分化はしていなかったように思える。このあたりの流派成立の時代状況を比較してみると、いろいろと共通点や違いが浮かび上がってくるかもしれない。

7.60歳定年制
 武道団体の組織論としては、大山倍達が生前、支部長の60歳定年制を考えていたことが面白い。武道に一生をかけてきた人物が、60歳で「定年」といわれて、すんなり受け入れるとも思えないが、実際に動ける武道家としてのピークというのは確かに存在するはずだ。この点はなかなか鋭い指摘だと思う。

8.「伝統空手」という言い方
 余談だけれど、著者の一人、小島一志氏のブログに、「そもそも「伝統空手」という呼称は、1980年代半ば、極真会館系の空手を「フルコンタクト空手」と名付け、「月刊空手道」で使用した際に、その対抗勢力であった全空連傘下流派を指す言葉として私が命名した」(2006年12月5日のブログの後段)と書いてあるのが面白いと思った。
 これとの関連で、康戈武によると、中国では20世紀初頭に馬良の「新武術」ができ、それとの対照において初めて伝統的な武術という認識が生まれたという。しかも、「伝統」と「武術」の複合名詞としての「伝統武術」という言い方が定着するのは20世紀も終わりごろのことであり、それまでは80年代の発掘整理などに見られる「武術遺産」と「民間武術」いう言い方が混在するような状況であったらしい。ここからは推測だけれど、官主導の套路競技や散打などの「官方武術」が一定の規模を備え、オリンピック競技種目化も目指されるようになってきた1980年代、そうした官方武術とは異なるものとしての「民間武術」という考え方が次第に一般化してきたということなのだろうか。どちらの国でも、「伝統」はあとから再発見されているというのが面白い。

大山倍達正伝

大山倍達正伝